「ロマンを発見した」とは「夫婦善哉」で有名な大阪が生んだ夭折の天才作家オダサク(織田作之助)の伝説的な遺言。先だって1月12日に楞厳寺(大阪市天王寺区)でオダサクを偲ぶ「善哉忌」が行われました。
※織田作之助
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BD%9C%E4%B9%8B%E5%8A%A9
「万葉以来、源氏でも西鶴でも近松でも秋成でも、文学は大阪のもんだ」 というのがオダサクの弁とか。
http://www.osaka-brand.jp/panel/books.pdf
オダサクの同級生の田尻玄龍ご住職から、オダサクの思い出話などをお聞きしたあとに献花をして、ご焼香を上げさせていただきました。寒かったですが、ええ青空でした。合掌。
「天天有」といえば、京都・一乗寺ラーメンとして日本全国のラーメン通には有名ですが大阪・住之江にもあります。チェーン店ではなくて、じつは京都の「天天有」の親戚なんだとか。だから「天天,有」と「,」が入ってます。
京都店
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006712096/
大阪店
http://gourmet.yahoo.co.jp/0002075968/
雑誌、テレビの常連で、フランチャイズ化して、コンビニでカップラーメンを販売しているのは京都の系列。大阪のほうは昔ながらの味を頑固に守り、地元の人に愛される名店です。たまに行きますが隠れた住之江名物。オススメです。
アメリカもイギリスもフランスもドイツも、地方の市議員はほぼボランティアだそうです。報酬なんてごくわずか。議員といえども他に仕事をもっているのが常識とか。また大抵、市議会は夜に開かれるそうで、サラリーマンでも参加が可能なシステムになっています。
要するにサラリーマンとか、主婦とか、酒屋のおっさんが、ボランティアとして市議会をやるわけです。名誉職のようなものですな。そして、自分の職業と関連するような議会には出られないようになってる。酒屋のおっさんは酒関連の条例を決める議会などには参加できない。つまり、自分たちの業種に都合がいいような、利権行為が、基本的にはできないようになってるわけです。
ボランティアでも議員をやろう!というぐらいの人たちですから、当然、都市、まちのことを真剣に考えてます。「普通にまちで生活してる、働いている一般市民」が議会に参加してこそ「市議会」だというわけですな。ぼくもこの考え方に基本的には賛成です。年間何千万円もの議員報酬をもらって、それだけで生活しているとなると、これは市民ではなくて、一種の政治屋ですから。市民不在の市議会。それでいいのだろうか?という疑問。
いま地方都市はお金がありません。どこも大赤字でデフォルト寸前。そのうち必要に駆られて、自然と、地方行政は変わっていくでしょう。議員のあり方、議会のあり方も変容せざるを得ない。その議論を経て、やがて、市民の、市民による、市民のための、市議会、市行政が、実現されんことを。
そうやって「ほんまもんの市議会」が成立した地方都市から、再生していくと思います。
あけましておめでとうございます。
年始から仕事仕事で、まったく正月という感じがしませんが・・・まぁ、時にはそういう正月もあっていいかな?と思います。 今年の抱負は色々と考えたのですが「犇犇と伝える」でいこうと思っています。牛年ですので牛に因んでみました(笑)
今年も何卒よろしくお願いいたします。
※大阪市住吉区「神ノ木地蔵」
年の瀬が迫ってきました。今年は変化の激しい年だったように感じています。世界的な金融大不況や大統領選挙、BIG3の凋落などは典型的な例でしょうが、数年前からこういう動きや流れになるような雰囲気は感じていました。大げさにいえば、だんだんと現代文明が転換点を迎えつつあるのかな…という気がしています。
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紀元前に始まった農耕文化は、人類が「貯蓄」「蓄財」に目覚めた始まりといわれています。農作物は、例えばお米なら1年間に1回しか収穫できません。これを収穫シーズンの秋に「収穫できた!」と嬉しさの余りに食べつくしていたら、人類というのは冬のあいだに飢えて死んでしまいます。定期的に、計画的に、消費することを調整しないといけない。貯蓄の大事さ。蓄財の大切さというのを農業生産物から人類は学ぶわけです。日本でいえば、ネズミに食われないように「ネズミ返し」のついた高床式倉庫の建設。あれは日本人が「貯蓄」することを覚えた現れです。いまでいえば「銀行」のようなもんです。
米とか麦とか「農産物」「モノ」「物財」に頼る文明が「古代文明」の創始です。米や麦を増やすことで食うことに困らなくなって、みんなが幸せになれる。それで農作物を増やすために、人類は耕地を広げて、治水を行って、組織が出来て、ボスが生まれて、政治が生まれて、ときには土地争いに発展して、戦争まで行われるようになりました。黄河、長江、インダス、メソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマといった古代文明は皆、こうした農業文化の創始、発達から生まれてます。
米や麦の生産、収穫量がコミュニティ全体の消費よりも過剰になると登場してくるのが「商人」です。余剰生産物を交換することで生業が成立する階級が生まれてくる。古代文明(農耕文化)が発展すると自然と人類には「交易の時代」が到来しました。古代ペルシャの「王の道」や「すべての道はローマに通ず」で有名なローマ帝国の「ローマ街道」などはその一例です。ユーラシア大陸を越えて、遠く極東の日本の港(大阪・住吉大社)にも通じる「シルクロード」も、この時代に整備されました。人々やモノが全世界を駆け巡って往来して、物質主義、欲望主義、人間主義が横溢した。
古代美術を眺めていると古代人の感性がよくわかります。ギリシャやローマの美術というのは、恐ろしいほど精巧で、人間を見事に冷徹に観察していることに気づきます。ミロのビーナスなどはまるで20世紀人が作ったかのように写実的です。カメラのようだといってもいいでしょう。これが例えば農業文化、古代文明以前の、上古の時代の美術となると、非常に抽象的で、なにを作ってるのかよくわからないものが多いです。たとえば日本の大地母神=土偶は宇宙人みたいなけったいなものになっています。ミロのビーナスも土偶も同じく「女神」なんですが。
こうした古代文明の写実美術というのは、しかし中世になると、まるで見られなくなります。中世は上古の時代のように「神」が復活した時代で、精神的な、感性を重んじる抽象美術の世界です。ビザンティン美術、ロマネスク美術、ゴシック美術というのがまさにそれで、この頃のキリストや十二使徒は「12頭身」に描かれていて、現代人が見ると奇妙な倒錯感を感じます。植物図鑑にも「マンドラゴラ」(マンドレイク)なんて奇妙な生物が記述されたりして、まるで科学的ではありません。神が蘇り、天使が舞い、悪魔や死神が跳梁跋扈した中世の幻想美術。
美術以外にも例えば科学の世界でも、古代のほうが正確かつ論理的で、中世社会は後退しています。農作物を生産することは、物事を観察する=「科学すること」が尊重されたわけで、天文学(稲をまく時期や収穫の時期など、天文の動きこそが農作物生産の要です)などが大いに発達しました。実際、古代ギリシャのプラトンやアリスタルコスは、はっきりと「地動説」を唱えていますが、中世社会では否定されました。結局、16世紀に「ルネサンス」(古代ギリシャ・ローマ文化、人間主義への復興運動)が始まって、コペルニクスの登場やガリレオが「それでも地球は動く!」と宗教裁判で証言するまで忘れ去られていました。
芸術にしろ、科学にしろ、その時代や文明というのを鏡のように如実に反映しますが、古代から中世へといたる芸術、科学を検討すると、古代文明は断絶しているという歴史的事実に気づかされます。人類文明は古代と中世のあいだで、一度、崩壊しているんです。なぜか?戦争ではありません。「自然環境破壊」が原因です。
ギリシャやローマ帝国時代に利用された自然エネルギーは薪炭や木材ですが、古代文明の人口が増大して、消費エネルギーが無尽蔵に膨らむと、木材の伐採が大いに進行しました。建築や造船用材の使用、焼畑農業によって緑は破壊されて、みるみる森林はなくなりました。古代人は自分たちの欲望のままに自然環境を開発しつくして、生態系のバランスを崩してしまったわけです。こうして農業生産物が取れなくなって、古代文明が疲労の局地にあったときに異民族の襲来によって、偉大なるエジプトも、ギリシャも、ローマも、あっさりとこの地上から消滅してしまいました。いま現在もエジプト、メソポタミア、インダス流域は砂漠化して、古代文明の環境破壊の凄まじさを物語ってます。オリンポスの神々が牧歌とともに愛を語り合った、美しきギリシャの山並みは、いま跡形もありません。
中世というのは、古代文明の失敗と内省から始まりました。人類は欲望のままに自然体系を破壊して、神々に反逆したことを激しく後悔しました。そこで「人類は罪深いものだ」という「原罪」の思想が生まれて、「宗教文明の時代」へと突入したわけです。古代人と同じように科学主義に染まっている近代人(もちろん我々、現代人も含みます)は、中世のことを「迷信に支配された魔女狩りの時代」「暗黒時代」などと呼んで忌み嫌いますが、古代文明を支配した科学主義、人間中心主義の思想を捨てて、中世という「祈りの文明」を選択したことは、ぼくは人類の素晴らしい叡智だと信じています。むしろ中世人からすれば古代人、近代人(そして現代人)こそが「神が不在の暗黒時代の住人」でしょう。
古代文明が木材に依存したのと同じく、現代文明も石炭、石油に依存して科学主義、欲望主義、人間主義で突き進んできましたが、いま明らかに飽和状態です。「歴史は繰り返す」といいますが現代文明は確実に転換点を迎えつつあります。「土偶」や「12頭身のキリスト」を拝むことは所詮「迷信」に過ぎませんが、ぼくはその「祈り」の背景にある、自然とともに日々を暮らそうとした人類の優しい知恵や姿勢を尊ぶべきだと思っています。「天網恢恢、疎にしてもらさず」といいますが、そういう敬虔なモラルハザードこそが、いまの人類社会に必要なのではないか、と感じています。
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えらく長ったらしい文章を書きましたが、年に一度の大晦日ぐらいは、こういうマジメで、難しいことを考えてもいいだろう、と思って書きました。今年1年、いろいろとくだらない雑文を書いてきたので、その反省です。お坊さんは人間の煩悩の数だけ除夜の鐘をついて懺悔しますが、ぼくは「ものかき」なんで文章で懺悔しないといけないんですわ(笑)なにはともあれ、今年1年のご愛読ほんとうにありがとうございました。来年もぜひともよろしくお願いします。よいお年を!
むつさとし拝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%94%E3%83%86%E3%82%A3
この私の発見はまさに私に言わせれば「セレンディピティ」です。このセレンディピティという言葉はとても表現力に満ちた言葉ですよ。この言葉を理解していただくには、へたに語の定義などするよりも、その物語を引用したほうがずっとよいでしょう。かつて私は『セレンディップの三人の王子』という童話を読んだことがあるのですが、そのお話において、王子たちは旅の途中、いつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです。例えば、王子の一人は、自分が進んでいる道を少し前に片目のロバが歩いていたことを発見します。何故分かったかというと、道の左側の草だけが食べられていたためなのです。さあ、これで「セレンディピティ」がどのようなものか理解していただけたでしょう?
Serendipity: the natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident
深い感銘をうけた言葉です。ぼくはほんとは何を探しているのか?探すことの過程の中に、すでに「答え」はあるのかも知れない。
いろいろと調整があって長崎行きが1ヶ月ほど延期になりました。新年の1月30日、31日に行きます。聞けば、その時期には長崎ではランタンフェスティバルというのをやってるとか。
http://www.nagasaki-lantern.com/index_2.html
http://www.saruku.info/course/Y120.html
要するに旧暦の正月です。
旧暦の行事を祝うことは大事です。 例えば、いまの新暦七夕(7月7日)は梅雨の期間でほとんど雨です。 ところが「旧暦七夕」は新暦では8月半ばで真夏ですから。天の河もすこぶるきれいです。1年のあいだでも一番星が美しい時期に七夕が行われるのだなぁ、というのがよくわかって昔の人はちゃんと自然とか、季節を愛していたなぁ、と気づかされます。
いま「ほぼ日手帳」を使っているのですが、これには旧暦も記載されているので重宝しますよ。オススメです。
http://www.1101.com/store/techo/
米国第4位の証券会社が破綻して、ビッグ3もやばいとか。アメリカ経済の構造不況は日本以上に深刻なのかも知れません。
しかし相場、株価というのが、実体経済を反映しているか?というと必ずしもそうじゃないんですよね。「景気」って言葉には「気」という漢字が入ってますが、世間が強気になれば値は上がるし、弱気になると値は下がる。気の持ちようでいくらでも値が動くのが相場、株価の怖いところです。時代の「雰囲気」で資産、資本が決定される。紙幣が所詮「紙きれ」に過ぎないように結局、資本というのは「うろんなる存在」であるわけです。その目減りにあくせくすることの不毛さ。
最近、マーケティングやマネージメントの世界ではバーター(物物交換)が見直されているそうですが、生産物と生産物とのあいだに紙幣という「うろんなる代替品」をはさむことによって、自分のライフ(生。生き方)を見失っているのが、現在の人間社会の哀しさです。大事なのは生産物であるはずなのに代替品を集めて喜んでいる。
このことは、ぼくが言い出すまでもなく、カール・マルクスが資本論の中ですでに言ってます。「疎外」という言葉を用いて警告してます。農業、林業、漁業といった自然界に働きかけて生産物を取得して生きていた時代では、自分のライフが明確に見えていたわけです。一粒の稲。それを作り、育てて、食べて、生きる。自分のライフは自分の手で作り上げている。
ところが自然界と共存して生産物を作るのではなく、その中間マージンのみを搾取するような職業が生まれてくると、自分の人生というのは生産物、土地、自然というものから、どうしても離れてしまいます。帳簿をみて、それに文字や数字を書き込んで、それで資本という「紙きれ」を頂く。こんなことを続けていては、自分がなにをしているのか、さっぱりわからなくなってしまう。太古の時代から続く自然のサイクルから我々のライフが「疎外」されてしまっている。
マルクスだとか資本論だとかいうと色々と誤解されそうですが、しかしぼくは反・資本主義者でも共産主義者でもありません。ただ、資本に支配されていると自分のライフを見失うことに危機意識を覚えようとは思っています。どうすれば、自分のライフを、自分のものに出来るのか?これはぼく自身が生きていく上での1つの命題です。
米国の証券会社がどんどん潰れていって、それで日本の株価もどんどんと下がる。路頭に迷う人も大勢出てくるでしょう。自殺する人だっているかも知れない。しかしこれは政治や経済や体制や時代が悪いのではなく、自分のライフを生きていないと、人は誰でもそういう状況下に陥るということだと思ってます。
いわば哲学の問題なんでしょう。資本に隷属しない生き方を見つけないといけません。
今年最後の週末の12月27日(土)、28日(日)ですが、長崎にいきます。「長崎さるく」を体験してきます。
http://www.saruku.info/
ほんとはもっと早くにいきたかったんですが、今年の8月から12月まで、ほぼ休みがなかったです・・・。昔、3万円で買ったボロボロの軽バンで1ヶ月かけて大阪・堺から日本本州最南端の鹿児島県佐多岬までいったことがあるんですが、長崎に行くのはそんとき以来です。変わっとるやろうなぁ。
「長崎さるく」でぼくが感銘を受けたのがグッドデザイン賞を受賞したさいの審査会の評価コメント。
http://www.sarukuhaku.com/news/news_20061002.html
エクスペリエンスデザイン。新しい観光の発掘方法として有効。
都市を多層的な経験の総体として捉え、楽しめるようにし都市をデザインの対象としている考え方、市民参加型の観光プログラムとして徹底したデザインマネジメントが計られている点、経験をデザイン化している点の各点を評価。
「都市は多層的な経験の総体」・・・すごい言葉です。しかし都市を語るのに「資格」や「検定」なんていらないんです。どんな人でも都市を語っていいはず。都市は学者のものでも、役所のものでも、観光業者のものでもありません。ぼくは88歳のおじいちゃんも、6歳の女の子にも、自分の都市を物語ってほしい。魚屋のおっちゃんにも、布団屋のおばちゃんにも。君にも。あなたにも。いくつもの物語が重層して、それがポリフォニーのように響きわたる。まるでブラームスの交響曲のように。「Frei aber froh」(自由に、そして楽しく)。大阪を、そういう「まち」にしたいですな。
長崎、楽しみです。
※Carlos Kleiber – Brahms Symphony No.4 (4th mov,)
http://www.youtube.com/watch?v=WZGWB93-mmI
ぼくがよく出没する堺のコミュニティ・カフェ「パンゲア」
http://www.pangea-sein.com/index.html
そのパンゲア店長のYさんに「わたしの憧れの人やから、絶対に来て!」と半ば強引に誘われてマエキタミヤコさんのトークライブに参加しました。行ってよかったです。色々と興味深かったですわ。
http://www.sustena.org/
じつをいいますと、ぼくはマエキタさんのことはまったく知らなかったんですが(笑)、家に帰ってからネットで検索したら、なんだかいっぱいひっかかりました。なるほど。こんなに多彩に活動をしてはる人でしたか。
ひとことでいうと「かっこいい女性」でした。色々と言われることもあるようですが、なかなかこういう生き方が出来る人って、そうはいないですよ。東京は深い。