現在「大阪あそ歩’11春」のアンケート、予約率、参加率などを集計中。また予約率が凄まじく、100パーセントを超えやそうです。大体、あそ歩のまち歩きは1回につき定員15名なんですが申し込みが16名、17名、18名と来て「キャンセル待ち」の状態になります。すごい人気となると「キャンセル待ち10名」なんてコースも出てくる。それで予約率が100パーセントを超えてしまう・・・というわけです。いっぺん参加すると、はまってしまう人もようさんいて、そのリピーター率も凄まじい。本当に感謝です。
韓国は、あまり知られてませんが、全国民のおよそ5分の1がソウル市民で、およそ半分が首都圏在住という状態だとか。日本以上に首都圏一極集中が進んでいる国家で、東京ばりにソウルの状況も、やばい。
釜山観光協会のEさんは、しみじみと、いいました。
「ソウルには本当の韓国はなくなってしまった。国策で作られた都市だから。しかし釜山には本当の韓国が残っている。それが我々の誇りだ」
NYや上海や釜山のまちを歩いて思ったことは町中、ゴミだらけ。いかがわしい勧誘チラシが乱舞して、路上には不法の屋台が出て、猥雑で、汚い。しかし、やたらと酒と会話と歌と音楽が溢れ、バイタリティに満ち満ちて、人間はすこぶる暖かかった。押し付けがましいほどに(笑)
改めて「まちとはどうあるべきか?」 そう考えるキッカケになりました。どこにいっても、チリひとつ落ちてない清潔な都市とやらが、人間の血が通った、真実の生活の場として、本当に正しい姿なのかどうか?
NYの肝っ玉かあちゃんのジェイン・ジェイコブズは「スラム街のどこが悪い!」と叫んで、清濁併せ呑む都市の多様性を訴えました。実際に江戸時代の大坂には、天下の富が集積する船場もあれば、天下一の花町の新町もあれば、死刑場の千日前もあれば、スラム街の長町もありました。都市の器(度量)の大きさでいえば、いまの大阪は矮小で狭量です。どこのまちも画一化されて、ゾーニングされて、個性を失って、面白くない。それでも日本の他都市に比べたら大阪は随分とマシな方だと思ってますが…。
大阪は大坂に負けている。じつに残念な事実。これからの大阪に必要なのは、まちの多様性(これは可能性と同義語ですから)を復活させること。そのために、ぼくは仕事します。
小西来山之墓。小西来山は、元禄期の俳人です。「お奉行の名さえ覚えず年暮れぬ」「涼しさに四ツ橋を四つ渡りけり」などの句が有名です。
最近、ぼくは来山の生涯に興味を覚えていて、この人、住まいは当時、日本最大のスラム街だった長町(現・日本橋)の果て。墓も長町近くの海泉寺にあります。バブル経済に狂喜乱舞していた元禄大坂へのアンチテーゼを貫いた人物だったようです。
ちなみに海泉寺は、新世界で行われた第5回内国勧業博覧会の「人類館」で見世物になったアイヌ人たちの宿泊所として利用されたことがあったようです。見世物になった琉球人、清国人は「見世物にされた!」と激怒しましたが、アイヌ人たちは「ええ賃金になる」と平気だったとか(そういう日記が残っているそうです)。
教科書にも出てきませんし、日本人の多くは知りませんが、大阪のまちの人は、「人類館事件」を決して忘れていません。
かつて大阪七墓のひとつ「葭原墓地」(天満砂洲。いまの天神橋筋六丁目界隈です)にあった「沖向地蔵尊」。古代、中世は、ここから西の海に沈む夕陽を拝むことが出来たんでしょう。人々はこぞって集い、その光景に涙した。奈良や京都には海がなく、江戸は海は東にあり、西にあるのは山(富士=不死)でしたから。中世日本の歌人は、その大阪の風景を「西方浄土」と呼びました。
契りあれば
難波の里に
宿りきて
波の入り日を
拝みつるかな
(藤原家隆)
太陽と海。その美しさは洋の東西を問いません。普遍的な美なんでしょう。実際に仏蘭西の天才詩人は、それを「永遠」と叫んでいます。
「見つけたぞ!」
「何を?」
「永遠を!それは太陽に溶ける海」
(アルチュール・ランボー)
じつは大阪は、太陽信仰の聖地なんです。海上に浮かぶ夕日に彩られた宗教都市。その敬虔な、素朴な、民衆の祈りを、復活させたい。まち歩きは、そんな願いを込めながら、やってます。
祭とイベントの違いは「祈り」の有無にあると思ってます。祭は世代を越えて受け継がれていきますが、イベントは刹那に終わる。長く続く、本当のまちづくりをしようと思うなら、イベント的手法は失敗のもとで、祭的手法を取ることです。世の中には経済効率一辺倒の、金儲け主義のまちづくりイベントが蔓延っています。いずれ淘汰されると思ってますが。そこに祈りがあるか?神が宿るか?ぼくは、これからも、そこに注視していきます。
もうひとつ。世の中には祭を知らない人があまりにも多すぎます。神輿、地車、枕、山車を担いだことも、曳いたこともない。カメラを担いで祭を撮影しても、なんの意味もありません。それは祭の傍観者に過ぎないですから。祭の当事者にならないと。祭を知らないから、まちの背景や文化や歴史や流れが、生きているまちの血肉が、体感としてわからない。祭をやると、まちの認識が、世界の見え方が変わります。氏子=神の子になったことがない。至極、残念なことです。
政治家というのは「代議士」といいまして。代議士というのは字義通り、「代わりに議会にでる人」のことをいいます。誰の代わりか?といえば、これは国民です。日本国民の有権者1億人で国会議事堂につめかけて話し合うなんてのは到底、ムリだから、代理人をたてて政治を行っている。代理人だから結局、民意が反映されない。これが近代民主主義の致命的な欠陥です。
しかし、いまはインターネットという便利なツールが登場してきましたから、有権者が1億人いようが10億人いようが、ネットにアクセスして法案を審議しようと思えば可能な時代となりました。審議サイトを設けて、そこに法案を並べて、みんなが読んで、掲示板でディスカッションして、最終的に「いいね!」ボタンを押す(笑)賛成が多ければ可決。反対が多ければ否決。本当の意味での直接民主主義=国民政治が、ついに可能になる。システムとしてそれは明日にでも構築可能なんですが、代議士は自分の失職を恐れてか、なかなか、そういうネット投票の整備、ネット国会の話は進んでないようです。しかし、インターネットの登場で、直接的な民意の問い方、意思表明が可能となったことで、もはや世の中の代議士=政治家は、実質的には存在理由、存在意義を失ってるんです。近代政治家が果たすべき最後の大仕事は、直接民主制への橋渡し。政治家から国民への大政奉還。それしかありません。
いま世界には230の国や地域はあるそうですが、どこの国、地域が、代議士制度を駆逐して、真の国民政治を実現するか?これ、実現できたところは人類史に名を刻みますよ。おそらく小さい国でしょうなぁ。ヨーロッパの小国かな?第3世界から出るかも知れません。実際にスウェーデンの「Demoex」やフィンランドの「Change2011」なんて運動、政党がすでに出てきてますから。
国という単位でなく、都市という単位で考えれば、もっと早いこと、直接民主制は実現するでしょう。それは、そんなに遠い日のことではないと思ってますが…。日本でもそういう運動起きないかな?