http://allabout.co.jp/gs/travelosaka/closeup/CU20080610A/
AllAboutの新しいガイド記事です。船場・綿業会館で開催されたハッピーアペリティフの取材レポート。「大大阪」の時代を彷彿とさせる素晴らしい名建築をとくとご堪能ください。
この企画はフランス大使館がプロデュース。非常に落ち着いて、素晴らしくて、楽しいひとときを過ごしました。ただ普段あまりワインなんてのに飲みなれてないので、えらく酔いが回りまして・・・。 アペリティフ(食前酒)なんで軽めで甘くて美味しい。思わず飲みすぎてまいました(笑)
http://allabout.co.jp/gs/travelosaka/closeup/CU20080520A/
AllAboutガイド記事「大阪ナイトカルチャー」で取材させていただいた山本能楽堂。
能楽の鑑賞中に軽食が出たのですが、それがこちらの「とん蝶」。
http://www.honke-kinugasa.jp/tontyou.html
御菓子司「絹笠」さんの登録商標ですが、これが絶品の美味さ。賞味期限は「お買い上げ当日」。添加物は一切使用してないとか。通好みの大阪名物です。ぜひ一度はご賞味を。
堺の老舗企業「タマノイ酢」さんの本社屋を取材しました。迎賓館と知的創造空間がコンセプトとか。驚かされたのが「世界一お酢に詳しいロボット」のタマス博士。お酢の歴史やタマノイ酢について、身振り手振りを交えながら説明してくれるんですが、ようできてまして…また「黒酢色」のボディがかっこええんです。
http://www.tamanoi.co.jp/company/release/2007_7_new_office.htm
http://www.tamanoi.co.jp/company/release/2007_7_dr_tamasu.htm
タマス博士の話によると、じつは日本ではじめてお酢を製造したのが堺とか。西暦400年の応神天皇のころに酢の製法が三韓から伝わり、港町・堺で作られるようになり、これが「和泉酢」と呼ばれて『日本書紀』にも記載されているそうです。「もののはじまり なんでも堺」ですな。
取材で貝塚市にある老舗和菓子屋、村雨本舗 「御菓子司 塩五」にいってきました。
http://www7.ocn.ne.jp/%7Eshiogo/
和菓子の定番アイテム「村雨」ですが、じつは、その発祥が塩五。登録商標にもなっています。米粉と小豆餡、砂糖を混ぜて蒸した・・・という単純な和菓子ですが味は絶品。ひかえめで上品な甘さには唸らされます。なんば高島屋、心斎橋そごうなどの百貨店でも販売しています。3日ほどは日持ちするので、お土産にもオススメです。
4月22日。四天王寺・聖霊会舞楽大法要です。
http://www.shitennoji.or.jp/
http://www.shitennoji.or.jp/bugaku/bugaku1.htm
四天王寺の創建は西暦593年。聖徳太子が建立した日本ではじめての官寺として知られています。ちなみに聖徳太子が建立して世界遺産にも登録されている奈良県斑鳩町の法隆寺は607年の創建ですから四天王寺のほうが約15年ほど古いことになります。いかに四天王寺が我が国きっての古刹であるかが伺いしれます。この四天王寺にて毎年4月22日に開催されるのが聖霊会舞楽大法要で聖徳太子の命日(旧暦2月22日)を忍ぼうと、豪華絢爛な舞楽絵巻が約4時間にわたって繰り広げられます。
平安時代の昔には京都の貴族たちの観光名所であったようで、あの吉田兼好もこの法要を見ました。「徒然草」の中に記述があって 「何事も辺土は賤しく、かたくななれども天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」(なにごとも京から離れた辺鄙な場所は見苦しいものが多いが、大阪の天王寺の舞楽は京にもない素晴らしいものだ)と大絶賛しています。
日本の歴史都市というと京都や奈良が思い浮かびますが、じつは大阪こそが「日本最大の歴史都市」です。この祭を見ると歴史都市・大阪の格の高さが感じられます。
大阪ミナミ。道頓堀。千日前。日本有数の繁華街として賑わう界隈ですが、その一角にあるのが織田作之助の「夫婦善哉」でも有名な石畳の路地が映える、情緒ゆかしい法善寺横丁。
http://www7.ocn.ne.jp/~houzenji/
http://www.sato-restaurant-systems.co.jp/meoutobld/index.html
画像の看板は法善寺横丁の西口にかかっているものですが、昭和を代表する希代の喜劇役者・藤山寛美の筆によるものです。この看板にはじつは「謎」があります。よくみると「法善寺」の「善」に横棒が1本たりません。これは藤山寛美が揮毫するさいに「わしはそない善い人間やないさかいに」ということで字を1本ぬいて「善」にしなかったという説や、法善寺は飲み屋町でもあるので「(酒が)もう1本たらんぞ!」という意味合いでやったという説などがあります。ぼくは「もう一本!」説が藤山寛美らしい感じがして好きなんですが、「ただたんにまちがえただけ」という身も蓋もない説もあります(笑)
大阪人はこういう粋で洒落た遊び心があるんですわ。「大阪ミナミの看板」と聞くと陸上選手とかカニとかフグが有名ですが、ぼくはこの看板がいっちゃん好きです。
「大阪の台所」こと黒門市場。『黒門市場史』は黒門市場の古老にお話を聞いて5年の歳月をかけて完成した・・・という大変な労作です。黒門市場商店街振興組合の方からお借りして拝読させていただきました。
http://www.kuromon.com/
大阪は「商店街のまち」です。日本一長いアーケードを誇る天神橋筋、「東の銀座、西の心斎橋」と謳われた心斎橋筋、デンデンタウンの愛称で知られる日本橋筋、激安商店街で有名な千林・・・大阪の商店街はそれぞれに特徴、特色があってバラエティに富んでいます。生活者のリアルな息吹が感じられる。旅の醍醐味は、土地特有の文化や、人々との出会いですが、商店街にはそれがあります。大阪城やUSJ、海遊館にいっても、そこで生活してる人はいませんから。
大阪に来たさいは、ぜひ商店街をぶらぶら歩いてみてください。色々と、おもろいもんが見れまっせ。
「くいだおれ」さんが閉店するとか。新聞、テレビなどの各種メディアにもニュースとして流れましたが、さすがにこのニュースはぼくも驚きました。いろいろと惜しむ声があるそうですがこれも時代の流れでしょうか。
「食い倒れ」という言葉の語源は、もともとは「杭倒れ」であることをご存知でしょうか?江戸時代の大坂は「八百八橋」と呼ばれるほど、あちこちの川に橋が架かっていたのですが橋には「杭」がつきもの。こうした橋の杭は年数が経つと川の水に押し流されたりして倒れるわけですが、その模様が「杭倒れ」と呼ばれたようです。
また大坂の橋のほとんどは町橋(民間人が建てた橋)であったため、杭の修繕費用はすべて町民が支払っておりました。橋の数が多いだけに修繕費用も嵩んで莫大な金額になるわけで、つまり「杭倒れ」には「町商人が倒れるほど杭の修繕費用が嵩む」というような意味合いもあります。
しかし橋を建てることは町のために役立つことで町商人にとっては大変、名誉なことでもありました。財力のある商人でないと橋をかけることができません。「杭倒れ」そうになることは、ある意味、大商人のステータスで、カッコイイことでもあったようです。大坂商人の「町のためにやろう!」という心意気。粋。それが「杭倒れ」という言葉には込められています。
今回の「くいだおれ」さんの閉店は確かにショックでしたが、「くいだおれ」さんがなくなっても、大坂商人の「杭倒れ」の精神、心意気さえあれば大阪はいくらでも再生して、盛り上がるはず。ぼくはそう信じています。
NPO法人「COCOROOM」、特定非営利活動法人「こえとことばとこころの部屋」にて「人間見学」というトークイベントを行います。以下は詳細情報。
●イベント 人間見学「ルーツ」
●内容 いま、どうしてこの仕事をしているのか?それぞれのルーツ、現在そしてこれからを語ります
●時間 4月13日(日)19:00~21:00
●参加費用 500円
●会場 ココルーム・インフォショップ
http://www.cocoroom.org/index.html
557-0001 大阪市西成区山王1丁目15-11
tel&fax..06-6636-1612
地下鉄御堂筋線・堺筋線「動物園前駅」2番出口から
動物園前一番街を南へ徒歩約2分
JR新今宮駅から徒歩約5分
★ゲスト
陸奥賢さん(フリーライター、AllAbout「大阪」ガイド)
ニシザワさん(新聞女マスター)
椎名さん(福祉NPO職員)
林さん(中学校教師)
笠原さん(劇関係者)
田面遥華さん(書道家)
そんな大げさに語るほどの深いルーツなんか、僕にはないんですが、交流会もありますので、もしよろしければ遊びにきてください。
大阪・せんなん里海公園にて。
http://www.osaka-park.or.jp/rinkai/sennan/main.html
京都(平安京)は中国の風水思想に則って、南北(朱雀大路)を中心軸とした都市として作られましたが、大坂城を作った太閤・秀吉は東西を中心軸にして都市整備を行いました。つまり秀吉は南北の道路(筋)よりも、東西の道路(通)のほうを大きい道幅にしました。大阪のメインストリートは南北ではなくて東西の道路だったわけです。
なぜそんな都市構造にしたのか?というと、大坂城を西に向かうと、大阪湾(海)にでます。秀吉は朝鮮半島や中国大陸といった海の彼方に対する領土的野心が強い人でしたが、その拠点として大坂を整備したので、こういう都市構造になったわけです。つまり大坂は「海にむかって作られた都市」というわけです。
都市の性格はハードウェア(都市整備)によって形作られます。豊臣政権がなくなったあとも大坂城(都市基盤)はそのまま徳川幕府に継承されたので、大坂は海上交通の要所、水の都として発展。日本の流通経済の中心地、「天下の台所」として長く繁栄したことはよく知られています。
大阪の特徴として海との関係性は切っても切れません。戦後の工業都市化や埋め立てによって、市中から沿岸部は遠くなりましたが、それでも大阪の未来は西(海)にあると確信しています。