瀬戸芸「家船」から出航した全国の作家集団「EBUNE」。
https://ebune.net/
EBUNEの荒木さんにお悩み相談されて、ちょっとだけ協力というか、直観が閃いて、淡路島アートセンターのみなさん(くにちゃん、淡路島アートセンターのみなさん、ほんまにおおきにです!m(_ _)m)と荒木さんをお繋げしたら、あれよあれよとカオス(w)なことになっていった…という経緯のお話。
EBUNEは大阪にも来る予定です。期待しております!
■EBUNE淡路島漂着ー資料に見る制作200日の記録
https://note.com/ebune/n/n3f07920f684b
2020年1月25日
KOURYOUは女木島に仮置きしている作品の保管場所と、次の漂着会場を探していた。観光家の陸奥賢さんに大阪案内をしていただいている際に相談した所、淡路島アートセンター(1)の常任理事やまぐちくにこさんをご紹介いただく。
大阪まち歩き大学。小路まち歩き。清見原神社。御祭神は天武天皇。
社伝では天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮から難波に行幸した際に当地に立ち寄ったとか。浄御原から清見原へということですな。
また当地で天武天皇は吉野方面を仰ぎ見たそうで、その故事から付近には「吉野見」という地名ができたという。
この神社は陸軍大将の大迫尚道が揮毫した標柱(宣揚文)や難波利三先生の玉垣などがあって面白い。神社を巡る楽しみのひとつは玉垣で、なんとなく玉垣を眺めていると、その地域の特性が見えてきます。同じ姓がズラッと並んでいると、地域の有力者の一族なのかな?と推測できるし、同じジャンルの会社が並んでいたりすると、地域の産業なども朧気ながらわかってくる。
神社の玉垣に匹敵して重要なのが寺院の墓。神社の玉垣と寺院の墓は地域の先人や文化や物語を現代に伝えてくれる。教えてくれる。まち歩きには欠かせませんw
四天王寺まち歩き。一乗院。こちらは伝教大師を奉る。金属供出で銅像が無くなり、大阪大空襲で焼失したが、近年、再建された。
聖徳太子は天台宗の根本経典である『法華経』について、日本で初めての解説書(法華経義疏)を著した人物。さらに最澄さんは聖徳太子は中国の天台宗開祖である天台智顗の師匠・南嶽慧思(515〜577)の生まれ変わりであると固く信じ込んでいた。
太子の転生伝説が興味深いのは、どうもこの伝説は日本発ではなくて中国発のものであること。慧思という人は天台本覚思想(衆生は誰でも仏になれる)と弥勒下生信仰(弥勒菩薩は未来世ではなく今生に現れて衆生を救済する)を広めた人であるそうで、それが現世への生まれ変わりの思想となったのかもしれない。
要するに慧思伝説が中国から遠く日本にやってきて、太子伝説と結びついたようなところがある。あの鑑真(688〜763)が、わざわざ日本にやってきたのも、この慧思伝説を信じたから…というような説もある。
なので最澄さんが慧思伝説=太子伝説を信じるのもわかるし、また、いまは四天王寺は和宗総本山であるが、戦前までは天台宗寺院であった。四天王寺に最澄さんのお堂があるのは、そういう意味でも至極当然。
ちなみに、面白いというとアレですが、聖徳太子は敏達天皇3年(574)に生まれて、推古天皇30年(622)に亡くなったとされるから、慧思がまだ生きてるうちに太子は生まれてるんですが、まあ、そういう細かいことは抜きや。信じるいうんはそういうこと。
四天王寺は、古代大阪(上町台地)は、日本からだけ見ててもわからんいうことです。大陸から、半島からみな、わからん。港町ですからな。そして想像以上に古代のアジア・ネットワークは盛んで、いろんな情報、文化、文物、信仰、宗教、人物が行き来していた。平安時代は山背は、ひきこもりの時代(だから国風文化が栄えるわけですが)に突入していくw それ以前の日本は、大阪は、実に国際的で、ダイナミックな時代だった。
陸奥家ファミリーヒストリー。曽祖父・陸奥利宗は大蔵省専売局の官僚でしたが大正7年(1918)に突如、東京から宇治山田市(現・伊勢市)に移転して宇治山田市役所に書記として勤務する。
「一体、利宗は、どういう経緯で宇治山田に…?」と長年の謎であったのですが、大正6年(1917)4月に宇治山田市長となった渡邊新太郎が、じつは元・大蔵省専売局の副参事で、利宗の函館専売局時代の上司であった!という事実がわかり、おそらく渡邊新太郎市長に呼ばれたのであろうと推測できました。
ところが渡邊新太郎という人物も調べてみると、元は福井県士族で宇治山田の人ではない。「一体、誰が渡邊新太郎を宇治山田に…?」と思って『伊勢市史』を調べたらキーパーソンが出てきました。宇治山田市出身で当時、大蔵省専売局参事であったという池田敬八です。
この池田敬八は、のちに衆議院議員にもなり、宇治山田市の地元では尾崎行雄よりも人気(得票)があったという大物政治家になります。また1931年には宇治山田市長にもなっている。以上、ウィキペディア情報ですw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%95%AC%E5%85%AB
では「なぜ池田敬八がわざわざ福井県士族の渡邊新太郎を宇治山田市長に呼んできた?」ですが、これまた『伊勢市史』を調べてみると、渡邊新太郎市長の前市長となる福地由廉時代の市政の混乱、不祥事が原因というのがわかりました。
じつは福地市長時代の大正5年(1916)11月に、宇治山田市役所の収入役が8650円という公金横領を起こした後に投身自殺をするという大事件を起こし、その責任で福地市長が市会と対立し、辞任したようです。
宇治山田市政は大混乱となり、その再建のために宇治山田市出身の大蔵省専売局参事の池田敬八が市政に乗り出すことになり、部下である大蔵省副参事の渡邊新太郎を公金横領事件翌年の大正6年(1917)に宇治山田市長として送り込んだ。そして渡邊新太郎の部下として東京にいた利宗が抜擢され、その翌年(1918)に宇治山田市役所で勤務することになった。池田敬八→渡邊新太郎→陸奥利宗ライン。
まさか公金横領事件の後始末といいますか、宇治山田市政再建のために大蔵省専売局人脈が動いていたとは思わなかった…。ドラマチックすぎるがな…。
ちなみに宇治山田市長は渡邊新太郎(1917~1921)→岸本康通(1921~1924)→澤瀉久富(1924~1926)と続き、また福地由廉(1926~1931)が返り咲きます。利宗は1917年~1928年まで宇治山田市役所に勤務し、書記から主事となりますが、福地市長時代に辞任している。まだ48歳。その後の経歴が、いまいちわからない…w
まだまだ、ぼちぼち、リサーチを続けます。
陸奥家ファミリーヒストリー。地道にリサーチを続けておりますw
『職員録』などから曽祖父・陸奥利宗は大蔵省専売局で働いていたことがわかりましたが、函館勤務時代(明治44・1911~大正2・1913)の上司が福井県士族出身の渡邊新太郎。
この渡邊新太郎が大正6年(1917)4月に専売局副参事から宇治山田市長となり、その翌年の大正7年(1918)から利宗が宇治山田市役所で勤務する…という流れがわかりました。
利宗を東京から宇治山田に呼びよせたのは、おそらくは渡邊新太郎市長でしょう。大蔵省専売局は日本全国各地に支局を持ち、戦前は支局長などが地方行政に多大な影響を及ぼし、かなりの権力を握っていたようです。
利宗の人生をリサーチしていると戦前日本の行政統治システムがなんとなくわかってきましたw なんでも調べてみるもんですなあ。
大分県。別府市。別府最大の魔境、秘境はココかもしれません。書肆ゲンシシャさん。
コレクションの数々に圧倒されました。「あのウワサの?!」という都市伝説のようなものが次々と登場し、紹介され、それらを現実に、目の当たりに、手にとるという驚き。衝撃。眩暈。頭クラクラしてきましたw
眼福でございました。ゲンシシャさんに深く感謝。必ず行くべし!
http://www.genshisha.jp/
大分県。別府市。鉄輪。昔の別府を撮影した写真集を見せて頂く。鉄輪は「ヤングセンター」という大衆演劇場が名物であったらしい。ネーミングが時代を感じる。ヤングセンター。
大分県別府市。鉄輪温泉は一遍上人開基伝説があるが、ちゃんと時宗のお寺がある。温泉山永福寺。
毎年、湯あみ祭りで、一遍上人像を湯浴みするとか。すごいなあ。見てみたい。
霊友会の過去帳『靈鑑』。
霊友会は在家法華教団(日蓮信仰)ですが、それにシャーマニズム(霊媒信仰)と先祖供養(祖霊信仰)が渾然一体となっているのが特徴です。
青経巻(法華経の読み下し文)、お題目(南無妙法蓮華経)を熱心に唱えながら霊能者(霊友会信者で大体、年長の女性。支部長といった役職があったりする)が相談者の祖霊を呼び起こして助言をする。大事なのは祖霊、先祖供養で、先祖をちゃんと祀れば悪いことは起きないし、何か悪いことが起きるのは先祖供養を蔑ろにしているから…というように考えます。
『靈鑑』は霊友会狂だった母が熱心に父方、母方(母方を大事にするのも新宗教系、霊友会の特徴であり、面白いところ)の先祖を徹底して遡り、調べて、作成したものです。霊友会独自の戒名(おえらいさんがつけてくれる。もちろん謝金がいります)をつけて、実際の墓に刻まれた戒名とは違うのですが、こうやって過去帳を制作する。
じつはこの『靈鑑』を作成するために、あちらこちらの役所から母が先祖の戸籍を取り寄せて、それが今回、父の死をキッカケに、僕の手に渡ったことが陸奥家ファミリーヒストリーのはじまりだったりしますw
霊友会の『靈鑑』に必要なのは「先祖の名前」ぐらいで「生前、何をしていたか?」とか「どこに住んでいたか?」といったようなことは気にしません。だから母もそんなことまでは調べなかった。
ただ、僕は父を亡くしたことをキッカケに戸籍簿の束を入手したもんだから、どうしても「父と子の関係」が気になった。「僕と父の関係」を考える上で「父と祖父」「祖父と曽祖父」の父子関係を知りたくなった。
特に曽祖父・陸奥利宗の存在が気になるのは「祖父が曽祖父から勘当された」という父と子の断絶が大きい。僕の家は勘当された家だから、本家や他の親戚筋と全く交流がない。祖父は晩年になって曽祖父の墓参りを親戚筋に願いましたが、それも許されなかった。
どんな相剋があったのか?もう古い話だから、調べたってわかりはしない。ただ曽祖父と祖父の人生、関係、物語を知ることで「父と子」の実存に迫れるかもしれない。死者を、祖霊の思いを受け継ぐというのはそういうことではないだろうか?
陸奥家ファミリーヒストリー。伊勢市役所に改めてお問い合わせ。データベースを調べてくれて、より詳しい情報が出てきました。曽祖父・陸奥利宗は末娘(祖父・文夫の妹)の手で大世古墓地から改葬されていたのですが、その時期がわかりました。平成18年(2006)10月らしいです。
さらに大世古墓地のどこにあったのか?区画もわかりました。「8◯4-◯」の区画。いまは誰か別の方の墓になっていることでしょう。
実は年末に宇治山田、伊勢を訪問して「曽祖父の墓があるとしたら、ここではないか?」と目星をつけて訪問したのが大世古墓地でした。我ながら見事な推理でしたが、16年前に改葬されていました。間に合わなかったか…。
調べてみてわかったのは現在、伊勢市内には永代供養はない(!)ということ。永代供養というのは地方民が集住して形成された大阪とか東京といった大都市のニーズなんですな。伊勢は古いまちですから。家のお墓というのが残っている。まだそれほど一般的ではないということでしょう。ニーズがない。
しかし平成18年(2006)に伊勢市の人が永代供養に改葬しようとすると、一体、どこの寺院になるのか?もしかして大阪・一心寺ではないか?という気もしますな。そうだったらビックリw 比叡山の久遠墓地という可能性もあるかな…。