「その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰もそれを見てはゐなかったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧し潰され、埋められ、まもなく又水が被さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません」
宮沢賢治『イギリス海岸』
人間が一人としてこの世に存在していない。まるで世界の終末のような北上川の光景に思いを馳せる。まさに「石っこ賢さん」の面目躍如。この人は人も石も木も水も等価に感じる稀有な詩人でした。ちなみに石巻から北進する北上川が花巻に至ると、そこで猿ヶ石川と合流しますが、この猿ヶ石川の先にあるのが遠野。北上川(宮沢賢治、イーハトーブ)と猿ヶ石川(佐々木喜善、遠野物語)の分岐にあるのがイギリス海岸(賢治はまたこの川のことを「修羅の渚」とも呼んだとか)とすると、これまた面白い。
ちなみに猿ヶ石川(花巻~遠野)に沿って建設されたのが、あの「岩手軽便鉄道」で、ご存知『銀河鉄道の夜』のモデルとなった路線です。
銀河鉄道は「イーハトーブ(イギリス海岸)」から「遠野(カッパ淵、おしらさま、座敷わらし)」への蒸気機関車だったというわけです。現実は小説より奇なりww
天然鳥獣料理(ジビエ)の達人の店『山女庵』さんは、ぜんぶ自分で食料を調達して、ぜんぶ自分で調理します。シカ、すっぽん、きのこ、山菜、うなぎ、川魚など、ぜんぶ自分で仕留める。完全予約制で、予約が入ると、「ほないってきます」と山や川に篭るんです。
イノシシなら飛騨や岐阜の山に入って1週間。猟銃でしとめて、その場でさばいて、川の水で血抜きをする。それを麓にまで担いでボックスにいれて、車で大阪・天下茶屋へ。そしてお客さんにお出しする。ものすごい鮮度で、ほんまにこれがイノシシか?というぐらい、信じられないぐらい、やわらかく、甘く、美味しい。山の味がする。大阪の隠れた名店です。
『夫婦善哉』の舞台となった法善寺のぜんざい屋の「夫婦善哉」ですが、かつては「めをとぜんざい」と書いて、また「女夫ぜんざい」とも書きました。
「夫婦」と「女夫」。これ、意味がまったく違います。「夫婦」は夫婦そのまま。「女夫」は女は一人身の独身の女(芸妓、遊女)で、夫は妻や子がある身分の男のことです。
つまり「女夫善哉」は、そういう店やったんですな。千日前でカラクリ芝居やお化け屋敷を見た船場の旦那と馴染みの芸妓が、酒にも厭いて、夜も暮れて、ひっそりと法善寺境内の角の、赤いちょうちん「めをとぜんざい」に引かれて中に入り、静かにぜんさいを食べる。男と女が「さて、これからどこいこか?」と無言で思案する場所。決して、断じて、夫婦でいくような明るいとこではなかった。
オダサクの『夫婦善哉』も、柳吉は妻がいて、蝶子は愛嬌のある芸妓さんの物語。「夫婦」でない、昔ながらの「女夫」の物語なんですな。
女夫が、夫婦のように、生きて、暮らそうとする。その矛盾。そこがオダサク『夫婦善哉』の醍醐味、「笑い」と「哀しみ」です。
大阪が産んだ知の巨人の系譜。小松左京(1931)より一世代ほど前なのが司馬遼太郎(1923)。
司馬さんはエッセイで「この国のかたち」を書きましたが、これ、もともとは「この土(くに)のかたち」だったとか。「土」と書いて「くに」と読ませる。それは少々、ムリがあるのでは?という編集長の意見で没ったんですな。
これ、しかし、ぼくは編集の大失敗だったと思ってます。「土」と「国」ではまったく意味が変わってきますから。「この土のかたち」から「この国のかたち」となってから、明らかに司馬さんのエッセイは失速して、狭量な、凡百の日本論に堕してしまいました。
司馬さんはほんとは「NationではなくStateでもない。Landとしての日本を描きたい」といっていたんです。「国」ではない。「土」の大切さ。われわれ人間は、生命の本然として、「土」を離れては一瞬たりとも、生きていけない。それを司馬さんは警鐘しようとした。
ところが本を売らんがためのタイトル変更に、編集の商業主義に、負けてしまった。こういうとこが司馬さんのアカンとこです。だからでこそ司馬さんは国民的大作家と呼ばれるほど売れたともいえますが…歯がゆい。
実際に司馬さんの警鐘は現実のリスクと化しました。「国」の方針で、放射能で、われわれの命そのものの、「土」を汚してしまった。それは、絶対に、やってはいけないことなんです。百代の過失。後世に言い訳が立たないことをしてしまった。
なんでこんなことになってしまったのか?それは、われわれが「土」を蔑ろにしてきたからです。「国」ではなく、「土」を語らねばならない。国家ではなく、風土を。われわれのアイデンティティは、どこにあるのか?それをロストした民族に、未来はないです。
http://www.tosainari.jp/
土佐稲荷神社は元土佐藩邸跡。坂本龍馬もやってきましたし、龍馬没後は岩崎弥太郎が海援隊、九十九商会を引き継ぎ、ここで三菱を起業しました。また、この横にある西長堀アパートに住んだのが司馬遼太郎で、ここで司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の連載をスタートさせました。
ある土佐出身の友人に「司馬さん、坂本龍馬を書いてくださいよ」と薦められて、あまり気乗りしなかったようですが、それから幕末関連の史料を読むと、どこにでも龍馬の名前が出てくる。なんだこの人物は?というので気になって本格的に調査したのが「竜馬がゆく」執筆のキッカケとか。
あと「龍馬がゆく」ではなく「竜馬がゆく」であることに注意。この小説はあくまでも「フィクション」。史実と虚構を巧みに織り交ぜている。これ、近松がいうところの「虚実皮膜論」そのもの。まさしく司馬文学は近松の系譜に連なる、大阪文学の本流です。
「大阪人というものは一定の紋切型よりも、むしろその型を破って、横紙破りの、定跡外れの脱線ぶりを行う時にこそ真髄の尻尾を発揮するのであって、この尻尾をつかまえなくては大阪が判らぬ」
織田作之助『大阪の可能性』
昭和29年(1954)以来に住吉大社に鯨がやってきました。堺・住吉の幻の奇祭「鯨まつり」です。ほんとは鯨は堺の出島漁港から住吉街道を北上して住吉大社をお参りするのですが、道路使用に関して警察の許可が出ないということで2台のトラックで運ばれて住吉大社の境内で組み立てられました。写真はそのときの様子です。
『万葉集』にも堺・住吉浜の鯨(いさな。勇魚)の歌が登場しますが、1500年前から(おそらくはもっともっと古代から)大阪人は鯨を食べてきました。西洋人は鯨を取っても鯨油を取るぐらいで99パーセントを捨てたそうですが、日本人は肉や骨はモチロンのこと、ヒレ、ヒゲ、舌、胃、内臓、心臓、肝臓、はては睾丸、子宮まで使用(食べたり、加工品を作ったり、肥料にしたり)しました。鯨全体で捨てるところは3箇所しかなかったそうで、鯨の99パーセントを使い切ったとか。また「鯨一頭を仕留めると七浦(7つの漁村)潤う」といわれ、鯨はまさしく天恵でした。
日本人にとって鯨は単なる食べ物ではなく、信仰の対象=「鯨神」だったということです。鯨まつりは、そうした古代からの漁民の信仰を伝えるものです。自然への崇拝、自然の恩恵に感謝する思想と態度。こういう祭礼が堺・住吉で復活したことは、大阪の誇りや思いますよ。
本日は天神祭・船渡御。
かつての天神祭の船渡御は現・大阪市西区にある御旅所・松島行宮へ御渡りしていました。ところが戦後に地下水汲み上げなどによって地盤沈下が起こり、橋桁が下がって船の橋下通り抜けが不可能に。川下への航行不能となると行宮お渡りができません。1000年にわたる天神祭・船渡御の大ピンチ!そこで思いついたのが「川下がアカンのやったら、ほな川上に船いったらええんちゃうか?」「そりゃええ!それでいきまひょ」ということで、昭和28年(1953)から現在のように川上に遡上するスタイルになりました。
京都でいえば「祇園祭の巡行コースを突然、変更する」みたいなもんですか。もしそんなことを京都でしようと思ったら「1000年の伝統どすえ!」とかいわれて大モメにモメまくりそうですが、大阪はあっというまに即決でした。1000年の伝統だろうが現実主義ですぐさま変更。
こういうリアリストなとこが、非常に大阪的です。良きにしろ、悪きにしろ。
水の都・大阪には、かつて河童がいました。正確には「河伯」といいます。
『日本書紀』の仁徳紀11年(西暦322年)に「河伯」が仁徳天皇の堤の造成を妨害して、それを防ぐために人身御供として武蔵国の強頸(こわくび)を沈めて殺した…という記述が出てきます。(※原文「時天皇夢有神 誨之曰 武臟人強頸 河内人茨田連衫子 衫子 此云 於河伯 必獲塞 則覓二人而得之 因以禱於河神」)
「河伯」とは古代は「河神(川神)」を意味したようですが、時代が経るに連れて神威を失い、やがてイタズラ小僧のような、例の「妖怪の河童」になるわけです。猿田彦が天狗になったように、神々が時を経て妖怪になる事例はいくつもありますが、河伯=河童も同じ系統のようです。
なにはともあれ『日本書紀』に出てくるということで、この「河伯」は「日本の文献上はじめて登場する河童」「日本初の河童」やないでしょうか。(まちづくり関係者の皆さんへ。「水都大阪の妖怪」としてもっと大々的に宣伝したらどないでっしゃろ?千林商店街のマスコットにしてもええ思いまっせ) また河伯(河童)の生贄になった強頸の石碑は大阪市旭区千林の某民家の庭(非公開)に現在もあります。
夏ということで大阪の妖怪譚でした(笑)
「大阪あそ歩’2011夏」の企画が発表されました。「打ち水を楽しむ!」「すっぽん鍋を食べる!」「夏祭りを鑑賞する!」など大阪あそ歩ならではの企画が満載です。大阪の夏を満喫しましょう!詳細、参加予約はリンク先をご参照ください。
■7月21日(木)中之島まち歩き:これぞ浪華八百八橋!中之島名橋コレクション~過去と現在を繋ぐ歴史の架け橋たち~
かつての大坂は浪華八百八橋と謳われたほどの橋の名所でしたが、現在の中之島にも素晴らしい名橋が数多く架かっています。中之島の橋の物語、ドラマを巡りながら、水の都・大阪の歴史を探っていきましょう!
■7月21日(木)南船場まち歩き:長堀川はなぜ消えてしまったの?~四ツ橋から南船場、長堀までを歩く~
船場と島之内の境目を流れた長堀川。大坂最古の堀川・東横堀川の末吉橋から西に分流して木津川の伯楽橋に注ぎ、その長さは約2.4キロ、幅は約50メートルでした。水都大坂の水運の要として機能しましたが、現在は埋め立てられ、長堀通になっています。かつての長堀川界隈の名所旧跡を訪ね、失われた長堀川の情景を偲びます!
■7月21日(木)都島まち遊び:鵺の泣く夜、櫻宮のだんじり祭~宮入りを楽しみ、与謝蕪村ゆかりの毛馬周辺で夕涼み~
恐ろしい妖怪譚をいまに伝える都島のミステリースポットの鵺塚をめぐり、その後、櫻宮・御旅所前のだんじり曳行と宮入りを見学。最後は大川べりを歩き、蕪村が生まれ育った毛馬界隈で夕涼みを楽しみましょう!
■7月23日(土)幕末まち歩き:天満 龍馬が、新選組が駆け抜けた八軒家~堺屋から出てきた謎の男、その名は…~
「天下の台所」といえば大坂。幕末の志士たちは勤王派も佐幕派も開国派も問わず、京都・伏見から三十石舟に乗って天満・八軒家に上陸。「戦をするには軍資金が要る」と、船場の名だたる豪商たちに会って、己の高邁な思想を語り、パトロンを捜しました。龍馬が、新選組が、大坂の幕末を彩ります!
■7月23日(土)加賀屋まち歩き:大坂を作った男たち・加賀屋四代の開発魂~高砂神社から新田会所跡まで~
かつて紀州街道の西側は海でした。しかし宝永元年(1704)に新大和川が付け替えられたことで土地の開発が進み、両替商・加賀屋甚兵衛も当地の新田開発に力をそそぎました。こうした民間資本による開発の総面積は、今日の大阪市域のほぼ1/3にあたると言われています。開発のために作られた新田会所跡は豪商・加賀屋の粋人ぶりが窺える、貴重な歴史的文化遺産で、都市の「やすらぎの館」となっています。
■7月28日(木)海岸通・なみはや大橋まち歩き:絶景パノラマ360°!大阪湾空中散歩~海岸通からなみはや大橋まで~
大阪市港区海岸通から、大正区鶴町までを結ぶ、なみはや大橋。全長1740メートルは、大阪市内で徒歩で渡れる橋としては最長の規模を誇ります。その周辺には築港高野山や港住吉神社、赤レンガ倉庫、港大橋と見所が満載。大阪湾岸の開発の歴史を辿ります!
■7月28日(木)日本橋・恵美須町まち歩き:なにわの日特別まち歩き~日本橋・恵美須町コースと「打水」~
7/28は「なにわの日」で、1年間を通してもっとも暑い「大暑」の日ですが、日本橋・恵美須町界隈では「打水」が行われるます。その打ち水でちょっとだけ涼しくなった日本橋・恵美須町を歩きましょう。日本橋ではおなじみのメイドカフェも体験できます!
■7月30日(土)コリアタウンまち歩き:異文化のまち・コリアタウン~日本最古の橋から猪飼野、御幸通まで~
日本最大の在日コリアンのまち・生野コリアタウン。その原点ははるか1600年前、『日本書紀』にも登場する渡来人のまち「猪飼野」でした。猪飼野の痕跡を求めて、桃谷から御幸通、そして鶴橋国際マーケットを訪ねます。
■7月30日(土)深江・今里まち歩き:シルクロード・暗越奈良街道(深江・今里)を歩く!~日本最長をめざす商店街を探索~
大阪と奈良を結び、古代には遣隋使・遣唐使が歩き、江戸時代には松尾芭蕉も歩いた暗越奈良街道を歩きます。深江は「笠縫のまち」「ものづくりのまち」としても知られ、途中の深江郷土資料館は必見!です。
■7月31日(日)文学まち歩き:織田作之助 オダサクと蝶子と柳吉が歩いた『夫婦善哉』~行き暮れてここが思案の善哉かな~
大阪ミナミをこよなく愛した小説家・織田作之助。妻子ある化粧品卸問屋の若旦那・維康柳吉と、芸者の蝶子が駆け落ちして、転職や借金などの苦労を重ねながらも寄り添いあって暮らし、夫婦となるまでを描いた名作『夫婦善哉』(昭和15年・1940年発表)には、大正から戦前昭和の大阪ミナミが生き生きと活写されています。『夫婦善哉』を片手に、大阪ミナミのまちを散策してみましょう!
■7月31日(日)天下茶屋まち遊び:真夏の天下茶屋~天然すっぽん鍋で元気を食らう~
食欲も減退する季節、天然鳥獣料理の達人、『山女庵』にて天然すっぽん鍋で、真夏の”元気”をいただきませんか?お食事の後は、軽く、魅力の天下茶屋をまち歩きします。汗をかいたらチンチン電車の走行音を聞きながら、珈琲ルンバで楽しく語り合いましょう。
■8月1日(月)住吉大社・安立まち歩き:住吉大社夏祭り 神輿御渡見物~安立町の史跡や町屋・路地をめぐり、大和川の神輿のお渡りを見る!~
今年は住吉大社ご創建1800年。夏祭りでは幻の鯨踊り復活などが企画されているとか。それに併せて住吉街道(安立)の史跡や町家、路地を巡り、祭りのクライマックスである大和川の神輿のおわたりを見学します!今年は例年にはなく華やかなお渡りの行列となっています。どうぞお見逃しなく!
■8月1日(月)野里まち遊び:野里住吉神社の夏祭り~勇壮な地車・枕太鼓を見る!~
普段は旧村の面影を静かに伝える野里ですが、年に一度の夏祭りは大いに盛り上がって町中全体が活気に満ちます。かつての野里村の熱い夏を彷彿とさせる地車囃子を聞きながら、野里界隈を巡りましょう!
■8月26日(金)伝法まち遊び:仏教伝来の地・伝法と川施餓鬼会~水都大阪の夏の彩りを感じる~
「暑い暑いは天神祭、あついあついも川施餓鬼まで」と語られ古くは天神祭もしのぐほど有名で、現在も大阪市無形民俗文化財の一つとして指定されている「川施餓鬼」。正蓮寺にて、法話を聞いたり、神輿の練り歩きを見物したりと、江戸時代から伝わる精霊送りの行事に参加して大阪の納涼を味わいましょう!