大阪まち歩き大学。えらいとこまで来ました。和泉市。仏並町。坪井町。槇尾山の入口です。
男乃宇刀神社は式内社。神武天皇が訪れたという。
神武天皇は東征で難波津まで来たが、そこで天孫族の長髄彦にコテンパンにやられる。そこで神武天皇は進路を南に転身して男乃水門(泉南市あたり?)に出て船で紀伊に入り、そこから大和に入った。ここはその迂回ルートの途上ということですな。
大阪はさすがに土地が古い。うっかり(?)神武天皇のご聖蹟があったりする。こわいとこです。
船場。青山ビルへ。玉田 玉秀斎こと玉さんの講談会。コロナ以降、初の講談かな。久しぶりに玉さんと会った気がする。お弟子さんの玉田玉山さんも腕を上げてました。
講談もコロナは直撃やったことでしょう。お互い、よく生き残りましたなあ…
また玉さんとコラボして対談と即興講談の会をします。顔ハメではないw 大阪まち歩き大学の船場まち歩きネタがテーマです。正統派!直球勝負!
乞うご期待ください!
大阪まち歩き大学。中寺町を歩く。常國寺さん。梶井基次郎墓。3月24日が檸檬忌。4月頭に訪れましたが墓は檸檬だらけでしたな。
梶井基次郎は肺病みで結核だった。結核は死病であるが徐々に身体を蝕む。闘病が長い。梶井基次郎も長かった。10代半ばで発病し、10年以上の闘病生活を経て31歳で亡くなった。そのあいだに小説を書いた。
「ダモイクレスの剣」ではないが自分の身体で進行し続ける死病を意識しながら日常を生きる。特殊な精神状況であるのは間違いない。
また結核は微熱が続くという。微熱する身体の浮遊感覚の中で死の冷酷さ、冷徹さ、冷静さが行き来する。嫌が上にも感覚は研ぎ澄まされる。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。櫻の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」
梶井基次郎『櫻の樹の下には』
梶井基次郎の作品には常に「死の微熱」のような特異なリリカルを感じる。稀有な作家とでしかいいようがない。
大阪まち歩き大学。浄土宗寺院。源光寺にある真田幸村家累代霊の供養碑。
昭和13年に砂本福松氏が亡父の五十年忌として建立したと刻まれている。砂本家と真田家のつながりはよくわからないが、真田幸村の後裔ということだろうか。「真田百太郎」「真田しげ」「真田忠兵衛」と確かに真田姓の方の名前がいろいろと刻まれている。
砂本福松氏は船場・瓦町の象牙商人として記録が残っている。ご子孫の方も船場商人らしくイトヘン系の仕事に携わり、いまも泉州で工場経営などを続けておられるという。
一時期、大阪は「真田丸」人気で、あちらこちらで真田ブームが巻き起こり、真田幸村万歳!なイベントが開催されたりしたが、こちらは特に注目されなかった。真田ファンなら一度は訪れてほしいですな。
実は大阪七墓巡り復活プロジェクトの南濱墓地のすぐ近くで、こちらの源光寺さんに「七はか道」と刻まれた七墓ファン(?)には有名(?)な石碑がある。これも是非とも。必見です。
【文化時報】死生観光トランプのオンラインイベントが取材され、宗教専門紙『文化時報』さんの2022年2月8日号にて記事が掲載されました!ありがとうございます!^^
湯本泰隆さんのながおか史遊会さんの主催でした。
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※死生観光トランプ。無料でダウンロードできます。プリントアウトして、ぜひとも遊んでみてください!m(_ _)m
■とりせつ
https://bit.ly/2YsLaqP
■カード(PDF)
https://bit.ly/2QifrnL
※A4サイズ+厚紙+表裏印刷推奨
「タイムトラベラー謎解き遣唐使」の取材でハルカスへ。
https://www.abenoharukas-300.jp/time-t.pdf
聖徳太子1400年御遠忌特別企画やそうです。近鉄不動産主催。謎解きよりもハルカスの眺望が現実離れしてて呆然としてしまいましたな。
仕事などで過去3回ほどきてますが、いやあ、300メートルの高さとか改めてヒューマンスケールではない。日常感覚が狂いますわ。いまだにフワフワする。
大阪まち歩き大学。藤井寺。道明寺天満宮。土師社。
古代、権力者が亡くなると死後の生活のために親しい一族の者、部下、生口(奴隷)などが生き埋めにされた。「殉葬」というが、土の中から哀れな泣き声や嗚咽が聞こえたという。
その残酷な風習を改めようと人間のカタチをした埴輪を埋めることを提案したのが出雲出身の野見宿禰。11代の垂仁天皇に認められ、その功績から所領地を与えられた。それが現在の道明寺界隈で野見宿禰は土師氏の祖先だから、ここは土師氏の本拠地となる。
野見宿禰はノミノスクネと読み、このノミは大工道具の鑿(のみ)に通じる。古墳を作るには石を削ったり掘ったりの作業が必要で、それには鑿を使うから「鑿(のみ)の宿禰(貴人)」という名前を推察すると大工の棟梁みたいな存在と思われる。日本は世界最大のゼネコン大国だが野見宿禰こそは土建屋のオッサンの始まりといえる。
土建屋のオッサンこと野見宿禰は力自慢で、だから同じく力自慢の当麻蹴速と戦ったというエピソードもある。当麻蹴速(たいまのけはや)は大和の当麻村(奈良県)にいた蹴速(蹴るのが速い=足技の格闘技に長けた男か)といったような意味で、野見宿禰と対決するが腰骨を蹴りで折られて殺されてしまう。可哀想に。出雲の男(野見宿禰)と大和の男(当麻蹴速)が戦って出雲の男が勝つというのもなかなか意味深ではあるが…。
そして、この対決をもってして「我が国初の相撲である」という説があるが「蹴り殺す」という決まり手(?)は今の我々のイメージする相撲とはかなり解離している。もっと荒荒しい原始的な格闘技であって、これを相撲の発祥というのは、ちとムリがあると個人的には思う。
相撲が相撲たりえるのは、やはり「土俵からでたら負け」というシステム、ルールの発明からだろう。そして今のような土俵は江戸時代にできたとされる。結局、相撲の発祥は江戸時代…というのが順当なところではないだろうか。
日本相撲協会としては『日本書紀』に書かれている野見宿禰と当麻蹴速の格闘技こそが「元祖相撲」で「相撲こそは日本の国技」と宣うが、これはやはり贔屓が過ぎるように思う。僕は相撲好きですが歴史修正主義にはアンチですw
野見宿禰、土師氏は古墳時代は栄えるが、古墳時代の終焉と共に勢力も衰えていく。しかし一族の中から文章博士(歴史、漢学、儒教の先生)が出てきて、その子孫が菅原道真だったりする。だから道明寺は菅公の故郷で実際に太宰府に流される前に当地を訪れた。
なんというか道明寺は歴史の蓄積、厚みが凄い。太い。濃い。深い。
大阪まち歩き大学。道明寺天満宮で度肝を抜かれるのが境内にある修羅(しゅら)。巨石を運ぶ道具で、古代の土師氏はこの修羅を用いて百舌鳥古墳群、古市古墳群などの巨大古墳を作ったという。
要するに石を運ぶ「ソリ」なわけだが、そもそも「修羅」が訛って「ソリ」になったという説がある。修羅→しゅら→すら→すりという変形だろう。
昭和53年(1978)に道明寺天満宮の氏地である三ツ塚古墳の周濠から約8.8mと約2.8mの大小2基の修羅が出土したという。本物は近つ飛鳥博物館と藤井寺市立図書にあり、文化財にも指定されている。この辺は土建屋一族の土師氏の本拠地、故郷だから、この巨大修羅はその土師氏が活躍した痕跡、証拠のようなものといえる。
道明寺天満宮に置かれているのはドキュメンタリー映画『鬼に訊け』で有名な宮大工の西岡常一棟梁によって製作された「復元修羅」だが、これがまた実に大迫力。上に置かれた石の重さはわからないが、これだけの巨石を運ぶには一体どれだけの男衆、人手がいることか。
おそらく古代には、これほどの巨石の運搬は鳴り物、お囃子などで調子、音頭を取り、勢いをつけて、まるでお祭り騒ぎのような光景であったろうと思われる。関わる者みんなで力をあわせないとこれだけの難事業は成し得ない。序列もあれば、組織もあれば、信仰もあったろう。
この修羅が面白いのが大阪で盛んなだんじり祭の始まりではないか?という説があること。だんじりの「だん」は「壇」のことで祭壇、仏壇という言葉なんかもあるが要するに祭礼をする場であり、聖なる空間であり、神仏の依代の場といえる。修羅は巨石を運ぶが、巨石こそはまさに神そのものであるから、これは「壇」といえる。
だんじりの「じり」というのは「そり」(だんそり→だんじり)がこれまた訛ったものといい、そのように解釈できるとしたならば、まさしく「だんじり」とは「壇修羅」となる。
あくまで言葉の響き、音からの連想に過ぎないが、それなりに説得力のようなものがある…かな?まあ、だんじりのルーツとは何か?は諸説あって、よくわからないが個人的にだんじり=壇修羅説は興味深い。