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堺市役所。21階にて。さいとうたかを展

2024 年 3 月 13 日

堺市役所。21階にて。さいとうたかを展。いつまでやってるんやろう?ずっとやってますが。

さいとうたかをの自伝などによるとゴルゴ13ことデューク東郷のモデルのひとりは堺の福泉町立中学校の恩師・東郷麿智夫という。近所でも評判の悪ガキだったさいとうたかをは、ある日、学校のテストを白紙で提出した。東郷先生はそれを一瞥して「これは君の責任で提出するのだからちゃんと自分の名前を書きなさい」と諭したという。

無回答の白紙を咎めるのではなくて記名することで覚悟を求めた。「人間社会の約束事」「世の礼儀」を初めて教えてくれたのが東郷先生であったと、のちにさいとうたかをは述懐している。

さいとうたかをの故郷の福泉の近くには信太山があった。ここは戦前は帝國陸軍の演習場であったが戦後は米軍が接収した(現在は自衛隊の駐屯地となっている)。信太山は米兵だらけとなり、その中の誰かが10セントブックスを山の中に捨てた。

10セントブックスは前線で戦う米兵のストレス解消、憂さ晴らしを目的としたもので単純明快なストーリーでアクション、バイオレンス、エログロが詰め込まれている。要するに頭を空っぽにしても読めるような低俗低級安価なペーパーブックであった。それを拾ったのが若き頃のさいとうたかをだった。

さいとうたかをは絵が描きたくて、しかし戦後間もない頃で家は貧しく、腹も減るし、紙もないので、もし米兵に見つかったら殺されるかも知れないという命懸けの思いをしながら信太山に密かに忍び込んだ。そして食べるものや紙を探したりしているうちに偶然、10セントブックスを拾い、その世界観に衝撃を受け、魅了された。

その後、さいとうたかをは、こども向けの漫画ではなくて青年、大人をターゲットにした「劇画」の作家としてデビューし、ついにはギネスも認める世界最長の漫画『ゴルゴ13』の作家として大成功を収める。その劇画の萌芽が、じつは信太山の名もなき米兵が捨てた一冊のペーパーブックだったというのは歴史の皮肉というべきか悪戯というべきか滑稽というべきか…。

アメリカの漫画文化の代表はディズニーだが、その薫陶を受けたのが手塚治虫。手塚治虫は祖父は司法官、父は住友のエリート社員で毎年、正月になると家族で朝日会館(朝日新聞の文化施設)でディズニー・アニメを観て高級レストラン「アラスカ」で洋食を食べていた…というような洗練されたブルジョワジーであった。さいとうたかをとは、大違いの出生である。

手塚治虫は戦後、日本の漫画文化の第一人者となるが、その手塚漫画に「あんなのはこどもの遊びですよ」とアンチを唱えたのが、さいとうたかをらの劇画集団であった。結果、手塚は虫プロの失敗・倒産などもあり、「終わった漫画家」扱いをされて辛酸を舐める。しかし青年漫画に活動の舞台を移し、「ブラックジャック」「火の鳥」「ブッダ」といった「劇画」で奇跡の復活を果たす。

手塚作品の初期の「アトム」「リボンの騎士」と、後期の「陽だまりの樹」「アドルフに告ぐ」などを見比べると、全くタッチが変わっていることに気づく。必死になって劇画の手法を学び、取り入れて自身の表現を進化させた。この辺が手塚の凄いところで、さすが「マンガの神様」ですな。

ディズニーと10セントブックスというアメリカ文化のハイカルチャーとローカルチャ―が手塚治虫の漫画とさいとうたかをの劇画の源流にある。ふたりとも大阪人であるが、手塚はキタの人(豊中、池田、宝塚)で、さいとうたかをはミナミの人(堺、和泉)で、大阪の郊外都市文化圏のコントラストがまた面白く、興味深い。


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