デンマークのエネルギー自給率
1972年、デンマークのエネルギー自給率はわずか2%でした。それが1973年のオイルショックで国民が目覚め、原子力から自然エネルギーを導入。2000年にはエネルギー自給率139%に。
http://windpowerinfo.blog.shinobi.jp/Entry/99/
日本は舵取りを間違えました。1973年のオイルショックから、何も学ばなかった。でも今からでも遅くはないです。30年ほどかかるかもしれませんが、デンマークのように変えていけるはず。
1972年、デンマークのエネルギー自給率はわずか2%でした。それが1973年のオイルショックで国民が目覚め、原子力から自然エネルギーを導入。2000年にはエネルギー自給率139%に。
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日本は舵取りを間違えました。1973年のオイルショックから、何も学ばなかった。でも今からでも遅くはないです。30年ほどかかるかもしれませんが、デンマークのように変えていけるはず。
天下茶屋は秀吉と利休が出会って、よく天下国家を論じたという茶屋です。紀州街道沿いにあります。和歌山まで通じているから現在は紀州街道と呼ばれますが、もとは住吉街道(住吉大社)であり、また堺街道(堺に通じている)でもありました。
面白いのが大坂城と堺旧市のちょうど中間地点に、「天下茶屋」が位置しているということ。同時刻に大坂城を出発した秀吉と、堺を出発した利休が歩いていくと、ちょうど、この真ん中の天下茶屋で出会うんですな。
秀吉は天下を征した武家政権の代表であり、利休は南蛮貿易を牛耳って、鉄砲を大量生産する自由自治都市・堺(商家政権)の代表。秀吉はおいそれと利休を大坂城に呼びつけるなんてことはできなかったし、利休も天下人となった太閤秀吉の命令を無下に断れる立場ではなかった。両者のプライド、駆け引きの折衷が、大坂と堺の中間地点の天下茶屋という場やったんですな。
大坂と堺という都市の中間。こういう場はなかなか珍しい。ぼくは大阪人であり、堺人でもありますから、もうちょっと、天下茶屋をクローズアップしたいなぁ、と昔から考えてます。例えば、天下茶屋で大茶会を開くとか。いずれ、企画しますww
日本の都市をつまらない、くだらないものにしている要因のひとつが、都市を機能別に、効率よく、ゾーニングしようとする考え方です。それは平面的、二次元的、限定的な思考で、ヘーゲルの目的論的世界観に毒された構成です。人間の精神は、もっと自由奔放、大らか、テキトー、矛盾相克であって、都市にも「創造的進化」が必要なんです。「カオス」「遊び」「アート」「余白」「トマソン」といった要素が都市には不可欠なんですわ。
要するに都市とは、われわれと同じように、生成流転していくものということです。生まれ、成長し、衰え、滅び、また生まれる。完全完璧な都市など、この世にはなく、常に都市は未完成であり、輪廻のように、その有様を変容させていく。固定化しようとしてしまった段階で、その都市は都市ではありません。それは巨大なコンクリートの塊、空虚な墓石に過ぎない。都市に必要なのは、やわらかさ、かろやかさ、しなやかさ。つまり、多様性。
だから、ぼくが考える理想のまち歩きとは、都市を空間的(言い換えると「もの的」)な場として捉えるのではなく、ベリクソンが提唱する時間的(純粋持続)な場として捉えようという試みです。だから、まち歩きは「探訪」ではなく、「逍遥」なんです。そうすることで、そこに「創造的進化」が生まれてくる。
もっと都市に「生の飛躍」を。élan vital!
拍手喝采!
「ヴェニスで時を過ごしたことがある人なら、自動車のない都市の静けさがどれほど心の安らぎをもたらすかを知っている。耳に聞こえてくるのは、人々の足音だけなのだ。反動主義者と呼ばれる危険を冒してでも、私は叫びたい。「自動車を打倒せよ!」と。」
ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』より
http://www.amazon.co.jp/dp/4120038459
安井武雄は東帝大卒ですが変わり者で、卒論に和風建築を取り上げて、そんな慣例がなかった東大建築コミュニティからは干されてしまい、そこを「おもろいやっちゃ」と野村財閥の野村徳七が拾い上げました。
東京ではあかんくても、大阪では許された。いま大阪・船場地区を代表する近代名建築の大阪倶楽部、高麗橋野村ビル、大阪瓦斯ビルヂングは、すべて安井武雄の手によるもので、これらは大阪人の懐の深さの証明であり、誇りといえます。
緒方洪庵が経営した適塾は医学塾でしたが、洪庵は当時珍しい蘭学医者でもあったので語学塾としての傾向も強くありました。語学や言葉を学ぶことは西洋思想そのものに触れることに他なりません。そこから日本陸軍の父ともいわれる大村益次郎、外交官として活躍した大鳥圭介、衛生学の泰斗長与専斎、思想家の福沢諭吉、官僚の花房義質、赤十字を作った佐野常民、手塚治虫の祖父で医師の手塚良庵など、綺羅星の如くの人材が輩出されました。
緒方洪庵と並ぶ幕末の啓蒙家・教育家として名前が上げられることも多い吉田松陰の松下村塾の運営はわずか3年の短さでしたが、適塾は26年間も続きました。また松下村塾はほとんどが長州藩出身者でしたが、適塾は北海道から九州まで、広く門下生が集まっていました。その数は3000人を越えるといいますから、単純に計算すれば、年間100名以上の門人を受け入れて育成したことになります。数もさることながら、活躍した分野、地域の多彩なことも特筆すべきことで、まさに百花繚乱。圧巻です。
適塾のみならず、適塾以前から大坂は私塾の集積地でした。懐徳堂、絲漢堂、先事館、思々斎塾、洗心洞、真空館、青山社など。これはすべてが町民、町衆が資金を出し合った民間塾で独立独歩で運営していた。日本全国に「藩校」というのはありましたが、この手の「私塾」の集積は大坂が随一でした。
藩校と私塾では学問の分野や方向性、ベクトルが違います。藩校で勉強するのは儒学(その多くは朱子学。稀に陽明学)であって、しかし大坂の私塾は儒学もあれば蘭学、医学、漢学、天文学、和算など、ごった煮のグチャグチャでした。各自が各自のやり方で、自由闊達に、やりたい放題やっていた。有名な懐徳堂なんかは世間から「鵺学」と揶揄されたほどで、鵺というのは妖怪で、顔は猿、胴体は狸、手足は虎で尾は蛇。要するに「キメラ」(合成獣)なんですが、懐徳堂が蘭学、医学、漢学、天文学、和算などゴッタ煮で、意味わからん学問をやっていたので「あそこは鵺学や」と呼ばれたんですな。藩校ではこんなことは先ずありえません。しかしそのおかげで鵺学の懐徳堂から、哲学の根源理論を看破した加上論の富永仲基や、宇宙モデルを説いた唯物論者の山片蟠桃(旧ソ連の科学アカデミーからマルクスの先駆者として高く評価されました)といった学者が登場してくるわけです。既存の学問体系の枠組を越えた大天才たち。
江戸時代の大坂は、まず間違いなく、日本最大の学問都市で、文教都市でした。この知の系譜はもっと深く省みる必要があると思っています。
車椅子のランナーでも、点滴しながら看護婦と一緒に走るランナーでも参加OK。時間制限はなく、例え3日間かかったとしても、最後のランナーがゴールするまで市民ボランティアスタッフが待ち続ける。交通規制が解除されても、車が自然と遅れているランナーをよけて、クラクションで頑張れ!と激励する。あの素晴らしきニューヨークシティマラソンの精神に倣うならば、ぼくは都市マラソンもなかなかいいものだと思っています。どうせやるなら、そこまで、徹底して、都市の器量、都市の品格を見せつける都市マラソンを開催して欲しい。大手の広告代理店などが入っての、単なる金儲けのイベントなら、ぼくは否です。
人類の過去2000年間の経済成長率というのは、平均すると「年率実質0.2パーセント」とか。とくに西暦1世紀から17世紀ごろまで(産業革命以前)は、ほとんど横ばい状態。
産業革命以前に生まれ、仮に50年の生涯とすると、生まれてから死ぬまでで、ようやく10パーセントほどの経済成長ということになります。これでは、ほとんど自分の暮らしの向上に対して無関心で、なんの変化も感じなかったでしょう。 それほど、ゆっくりと、じっくりと、人類は歩んできた。
要するに現代日本の年率1パーセントの経済成長でも人類の歴史の中では異常な事態だということです。中国のような年率10パーセントの経済成長などは、もはや天変地異、青天の霹靂のレベルです。過去の人類の営みを大きく逸脱している。そんな猛スピードで経済成長する社会は、それ相応のリスクが発生しています。例えばエネルギーの枯渇であったり、自然環境の破壊であったり、コミュニティの崩壊であったり、なにかしらの人類社会を脅かす弊害、危機が巻き起こっている。
いまのぼくらに必要なのは、市場規模を抑制する智恵と勇気です。極論をいえば、ぼくは全世界の市場の成長率は「年率0.2パーセント」でいいと思ってます。それが人類の長年のスタンダードなんですから。なにを急いでいるのか。焦っているのか。
ゆるやかに、たおやかに、しかし、健康的に。歩みは遅くても、健全な人類社会の成長度合いがあるはず。それを尊重したいと思ってます。
「心中」(心中立)というのは、江戸時代(とくに元禄時代)の大阪が生んだ究極の都市文化(都市遊戯)です。江戸には心中はありませんでした。なぜ浪華の男女は心中して、江戸の男女は心中しなかったのか?
理由その1。遊女は遊郭に雇われている不自由な身分ですが、じつは江戸時代の「士」「農」「工」「商」の身分制度の中では、大阪の町民たちも「最下級の人間扱い」でした。つまり遊女と町民とは境遇が似ているんです。最下級の社会的存在の遊女と町民が、柵だらけの「憂世」から逃げ出すには、死ぬしかなかった。対して江戸は町民ではなく武士社会ですので、遊女と武士は遊郭で出会っても、決して心中の対象にはなりません。あまりにもお互いの身分制度が違いすぎるわけです。武士には遊女に対する憐憫や哀れみはあっても運命をともにするような共感、共鳴はありませんでした。(伊達藩主は高尾太夫を身請けしましたが、指一本ふれさせないと逆上して惨殺しました。これなんかは武士の遊女に対するスタンスを如実に表しています)
理由その2。元禄時代に入ると、大阪は商品経済、貨幣経済が急速に発展し、人間存在の価値すら「資本化」する考え方が浸透していきました。この世は金次第という「浮世」です。つまり遊女は「一晩いくら」の存在ですが、町民だって「給料なんぼ」という存在です。そして、遊女も町民もちょっと計算してみれば、自分の「生涯賃金」が判明し、自分という存在の「商品価値」がわかってしまうわけです。お金さえあれば遊郭から身請けできる。しかしそんなお金はどこにもありません。一生、馬車馬のように働いても自分の愛する女性を決して身請けできない。そういう冷酷・残酷な現実に直面します。そうなると「真実の恋愛」「自由意思」「人間らしい生き方」を手に入れるためには、もはや自分という全存在価値のすべて・・・つまり「死」でしか支払う(償う)術がなかったわけです。
こういう、どうしようも逃れようのない、ガチガチに固定化された身分制度と、それに反比例するような卓越した商業主義の発達(当時の大阪は日本国中の富の70パーセント以上を占めていました。また大阪は堂島米市場を設置して、これは世界最初の先物取引市場でした。大阪商人は物流経済のみならず、金融証券経済まで見事に扱っていたわけです)から、大阪に心中が流行ったわけです。「封建的な社会制度」(憂世、士農工商)と「近代的な経済観念」(浮世、元禄バブル、天下の台所)という、当時の大阪が置かれたアンバランスな社会的要因が深く作用した。江戸・元禄だからでこそ生まれた、非常に稀有な時代の徒花、大阪文化の結晶。それが心中です。
また江戸時代の大阪は30万都市ですが、そのうち武士はわずか約1500名、つまり99パーセントは町民でした。対して江戸は100万都市ですが、半分以上が武士だったといいます。この人口構造は大阪と江戸という都市文化の性格を決定しました。そして武士という優越な社会的身分を保持して、商業経済の概念にも疎かった江戸には、ついに心中文化は生まれませんでした。それを如実に表しているのが、元禄15年12月14日の江戸に起こった『忠臣蔵』と、そのほぼ4ヶ月後の元禄16年4月7日の大阪で起こった『曽根崎心中』です。江戸は「主君のために死ぬ」という美学を賛美しましたが、大阪は「男と女の色恋沙汰の果ての自殺」という人間ドラマに涙しました。これは江戸には「武士」(封建人)はいたが、「人間」(近代人)がいなかったということです。大阪には「武士」(封建人)はいなかったが、すでに「人間」(近代人)が生まれつつあった。
井原西鶴の『好色一代男』や近松門左衛門の『心中天の網島』といった至高の芸術作品の数々は、元禄大阪が抱え込んだ社会矛盾の中から産まれてきた、大阪人の魂の苦悩の告発であり、封建社会に抹殺された大阪の男と女に対するレクイエム(鎮魂歌)です。江戸の封建社会(建前社会)に対して「金とはなにか?人間とはなにか?男と女とはなにか?愛とはなにか?」という人間の本音を問いかけるものであり、そこには血を吐くような「大阪の反逆」(ヒューマニズム)が通奏低音のように流れています。それがゆえに、いまも激しく、ぼくの心を打ちます。