大阪まち歩き大学。上本町まち歩き。ハイハイタウン。中田明正像。
上本町界隈は戦後は闇市ができて、いろいろと権利関係がややこしかったとか。それらの店や関係者を一つ一つ巡って説得してハンコをつかせて出来上がったのがハイハイタウン。非合法的な闇市ではなくて再開発した複合商業ビルに合法的に安く入居できるようにするから協力してほしい…ということですな。そのために尽力したのが中田明正氏だったとか。
いまもハイハイタウンには「中国料理 杯杯天山閣」があるが中田明正氏はそこの社長さんで、天山閣グループは南紀白浜でもホテル経営など多角的にやっていると聞く。杯杯天山閣はよくお世話になっております。ええ店でっせw
同じような闇市の問題に取り組んだのが梅田にある複合商業ビルの大阪駅前第1〜第4ビル。あちらは「大日本ドケチ教教祖」で有名になる吉本晴彦氏が再開発に尽力したという。
大阪駅前ビル界隈は江戸時代から吉本氏(あと渡辺氏の土地も多かった)の先祖伝来の土地で「ここは元々、吉本家のものだ!」と吉本晴彦氏は闇市に対して好戦的(?)で、いきなりブルドーザーでバラックに突っ込んで警察沙汰になった(もちろん逮捕されるが裁判で逆転勝訴。いうても先祖伝来の土地ですからな)というような伝説を持っている。しかし、その後、このような力任せのやり方ではうまいこといかないと方針転換して闇市を一軒一軒、説得していったという。
駅前ビルとハイハイタウンと、ちょっと似たような雰囲気、匂い、色があるんですな。闇市の人たちとまちの人たちが粘り強く交渉して作り上げていった複合商業ビル。排除ではなくて、なるべく共存を測ろうと悪戦苦闘した。
敵味方やのうて、黒白やのうて、中をとって、ええ塩梅にもっていこうとする。ハイハイタウンも駅前ビルも、じつに大阪的なビルで、ワイは好っきゃなあ。安うて美味い店が多いのが何よりよろしいw
大阪まち歩き大学。コープこうべさんからのご依頼で「むつさとしと歩く大庄まち歩き」。
去年、大庄エリアの西側、西新田村界隈を歩いたら評判がよく今回は大庄の東側、道意新田から東新田界隈を歩く。
具体的には大庄元気むら→日本油脂明倫寮→尼崎産業博覧会跡地→道意神社→阪神野菜栽培所→尼崎競艇場→琴浦神社→子安地蔵→弓場の先公園→中国街道→大庄小学校→大庄公民館→大庄元気むら…という実にマニアックで渋めなルートw
いや、しかし大庄は深い。なんせ戦前は日本一の大村。日本の近代化のプロセスが如実に反映されている。大庄を歩けば、日本の近代史がわかる。問題点もわかる。深すぎます…。
大阪まち歩き大学。上本町まち歩き。ハイハイタウン。真田幸村緒戦勝利之碑。
NHK大河ドラマの『真田丸』をやった頃(2016年)に天王寺区が「真田幸村博」をやって、その際に建立された。大坂の陣(1614、1615)から400年というタイミングでもあった。
「緒戦勝利」というのは当然、冬の陣の勝利のことで(夏の陣は真田幸村は敗北しておりますから)、それは場所でいえば真田丸であるから現在地でいえば天王寺区餌差町辺りになる。心眼寺や興福寺さん、明星学園がある辺りで上本町ハイハイタウンからは1キロほど北西。要するに石碑のある辺りは真田丸ではない。
冬の陣の配置図などを見てみると、上本町ハイハイタウンはどちらかというと徳川軍の前線であり、前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が布陣していた場所となる。建てるなら「徳川方緒戦敗北之地」が正しいw
正直、真田勝利!の石碑を建てる場所として、ここはちょっとどうかな?と思うが、これが許されるなら真田丸の半径1キロはどこでも石碑があってよろしいから、いっそのこと、あちらこちらに建てたらよろしい。七箇所ぐらい石碑を建ててくれたら「七真田丸巡り」とかできて中には七真田丸を巡る粋狂な奴も出てくるかも知れない。つーかワイがやりまっせw
大阪は蘇我物部戦争の昔から壬申の乱、源平合戦、南北朝と何度も何度もいろんな戦争の舞台となっているが戦国時代の終焉となった大坂の陣は日本の歴史に与えたインパクトは大きい。もっともっと語られるべきだし、大事にしたほうがいい。
家康(茶臼山)、秀忠(御勝山)辺りは有名な史跡としてあるが、前田、上杉、佐竹、伊達、毛利、長宗我部、細川、松平、井伊、榊原、酒井、水野、浅野、藤堂などがどこに配置されていたか?といった石碑はあまり大阪のまちなかでは見受けられない。※細かく見ていけば佐竹の本陣跡(蒲生・若宮八幡宮)などあったりするが、まだまだ少ない。
大坂の陣は日本全国各地の大名、藩主が勢揃いしている。勝った方も負けた方も関係なく「みなさんのご先祖さまが活躍した本陣跡はココです!」という石碑を建てたらいい。たぶん県人会あたりが動いてゾロゾロと歴史マニアなシニアを連れて大坂の陣ツアーに来てくれる。元は取れるんやないやろか?w
【神奈川県】大倉山おへそさんの投稿をシェア!明日、3/19にも青葉区の私設図書館『ぷらに』さんでまわしよみ新聞とか。参加者募集中です!
神奈川県のみなさん、ぜひともー!( ´ ▽ ` )
「田舎に移住して自給自足の生活で誰にも依存しない」って「金さえあればいい(=人には依存しない)」とあんま変わらん気がする。知らんけど。
気象庁より「地震の起こる場所-プレート境界とプレート内‐」
https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/jishin/about_eq.html?fbclid=IwAR0RtXrzDqGnlktEN6WwpBZzH_-yyBMa_1nqWgoGnOxKTDhCCTeDv4NyNIA
2011年から2020年のあいだに発生した地震の震央分布。日本列島はまさしく「真っ赤っか」である。こんなとこに原発を建てるのはどう考えても理性的判断ではない。知性を疑われる。
原発産業をするなら、原発を建てるなら地震が少ない、白いとこに建てなはれ。僕は原発が絶対悪だとは思わない。ちゃんと制御、コントロールできるなら素晴らしい文明の利器だとも思う。
しかし、この文明の利器をちゃんと使いこなすためには細心の注意、危機管理、リスクマネージメントが必要なわけで、そこんとこをちゃんと考えてやりなはれといいたい。地震大国の日本には向いてまへん。適してまへん。無茶でっせ。
「正露丸」は戦前は「征露丸」だったのは有名な話。
明治35年(1902)に大阪市天王寺区下寺町4丁目にあった中島佐一薬房が「忠勇征露丸」の商品名で肺病、胃腸病に効く薬として売り出した。日露関係がキナ臭くて時代の雰囲気がそういう雰囲気やったんでしょうな。日露戦争が起こってから薬が出たのではなくて、日露戦争前から薬が出ていたのは、なかなか面白い。中島佐一は先見の明があったということかw そして販売しだしてから2年後にタイミングよく(?)日露戦争が勃発。
当初はあの独特の臭気と味で大不評であったが脚気や肺炎(帝國陸軍が最も悩まされた病気)に効く薬と陸軍御用達となり、「明治大帝の御神薬である!」(つべこべ文句いわずに飲め!ちゅうことですなw)というお達しが出て戦時中に700万缶、5億6000万粒ほど製造されたという。そのおかげ(?)もあってか日本は辛くもロシアに勝利したので征露丸の名も一躍、巷間に知れ渡った。
日露戦争後は陸軍が征露丸(正確にはクレオソート丸)のパテント(特許製法、工場)を民間に売りさばき、おかげで似たような薬がワンサカでてきた。売れに売れまくって国民的な一般大衆薬となったが、おかげで商標の登録などで揉めに揉めまくる。大阪でも四天王公園寺電停前にあった室谷生春堂が「日露戦役記念薬 戦友丸」などを出している。こっちを持ってる人はだいぶレアでっせw
中島佐一は1945年3月に亡くなり、太平洋戦争後に「征露丸」は大幸製薬に製造販売権が継承された。しかし「敗戦国である日本が征露丸などとはけしからん!」というわけで「征露丸」の「征」が「正」となり、現在のように「正露丸」になってしまう。じつは「正露丸」は敗戦国の悲哀で、堪え難きを耐え、忍び難きを偲び、改名したのでありますw
今なら正露丸をこっそり元の征露丸に変えても何も言われへんかも?知らんけどw
大阪まち歩き大学。大阪天満宮。天満まち歩き。吉備社。
ご存知、吉備真備公(695〜775)を祀る。日本の歴史で地方豪族出身の一学者から立身出世して、ついには位大臣を極めた者は近世以前では吉備真備公と菅原道真公(845〜903)の2人のみ。
菅原道真公は藤原氏の恨みを買い、謀略によって左遷となり、太宰府で横死するが吉備真備公はしぶとい。同じように藤原氏に睨まれ、疎まれ、太宰府に左遷させられるが苦労しながらものらりくらりとうまいこと立ち回り、ついには藤原仲麻呂の乱で功を挙げ(軍略家としての才能まである!)見事、中央政権に返り咲く。引き際も見事で地位にしがみつくこともなく老齢を理由に引退して穏やかな晩年であったという。
どう考えても菅原道真公よりも吉備真備公の方が賢い。聡い。大きい。知恵者である。すべての学生は菅原道真公をお参りしたあとはこちらの吉備真備社もちゃんと参りした方がよろしい。菅原道真公以上に霊験あらたかかも知れないw
大阪まち歩き大学。舎利寺まち歩き。法見寺。
日蓮宗の寺院ですが面白いのが若き頃の日蓮(当時は蓮長と名乗っていた)さんが磯長にあった聖徳太子廟へお参りする際に当地に立ち寄った…という伝承があること。それが縁起となって寺院ができたという。大阪市内で日蓮さんが訪れた寺というのは四天王寺以外、あんまり聞いたことがない。
四天王寺に立ち寄ったというのは日蓮さんの御書『妙法比丘尼御返事』の中にもちゃんと書かれている。
「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候し程に、一の不思議あり」
12歳(入寺した歳)、16歳(出家得度した歳)から32歳に至る20年間に鎌倉、京、比叡山、園城寺(三井寺)、高野山、四天王寺などいろんな国、いろんな寺を巡ってる時に一つの疑問(不思議)を抱いた…というような文意となる。
ちなみに日蓮さんが何の疑問を抱いたか?というと、いろんな寺にいったけどそこの僧侶たちは「謗法」ばかりをやっている。どうしてなのか?という疑問で、だから彼らは謗法の罪によって地獄に堕ちる…という話に展開していきます。
日蓮さんにとってみれば仏法とは法華経であり、それ以外の教えは謗法となる。特に当時は浄土信仰が盛んで、いろんな宗派が浄土信仰の影響を受けて、そのエッセンスを取り入れていた。それがアンチ浄土信仰の日蓮さんは許せなかった。要するに京、鎌倉、比叡山、高野山、三井寺、四天王寺の僧に対してダメ出ししてはりますw
そんな日蓮さんですが、聖徳太子の墓所である叡福寺に参籠したそうで、まぁ、太子こそは法華経を日本に齎した仏教者なんで太子に対しては流石の日蓮さんも厚く崇敬しておったらしい。
どこから日蓮さんがやってきて、叡福寺をお参りしたのかよくわからないが法見寺は平野川添い、平野街道にある。八軒家浜あたりから平野川、平野街道を経て平野郷経由で、さらに南に迎えば確かに叡福寺に至るわけで、そう考えると、この辺りを日蓮さんが訪れたというのも地理的にはあり得なくもない。
法見寺近くの舎利寺は大寺(こちらは聖徳太子、生野長者の開基という伝承)で、よく訪れているが、こちらのお寺はあまり触れることがない。しかし何の因果か在家法華教団の家に生まれてしまった陸奥賢は結構、このお寺さんが好きなのですよw