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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

大坂の鯛と江戸の鰹

2010 年 12 月 27 日 Comments off

大坂人は鯛を好みました。「めでたい」の鯛。大坂ではかつて節分から数えて八十八夜までを俗に「魚島」といいました。春先になると瀬戸内には鯛が大量に現れて島のように見えたからで、この時期の鯛は豊漁で値段も安く、味も最高に素晴らしいので大坂商人たちは、常日頃、お世話になった得意先などに鯛を贈ったそうです。

対して、江戸は鰹です。鰹は「勝つ」に通じるので、武家社会に好まれた。また春先になると将軍様は「初鰹」を食べる習慣があって、江戸っ子は権威主義ですから将軍が食べている初鰹をなんとかして入手しようと躍起になりました。文化9年(1812)3月25日に魚河岸に入荷した初鰹の数は17本で、うち6本が将軍家。3本は高級料亭・八百善が2両1分で買い、そのうち1本は歌舞伎役者の中村歌右衛門が3両で買って大部屋役者にふるまった…なんて記録も残ってます。当時の下男、下女の1年間の給金が1両2分ぐらいで、どれだけ法外の値段やいうのがようわかりますな。いまのお金に換算すれば1本500万円とか600万円ほどです。「女房を質に入れても食べたい初鰹」という江戸川柳はこういう時代背景から生まれてます。

ちなみに鰹は回遊性の魚で太平洋をグルグル泳いでるんですが、本当は春よりも秋のほうが美味しいんです。「戻り鰹」というやつで海水温が低い影響で脂がのってるんですな。春の初鰹よりも安くて美味しい戻り鰹を好んだのが実は大坂人です。浪花っ子は将軍家が食べるからといって、まずくて高い初鰹を必死になって買いあさる江戸っ子を「江戸馬鹿」といって嘲ったとか。

大坂と江戸の都市の性格、文化特性の違いですな。実を取る大坂。名を取る江戸。


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御幸森天神宮 王仁博士「難波津の歌」 和文・ハングル歌碑

2010 年 12 月 26 日 Comments off



「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

この歌は応神天皇の死後、大雀命と菟道稚郎子とがお互いに皇位を譲り合って3年間ほど空位となり、結果的に大雀命が跡を継いで仁徳天皇となったさいに、その治世の繁栄を願って王仁博士が詠んだ歌とされています。

面白いのが、ずっと時代が下って江戸時代に、この「難波津の歌」を、対馬の通訳館がハングルに翻訳して、それを朝鮮通信使に贈呈したこと。その墨書が、いまも兵庫県たつの市の旧家に所蔵されているそうで、「こういうものがあるのか!」と地元の関係者が驚き、尽力して、その結果、おそらく日本で唯一であろう和文とハングルの併記の歌碑が御幸森天神宮に建立されました。

じつは御幸森天神宮は、仁徳天皇がよく訪れたという鷹狩の森で、また古代にはこの辺りは猪飼野・猪飼津(猪甘野・猪甘津)と呼ばれた渡来人の大集落がありました。さらに猪飼野は、現在は日本最大のコリアタウンになっていて、1500年の時を越えて、日韓交流の歴史が現在進行形で積み重なっている・・・という実に不思議な、奇跡のようなまちです。

いかにも猪飼野、御幸森天神宮に相応しい和文・ハングル歌碑。これも大阪の歴史の奥深さの証明でしょう。


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龍の知恵

2010 年 12 月 25 日 Comments off

龍は古代の部族の聖獣で、神です。古代には、狼や熊を崇めた部族がいるように、龍を崇めた部族がいました。

部族間の戦争がある時、勝ったものが負けたものに部族の神を強要します。仮に虎の部族と、鳥の部族がいて戦争が起こり、虎の部族が勝ったとすれば、鳥の部族は鳥の神を徹底的に抹殺し、虎の神に絶対服従を誓いました。

では、戦争ではなく、同盟などで連合した場合はどうなるのか?

例えば、蛇の部族と鳥の部族が争っていたが、決着がつかなかった。結局、お互いの部族の若者と女性を結婚させて連合することにした。この時、蛇の神と鳥の神の合一が行われます。蛇なのに羽が生えて、空が飛べる、新しい神になるわけです。キメラ(合成獣)の誕生ですな。

龍というのは地球上に存在しません。蛇のような身体で、羽があって空を飛び、鷲のような爪を持ち、魚のような鱗に覆われ、雷を落としたり、雨を降らしたりする。なぜ、こんな想像上の神が登場したのか?といえば、そこには、こうした古代の部族の闘争と合流の歴史があるからです。

虎や熊や狼の部族は、武力のある、強い部族やったんでしょう。だから動物の姿のままです。龍の部族は敵を滅ぼさなかった。外交力があり、部族闘争を収める知恵があった。東洋文明は、龍や鳳凰や朱雀、麒麟、玄武など数多くのキメラを産んでいます。武力ではなく外交力や融和、対話を重視した。その証明が、これらの聖獣です。これは東洋文明の知恵そのものでしょう。

韓国と北朝鮮。日本と中国。どこの国にも龍信仰があり、聖獣信仰があり、愛されています。言語や政治形態、歴史は違いますが、崇める神は同じ。東洋には部族間闘争を解決できる、龍の知恵があると、ぼくは深く、強く、信じています。


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韓国・ソウル 清渓川復元事業

2010 年 12 月 24 日 Comments off



高速道路を壊して、50年ぶりに、潤いのある風光明媚な河川を復活。韓国、ソウル市民の輝かしい栄光。本当に素晴らしい。いつの日か、水都大阪の象徴だった四ツ橋(西横掘川、長堀川)も、清渓川のように復活させたいですが・・・。

●清渓川
http://www.kampoo.com/jp/travel/cheonggyecheon_map.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B8%93%E5%B7%9D
●清渓川復元事業の事業期間は2年3ヶ月

●事業の具体的内容
・覆蓋構造物と高架構造物の解体:5.4km
・水路と川底の造成:5.7km
・維持用水の供給:10.9km の維持用水路を通じて、1日に12万トンを供給
・橋梁建設:22 個
・景観造成:5.8km

●清渓川復元事業の流れ。
1967年から10年間をかけて、清渓川上流の約6kmがコンクリートで蓋をされ、10車線の新しい道路が開通。増え続ける交通需要を解消するため、蓋で覆われた清渓川の上に、新たに4車線の高架道路が建設。充実した交通体系により、清渓川の周辺は活気あふれた商業地域として開発され、韓国近代化の初期段階における前進基地としての役割を果たした。1980年代に入り、ソウルの経済規模が膨張するに従い、清渓川周辺の産業的機能がソウル郊外へと移転。そのため清渓川一帯の産業は沈滞し、商業圏も衰退。覆蓋道路の内部の非衛生的な環境問題、増加する交通量による大気汚染、老朽化した高架道路構造物等が発生。それらの問題を解決するため、蓋で覆われた道路を撤去し、清渓川を川として生き返らせる「清渓川復元事業」の実施が決定される。

●目的
清渓川を覆蓋している蓋の構造物及び、その上にある高架道路の老朽化対策。
都市の交通混雑、大気汚染や騒音公害による都市環境の悪化対策。
ソウルの歴史と文化の回復。
江北と江南の均衡発展。

●事業費 3867億ウォン
全額ソウル市予算
2007年1000ウォン=128.35円

※日本円にすると約496億円
ちなみに阿倍野再開発事業の総額は約4900億円やそうです。
http://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000021614.html


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上海の彩り~上海開港(1842)から上海万博(2010)まで~

2010 年 12 月 23 日 Comments off

 

1842年。南京条約によって静かな、地味な漁村だった上海が欧米列強諸国に解放されました。中国からは最上級の茶や絹、陶磁器が輸出され、列強からはこれまた極上の阿片が齎され、黄浦江の外灘には壮大流麗な外資系の西洋建物が並んでいきます。

英国人の金融家、ユダヤ人の銀行家、アメリカ人の宣教師、ロシア人のサーカス団員、フランス人の俳優、オランダ人の保険屋、ドイツ人の音楽家、日本人の軍人・・・社交界の名士から大富豪、政治思想犯、犯罪者、亡命者まで。エキゾチックを通り越して、世界の狂乱をそのままダイレクトに輸血したようなカオスの混血都市が誕生したわけです。1930年代には「東洋のパリ」と呼ばれ、2500年に渡る儒教国家・中国の道徳はかつてないほどに退廃します。代わりにダンスホール、社交倶楽部、阿片窟、売春宿が乱立して「魔都上海」の夜の享悦楽は世界中の凡ゆる男を欲情させました。

清末期の混乱も上海の疾風怒濤の急拡大に拍車を掛けました。太平天国や数々の地方反乱から逃れようと大量の避難民が上海に集まり、彼らは苦力(クーリー)として、彼女らは娼婦として、上海経済の最下層の労働者となりました。また弾圧された改革派の闘士たちも上海の漆黒の闇を隠れ蓑としました。孫文も、蒋介石も、毛沢東も、みな上海で決起し、上海の財閥(上海閥)と結託し、やがて中国全土を支配していきます。

しかし1949年に中華人民共和国が成立すると、中国共産党の指導者たちは、名だたる革命家を排出した上海閥の力を恐れたのか、その力を削ごうとします。悪名高い文化大革命では「西欧かぶれ」の上海は最も解りやすい標的となり、呉の英傑である孫権が3世紀に建立した名刹・龍華寺でさえ、徹底的に破壊され、廃寺に追いやられました。中国にとって外国資本によって開発された上海は「屈辱の都市」であり、上海憎しの怨嗟は、なんら外資に関係ない古代の名刹にまで及んだわけです。およそ半世紀近くに渡って共産党指導部は上海閥を弾圧し、その富を強引に吸い上げて、内陸部の首都・北京(北京閥)に供給し続けました。

その流れに変化が訪れるのは天安門事件と、その後、共産党指導部が緩やかながらも改革解放路線に転じたことに拠ります。上海は屈辱の都市から一転して改革開放路線の象徴となり、共産党指導部の承認によって2010年、ついに「上海万博」が成立しました。それが上海閥の勝利であるのか、それとも北京閥の余裕であるのか、その判断は僕にはつきかねますが、ただひとつ言えることは上海万博は、上海という都市の170年の歴史の中で、初めて陽光が当てられた歴史的転換であったこと。

中国に、アジアに、上海あり。その高らかな表明。世界の都市文化に、鮮やかな彩りが添えられました。


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京都南座「吉例顔見世興行」 愛之助贔屓宣言

2010 年 12 月 22 日 Comments off

年末、京都南座「吉例顔見世興行」を観ました。片岡愛之助の「外郎売」に拍手喝采。市川海老蔵の急遽の代役だったわけですが、これがもう見事!

「外郎売」といえば、市川宗家の十八番中の十八番で、これを演じることが宗家の宗家たる由縁であったわけですが、それを上方歌舞伎の片岡愛之助が見事に演じきったとなると、これは市川宗家の面子丸潰れやないでしょうか?江戸歌舞伎が上方歌舞伎の役者の手に掛かれば、お茶の子さいさい。御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ、茶立ちょ。青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。

片岡愛之助さんは大阪・堺市の一般家庭から歌舞伎の世界に弟子入りしたとか。昨今の歌舞伎界では珍しい、世襲ではない歌舞伎役者なんですが、希代の名優・十三代目片岡仁左衛門に見い出されただけあります。和事もやれば、荒事もこなす。華もある。気品もある。姿も良い。まさに三拍子。

ぼくは愛之助贔屓を宣言します。


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備忘録:上海・蘇州

2010 年 12 月 21 日 Comments off
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北田辺 開高健の旧宅にて 「一夜限りの最後のトリスバー」

2010 年 12 月 12 日 Comments off



画像は開高家の表札。開高さん自身の手によるものと思われます。

2010年12月10日、「一夜限りの最後のトリスバー」が大阪市東住吉区北田辺にある開高健の育った旧宅(残念なことに今月半ばに解体予定)にて開催されました。ぼくは、北田辺の大阪あそ歩ガイド、吉村直樹さんと谷福江さんのお誘いで末席に加えさせていただきました。

開高さんの旧制天王寺中学の同窓生で、京都大学化学研究所名誉教授の作花済夫さんの思い出話や、開高健さん自身の朝日新聞社主催の天王寺高校での講演会(昭和53年11月27日)の貴重な録音などを聞かせていただきました。講演会は、照れているのか横柄な物言いなんですが、時折、リップサービスで下ネタなんかを織り交ぜて、いかにも開高節炸裂!で興味深かったです。

総勢80名ほどの参加で、心の底から楽しい、素晴らしい「一夜限りの最後のトリスバー」でした。聞けば、なんと開催1週間前に企画して実行という超過密スケジュールだったとか。関係者の皆さんの、開高健に対する愛と情熱に深い敬意を。本当に頭が下がります。ありがとうございました。

※後日、毎日新聞にも掲載されました。

【一夜限りのトリスバー:開高健さんしのび開店 大阪の旧宅で乾杯】
作家の開高健さん(1930~89)が少年期から青年期を過ごした大阪市東住吉区の旧宅で10日、開高さんをしのぶ「一夜限りのトリスバー」が開店した。旧宅は今月半ばにも売却、解体される見通しで、「バー」はまちづくりボランティアらが企画。事前予約したファンや同級生ら約40人が集った。

「バー」では、開高さんが寿屋(現・サントリーホールディングス)社員時代に生み出したキャッチコピー「トリスを飲んで『人間』らしくやりたいナ」の言葉で乾杯して開会。約30年前に開高さんが母校の大阪府立天王寺高校(旧制天王寺中学校)で講演した時の録音テープが流され、生前の開高さんの思い出話に花が咲いた。

旧制中学時代の同級生の京都大名誉教授、作花済夫さん(80)は「開高は気さくな勉強家だった。たくさんの人たちが集まってくれてうれしい。すごい作家なんだと再認識しました」と話し、笑顔でグラスを傾けた。【矢島弓枝】


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土葬から火葬へ~大坂七墓 行基菩薩開基南濱墓所~

2010 年 12 月 11 日 Comments off



その昔、大坂には「大坂七墓」(濱、梅田、葭原、千日、蒲生、鳶田、小橋)がありました。そのうちの「濱」が、現在の豊崎にある行基菩薩開基南濱墓所(南浜墓所)に繋がっているといわれています。

ここは日本最初の火葬所ともいわれています。それまで倭人の葬送は土葬だったのですが、行基の導きによって、我が国で初めての火葬が行われたとか。

古代には土葬は儲かりました。大王や豪族というものは大きな古墳を作りますから、これは一種の公共事業、土木工事で、ビジネスやったんですな。ところが時代が経るに連れて、あっちこっちに古墳ができますから、そのうち用地も少なくなっていきます。大きな古墳というものは作れないし、作らない。そうなると事業にならないし、儲からない。

こういうときに行基が土葬ではなくて、火葬という新しい葬式システムを導入したんですな。というのも火葬は用地は必要としませんが、莫大な薪が必要でした。専門的な技術も必要でした(70%が水分である人間を、綺麗に骨だけ残して焼く・・・というのはなかなか難しいとか)。つまり古代では土葬にするよりも、火葬にするほうが費用がかかったんです。だから天皇、貴族といった金持ちは火葬でしたが、庶民はずっと土葬のままでした。

行基という人は、日本全国に温泉を掘ったり、橋を掛けたり、ため池を作ったりして、僧侶というより、完全に土木工事の親方です。最終的には国家の依頼で、東大寺の大仏まで建立しました。また行基の手下には「土師」(はじ)の一族がいて、これらが、そうした公共事業や土葬をやっていたようです。しかし、土葬に関して云えば、これはもう儲からないということで、行基の指導の下で、火葬を執り行う祭祀集団に切り替えたんでしょう。そうすることで、彼らのビジネスを成立させた。「土木コンサルタント 行基」ですな(笑)

学者先生は、土葬から火葬という流れは、日本人の死生観が神道式から仏教式に変わった証明・・・なんて難しいことをいうんですが、それも一理あるでしょうけれど、本当は、こうした経済的な理由もあったと思います。世の中、金が動かすということでしょうか。


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「ぼてぢゅう」「づぼらや」「たこ梅」

2010 年 12 月 10 日 Comments off

お好み焼きの「ぼてぢゅう」いうんは大阪人らしいネーミングですな。いまはどこでもお好み焼にマヨネーズとからしをつけますが、この味付けは「ぼてぢゅう」が考案しました。店名の由来はお好み焼を「ぼてっ」とコテで返して鉄板の上で「ぢゅう」と焼くことから。非常に即物的。しかしリズムが良い。最初は「ぼ」の「濁音」から始まって最後は「ぢゅう」と「拗音」+「長音」で終わる。どこかユーモラスが漂う。即物的な擬音の羅列でありながら、お好み焼の匂い、熱、色、味のイメージまでもが彷彿とさせられる。唯物的であるのに一抹のおかしみがある。なかなかこんな店名おもいつけません。これぞミナミの、大阪人のセンス。
http://www.botejyu.co.jp/

フグいうたら扱いは細心の注意が必要です。血管や肝に毒があるそうで1本1本ピンセットで抜くそうですな。細かい神経の人間がやらなあかんのです。「ずぼら(づぼら)」な奴では困る。「ずぼら」いうんは大阪弁で「不精をする」「なまけもの」「面倒臭がり」みたいな意味です。「あんた、そないずぼらしたらあかんで」なんて具合に使いますが、そういう人間はフグの調理にはいっちゃん向いてない。しかし大阪ではそれがフグ屋の店名になってる。曰く「づぼらや」。フグ屋やのに「づぼら」いうたら「毒残ってまっせ。知りませんで」というようなもん。しかし安い。美味い。大阪の船場の旦那衆は「おもろい店や」いうんで通って流行りました。
http://www.zuboraya.co.jp/

「食い合わせが悪い」食べもんいうんが世の中にはあります。「天ぷらと西瓜」「蟹と柿」「鰻と梅干し」あたりは有名ですな。食道楽の大阪人もそのへんは敏感でした。ところがそこを逆手にとった店もあります。それがおでん(関東煮)の老舗「たこ梅」。じつは「たこ」と「梅」いうんは食い合わせが悪いもんとして忌避されてたんですな。一緒に食べると食あたりを起こす。食中毒を起こす。ところが、それを店名にした。これまた大阪流のブラックジョーク。ここは織田作の「夫婦善哉」にも出て来て有名です。
http://www.takoume.co.jp/

ミナミ、道頓堀を歩いていて、ふと。


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