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御霊神社 文楽座之跡 錦影絵「尾野席」

2009 年 7 月 19 日

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御霊神社にかつてあった文楽座「御霊文楽座」のことを調べていたら、錦影絵の定席で「尾野席」というのがあったという事実を知りました。調べてみたら、これがまたおもろい。

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どういう風に動くんやろうか?と思っていたら、大阪芸術大学が再現している映像フィルムが公開されてました。ハイカラでんな!池田ゼミに拍手。
アートプロジェクト「錦影絵」池田ゼミ

御霊神社そのものは淡路町にありますが、その北側を東西に走るのが平野町通り。平野町は江戸時代には北組惣会所があって、御霊神社の門前市として栄え、明治末・大正時代には「心ぶら」(心斎橋ぶらぶら)「銀ぶら」(銀座ぶらぶら)に対して「平ぶら」(平野町ぶらぶら)という言葉があったほど賑わいました。明治17年(1884)から大正15年(1926)にあったのが御霊文楽座で、文楽だけではなくて覗きカラクリや錦影絵といった興行で大人気やったそうです。1と6のつく日には夜店も出たそうですが、大正15年に失火のために御霊文楽座が全焼。さらに昭和元年から御堂筋が拡幅されて、幅44メートルという大阪市内を南北に縦断する巨大な幹線道路が出来たことによって、平野町は真っ二つに分断。「平ぶら」という文化も一気に廃れてしまいました。

ちなみに錦影絵に欠かせない幻燈機そのものは、18世紀後半ぐらいに長崎・出島に輸入されて、これを見世物にしたのがやっぱりといいますか、商魂たくましい大坂人やったそうです。1790年に大坂・難破新地で「彩色影絵阿蘭陀細工」という興行を開いて大成功して、これが江戸に伝わって「写し絵」「錦影絵」へと発展していったとか。そういう意味では大坂はアニメーション興行の発祥地といえるかも知れません。なんでもかんでも大阪発祥にするのは、ぼくの悪いクセですが(笑)


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