喫茶田園
天王寺駅→天王寺公園→慶沢園→河底池→茶臼山古戦場→一心寺→安居神社→真田幸村戦没地→天神坂→清水寺→玉出の滝→清水寺舞台→竹本義太夫生誕地→天王寺駅→阪堺電車→あべのハルカス→松虫駅→松虫塚→伊東静雄文学碑→聖天山→吉田兼好藁打石→海照山正圓寺→熊野街道→安倍晴明神社→阿部王子神社→四天王寺蕪碑→東天下茶屋駅→なにわことばせんべい→純喫茶田園にて珈琲。
歩きましたなあww
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歩きましたなあww
フロイトはダ・ヴィンチの「モナリザ」などを観て、ダ・ヴィンチの抑圧された性の欲望や同性愛的傾向を指摘した。暗く深い渓谷の中に女陰があり、屹立する古ぼけた塔の中に男根をフロイトは読み取った。
江戸時代の日本の場合は逆になります。当時の浮世絵師たちはウタマロに代表されるような、露悪趣味そのもののエロ・グロ・ナンセンスの絵を書いておきながら、そこに天橋立や富士山、近江八景といった風光明媚な自然美を入れ込んで、みんなはそれを読み取って楽しんだ。
自然描写の中に人間の深淵なる性の抑圧を読み取ったフロイトや西欧心理学者たち。人間の性の営みの中に自然美を描写した浮世絵師たち。禁欲的なキリスト教的倫理感がダ・ヴィンチのような絵を作り上げたともいえますし、欲望や煩悩を肯定する仏教的(とくに密教的)倫理感が浮世絵の世界表現を可能にしたともいえます。
いずれにせよ、面白いのは「見立て」の世界。昨日、表千家流に茶を立てて頂きまして。以上は、そのさいに、ふと思ったこと。茶の世界は何もかも「見立て」で成り立っている。日本文化の真髄とは「見立て」です。一服のお茶の中に、男女の性愛の中に、自然や世界、宇宙を観る。「日本文化的見立て」の深さ。面白さ。つくづく利休は偉大ですな。もちろん歌麿も。
「まちづくり」といいますが、まちなんて作りようがない。家や道路やビルやタワーは作れても、まちは作れない。だから「まちづくり」というのは、ほんまは「まちのイメージづくり」です。
「あそこはなんやおもろいことしてるまちやなあ」
この声こそが大事で。このイメージを集めていけば、やがてまちのムーブメントになります。うまいこと継続していけば、まちの文化となり、歴史にまでなるかも知れない。
実体は、成功は、後からついてくる。まずはイメージづけから。もっともっと、おもろいこと、やりまひょ。あそびまひょ。
「セックスよりも、セックスのあとのシャワーの方が気持ちいい」といったのは筒井康隆。要は物事はプロセスが大事だということ。単なるシャワーでも前段階で、なにがあったか?で爽快感は変わる。簡単にいえば、お腹が減っていたら何を食べても美味しいということですなww
もし人生に達人がいるとすれば、それは物事のプロセスをじっくり味わえる人だろう。苦しみのあとには必ず楽しみがあり、楽しみのあとには苦しみがあるが、それを乗り越えたら、また楽しみがある。それを信じて待つことが出来る人。
そして、事実、そうなんや。人生、そう捨てたもんやないで。
深夜2時にゆっくりと風呂に入りながら考えたこと。しかし眠いww