初代玉田玉秀斎は上賀茂神社の神官で「神道講釈」(晴明伝など)で名を馳せた講談師。安倍晴明は土御門家の祖。その土御門家の邸宅跡(京都ガーデンパレス)で4代目玉田玉秀斎と冷コーを飲む。 玉田家の聖地巡礼ですなw
他者と出会うための観光読書会。参加者のみなさんの感想ツイート。ありがたいことです。
基本的に観光は「他者」と出逢う(じつは「出逢ってしまう」の方が正しい)もの。その出逢ってしまう「他者の射程範囲」(=他者性)を、さらに拡張拡大しようとしてきたのが、ぼくの観光家としての仕事です。
極私的な隣人(共同体内部)の微細詳細な他者性に注目するのがコミュニティ・ツーリズムであったし、どこまでも遠く、鳥瞰的に、巨視的に、他者性へのまなざしを向けると、大阪七墓巡り復活プロジェクトのような「死者」「無縁仏」(永遠に辿り着けない深淵のような絶対他者)まで範疇に入ってきた。
さらに人間以外の他者…「異類」(非会話、非言語的存在)との邂逅をなんとか社会実験していったのが「蚕」「鯰」「亀」「鯨」などをテーゼとした「應典院いきものがかり」(大体、食べて血肉化して供養してるw)です。
こういうのはマスツーリズムの仕事の範疇を完全に飛び越えている。マスツーリズムへのアンチとして産まれてきたオルタナティブ・ツーリズムの流れのひとつなんですが、その中でもかなりエキセントリックで、前衛で、一歩間違えたら単なるカルトですわw まあ、しかし、たったひとりで、観光産業、観光業界からも完全に無視されて、ポストモダン観光、コンテンポラリーツーリズム、現代観光を作るんや!とムダに、無意味に、悪戦苦闘してきたわけです(ほんまおれはアホやと自省する日々)。
『ゲンロン0 観光客の哲学』は「郵便的マルチチュード」「憐れみの連帯」といった哲学的概念の実践として観光を捉え直していく。もちろんぼくの観光の仕事とは色んな差異はありますが、観光の新しい可能性の模索、その言及という意味でベクトルは似てます。
なにはともあれ、こういう「観光本」が出てきたのは面白い。もっと世間に誤配されて欲しいw