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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

阿良礼走

2011 年 8 月 14 日 Comments off

まちを歩くことは、まちの土霊を呼び起こします。神道では「あらればしり」(阿良礼走)というのですが。大地を歩いて、踏みしめて、ときには踊って、土地の霊を呼び起こして鎮魂する。だからまち歩きは「まち起し」でありますが、また「まち鎮め」でもあります。「まち起し」をする人はようさんいますが「まち鎮め」の重要性は誰もいわない。ほんまは「まち起し」と「まち鎮め」がワンセットにならないと「まちづくり」は成功しないんです。少なくとも、ぼくはそういう思いでまち歩きをやってます。


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成吉思汗の墓

2011 年 8 月 11 日 Comments off

清浄な良水は神水として崇められ、讃えられますが、不浄な悪水は忌避されます。日本人の、古代神道の、ケガレの思想はそういうところからきていますが、それが徹底しているのが、じつはモンゴルだったりします。

というのもモンゴル人は湿地帯を徹底して嫌うんですな。湿地帯は細菌が多い。病原菌が多い。だから近づかない。沈殿し、滞留することを、彼らは好まない。一箇所に留まらない。澱まない。馬に乗って、移動式の居住(ゲル)で、草原を転々と移動していく。ゲルにはなんと人間の生活スタイルの基本であるトイレに類する装置すらないそうです。大小をしたらそこは既に汚れる。もう次に移動していく。(ちなみに人糞は、牧畜犬が食べます。だから結局、なにも汚れない)

こうして彼らは遊牧民という生活スタイルを完成させました。彼らが生活して立ち去ったあと、大地には、なにも残らない。じつに綺麗なもんやそうです。残さないこと。汚さないことを徹底した生き方。

モンゴルといえば成吉思汗。かれもまた、巨大な中華文明の宮殿を手に入れても、そこに住もうとも思わなかったとか。政治は致し方なく宮殿で行い、夜にはゲルに帰っていったんですな。

だから墓すら不明です。世界最大の帝国を築き上げた英雄の墓が判らない!じつに摩訶不思議な面妖な話です。痕跡がない。わずか800年前の遺跡がわからない。最初からないんかも知れませんな。作らなかった。

世界中の考古学者が成吉思汗の墓を探し出そうと努力しているんですが、愚かしい行為に思えます。彼らは草原に死ぬから、墓なんかいらないんでしょう。生きてきた痕跡を残さない。ただ流れていく。草原が墓です。究極のエコロジカルな生き方だといえるし、無の哲学の実践者ともいえます。

モンゴルは資本主義国家の基準では、発展途上国に分類されます。どこが発展途上国なものか。もうすでに彼らは、彼らなりの完成された哲学、社会、文明を作り上げてますわ。彼らに資本主義の、近代の毒を盛る必要はありません。むしろ混迷する世界こそがモンゴル的方法論を見習うべきでしょう。

なにが大切か。正解か。それを気付かせてくれる。教えてくれる、可能性の国だとぼくは思ってます。


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新撰組

2011 年 8 月 11 日 Comments off

江戸幕府は大都市や戦略上、重要な都市を天領にしました。大坂も堺も長崎も天領なんですが、面白いのが田舎の、武蔵国多摩地区が天領であったこと。なんでおもろいか?というと、この多摩から、あの新撰組が出てくる。近藤勇も土方歳三も多摩の人なんですな。

武蔵国は江戸に近いので、大きい譜代はおきません。旗本、御家人といった小さい侍集団ばっかりが統治して、しかも分割に継ぐ分割、飛び地に次ぐ飛び地で、わけわからん土地やったんですな。統治しようにもややこしいので、天領を作って、幕府役人も少なくして、農民たちの自治にまかされた。すると農民たちのあいだに剣術がはやりました。武士の剣術ではない、農民の剣術。

武士いうんは、面子を大事にしますが、農民いうんは、痛いのがいやww とにかく、死にたくない。だから、非常に実戦的で、姑息で、いきなり足元を狙うような「卑怯な剣術」をやったんですな。それが新撰組を幕末最強の暗殺集団にしていったわけです。

武士いうても大抵は、主君として譜代大名がいて、将軍は、さらにその上の存在。忠誠するのは大名であって、将軍やなかった。戊辰戦争で、ほとんどの幕府軍は、あっというまに散り散りに負けてます。将軍のために戦えいうても聞かんかった。給料くれるんは、大名ですからな。その辺のことをようくわかってたんが、勝海舟とか大村益次郎。幕僚の海舟はそんなもんあんた幕府軍が官軍なんかに勝てますかいな(なぜか大坂弁)といって、官軍の大村益次郎はせいぜい2000の兵士でも幕府軍なんかに負けるわけがない。絶対に勝つと言い放った。

その点、新撰組は必死になって幕府のために、滅亡するまで戦ったわけですが、これは彼らが天領の民であったからといえます。農民ですけども、天領だから「我々は幕府直属の農民(武士)だ」というような意識が強くあったんですな。そういう意味では、非常に哀れな農民たちでした。

天領はおもろいです。というか、「自治が強い土地」は面白いんです。コミュニティに個性が出てくるから。おもろいまち歩きコースができるとこは、大体、そういう土地柄です。


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見立て

2011 年 8 月 10 日 Comments off

ミニマムな、シンプルな、ライフを得ようと思うなら、そこには「見立て」が必要です。

一握の砂を須弥山と見立て
苔石と枯庭を九山八海と見立てるような。

要するに利休の心眼。
昔の日本人は、それが自然(じねん)にできていたんですが。

生は質素に。
心は豊穣に。


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長崎原爆投下日

2011 年 8 月 9 日 Comments off

大阪あそ歩は長崎さるくに影響されています。長崎が「まち歩き」という手段を採用したのは実に先進的なことで、長崎人をぼくはパイオニアとして、深く尊敬してます。

「歩く」という漢字は「少し止まる」と書きます。まち歩きとは、まちを歩いて(少し止まって)考える。思う。話す。感じる。そういう時間をもつことです。これがいかに大切なことか。まちは、ぼくらの人生、ライフそのものなんですから。ところが、大部分の日本人は、まだそのことにまったく気付いていない。

長崎は、66年前の今日に、まちをロストしました。一瞬のうちに、なにもかもが蒸発して消えてなくなるという、信じられない、痛ましい体験をしました。まちとはなにか?を考えたでしょうし、誰よりも、まちの大切さを知っている。長崎さるくは、そういうまちの物語から生まれてきたと、ぼくは思ってます。

今日は長崎原爆投下日。長崎のまちを歩けませんが、大阪から、静かに、祈りたいと思ってます。


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イーハトーブの遠景

2011 年 7 月 31 日 Comments off

東北は北上川が抜群に面白い。縄文文化の南進と、弥生文化の北進の衝突地域。その醸成が平泉の黄金信仰、宮沢賢治のイーハトーブの遠景となる。土地の力ですなぁ。


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宮沢賢治『イギリス海岸』

2011 年 7 月 31 日 Comments off

「その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰もそれを見てはゐなかったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧し潰され、埋められ、まもなく又水が被さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません」

宮沢賢治『イギリス海岸』

人間が一人としてこの世に存在していない。まるで世界の終末のような北上川の光景に思いを馳せる。まさに「石っこ賢さん」の面目躍如。この人は人も石も木も水も等価に感じる稀有な詩人でした。ちなみに石巻から北進する北上川が花巻に至ると、そこで猿ヶ石川と合流しますが、この猿ヶ石川の先にあるのが遠野。北上川(宮沢賢治、イーハトーブ)と猿ヶ石川(佐々木喜善、遠野物語)の分岐にあるのがイギリス海岸(賢治はまたこの川のことを「修羅の渚」とも呼んだとか)とすると、これまた面白い。

ちなみに猿ヶ石川(花巻~遠野)に沿って建設されたのが、あの「岩手軽便鉄道」で、ご存知『銀河鉄道の夜』のモデルとなった路線です。

銀河鉄道は「イーハトーブ(イギリス海岸)」から「遠野(カッパ淵、おしらさま、座敷わらし)」への蒸気機関車だったというわけです。現実は小説より奇なりww


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山女庵

2011 年 7 月 31 日 Comments off

天然鳥獣料理(ジビエ)の達人の店『山女庵』さんは、ぜんぶ自分で食料を調達して、ぜんぶ自分で調理します。シカ、すっぽん、きのこ、山菜、うなぎ、川魚など、ぜんぶ自分で仕留める。完全予約制で、予約が入ると、「ほないってきます」と山や川に篭るんです。

イノシシなら飛騨や岐阜の山に入って1週間。猟銃でしとめて、その場でさばいて、川の水で血抜きをする。それを麓にまで担いでボックスにいれて、車で大阪・天下茶屋へ。そしてお客さんにお出しする。ものすごい鮮度で、ほんまにこれがイノシシか?というぐらい、信じられないぐらい、やわらかく、甘く、美味しい。山の味がする。大阪の隠れた名店です。


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女夫善哉

2011 年 7 月 31 日 Comments off

『夫婦善哉』の舞台となった法善寺のぜんざい屋の「夫婦善哉」ですが、かつては「めをとぜんざい」と書いて、また「女夫ぜんざい」とも書きました。

「夫婦」と「女夫」。これ、意味がまったく違います。「夫婦」は夫婦そのまま。「女夫」は女は一人身の独身の女(芸妓、遊女)で、夫は妻や子がある身分の男のことです。

つまり「女夫善哉」は、そういう店やったんですな。千日前でカラクリ芝居やお化け屋敷を見た船場の旦那と馴染みの芸妓が、酒にも厭いて、夜も暮れて、ひっそりと法善寺境内の角の、赤いちょうちん「めをとぜんざい」に引かれて中に入り、静かにぜんさいを食べる。男と女が「さて、これからどこいこか?」と無言で思案する場所。決して、断じて、夫婦でいくような明るいとこではなかった。

オダサクの『夫婦善哉』も、柳吉は妻がいて、蝶子は愛嬌のある芸妓さんの物語。「夫婦」でない、昔ながらの「女夫」の物語なんですな。

女夫が、夫婦のように、生きて、暮らそうとする。その矛盾。そこがオダサク『夫婦善哉』の醍醐味、「笑い」と「哀しみ」です。


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この土(くに)のかたち

2011 年 7 月 30 日 Comments off

大阪が産んだ知の巨人の系譜。小松左京(1931)より一世代ほど前なのが司馬遼太郎(1923)。

司馬さんはエッセイで「この国のかたち」を書きましたが、これ、もともとは「この土(くに)のかたち」だったとか。「土」と書いて「くに」と読ませる。それは少々、ムリがあるのでは?という編集長の意見で没ったんですな。

これ、しかし、ぼくは編集の大失敗だったと思ってます。「土」と「国」ではまったく意味が変わってきますから。「この土のかたち」から「この国のかたち」となってから、明らかに司馬さんのエッセイは失速して、狭量な、凡百の日本論に堕してしまいました。

司馬さんはほんとは「NationではなくStateでもない。Landとしての日本を描きたい」といっていたんです。「国」ではない。「土」の大切さ。われわれ人間は、生命の本然として、「土」を離れては一瞬たりとも、生きていけない。それを司馬さんは警鐘しようとした。

ところが本を売らんがためのタイトル変更に、編集の商業主義に、負けてしまった。こういうとこが司馬さんのアカンとこです。だからでこそ司馬さんは国民的大作家と呼ばれるほど売れたともいえますが…歯がゆい。

実際に司馬さんの警鐘は現実のリスクと化しました。「国」の方針で、放射能で、われわれの命そのものの、「土」を汚してしまった。それは、絶対に、やってはいけないことなんです。百代の過失。後世に言い訳が立たないことをしてしまった。

なんでこんなことになってしまったのか?それは、われわれが「土」を蔑ろにしてきたからです。「国」ではなく、「土」を語らねばならない。国家ではなく、風土を。われわれのアイデンティティは、どこにあるのか?それをロストした民族に、未来はないです。


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