高知師範学校跡地

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県高知市。高知師範学校跡地。大膳町公園の中にある。

高知師範学校は現在でいえば高知大学に当たるが、ここに入学して明治30年(1897)に卒業したのが陸奥利宗(曽祖父・3代前)。卒業生の名簿に名前があるのだが(1枚目の画像がそれ)、同期に大野勇と宮地美彦がいる。

大野勇はのちの高知市長(17代、18代)。太平洋戦争時代の市長で、戦後は公職追放されているが、回想録などがあり、高知師範学校時代のことも書いている。なにか同級生の陸奥利宗のことが書かれていないか?と読んだが、残念ながら記述はなかった。

宮地美彦は土佐弁の研究者として著書なども多く出しているが、面白いのが父親が海援隊士の宮地彦三郎であること。

宮地彦三郎は元・土佐藩士だが、坂本龍馬に影響されて脱藩、海援隊に入隊した。また龍馬が暗殺された近江屋事件の当日に、近江屋を訪ねている。彦三郎は大阪の仕事を終えて龍馬と中岡慎太郎に挨拶に訪れ、そのさいに2人から一緒に酒を飲もうと誘われたが、大阪帰りなので一度、旅装を解きますと自分の宿に戻り、そのあいだに2人は刺客に襲われた。

龍馬死後、新海援隊を結成して幹部として活躍し、明治新政府でも出仕していたが病気で官を辞して故郷・高知で教育者として余生を過ごした。

利宗と美彦とで交流があったのか?なかったのか?同級生だから、多少は話をしたこともあったかも知れないが、何も記録などはないので、詳細はわからない。海援隊の話や龍馬の話なんかを聞いていたら、面白いが。


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温智館(伊藤蘭林・伊藤徳敦)

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県高岡郡佐川町。佐川地場産センター。佐川町の模型作家・栗田眞二さん作成の町並み模型が展示されている。精巧な作りに驚く。

佐川町の偉人を紹介するコーナーもあった。ここに紹介されている伊藤蘭林の息子を伊藤徳敦というが、この人が庄田・宮ノ原寺(宮ノ原塾)で学校を開いて、それを「温智館」(のちの庄田小学校→黒岩小学校)と称したという。おそらく陸奥龍彦は、この「温智館(元・宮ノ原塾)」にて伊藤徳敦の講義を受けたのだろうと思う。

伊藤蘭林→伊藤徳敦→陸奥龍彦→結城有→明神健太郎という知の系譜。


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宮ノ原塾跡(高知県高岡郡佐川町庄田・宮ノ原八幡宮・宮ノ原寺跡)

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県高岡郡佐川町庄田の宮ノ原八幡宮へ。ここは宮ノ原寺の跡地でもある。

この宮ノ原寺は『佐川町史』によると「佐川町黒岩地区の庄田、宮ノ原集落は中世から明治維新まで邑主・深尾氏の城下町・佐川に次ぐ深尾領内唯一の文教の地として栄えた」とある。

元々、宮ノ原には深尾家が入植する以前から黒岩領主の片岡氏が君臨していて、その片岡氏が創建した宮ノ原八幡宮と別当寺・宮ノ原寺があって中世から栄えたエリアであったとか。この片岡氏は戦国時代には長宗我部氏に仕えていたが、主家の没落もあって武士は辞めて、庄屋や神官などになって地域で活動していくことになる。

しかし中世以来からの集落であるので土佐藩・深尾家にとっても重要な拠点であったのだろう。宮ノ原寺は藩政時代には代官役所も兼ねていて、また近郷の子弟を集めた「宮ノ原塾」が作られたという。

佐川の城下町には郷校「名教館」があったが、その隣の庄田地区にも「宮ノ原塾」があった。名教館の講師が宮ノ原塾の講師をやったりと交流も盛んにあったらしく、じつは陸奥龍彦が学んだのが、この宮ノ原塾だったりする。佐川・名教館の文教の隆盛には刮目瞠目させられるが、その余波、余熱は庄田・宮ノ原塾にまで及んでいたということだろう。

また陸奥龍彦の弟子で、郷土研究家・結城有氏の蔵にあったという門外不出の幻の歴史書『八幡荘伝承記』の写本は、元々は庄田・宮ノ原寺の亀鳳法印という方が幕末の頃に写した…という話らしい。

現在の宮ノ原寺跡は草生した石垣の他には何もなく。何もかもが夢の跡でしたな。


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名教館

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県高岡郡佐川町。土佐藩といえば山内家であるが主席家老・筆頭家老に深尾家がいる。この深尾家は北条・小田原攻めや大坂の陣などで武勲を挙げ、さらに山内家に先行して長宗我部の残党がいる土佐に入国して難儀な交渉ごとを見事に纏めたとか。それらの功績が認められて特権的に佐川1万石を拝領して自治が許されていたらしい。

具体的には土佐藩の家老のほとんどは土佐城周辺に屋敷を持ったが、深尾家だけは佐川に住むことが許されていたという。おかげで江戸時代から佐川町は深尾家の城下町として繁栄を誇った。

山内家と深尾家は基本的には主従ではあるが、血縁関係も非常に色濃く、時には藩政のことで緊張や対立もあるという独特の関係性であった。こんな複雑な関係性で統治されていた領地も珍しい。だからでこそ深尾家はかなりクレバーな立ち回りが要求されたと思われる。

佐川1万石の領地、主席家老の地位と名誉を守るために、深尾家は必死のパッチで教育に全力を注ぎ、有用な藩士の登用、人材育成に努めた。そのために作られた郷校を「名教館」といい、いまも建物が保存されて名教館、深尾家、佐川の歴史、文化を伝えるミュージアムとなっている。

この名教館からは特に明治以降にいろんな人材が輩出していて田中光顕(宮内大臣)、牧野富太郎(日本植物学の父)、西谷退三(英文学者・博物学者)、広井勇(日本近代土木の父)、水野龍(ブラジル移民の父)など綺羅星の如くの偉人たちがいる。まさに驚異的です。

深尾家も近代以降は男爵家となり、そこから深尾隆太郎が出ている。大阪商船副社長、日清汽船社長、南洋拓殖社長、日本サッカー協会会長など実業家として活動し、貴族院議員でもあった。

やはり教育しかないんでしょうな。日本の礎は教育です。


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高知県高岡郡越知町から横倉山を遥拝す

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県高岡郡越知町から横倉山を遥拝す。

越知町の西方に位置するのが横倉山。ここは安徳天皇が生き延びて暮らした…という伝説のある霊峰で安徳天皇の墓もあり、それは宮内庁がちゃんと管轄していたりする。何かしら信憑性が高いと宮内庁も判断したのだろうか?

越知(おち)という町名からして意味深ではあり、平家の落武者、安徳天皇の落ち延びの「おち」からきている…というような俗説もあるようだ。そんなわかりやすい地名、町名つけへんやろと思いますが。

町役場の手前に越智新兵衛という謎めいた人物の墓があり、大事に守られている。越知村の開拓者らしいのだが、南北朝時代の落武者だとか戦国時代の落武者だとか、モノの本で書かれていることが違い、情報が錯綜している。正体がよくわからない。

Googleマップで池川や越知、横倉山を検索してもらうとわかるが、確かにとんでもない山間にある集落で、人が住むには難所であろうと思う。何かしらの事情がなければ、なかなかここに移り住み、開拓しようとはならないのではないか?上方、畿内の政争、戦争に敗れて「おち」てきた人というのも確かにいるのだろう。

しかし明治維新以降は流通もよくなり、越知は商業都市として発展して、隣の佐川町(土佐藩筆頭家老の深尾家が治めていて地域有数の城下町だった)に負けず劣らずに栄えた時代もあったという。

陸奥万太郎、陸奥龍彦が暮らしていた時代がまさにその時代で、池川村土居の集落から越知町に至って近代日本の発展ぶりを如実に体感したのではないかと思う。ここで陸奥龍彦は国学者として活動していたらしい。

毎朝毎夕、横倉山を遥拝して暮らしていたのかも知れない。


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越知甲1617番地

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県高岡郡越知町。吾川郡池川村出身の陸奥万太郎(4代前の高祖父)、陸奥龍彦(3代前の曽祖父の兄)の親子だが大正時代には越知町にいたことが戸籍から判明している。戸籍では大正7年(1918)に「越知甲1617番地」で陸奥万太郎が死去したと記録されていて長男の龍彦が同居していて死亡届を役所に出していた。大正時代の番地なんか残ってないよな…と調べたら、そのまま令和の今にも番地が残っていた。驚いた。

写真の1枚目がその場所で、天理教の越知大教会の裏側にあたる。石垣はあったが、すでに更地で家などは残っていなかった。

土佐藩もかなり明治初期の神仏分離令(廃仏毀釈)が酷かった地域で、高知県内の寺院の7割近くが廃寺されたとか。池川村や越知村もその影響で寺院が破壊された。その後、幕末新宗教の黒住教、天理教などが入ってきて隆盛を誇ったという。高知を巡っていると、あちらこちらに天理教、黒住教の教会がある。「陽気ぐらし」「ご日拝」の教えと南国土佐は相性も良さそうではあるが。


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武田の血?

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県吾川郡仁淀川町の大崎玄蕃大神へ。かつては大崎村というのがあり、その大崎村の開発者が大崎玄蕃という人物らしい。信州・長野は諏訪大社の御神官だといい、戦国時代の天正年間に当地に住み着いたという。

じつは地元・仁淀川では大崎玄蕃の正体は武田信玄の後継の武田勝頼で、織田軍との天目山の戦いに敗れた後、香宗我部氏(元は甲斐源氏に繋がる)を頼って土佐に逃げ落ちて、大崎玄蕃に改名した…という伝説・伝承になっている。勝頼が伝えたという「玄蕃踊り」という手踊りの伝統芸能もあり、なんとこれが「よさこい」の源流のひとつという。「武田勝頼土佐の会」という郷土研究グループもあり、武田勝頼ゆかりの地などを発掘、調査、検証している。

また仁淀川町大崎では長生教という新宗教の教祖がいて、この教祖が武田勝頼公の子孫であるともいう。この教祖さまの名前は岡林氏というが高知県では岡林姓は非常に多い。大崎玄蕃は、地元の有力者で御神官一族の岡林氏の娘と繋がったということになっている。

陸奥万太郎(4代前)の妻が、じつは大崎村の岡林貞四郎の娘・定(ジョウ)という女性で、要するに僕の曽祖母(ひいひいばあちゃん)となる。大崎村の岡林一族の娘ということで、もしかしたら武田勝頼の子孫に当たるのかもしれないw

おお。おれ、武田の血が入っていたのか。知らなかった…。


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吾川郡池川村土居四番屋敷

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県吾川郡仁淀川町。旧・池川村は松山街道(伊予街道、土佐街道、宇和島街道)の宿場だった。その街道から少し高台に登ると石垣がいくつも残っている。池川村の古地図などを見ていると「ヤシキ」と記載されていて屋敷の跡地であろうと推測できる。

陸奥家は明治の戸籍には「吾川郡池川村土居四番屋敷」にあったと記録があるので、これらの石垣のどれかが陸奥家の石垣なのだろうと思う。

途中で門構えが残っているところもあった。まさしく屋敷である。貴重な遺構といえよう。


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高知県最古の神楽・池川神楽

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知駅吾川郡仁淀川町の池川神社へ。池川村の氏神さまで、また土佐三大神楽のひとつで、400年以上前から継承されている高知県最古の神楽・池川神楽が有名とか。

400年以上続いている神楽とは畏れいる。池川村土居在住の陸奥藤吾、万太郎、龍彦・利宗・巌雄の三兄弟も見ていたことだろう。もしかしたら舞手、奉仕者をやったとがあったかもしれない。Youtubeなどで検索すると、いろいろと動画はあるが、機会があれば、いっぺん現地で見てみたいものです。


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天明逃散集合の地

2026 年 1 月 5 日 Comments off

高知県吾川郡仁淀川町の池川集落。安の河原にある「天明逃散集合の地」の史跡。

江戸時代、吾川郡池川村は土佐和紙の名産地として知られていた。ところが土佐藩は悪化する藩財政をなんとか改善しようと池川村の和紙の自由売買に禁止令を出して、藩の専売にしようと目論んだ。折悪しく天明の大飢饉にも襲われて池川村の村民たちの生活はすこぶる困窮し、ついに天明7年(1787)2月16日、池川村の農民601人の男子が、藩境を越えて隣接する伊予松山藩領(現・愛媛県久万高原町)の菅生山(すがおやま)大宝寺へ逃散(駆け込み)を決行したという。

結果として30日近くも山に立て籠り続け、土佐藩が折れて池川村の和紙は元通りに自由販売が許可された。「池川紙一揆」といわれて、土佐藩政史に残る大事件として記録されている。

陸奥家の祖先が、この池川紙一揆に参加しているかどうかはわからない。一応、陸奥家の家紋は宇和島伊達藩の宇和島笹と一緒で、家の言い伝えでは宇和島伊達藩の武家の子孫ということになっている。

なんで宇和島藩士の子孫が土佐藩領の池川村にいるのか?と疑問に思うが、池川集落は松山街道の宿場で、土佐と松山を結ぶ重要な拠点でもある。松山から南に下ると宇和島なので、松山街道は宇和島街道にもつながる。宇和島、松山、土佐の藩士の行き来もいろいろとあったろう。何かしら街道に纏わるような仕事をしていたのかもしれない?と推測したりもしているが、よくわからない。


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