「目」と「見」と「観」の違い。目は動きません。見は目の下に「足」がついている。要するに動いている。観はさらに見の左に「雚」(ケン)がついてます。これは「口」です。喧喧諤諤の「喧」の原字がこれで、意味は「みんなで口口に話す」。
国を、まちを、コミュニティを、アジールを、悪所を、コモンズを歩いて、いろんなものを見る。見て終わりではありません。その体感を基にして、みんなで話をする。対話をする。現場を歩いて、見て、他者と対話をして、メディアとなって、そこで初めて「観」が成立する。
ぼくが「まわしよみ新聞」や「直観讀みブックマーカー」といったメディア遊びをやるのは、ある意味、当然のことなんです。むしろ、これこそが観光家の仕事です。
ラコルタでは、市民公益活動や地域活動のさまざまなテーマについて語り合う「テーマカフェ」を開催しています!2月は、ラコルタで3回目となる「まわしよみ新聞」を開催。参加者同士で新聞を回し読みした後に、記事を紹介し合いながら、壁新聞を作ります。あなたも参加してみませんか?
■日時:平成26年2月8日(土)午前10時半〜12時
■場所:ラコルタ(吹田市立市民公益活動センター)
■対象:どなたでも参加できます。
■定員:20名(先着順)
■参加申し込み不要(直接会場にお越しください)
※まわし読みしてみたい新聞を1つご持参ください。
■主催:ラコルタ(吹田市立市民公益活動センター)
担当:上村(かみむら)
〒565-0862(阪急南千里駅すぐ)吹田市津雲台1-2-1 千里ニュータウンプラザ6階
TEL:06-6155-3167
FAX:06-6833-9851
E-mail:info@suita-koueki.org
http://suita-koueki.org
「津屋崎千軒なごみ」(福岡県福岡市)の福津トークカフェにて「まわしよみ新聞」が実施されました!^^ 山口さん、ありがとうございます~!m(_ _)m
■福津トークカフェ
http://ameblo.jp/nagomi-fukutsu/entry-11757557127.html
観光というとオリンピックやらカジノやらを誘致することと思ってる人が世の中には非常に多い。それは観光「産業」であって、金儲けの道具に観光を使っているだけで観光の本質ではないわけです。食文化と食産業があるように観光文化と観光産業とがある。そして金儲け主義の大量生産大量消費の食産業(代表例としてはファーストフード)が食文化を破壊しているように、金儲け主義の大量生産大量消費の観光産業(代表例としてはパックツアー)が観光文化を破壊している。哀しいかな。また、そこに危惧を唱える観光家は意外と少ない。もっとそういうことをいう観光家が出てきてもいいように思うんですが…。
「まわしよみ新聞編集長養成講座」に参加してくれたフジワラさんが「まわしよみ新聞講談」に続いて、またまたエッセイ漫画化してくれました!シリーズもんですww 第3弾まで予定されている(?)とか。乞うご期待!ww
九州大学に続いて北九州市立大学でも「まわしよみ新聞」を実施です!すごい・・・完全に大阪、勢いで負けてるやん・・・^^; いや、嬉しいことですが。福岡開催の皆さん、ぜひともご参加を~!m(_ _)m
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■第1回まわしよみ新聞@北九大局
https://www.facebook.com/events/650523285008382/
『まわしよみ新聞』というものを使って
一緒に新聞を読みませんかー*\(^o^)/*
就活生はもちろん!
1年生も2年生も4年生も!
お近くで働いている方!
お時間のある先生方!
誰でも参加OKです(*´艸`)
【詳細】
日時:2014年2月6日(木) 9:00~10:30
場所:北九州市立大学 学生交流スペース(ホワイトハウス)
参加費:100円(材料費)
まわしよみ新聞とは
http://www.mawashiyomishinbun.info/
2/23(日)に「九州まわしよみ新聞編集長/NEWScafeファシリテーター」の吉田くんが講師になって「Future Studio 大名+」(福岡市中央区大名2-8-18 天神パークビル4F)さんにて「まわしよみ新聞編集長養成講座」が開かれます!オーナー公認ですのでw 皆さん、ぜひともご参加してください~!^^
これでついに「まわしよみ新聞」の編集術に「陸奥流(大阪流)」と「吉田流(九州流)」とが出来るわけですが、そういう流派がいっぱいできるのが楽しいわけでw もっと京都流とか、名古屋流とか、東京流とか、中国流とか、東北流とか、色々とできたら面白いなぁww 文化とはシェアされてこそ文化です。
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■NEWScafe まわしよみ新聞ファシリテーター養成講座
http://www.facebook.com/events/1418847905022720/
平日毎朝開催中の「天神NEWScafe朝活まわしよみ新聞」も、2月3日(月)で50回目を迎えます。気になってはいるけど、朝は・・・。平日は・・・。土日はやらないの?と、そのような声が増えてきました。
そこで、2月23日(日)午前11時から午後1時30分まで、福岡市中央区大名のFuture Studio 大名+で、まわしよみ新聞ワークショップの実施が決まったのですが、せっかくなので、まわしよみ新聞ファシリテーター養成講座を開催することになりました。
「なぜ、まわしよみ新聞をやっているのか?作るのか?」という「想い」の共有から、実際に参加者全員で「まわしよみ新聞」を作成しながら「まわしよみ新聞」の作成のコツ、場の運営のノウハウなどをお教えします。この講座を受けると「あなたも明日からまわしよみ新聞編集長(ファシリテーター)になれる!」というものです。受講者にはまわしよみ新聞実行委員会名義の公式の「修了証」も発行します。ご興味ある方はぜひともご参加してください!^^
【まわしよみ新聞ファシリテーター養成講座】
日時:2014年2月23日(日)11:00~13:30
参加費:1000円 (認定証書付き)
場所:Future Studio 大名+(福岡市中央区大名2-8-18 天神パークビル4F)
定員:20人
講師:吉田 卓人(九州まわしよみ新聞編集長・NEWScafeファシリテーター)
※新聞はこちらで用意します。
※はさみをご持参ください。
主催:西日本新聞社NEWScafe事務局
「大阪でアーツカウンシルを考える会」に参加。
基本的には「アートと大阪」は親和性が高いように思うんですな。大阪はカオスモスなまちなので、実は自然とアーティストも産まれやすい。要するに「へんなひと」がようさん出てくるw 「やってみなはれ精神」で「0を1にする」アイデアや発想も豊かです。ところが「アートと行政」「行政と大阪」となると、これはちょっと相性が微妙で。歴史上、自治を長いことやっていたので「お奉行の名さえ覚えず年暮れぬ」の川柳なんかも残ってますが、どうもお上(行政)との付き合い方を知らない。わからない。へたやなあと感じることも多いわけで。さらに大阪万博以降は行政は金を出すとこや!と依存体質になってしまっていて、これまた変に関係性が捻れている。色々と悩ましい問題構造があるわけですが、個人的にはかつての町衆がアーティストに資金援助をやったような「タニマチ復活!」がええとは思ってます。行政が免税などで、そういう動きをサポートや応援ができれば…。
■コモンズ・デザイナーがソーシャル・インクルージョンを考えてみた
「ソーシャル・インクルージョンについて、陸奥さんなりに思うところを書いてほしい」とレッツの尾張さんから唐突にご連絡が来ました。難しいテーマやなぁと思いつつも、あえて、ひとことでいえば「コミュニティ(共同体)やコモンズ(入会地・共有地)を国家(ネイション)が破壊して、その国家も新自由主義によって破壊され、ついにソーシャル(社会)というところにセーフティネットの基盤を置くようになり、それがソーシャル・インクルージョンの提唱に繋がっていて、しかし、コモンズ・デザイナーのぼくとしては、過去の遺物とコミュニティやコモンズや国家を簡単にゴミ箱にポイッと捨てないで、なんでも使えるもんは使って、多種多様なセーフティネットを構築するのが良いのでは?と考えてます」…というのがぼくなりのソーシャル・インクルージョンへの理解と見解です。順を追って説明していきます。
ぼくは2012年に「コモンズ・デザイナー」と名乗りをあげました。山崎亮さんが提唱する「コミュニティ・デザイン」という言葉が巷間に流行りだしたときに、その必要性は重々わかるんですが「コミュニティはコミュニティとぶつかりあう(おらが村がいちばん!と張り合う。他の村のことは考えない)」という宿命的な問題があり、その緩衝剤としてコミュニティだけではなくて、かつてあったコモンズも必要なんやないか?…と考えたことが、そのキッカケです。コミュニティは日本語では「共同体」などと訳されて馴染みがありますが、コモンズという言葉は残念ながら、あんま馴染みがないんですな。日本語では「入会山」や「共有山」とかいいます。そこは一体どういった場所なのか?わかりやすい例として以下に宮本常一さんの「ヤマアガリ」について引用します。
「村に食うことに困り、租税もおさめることができないというものがあると、その山に入らせて百姓をさせ、一人前にたちなおるようにさせました。これを「ヤマアガリ」といっております。共有山へは、西日本では、どんなに貧しいものでも、身分の低いものでも行くことができたのですが、東の方では、被官とか水のみといわれる身分の低い百姓は権利がなくて、御館や本百姓のゆるしがないと行けないところが多かったのです。」『宮本常一著作集7 ふるさとの生活、日本の村』(未来社)
宮本常一さんの報告によると、村(コミュニティ)に所属している人間に何か重要な問題が発生して、もはや村でも庇いきれない、村にもいれない…なんて状況になると、コモンズ(入会山・共有山)に入らせるというんですな。そこで数年、生活すると、村のツキアイがないから出費がなくなる。山菜採りや田畑の収入も全部自分のものにできるから、借金なんかも徐々に返済することができる。中にはちょっとした財を成す人間もでてくるほどだったとか。そうやって借金返済が終われば(時間的解決で、問題や事件のほとぼりがさめてくる…というのもあるんでしょう)、また村に帰ってくることができた。江戸幕府(権力)に近い東日本はそうではなかったらしいんですが、西日本の入会山・共有山では「どんなに貧しいものでも、身分の低いものでも行くことができた」というから素晴らしいですな。
コモンズというのは基本的にはみんなのもんです。共有財です。仮にC山という共有山・入会山に、A村とB村が隣接していたら、A村の者も、B村の者も、お互い、C山に入ることができる。そこでキノコがとれるならA村もB村も収穫していい。しかし全部を収穫することは許されない。A村の人間が全部捕ってしまうと、そこはA村の山となり、B村と諍いが起こりますわ(これを俗に「コモンズの悲劇」といいます)。だから100個のキノコが取れるとしても、A村もB村も、お互い、取るのは10個、20個ほどにとどめておく。
また、こうした共有山・入会山には、A村、B村の人間だけやのうて「どこからやってきたのかも知れない流れ者」(旅芸人など。彼らはコモンズを渡り歩いて生きていきました)などもやってきたんですな。こうした「他者」のためにもキノコを取らないで置く。生きていれば、いろんなことが起こりますわ。いつか、もしかしたら、自分もコミュニティから逸脱して、こうした「流れ者」「他者」になるかも知れない。そういうときのためにも、世の中のあちらこちらに、こうしたコモンズ(共有地、入会地)を保持しておく。それがセーフティネットとなるわけで、こうしてコミュニティとコモンズとの往来によって、世の中を円滑に回していく…。
しかし、明治維新以降、近代国民国家は、こうしたコミュニティやコモンズを徹底して排除していきます。まずコモンズ(共有山・入会山)は明治7年の地租改正(日本全国各地で地租改正反対一揆が起こってます)によって、日本国の土地はすべて「官有地」か「私有地」となりました。コミュニティには「村切り」を行いました。あまり聞きなれない言葉ですが、ぼくは大阪でコミュニティ・ツーリズムのプロデューサーを長くやっていて、そこで集落の古老から、いかにも苦々しげに、この「村切り」についてぼやかれました。これは要するに、ある日、いきなり行政マン、官僚がやってきて「A町を分割してB町の一部分と合併する」「A村とB村を再編してC町にする」といった市区町村の再編のことをいいます。じつは過去、日本政府は「明治大合併」(明治22~23年。市町村数71,314→15,859)、「昭和大合併」(昭和31~36年。市町村数9,868→3,472)、「平成大合併」(平成11~18年。市町村数3,232→1,821)と3度の大合併を行ってます。
A村とB村は隣同士でも集落の成り立ち、歴史や文化、信仰している神仏、祭礼などもまったく違ったりするもんです。それをただ隣同士であるからといって纏めるなんてことをすると、大混乱が起こりますわ。A村やB村のコミュニティが機能不全に陥ってしまう。また、いち早く政府の言いなりになった集落が、他の集落より優遇されたりして、平成の、21世紀の現代でも、いまだにこの「村切り」の問題は有形無形に残っていて、日本国中の地域に深い傷跡を残してます(駅の開発からゴミ処理場、原発の立地など、いろんなところに影響を及ぼしてますな)。そうやって郷土やパトリオティズム(愛郷心)を傷つけ、破壊し、そのかわりに押し付けられたのが国家とナショナリズム(愛国心)というわけです。
ただ、近代国民国家にもちゃんとしたセーフティネットはありました。「国民皆保険」や「障害者年金」「生活保護」といった「公的福祉サービス」というやつです。日本は世界にも累を見ない高福祉国家やった時代もありますが、これはしかし原資は税収です。右肩上がりの人口増と経済成長が見込めた時代では、こうした豊富な税収を背景に、公的福祉サービスも充実したもんでしたが、これからの日本社会は少子高齢化の低成長時代に突入していくわけで、とてもやないですが国家によるセーフティネットは破綻していきます。とくに国家という枠組をやすやすと超えて世界市場を牛耳る新自由主義的な経済活動が、こうした国家のセーフティネットの破壊を後押しもしています(彼らの多くは無税都市、無税国家に拠点を置いて税収を払いません。税収が入らないので公的福祉サービスが成立しません)。
コミュニティ、コモンズは破壊され、国家といったセーフティネットも破壊されつつある今、一体、どこにセーフティネットの基盤を置くべきか?そこで出てきたのが「ソーシャル(社会関係)」という概念やないか?近代国民国家が解体されて、次の世の中の在り様として、「ソーシャル(社会関係)」というキーワードを、みんなが考えるようになった。これは国家という枠組を超えたもので、その構成員はどうも「みんな」「わたしたち」といった、かなり漠然とした括りの言葉のように感じていますが、その来るべきソーシャル像として「他者」「流れ者」「弱者」「障害者」などを排除しない、包括する社会関係がいいよね…という提唱がソーシャル・インクルージョンではないか?と個人的に考えてます。
理念、理想としては、決して間違ったことをいっているわけではないと思います。ただ、ソーシャル・インクルージョンという理想論は大事だけれども、それを、これみよがしに掲げるには、2つほどの懸念がぼくの中にはあります。ひとつは国家がソーシャル・インクルージョンを提唱して「もう国家ではなくて、自分たちだけ(社会関係)でやっていきなさい」とセーフティネットの役目を擲(なげう)つお題目に使われやしないか?という懸念(実際に「一億総活躍社会」なんてのを日本政府が言い出したのは、そうしたニオイを感じなくもないわけです)。2つめは新自由主義者からすると、ソーシャル・インクルージョンという大義名分によって、「流れ者」や「他者」を排除せずに、労働市場に包括する(結びつける)という文脈に使われやしないか?…という懸念です。
基本的に、ぼくは性急な社会改革論者やないです。のんびり屋です。「コモンズ・デザイナー」なんて風変りな名乗りをあげているのは、もう一度、かつてのセーフティネット(コモンズ)も温故知新してリノベーションして使えないか?模索してみよう。社会実験してみよう…というスタンスの表明です。コモンズでもコミュニティでも国家でもなんでもええ。なんでも利用できるもんは利用して、いろんな人が生きやすい世の中を作ればええわけで(昔のままでは使えないから、いまの世の中に合わせて新しく編集加工したりする必要はあるでしょうが)、ソーシャル・インクルージョンには、そういう知恵や発想、ベクトルが込められてもええんやないか?…と思ってます。多種多様なセーフティネットを!