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陸奥家ファミリーヒストリー。曽祖父・陸奥利宗が一時期住んでいた大井町・見晴らし通り。

2022 年 1 月 8 日 Comments off

陸奥家ファミリーヒストリー。曽祖父・陸奥利宗が一時期住んでいた大井町・見晴らし通り。

高知で生まれて大蔵省に入り、徳島→出水市→鹿児島市→東京・銀座→函館で大蔵省を退職。

その後、大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」にいたが大正5年(1916)3月には「東京府荏原郡大井町418番地」に移転したことがわかっている。そこで三女・日出子の出生届を出している。ただ東京・高輪→東京・大井町の東京時代は謎です。何の仕事をしていたのか?よくわからない。

そして突如、宇治山田市の行政マンとして勤務し、それも10年で退職し、その後の経歴は不明ですが、宇治山田で亡くなった。

利宗が住んでいた大井町エリアを歩いてみたら何かわかるか?と思い、さすらってみましたが、全く何もわからないw


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曽祖父・陸奥利宗の墓があった場所を教えて頂きました。「大世古墓地」という戦前からある伊勢市内の墓地です。

2022 年 1 月 7 日 Comments off

陸奥家ファミリーヒストリー。三重県伊勢市最大の市営墓地が伊勢やすらぎ霊園。曽祖父・陸奥利宗は宇治山田市役所勤務経験があり、戦時中に町内会の副会長をやっていた経歴も確認できたので、おそらく宇治山田市(戦後に伊勢市と改名)で亡くなっただろうと推察し、伊勢市営墓地の管理事務所、伊勢市環境課に連絡してみました。

僕の読みはズバリ的中で、曽祖父・陸奥利宗の墓があった場所を教えて頂きました。「大世古墓地」という戦前からある伊勢市内の墓地です。

ところが誠に残念なことに、市役所のデータでは大世古墓地にあった利宗の墓は数年前に、すでに娘さん(祖父・文夫の妹)の手によって「改葬」されていることが判明しました。

この妹さんは独身で、父である利宗の墓の管理をしていたようです。しかし晩年になって後継がいなくなることから、おそらくは利宗の墓を永代供養墓に改葬したようです。

伊勢市営墓地には永代供養墓がないらしく、どこかのお寺の永代供養墓に眠っているのではないか?と思われます。付近の寺院を虱潰しに調べるしかないか…。


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曽祖父・陸奥利宗が働いていたのは宇治山田市役所。いまは伊勢市役所です。

2022 年 1 月 1 日 Comments off

曽祖父・陸奥利宗が働いていたのは宇治山田市役所。いまは伊勢市役所です。

宇治山田市は元々、宇治(伊勢神宮内宮)と山田(伊勢神宮外宮)を併せてできた市ですが、名称問題が常にあり、ついに戦後の昭和30年(1955)に伊勢市となりました。

利宗は、こちらに大正7年(1918)から昭和2年(1927)まで働いていた。利宗は当時37歳から48歳。僕(43歳)と同世代の頃は行政マンだったということですな。


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曽祖父・陸奥利宗は宇治山田市役所時代(1918〜1927)にどんな仕事をしていたのか?

2022 年 1 月 1 日 Comments off

曽祖父・陸奥利宗は宇治山田市役所時代(1918〜1927)にどんな仕事をしていたのか?

実は当時、宇治山田市では市史編纂のプロジェクトが非常に大きな懸念であったようです。『宇治山田市史』を調べてみると、明治末頃から宇治山田市で市史編纂をしようという動きがあったようですが、なかなかこれが纏まらず、大正2年(1913)には一旦、予算が全カットされ、市史編纂事務所は閉鎖。なんと白紙状態になってしまう。

どうも予算の問題(市会から増額が認められなかった)とか関係者の病没や誰に編纂事務を任せるか?(一旦、会議で決まったのにやり直しで違う人が就任したりしている…)とか編纂委員の辞任が相次いだり、市長が変わったり…と、いろいろとあったようです。このへん市史編纂の後記になかなか生々しい記述が書かれていますw

利宗は1918年に宇治山田に来ているので、市史編纂事務所閉鎖(1913)のトラブル(?)とは関係ないのですが、しかし利宗が宇治山田に来て4年後の大正10年(1921)になって、当時の市長や助役、市会議員がやはり「市史編纂を再興せん!」と立ち上がり、編纂事業がリスタートしたとあります。

そして、このタイミングで実は曽祖父・利宗が宇治山田市の「筆頭書記」から出世して「主事」となっています。おそらく市史編纂の事務局側、実行部隊として動いていたのではないか?

その後、市史編纂事業は進み、ついに昭和3年(1928)に原稿1500枚が完成。翌年の昭和4年(1929)に念願の『宇治山田市史』が刊行されました。

この『宇治山田市史』の編纂は、国家事業ともリンクしていたようです。当時の政府は大勢翼賛時代で、天皇の祖霊神・伊勢神宮がある宇治山田を「神都」と位置付け、皇国の起こり、国威発揚の聖地にしようという思惑があった。

実際に昭和5年(1930)3月〜5月に宇治山田市で御遷宮奉祝として『神都博覧会』が開催され、実は『宇治山田市史』は、その博覧会の前に刊行されるべし!ということで急がれたようで、中身をカット、短縮された…ということも後記に書かれています。「政治」ということですな。

実際に利宗が市史編纂にどういう形で携わっていたのか?というのはわかりません。クレジットとしては「宇治山田市発行」としか書かれていない。ただ時期が被ってますからな。

また原稿完成(1928)を前にして、じつは利宗は宇治山田市役所を辞めている(1927)のも、ちょっと意味深です。もしかしたら政治的思惑(博覧会に合わせるために内容をカットせよ)に抗議したとか?なんかあったのかな?ひいじいちゃん?


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伊勢市。宇治山田へ。

2021 年 12 月 31 日 Comments off

伊勢市。宇治山田へ。個人情報になるのであまり詳しくは記述できませんが、ある資料から曽祖父・陸奥利宗の娘、祖父・陸奥文夫の妹さんのお住まいを特定できました。表札にうっすら「陸奥」の字が残っています。現在は空き家のようです。

おかげで、いろいろとまた新情報がわかりました。陸奥家ファミリーヒストリー。ぼちぼちとリサーチを続けます。


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陸奥家ファミリーヒストリー。国立国会図書館の『職員録』を調査して曽祖父・陸奥利宗の大蔵省時代の経歴が見えてきました。

2021 年 12 月 30 日 Comments off

陸奥家ファミリーヒストリー。国立国会図書館の『職員録』を調査して曽祖父・陸奥利宗の大蔵省時代の経歴が見えてきました。明治35年に採用されたようで以下のように転々と各地の専売局を転々として勤務しています。

明治35年(1902)徳島県三好郡池田村・池田専売局
明治36年(1903)・明治37年(1904)鹿児島・出水市上出水村・出水専売局
明治38年(1905)~明治41年(1908)鹿児島市・鹿児島煙草製造所
明治42年(1909)東京市京橋区銀座三丁目・東京第一製造所
明治43年(1910)茨城県水戸市・水戸専売局
明治44年(1911)~大正2年(1913)北海道函館区・函館専売局

曽祖父は、このあいだに鹿児島で結婚し、僕の祖父である文夫(1909年生まれ)は東京・銀座第一製造所勤務時代に生まれている。実際に祖父は四谷区で出生届を出されているので、当時は利宗と文夫は四谷あたりに住んでいたようです。四谷から銀座まで出勤していたわけですな。

戸籍だけではわからなかったですが『職員録』を調べて判明して意外だったのは利宗は徳島・三好、出水市、水戸市などでも勤務していた時代があったということ。最後は函館で勤務し、東京にやってきて、高輪・證誠寺~大井町あたりに住むようですが、実はこの2回目の東京時代(大正3年・1914年~大正6年・1917年)はなぜか大蔵省職員録には利宗の名前が見当たらない。

利宗は大蔵省を辞めたのか?それともどこかに出向したのか?戸籍から東京に住んでいたことは確かですが、そのあいだの仕事、経歴が不明です。その後、『職員録』によれば、いきなり大正7年(1918)になって宇治山田市の書記として登場する。以後、宇治山田市の主事まで務めて、しかし、これも昭和2年(1927)までしか記録がない。

1902〜1913 大蔵省時代(12年)
1914〜1917 ???
1918〜1927 宇治山田時代(10年)

1927年時点で利宗は48歳。宇治山田市役所を辞めてからも何らかの仕事をしていたと思われますが、よくわからない。その後の記録では昭和17年(1942)の『伊勢年鑑』で吹上町の町内会で副会長をやっていた記録を発見したので、63歳までは宇治山田市で生存していたことが確認できてます。

宇治山田は太平洋戦争で米軍の空襲で被害を受けています。伊勢神宮(外宮)があったので宇治山田市は「神都」なんて自称し、それがゆえに米軍に徹底して狙われました。戦災地図をみても吹上町(宇治山田駅の駅前で一等地でした)は焼失エリアに含まれているようです。利宗の家もおそらくは空襲で燃えてしまったでしょう。もしかしたら利宗自身も空襲で死んでいる可能性もあります。※祖父、父からは曽祖父が空襲で死んだというような話は聞いたことがないですが…。詳細がわからない。

いずれにせよ転々とした人生であったし、おそらく利宗の墓は宇治山田にあると思われます。生まれ故郷(高知県吾川郡池川村出身)は宇治山田からはちと遠い。やはり一度、宇治山田にいくしかない。

※画像は宇治山田空襲被害地図。

※1914〜1917は第一次世界大戦と被る。兵役ではないと思いますが…。わからない…。


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曽祖父・利宗は大蔵省の官僚であったことがわかり、日本全国各地を転々としていて大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」に住んでいた。古地図を調べると浄土真宗本願寺派の證誠寺の敷地であったようで、この寺院は現在もそのまま当地にあるので訪ねてみました。

2021 年 12 月 29 日 Comments off

陸奥家ファミリーヒストリー。父が11月に亡くなり、遺品として陸奥家の戸籍があり、それが僕のものとなったので、父も生前に知りたがっていた曽祖父(父にとっては祖父)の痕跡を調べています。

いろいろとリサーチすると曽祖父・利宗は大蔵省の官僚であったことがわかり、日本全国各地を転々としていて大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」に住んでいた。古地図を調べると浄土真宗本願寺派の證誠寺の敷地であったようで、この寺院は現在もそのまま当地にあるので訪ねてみました。

突然の訪問でしたが、ご住職がいらっしゃったので、少しお話を聞くことが出来ました。土岐さんという方で、先祖は美濃の豪族で有名な土岐氏(清和源氏系)の後裔とか。寺の開祖は親鸞聖人との邂逅から浄土真宗の僧侶となり、代々、子孫が法灯を受け継ぎ、現在のご住職で第三十世になられるそうです。

「大正時代に曽祖父が住んでいた番地がこちらになりまして…」とお伝えすると、かつて寺院の敷地を国に寄進して、家が何軒か建っていたとか。戦後は国に寄進した敷地をまた寺側が買い取ったらしく、いまは駐車場になっている場所だそうです。家が一軒だけ残っていて(屋根の感じは古く戦前の建物かも?もしかしたらこの家が利宗が住んでいた家かも知れない。詳細はわからないですが…)、遠巻きながら、かつての家が建っていた場所を撮影させて頂きました。画像の2枚目がそれで、利宗が住んでいたのは、おそらくはこの辺りでしょう。

残念ながら東京大空襲で寺院は焼失し、現在の本堂なども戦後の再建で、昔の資料などはあまり残っていないとか。縁起書などもないということでしたが『住職継職奉告法要』を一部頂きました。本来は門徒さんに配るもので、中には寺院の縁起などが書かれている貴重なものです。特別なご配慮に深く感謝いたします。ありがとうございました。

結局のところ、利宗がどういう経緯で、高輪に住んだのか?はいまいちわからないのですが、寺の敷地ですから、日夜、お参りしたことでしょう。僕も本堂をお参りして阿弥陀さんを合掌礼拝させて頂きました。南無阿弥陀仏。


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陸奥家ファミリーヒストリー。戸籍によると曽祖父・陸奥利宗は大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」にいたが大正5年(1916)3月には「東京府荏原郡大井町418番地」に移転したことがわかっている。

2021 年 12 月 29 日 Comments off

陸奥家ファミリーヒストリー。戸籍によると曽祖父・陸奥利宗は大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」にいたが大正5年(1916)3月には「東京府荏原郡大井町418番地」に移転したことがわかっている。そこで三女・日出子の出生届を出している。

古地図で調べると現在の「東京都品川区東大井町5丁目」あたり。古地図では「鉛筆工場」とあるのが現在の三菱鉛筆東京本社で、また「伊達邸」と記載されているのが現在の大井公園あたりらしい。「見晴らし通り」という道路に面しているところで、かつては海も見えて眺望が良かったようだ。古地図によると利宗が住んでいた418番地の前は「浅井邸」「加藤邸」「沖邸」といった個人名が数多く並んでいる。資産家、豪邸などが多かったのか?

大井町は有名人では伊藤博文が住んでいた。伊藤博文は明治42年(1909)にハルビン駅で安重根に暗殺され、国葬後、大井町に墓が作られた。現在も同地に墓がある。利宗もお参りにいったかも知れない。

大井町はじつは坂口安吾も一時期、住んでいた。大正14年(1925)2月のことで、安吾が住んだのは「大井町字元芝849」。当時、安吾は豊山中学校を卒業して下北沢分教場(現・代沢小学校)に代用教員として働いていた。『風と光と二十の私と』にそのへんのことが詳しく記載されている。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42615_21291.html

利宗が住んだ「418番地」と安吾の「849番地」は、現在は共に東大井町5丁目で、グーグルで検索したら約600メートルしか違わない。徒歩約9分と出た。めちゃくちゃご近所さんである。利宗は1916年。安吾は1925年で時代は少し違うが。最寄り駅は大井町駅で、同じ駅を利用し、同じ道を歩いていたに違いない。不思議な感じや。

大井町もまた歩いてみたい。


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陸奥家ファミリーヒストリー。引き続き、ぼちぼち、リサーチしております。それで昭和17年(1942)の『伊勢年鑑』で宇治山田市の「吹上町松原」町内会の副会長に曽祖父・陸奥利宗の名前を発見。

2021 年 12 月 21 日 Comments off

陸奥家ファミリーヒストリー。引き続き、ぼちぼち、リサーチしております。それで昭和17年(1942)の『伊勢年鑑』で宇治山田市の「吹上町松原」町内会の副会長に曽祖父・陸奥利宗の名前を発見。

利宗は明治12年(1879)生まれなので、当時63歳。さすがに仕事は辞めていただろう。社会活動として町内会副会長をやっていたと思われる。この1942年は祖父・文夫は33歳。そして僕の父・信一が0歳で生まれてます。父・信一が誕生した時に、曽祖父・利宗は、そうか。町内会長の副会長をやっていたか…。

「町内会」というのは実は大政翼賛会が仕掛けたもので、1940年に町内会組織を作るということが国の政策として定められた。要は戦争協力組織ということですな。この町内会の下に「隣組」が作られ、回覧板などで戦争協力が呼びかけられた。隣人が怪しい行動、スパイ活動をしていたら密告なんかも奨励された。

時代が時代とはいえ、曽祖父・利宗も、町内会の副会長として、大政翼賛体制を支持し、そういう活動をやっていたということでしょう。元・大蔵省官僚、元・宇治山田市の行政マンなら当然といえば当然かも知れませんが。

この資料でわかったのは、利宗は歳も歳だろうし、おそらく宇治山田市で亡くなっているだろうということ。そして住んでいたエリアも絞りこむことができました。宇治山田市吹上町松原。現在の伊勢市吹上1丁目、2丁目あたりです。利宗の墓があるとしたら、この近隣の寺社、墓地ではないか?と推測できます。


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父の遺品で陸奥家の戸籍が多数あり、曽祖父・陸奥利宗のことを調べています。

2021 年 12 月 18 日 Comments off

父の遺品で陸奥家の戸籍が多数あり、曽祖父・陸奥利宗のことを調べています。

あちらこちらを転々としているので、もしかして官僚では?と推察。国立国会図書館のデジタルアーカイブから『職員録』を調べたらビンゴ!で、利宗は若い頃は大蔵省の官僚(明治35・1902~大正2年・1913)で、その後、宇治山田市で書記、主事(大正7・1918~昭和2・1927)を務めたことがわかりました。しかし、その後の経歴が、いまいち、よくわからない。

引き続き、国立国会図書館のデジタルアーカイブで大蔵省にマトを絞って調べていたら、偶然にも利宗の弟の陸奥巌雄の名前を発見しました。昭和6年(1931)の大蔵省『専売局職員録(附大蔵省関係高等官)』の名簿に書記として記載されていた。よく見たら「従七勲八(従七位、勲八等)」とある。叙勲されとるがな。

利宗の弟・巌雄の存在は戸籍で見て知っていましたが、経歴は一切不詳でした。まさか兄弟で大蔵省の官僚をやっていたとは…。

昭和6年頃に巌雄が務めていたのは東京・淀橋専売局。新宿の西です。いまの西口ロータリーあたりとか。何も痕跡は残ってないらしい。

巌雄のその後の経歴もよくわかりません。ご子孫がいるのかどうかすら不明。官暦は国立国会図書館にいけばわかるんでしょうが…。


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