政治家というのは「代議士」といいまして。代議士というのは字義通り、「代わりに議会にでる人」のことをいいます。誰の代わりか?といえば、これは国民です。日本国民の有権者1億人で国会議事堂につめかけて話し合うなんてのは到底、ムリだから、代理人をたてて政治を行っている。代理人だから結局、民意が反映されない。これが近代民主主義の致命的な欠陥です。
しかし、いまはインターネットという便利なツールが登場してきましたから、有権者が1億人いようが10億人いようが、ネットにアクセスして法案を審議しようと思えば可能な時代となりました。審議サイトを設けて、そこに法案を並べて、みんなが読んで、掲示板でディスカッションして、最終的に「いいね!」ボタンを押すww 賛成が多ければ可決。反対が多ければ否決。本当の意味での直接民主主義=国民政治が、ついに可能になる。システムとしてそれは明日にでも構築可能なんですが、代議士は自分の失職を恐れてか、なかなか、そういうネット投票の整備、ネット国会の話は進んでないようです。しかし、インターネットの登場で、直接的な民意の問い方、意思表明が可能となったことで、もはや世の中の代議士=政治家は、実質的には存在理由、存在意義を失ってるんです。近代政治家が果たすべき最後の大仕事は、直接民主制への橋渡し。政治家から国民への大政奉還。それしかありません。
いま世界には230の国や地域はあるそうですが、どこの国、地域が、代議士制度を駆逐して、真の国民政治を実現するか?これ、実現できたところは人類史に名を刻みますよ。おそらく小さい国でしょうなぁ。ヨーロッパの小国かな?第3世界から出るかも知れません。実際にスウェーデンの「Demoex」やフィンランドの「Change2011」なんて運動、政党がすでに出てきてますから。
国という単位でなく、都市という単位で考えれば、もっと早いこと、直接民主制は実現するでしょう。それは、そんなに遠い日のことではないと思ってますが・・・。
天満八軒家浜より西を望む。大川と、おしてるや難波津の夕景と、高速ビル群と。まちを逍遥することで自分自身のアイデンティティを発見する。どうも人間存在は風土によって規定されていくものらしい。
「人間は異郷に生まれてくる。生きることは故郷を獲得することに他ならない」
Karl Ludwig Borne『断片と警句』
ぼくは大阪に生まれたから大阪人になったのではなく。大阪のまちを逍遥したことで大阪人に「なっていった」と思ってます。
来年の大河ドラマは平清盛。どうも日本史では清盛は嫌われ者ですが、あまりにも早すぎた天才とでもいいましょうか。日本史上でも稀に見る、突出した大英雄がじつは清盛です。なんせ彼は後白河法王(院政)と戦い、藤原家(摂関家、公家勢力)を倒し、東大寺の大仏(宗教権力)を焼き払いました。天皇と公家と宗教という三すくみの暗黒の中世時代を破壊して、武家社会の幕開けを切り開いた。
清盛は律令制、国群制、公地公民制に支配されるのではなく、自分の領地を所有して、そこを自分たちで治めるということを始めました。これは、それまでの権力の概念を覆します。どこそこの生まれ、母方が宮家といった血で収める政治や、仏罰が当たるぞ、神罰が下るぞ、といった迷信的な宗教的権威で政治をするのではなく、力で、富で、政治を行う。事実、清盛以降「一所懸命」の武士(源平)が誕生してきます。これはまさしく前近代の萌芽です。
また清盛は海がない京都を捨てて、海外進出しようと都を神戸・福原京に遷しました(治承4年・1180年)。日宋貿易を展開して富を得ようとしたんですな。
それ以前の国際交流といえば遣隋使や遣唐使です。それも菅原道真の建議(寛平6年・894年)以降は途絶え、平安中期以降の日本は鎖国体制でした。また遣隋・遣唐使は律令、経典などを大陸から日本に伝えるためのものでしたが、清盛は史上初めて富を得るために大陸に船団を送り込みました。日本史上で初めて「外交」ではなくて「貿易」を始めた男ともいえます。250年以上に渡る鎖国体制を打ち破って貿易を始め、力を、巨万の富を蓄えて、天下を牛耳った。
清盛はそのために自分の資本を擲って人工島「経が島」(兵庫津)まで開拓しています。このとき現代に繋がる国際貿易港・神戸の源流のようなものが芽生えたといえますし、その精神の有り様、ベクトルとして、日本史上初めての神戸っ子第一号は、まさしく清盛でしょう。
平家を倒した源氏は鎌倉に幕府を置きました。京都よりさらに東。大陸ははるか彼方。頼朝という男は一国二政府(京都と鎌倉)といったユニークな政治体制を作り上げましたが、どこか暗くて閉鎖的です。不思議なことに源氏の子孫を自称した家康にもそれがあります。また平家の子孫を自称した信長は、どこか清盛的です。ぼくは頼朝よりも清盛の開明性に強く惹かれます。源氏ではなくて平家政権がもう少し長く続いていたら、日本は来るべき大航海時代への足掛かりを掴んでいたかも知れません。平家、神戸、福原京の夢、可能性。そこが壇ノ浦で滅びました。それが惜しい。あまりに、惜しい。
ちなみに清盛は高熱の謎の奇病で亡くなっていますが、これは大陸性の伝染病=マラリアではないか?という説があるとか。これがもし本当であれば、清盛は昇殿から降りて、直に大陸の人間や異民族と触れあって交流したんでしょう。その好奇心、知的探求心が仇となって、不治の病に繋がった。歴史は因果なものです。
画像は神戸市兵庫区の荒田八幡神社にある「福原遷都八百年記念碑」。
大阪城の鎮守・玉造稲荷神社にて。秀頼公の銅像が出来てました。いつのまに?驚いたww
太閤秀吉は無類の女好き(戦国時代は男色も盛んだったんですが秀吉はそっちの方のエピソードは皆無。一度、美形男子をお世話役にしたら「お前に姉妹はいないか?」と質問してまったく手をつけなかったとかw)で、色んな女性に手を出しまくってますが、明確に懐妊したのは淀殿だけ。明らかに怪しい。「もしかして秀頼は秀吉の子ではないのでは?」というのは当時から噂されていたことでした。また秀頼は2メートル近い大男で、禿鼠、猿みたいな秀吉とはまるで似てなかった。では誰の子か?諸説ありますが、淀殿の幼馴染の大野治長あたりが可能性として考えられるとか。真相は不明ですが。
ただただ哀れなのは、おそらくは秀頼は実子ではないと知りながらも、よろしく後見をお願いすると家康以下の五大老の手を取り、泣く泣く頼み込んだという病床の秀吉。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花のことも 夢のまた夢」。夏の陣による豊臣家滅亡、大坂城炎上を予感していたかのような辞世の句が、これまた儚い。そこに天下人の気概はなく、人の子の切なさのみが残る。じつは大阪人が好きなのは、太閤秀吉のサクセスストーリーとか「成り上がり」ではなく、この「成り下がり」だとぼくは思ってます。判官贔屓。
堺の某地域新聞で堺のまちを紹介する連載を担当してるんですが、読者アンケート結果ではえらく好評だとか。嬉しい話ですが、これはみんな自分のまちを知らなさすぎる、ということの証左でもあります。そう考えると複雑ですな。
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新しい高層マンションの住人たちが、古くからある神社の祭礼の地車囃子の「夜練習がうるさい!」とクレームを入れる。マンションは住民の数も多く、民主主義では数が多いほうが強い。神社は対応に苦慮して、結局、マンションに頭を下げて謝罪する・・・こういう問題が日本全国どこでも展開してますが、これはそのまち、土地、コミュニティの文化、歴史、伝統などを、なんら勘案しようとしない「横の民主主義の悪弊」です。
この「横の民主主義」に対して、まち、土地、コミュニティが含有している文化、歴史、伝統などを・・・これは即ち、過去人=我々の祖先、先達、先人、死者たちの物語です・・・を尊重しようとすることを「縦の民主主義」といいます。
過去人たちはモノをいったり、投票したりすることはできませんが、過去人たちの思いや願いを推察して、現在進行系の問題、懸案を考えようとする。これは過去人のみならず、未来人(子孫、後輩、後進)への義務、責務を、深く考察しようという態度ともいえます。「空間的な民主主義」と「時間的な民主主義」ともいえますし、イギリスの小説家G・K・チェスタトンはこれを「生者の民主主義」と「死者の民主主義」と提唱してます。
現代日本民主主義は「横」「生者」「空間」ばかり尊重して、まるで「縦」「死者」「時間」を尊重しようとしない。「国債1000兆円を後代にツケとして残す」「数万年に渡って放射能汚染された土地を作ってしまう」なんて問題は、生者の奢り、傲慢以外のなにものでもなく。「横の民主主義」だけではなく、「縦の民主主義」を考えること。「縦」と「横」のバランス、調整、帳尻合せが、今後の我々の政治、まちづくりなどの緊急課題です。そのためにも、我々は「死者の物語」を、まち、土地、コミュニティの文化、歴史、伝統を、もっともっと深く知らなければいけない。(そのためのコミュニティ・ツーリズム=まち歩き=大阪あそ歩です。と声を大にして宣伝しておきます。笑)
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「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない」
G・K・チェスタトン『正統とは何か?』
1972年、デンマークのエネルギー自給率はわずか2%でした。それが1973年のオイルショックで国民が目覚め、原子力から自然エネルギーを導入。2000年にはエネルギー自給率139%に。
http://windpowerinfo.blog.shinobi.jp/Entry/99/
日本は舵取りを間違えました。1973年のオイルショックから、何も学ばなかった。でも今からでも遅くはないです。30年ほどかかるかもしれませんが、デンマークのように変えていけるはず。
天下茶屋は秀吉と利休が出会って、よく天下国家を論じたという茶屋です。紀州街道沿いにあります。和歌山まで通じているから現在は紀州街道と呼ばれますが、もとは住吉街道(住吉大社)であり、また堺街道(堺に通じている)でもありました。
面白いのが大坂城と堺旧市のちょうど中間地点に、「天下茶屋」が位置しているということ。同時刻に大坂城を出発した秀吉と、堺を出発した利休が歩いていくと、ちょうど、この真ん中の天下茶屋で出会うんですな。
秀吉は天下を征した武家政権の代表であり、利休は南蛮貿易を牛耳って、鉄砲を大量生産する自由自治都市・堺(商家政権)の代表。秀吉はおいそれと利休を大坂城に呼びつけるなんてことはできなかったし、利休も天下人となった太閤秀吉の命令を無下に断れる立場ではなかった。両者のプライド、駆け引きの折衷が、大坂と堺の中間地点の天下茶屋という場やったんですな。
大坂と堺という都市の中間。こういう場はなかなか珍しい。ぼくは大阪人であり、堺人でもありますから、もうちょっと、天下茶屋をクローズアップしたいなぁ、と昔から考えてます。例えば、天下茶屋で大茶会を開くとか。いずれ、企画しますww
日本の都市をつまらない、くだらないものにしている要因のひとつが、都市を機能別に、効率よく、ゾーニングしようとする考え方です。それは平面的、二次元的、限定的な思考で、ヘーゲルの目的論的世界観に毒された構成です。人間の精神は、もっと自由奔放、大らか、テキトー、矛盾相克であって、都市にも「創造的進化」が必要なんです。「カオス」「遊び」「アート」「余白」「トマソン」といった要素が都市には不可欠なんですわ。
要するに都市とは、われわれと同じように、生成流転していくものということです。生まれ、成長し、衰え、滅び、また生まれる。完全完璧な都市など、この世にはなく、常に都市は未完成であり、輪廻のように、その有様を変容させていく。固定化しようとしてしまった段階で、その都市は都市ではありません。それは巨大なコンクリートの塊、空虚な墓石に過ぎない。都市に必要なのは、やわらかさ、かろやかさ、しなやかさ。つまり、多様性。
だから、ぼくが考える理想のまち歩きとは、都市を空間的(言い換えると「もの的」)な場として捉えるのではなく、ベリクソンが提唱する時間的(純粋持続)な場として捉えようという試みです。だから、まち歩きは「探訪」ではなく、「逍遥」なんです。そうすることで、そこに「創造的進化」が生まれてくる。
もっと都市に「生の飛躍」を。élan vital!
拍手喝采!
「ヴェニスで時を過ごしたことがある人なら、自動車のない都市の静けさがどれほど心の安らぎをもたらすかを知っている。耳に聞こえてくるのは、人々の足音だけなのだ。反動主義者と呼ばれる危険を冒してでも、私は叫びたい。「自動車を打倒せよ!」と。」
ドナルド・キーン『私と20世紀のクロニクル』より
http://www.amazon.co.jp/dp/4120038459