陸奥家ファミリーヒストリー。国立国会図書館の『職員録』を調査して曽祖父・陸奥利宗の大蔵省時代の経歴が見えてきました。明治35年に採用されたようで以下のように転々と各地の専売局を転々として勤務しています。
明治35年(1902)徳島県三好郡池田村・池田専売局
明治36年(1903)・明治37年(1904)鹿児島・出水市上出水村・出水専売局
明治38年(1905)~明治41年(1908)鹿児島市・鹿児島煙草製造所
明治42年(1909)東京市京橋区銀座三丁目・東京第一製造所
明治43年(1910)茨城県水戸市・水戸専売局
明治44年(1911)~大正2年(1913)北海道函館区・函館専売局
曽祖父は、このあいだに鹿児島で結婚し、僕の祖父である文夫(1909年生まれ)は東京・銀座第一製造所勤務時代に生まれている。実際に祖父は四谷区で出生届を出されているので、当時は利宗と文夫は四谷あたりに住んでいたようです。四谷から銀座まで出勤していたわけですな。
戸籍だけではわからなかったですが『職員録』を調べて判明して意外だったのは利宗は徳島・三好、出水市、水戸市などでも勤務していた時代があったということ。最後は函館で勤務し、東京にやってきて、高輪・證誠寺~大井町あたりに住むようですが、実はこの2回目の東京時代(大正3年・1914年~大正6年・1917年)はなぜか大蔵省職員録には利宗の名前が見当たらない。
利宗は大蔵省を辞めたのか?それともどこかに出向したのか?戸籍から東京に住んでいたことは確かですが、そのあいだの仕事、経歴が不明です。その後、『職員録』によれば、いきなり大正7年(1918)になって宇治山田市の書記として登場する。以後、宇治山田市の主事まで務めて、しかし、これも昭和2年(1927)までしか記録がない。
1902〜1913 大蔵省時代(12年)
1914〜1917 ???
1918〜1927 宇治山田時代(10年)
1927年時点で利宗は48歳。宇治山田市役所を辞めてからも何らかの仕事をしていたと思われますが、よくわからない。その後の記録では昭和17年(1942)の『伊勢年鑑』で吹上町の町内会で副会長をやっていた記録を発見したので、63歳までは宇治山田市で生存していたことが確認できてます。
宇治山田は太平洋戦争で米軍の空襲で被害を受けています。伊勢神宮(外宮)があったので宇治山田市は「神都」なんて自称し、それがゆえに米軍に徹底して狙われました。戦災地図をみても吹上町(宇治山田駅の駅前で一等地でした)は焼失エリアに含まれているようです。利宗の家もおそらくは空襲で燃えてしまったでしょう。もしかしたら利宗自身も空襲で死んでいる可能性もあります。※祖父、父からは曽祖父が空襲で死んだというような話は聞いたことがないですが…。詳細がわからない。
いずれにせよ転々とした人生であったし、おそらく利宗の墓は宇治山田にあると思われます。生まれ故郷(高知県吾川郡池川村出身)は宇治山田からはちと遠い。やはり一度、宇治山田にいくしかない。
※画像は宇治山田空襲被害地図。
※1914〜1917は第一次世界大戦と被る。兵役ではないと思いますが…。わからない…。
陸奥家ファミリーヒストリー。父が11月に亡くなり、遺品として陸奥家の戸籍があり、それが僕のものとなったので、父も生前に知りたがっていた曽祖父(父にとっては祖父)の痕跡を調べています。
いろいろとリサーチすると曽祖父・利宗は大蔵省の官僚であったことがわかり、日本全国各地を転々としていて大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」に住んでいた。古地図を調べると浄土真宗本願寺派の證誠寺の敷地であったようで、この寺院は現在もそのまま当地にあるので訪ねてみました。
突然の訪問でしたが、ご住職がいらっしゃったので、少しお話を聞くことが出来ました。土岐さんという方で、先祖は美濃の豪族で有名な土岐氏(清和源氏系)の後裔とか。寺の開祖は親鸞聖人との邂逅から浄土真宗の僧侶となり、代々、子孫が法灯を受け継ぎ、現在のご住職で第三十世になられるそうです。
「大正時代に曽祖父が住んでいた番地がこちらになりまして…」とお伝えすると、かつて寺院の敷地を国に寄進して、家が何軒か建っていたとか。戦後は国に寄進した敷地をまた寺側が買い取ったらしく、いまは駐車場になっている場所だそうです。家が一軒だけ残っていて(屋根の感じは古く戦前の建物かも?もしかしたらこの家が利宗が住んでいた家かも知れない。詳細はわからないですが…)、遠巻きながら、かつての家が建っていた場所を撮影させて頂きました。画像の2枚目がそれで、利宗が住んでいたのは、おそらくはこの辺りでしょう。
残念ながら東京大空襲で寺院は焼失し、現在の本堂なども戦後の再建で、昔の資料などはあまり残っていないとか。縁起書などもないということでしたが『住職継職奉告法要』を一部頂きました。本来は門徒さんに配るもので、中には寺院の縁起などが書かれている貴重なものです。特別なご配慮に深く感謝いたします。ありがとうございました。
結局のところ、利宗がどういう経緯で、高輪に住んだのか?はいまいちわからないのですが、寺の敷地ですから、日夜、お参りしたことでしょう。僕も本堂をお参りして阿弥陀さんを合掌礼拝させて頂きました。南無阿弥陀仏。
陸奥家ファミリーヒストリー。戸籍によると曽祖父・陸奥利宗は大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」にいたが大正5年(1916)3月には「東京府荏原郡大井町418番地」に移転したことがわかっている。そこで三女・日出子の出生届を出している。
古地図で調べると現在の「東京都品川区東大井町5丁目」あたり。古地図では「鉛筆工場」とあるのが現在の三菱鉛筆東京本社で、また「伊達邸」と記載されているのが現在の大井公園あたりらしい。「見晴らし通り」という道路に面しているところで、かつては海も見えて眺望が良かったようだ。古地図によると利宗が住んでいた418番地の前は「浅井邸」「加藤邸」「沖邸」といった個人名が数多く並んでいる。資産家、豪邸などが多かったのか?
大井町は有名人では伊藤博文が住んでいた。伊藤博文は明治42年(1909)にハルビン駅で安重根に暗殺され、国葬後、大井町に墓が作られた。現在も同地に墓がある。利宗もお参りにいったかも知れない。
大井町はじつは坂口安吾も一時期、住んでいた。大正14年(1925)2月のことで、安吾が住んだのは「大井町字元芝849」。当時、安吾は豊山中学校を卒業して下北沢分教場(現・代沢小学校)に代用教員として働いていた。『風と光と二十の私と』にそのへんのことが詳しく記載されている。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42615_21291.html
利宗が住んだ「418番地」と安吾の「849番地」は、現在は共に東大井町5丁目で、グーグルで検索したら約600メートルしか違わない。徒歩約9分と出た。めちゃくちゃご近所さんである。利宗は1916年。安吾は1925年で時代は少し違うが。最寄り駅は大井町駅で、同じ駅を利用し、同じ道を歩いていたに違いない。不思議な感じや。
大井町もまた歩いてみたい。
陸奥家ファミリーヒストリー。引き続き、ぼちぼち、リサーチしております。それで昭和17年(1942)の『伊勢年鑑』で宇治山田市の「吹上町松原」町内会の副会長に曽祖父・陸奥利宗の名前を発見。
利宗は明治12年(1879)生まれなので、当時63歳。さすがに仕事は辞めていただろう。社会活動として町内会副会長をやっていたと思われる。この1942年は祖父・文夫は33歳。そして僕の父・信一が0歳で生まれてます。父・信一が誕生した時に、曽祖父・利宗は、そうか。町内会長の副会長をやっていたか…。
「町内会」というのは実は大政翼賛会が仕掛けたもので、1940年に町内会組織を作るということが国の政策として定められた。要は戦争協力組織ということですな。この町内会の下に「隣組」が作られ、回覧板などで戦争協力が呼びかけられた。隣人が怪しい行動、スパイ活動をしていたら密告なんかも奨励された。
時代が時代とはいえ、曽祖父・利宗も、町内会の副会長として、大政翼賛体制を支持し、そういう活動をやっていたということでしょう。元・大蔵省官僚、元・宇治山田市の行政マンなら当然といえば当然かも知れませんが。
この資料でわかったのは、利宗は歳も歳だろうし、おそらく宇治山田市で亡くなっているだろうということ。そして住んでいたエリアも絞りこむことができました。宇治山田市吹上町松原。現在の伊勢市吹上1丁目、2丁目あたりです。利宗の墓があるとしたら、この近隣の寺社、墓地ではないか?と推測できます。
父の遺品で陸奥家の戸籍が多数あり、曽祖父・陸奥利宗のことを調べています。
あちらこちらを転々としているので、もしかして官僚では?と推察。国立国会図書館のデジタルアーカイブから『職員録』を調べたらビンゴ!で、利宗は若い頃は大蔵省の官僚(明治35・1902~大正2年・1913)で、その後、宇治山田市で書記、主事(大正7・1918~昭和2・1927)を務めたことがわかりました。しかし、その後の経歴が、いまいち、よくわからない。
引き続き、国立国会図書館のデジタルアーカイブで大蔵省にマトを絞って調べていたら、偶然にも利宗の弟の陸奥巌雄の名前を発見しました。昭和6年(1931)の大蔵省『専売局職員録(附大蔵省関係高等官)』の名簿に書記として記載されていた。よく見たら「従七勲八(従七位、勲八等)」とある。叙勲されとるがな。
利宗の弟・巌雄の存在は戸籍で見て知っていましたが、経歴は一切不詳でした。まさか兄弟で大蔵省の官僚をやっていたとは…。
昭和6年頃に巌雄が務めていたのは東京・淀橋専売局。新宿の西です。いまの西口ロータリーあたりとか。何も痕跡は残ってないらしい。
巌雄のその後の経歴もよくわかりません。ご子孫がいるのかどうかすら不明。官暦は国立国会図書館にいけばわかるんでしょうが…。
父・信一の遺品整理。陸奥家の戸籍を調べていると曽祖父・陸奥利宗の動向が気になって、いろいろと調査中。戸籍から高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田…と目紛しい人生で「もしかして官僚では?」と推測して『職員録』を調べてみたら、宇治山田市で書記、主事などをやっていた。大正7年(1918)~昭和2年(1927)の頃。
少し遡って、では函館時代(明治44・1911~大正2年・1913)は何をしていたのか?と、これまた『職員録』を調べてみたら、そこでも名前を発見。大蔵省函館専売支局で書記をやっていました。どうも若い頃は日本全国各地の大蔵省の専売局で書記をやり、40歳近くになってから宇治山田に出向…という流れだと思われます。そして宇治山田で生涯を終えた。
そうか。曽祖父は大蔵省のキャリアでしたか…。ということは三島由紀夫の先輩ですなw ようやく経歴がわかってきました。もしかしたら帝大卒だったりするのか?帝大の名簿を調べたいな。
ひとつ、謎が解けると、またひとつ、謎が増える…。
曽祖父・陸奥利宗から勘当された祖父・文夫は95歳の長寿を全うしたが、その最晩年になって「陸奥家の墓参りに行きたい」と言い出した。死期を前にして自分の父に謝罪したかったのかも知れない。
ところが祖父は曽祖父から勘当されているから、その墓の場所がわからなかった。父も一時期、陸奥家の先祖の墓が気になったようで、陸奥家のルーツである高知・池川村あたりを調べたことがあるが、よくわからなかった。
祖父の心残りは、おそらく、父の心残りでもあるだろう。曽祖父に勘当された祖父。その謝罪(墓参り)の機会を作ろうとした父。
父への供養として、祖父への供養として、曽祖父の墓の場所が、なんとか調べられないか?と今は考えている。曽祖父と祖父の仲違いも、さすがに時効であろうw
僕も正直、亡き父とはいろんな確執があり、父と子というのは、常にそういうものなのかも知れない。父が死んだから、ようやく僕の中で父との対話が始まったw
曾孫の僕が、祖父と父の名代として、曽祖父のお墓参りを果たして、それを祖父と父に報告したい。
父の遺品整理で戸籍が見つかって、曽祖父・陸奥利宗の謎すぎる経歴(高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田)から「もしかして官僚でもやっていたか?」と予測したのですが、当たりました。
国立国会図書館デジタル・アーカイブで戦前の官僚の『職員録』を調べてみたら、利宗は宇治山田市で書記、主事をやっていたということがわかりました。
大正7年(1918)に三重県の名簿に書記として登場し、翌年の大正8年(1919)にはもう主事に。大正11年(1921)には主事トップになってますが、そこからずっと主事の筆頭を務め、昭和2年(1927)を最後に、翌年から名簿に名前がありません。
東京から一般の人が宇治山田にやってきて、いきなり書記になるとか、そんなことは、なかなかありえないでしょう。キャリア官僚というか、そういう類の人間なんでしょうな。
昭和3年頃には宇治山田市役所を辞めたと思われますが、まだ利宗は48歳で、引退するには少し早い。何か違う仕事についたのかも知れません。代議士のようなことをしていたとか、赤福を助けたとか、ほんまか?というような伝聞だけが伝わってます。
宇治山田の図書館にいけば、なにかわかるかも知れない。行かなあかんなあ。
父・信一の遺品整理で、陸奥家の代々の戸籍が出てきて、いろいろと調べている。
祖父・文夫は若い頃は遊び人であったらしく、曽祖父・利宗から勘当されている。おかげで曽祖父・利宗の経歴がよくわからない。祖父や父の話では四国・高知で生まれ、その後、日本全国各地を転々とし、宇治山田で有力者となり、代議士か何かをやっていた…とのことだが、戸籍上でも波乱万丈(?)な人生の様相が伺える。
曽祖父・利宗は明治12年(1879)2月14日に宇和島伊達藩領であった高知県・吾川郡池川村に誕生し(陸奥家はだから宇和島伊達藩士の流れと思われる。このへんも伝聞だが。家紋は宇和島笹)、明治40年(1907)4月10日に元・薩摩藩士の小山田家の娘ヲカと結婚している。
この小山田家は薩摩藩の砲術指南役の家柄のようで、どういう経緯で利宗とヲカが出会ったのか?よくわからない。結婚当時の本籍は「鹿児島郡吉野村吉野497番」で、これは現在では鹿児島市になるようだ。当時、利宗は28歳で、同年11月4日には長男・武夫が同地で生まれている。
その後、明治42年(1909)7月16日に二男・文夫(僕の祖父)が出生しているが、これがなぜか東京市四谷区で出生届が提出されている。利宗は当時30歳。鹿児島から東京に移った経緯もよくわからない。
その後、明治44年(1911)10月10日に長女・八重子が出生しているのだが、これがこれまた不思議なことに北海道函館区で出生届が提出されている。利宗は32歳。文夫は2歳。
鹿児島(明治40年・1907)→東京(明治42年・1909)→函館(明治44年・1911)とはあまりにも人生が激動すぎる。利宗、一体、どういう人物であったのか?
また、この八重子は、悲しいことに大正2年(1913)1月にわずか2歳で北海道で亡くなっているのだが、その死亡届が「北海道函館区谷地頭町68番地」となっている。どんな場所か?と函館の古地図を調べてみたら函館公園の隣で「勝田温泉」という記載が出てきた。
「八重子は温泉地でなくなったのか?」と疑問が湧いて、さらに詳しく調べてみたら、この勝田温泉というのは正式には「勝田温泉旅館」というらしい。勝田弥吉という人物が開いたもので、函館初の旅館とか。
■二代目 勝田弥吉(1883年~1939年)初代・弥吉方ら鑛蔵そして2代目・弥吉へと引き継がれた函館第一号の旅館・勝田旅館。
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/02_ka/02-katsuta.html
上記ページによると『谷地頭の勝田温泉旅館は、昭和9年3月21日の大火で焼失。その後、再建して平成2年頃まで営業していた。勝田旅館は、明治11年の開業当時から、「各府県御旅館」「屯田兵司令部御定宿」「宮内省御定宿」「司法省御定宿」「陸軍省御定宿」「炭鉱鉄道会社御定宿」「北海道庁御定宿」等の一等旅館として繁盛した』とあった。
函館でも超一流の旅館であったらしい。そこで祖父・文夫の妹・八重子が亡くなってる。官僚などの定宿であったらしいが、曽祖父は官僚なのか?勝田旅館に住んでいた時代があるのか?
ちなみに八重子が亡くなった大正2年(1913)1月の翌月に利宗(34歳)と文夫(4歳)は東京市芝区高輪台町28番地の証誠寺に移っている。この後に宇治山田に移転したようだ。高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田。さすらってるなぁ。
北海道、函館は、一度、若い頃に、僕は観光で訪れたことがある。しかし、まさか自分の曽祖父、祖父が住んでいたとは知らなかった。勝田温泉旅館跡も、いつか、訪れてみたい。
父・信一の遺品整理で、陸奥家の代々の戸籍が出てきて、いろいろと調べている。
祖父・文夫は若い頃は遊び人であったらしく、曽祖父・利宗から勘当されている。おかげで曽祖父・利宗の経歴がよくわからない。祖父や父の話では四国・高知で生まれ、その後、日本全国各地を転々とし、宇治山田で有力者となり、代議士か何かをやっていた…とのことだが、戸籍上でも波乱万丈(?)な人生の様相が伺える。
曽祖父・利宗は明治12年(1879)2月14日に宇和島伊達藩領であった高知県・吾川郡池川村に誕生し(陸奥家はだから宇和島伊達藩士の流れと思われる。このへんも伝聞だが。家紋は宇和島笹)、明治40年(1907)4月10日に元・薩摩藩士の小山田家の娘ヲカと結婚している。
この小山田家は薩摩藩の砲術指南役の家柄のようで、どういう経緯で利宗とヲカが出会ったのか?よくわからない。結婚当時の本籍は「鹿児島郡吉野村吉野497番」で、これは現在では鹿児島市になるようだ。当時、利宗は28歳で、同年11月4日には長男・武夫が同地で生まれている。
その後、明治42年(1909)7月16日に二男・文夫(僕の祖父)が出生しているが、これがなぜか東京市四谷区で出生届が提出されている。利宗は当時30歳。鹿児島から東京に移った経緯もよくわからない。
その後、明治44年(1911)10月10日に長女・八重子が出生しているのだが、これがこれまた不思議なことに北海道函館区で出生届が提出されている。利宗は32歳。文夫は2歳。
鹿児島(明治40年・1907)→東京(明治42年・1909)→函館(明治44年・1911)とはあまりにも人生が激動すぎる。利宗、一体、どういう人物であったのか?
また、この八重子は、悲しいことに大正2年(1913)1月にわずか2歳で北海道で亡くなっているのだが、その死亡届が「北海道函館区谷地頭町68番地」となっている。どんな場所か?と函館の古地図を調べてみたら函館公園の隣で「勝田温泉」という記載が出てきた。
「八重子は温泉地でなくなったのか?」と疑問が湧いて、さらに詳しく調べてみたら、この勝田温泉というのは正式には「勝田温泉旅館」というらしい。勝田弥吉という人物が開いたもので、函館初の旅館とか。
■二代目 勝田弥吉(1883年~1939年)初代・弥吉方ら鑛蔵そして2代目・弥吉へと引き継がれた函館第一号の旅館・勝田旅館。
http://www.zaidan-hakodate.com/jimbutsu/02_ka/02-katsuta.html
上記ページによると『谷地頭の勝田温泉旅館は、昭和9年3月21日の大火で焼失。その後、再建して平成2年頃まで営業していた。勝田旅館は、明治11年の開業当時から、「各府県御旅館」「屯田兵司令部御定宿」「宮内省御定宿」「司法省御定宿」「陸軍省御定宿」「炭鉱鉄道会社御定宿」「北海道庁御定宿」等の一等旅館として繁盛した』とあった。
函館でも超一流の旅館であったらしい。そこで祖父・文夫の妹・八重子が亡くなってる。官僚などの定宿であったらしいが、曽祖父は官僚なのか?勝田旅館に住んでいた時代があるのか?
ちなみに八重子が亡くなった大正2年(1913)1月の翌月に利宗(34歳)と文夫(4歳)は東京市芝区高輪台町28番地の証誠寺に移っている。この後に宇治山田に移転したようだ。高知→鹿児島→東京→函館→東京→宇治山田。さすらってるなぁ。
北海道、函館は、一度、若い頃に、僕は観光で訪れたことがある。しかし、まさか自分の曽祖父、祖父が住んでいたとは知らなかった。勝田温泉旅館跡も、いつか、訪れてみたい。