大阪日日新聞「澪標」のコラムです。
大阪あそ歩’10春(http://www.osaka-asobo.jp/)がスタートしています。6月6日まで大阪市内で105コースのまち歩きを実施。パンフレットをご希望の方は大阪あそ歩事務局までお問い合わせください=電話06(6282)5930。
さて、前回のコラムでは大阪あそ歩は「まちの物語を体感するツーリズムだ」という話をさせていただきましたが、今回は、大阪のまちの物語の豊富さと、その可能性について話をしましょう。
最近、大阪あそ歩に参加した、神戸の方から「105コースは凄(すご)い! なんでこんなに沢山(たくさん)あるの?」とお声を頂きました。確かに105コースというのは驚異的な数ですが、これはなにもむやみやたらに数を増やすことを目的としたわけではなく、大阪あそ歩のガイドさん、サポーターさんにまち歩きコースをご提案いただき、「大阪という都市の物語を体感しよう」と思って作成していくと、必然的にこれだけの数になった-というのが本当です。
ご存じのように、大阪は戦災で焼けてしまい、また戦後の高度経済成長の乱開発やモータリゼーションによって、市中の堀川は埋め立てられて高速道路となり、「水の都」の景観は徹底的に破壊されてしまいました。奈良、京都の神社仏閣、神戸の異人館、長崎の中華街といった美しい景観エリアは残念なことに、あまり残っていません。
しかし、大阪というのは非常に歴史が長い都市です。例えば平城京(710年)、平安京(794年)よりも古いのが難波宮(645年)です。歴史が長いということは、それだけ物語が豊富ということです。実際に難波宮の時代には上町台地に沿って「難波大道」が造られましたが、いまもそのライン上に「大道町」があります。大道自体は跡形もありません。その痕跡として大道町という地名が残っている。ハードはないけれど、ソフトとして語り継がれている。
ここのところが非常に重要で、大阪あそ歩は「失われた大阪のまち」をガイドさんの語りによって再現します。ハードウエアの観光ではなく、ソフトウエアの観光なのです。豊かな想像力やイマジネーションが必要で、だから大阪あそ歩を楽しめる参加者は、非常に知的レベルが高いといえます。
しかし、よくよく考えると、もともと大阪人は、こうした「形がないもん」を扱うのが非常にうまい集団なのです。この世に存在しない帳簿米を扱った堂島米市場を開いたのは大阪人でした。様々(さまざま)なグルメ料理を生み出したのは、大阪人の鋭敏かつ優れた味覚です。浄瑠璃、落語といった芸能文化を花開かせたのも大阪人でした。大阪人にソフトウエアを扱わせたら、これはもう天下一品で、どの他都市にも負けません。
大阪あそ歩の最大の強みや可能性というのは、この大阪人の卓越したソフトウエアの活用能力といえるでしょう。ハードウエアではなくて、ソフトウエアの観光、まちの物語を体感する観光というものが、もっともっとクローズアップされれば、大阪が日本最大の観光都市になることも十分に可能性としてありえます。
元々、大阪という土地柄は政治家を生みません。近代政治とはイデオロギー闘争。ところが大阪人はそもそもイデオロギーを信用してません。もっと実質的な、現実的なものに価値をおきます。算盤を弾く。民主主義?なんやそれ?食えるんかいな?食えるんやったらよろしい。そういう態度が人生の根底の部分にあります。幕末の動乱期でも「やれ攘夷だ」「開国だ!」「倒幕だ!」「公武合体だ!」なんてやってたのは薩長土肥会津といった田舎もんでして。大坂人は一切知らんぷり。鳥羽伏見の戦いも大坂の町衆は弁当もって高みの見学してました。幕末時に緒方洪庵や福沢諭吉といった偉大なる学問家、書生を生みましたが、彼らは志士でも政治家でもないです。
日本の歴代首相を見てもそうです。大阪出身の首相はわずか2名だけ。鈴木貫太郎と幣原喜重郎。この2人も非常に特殊な事業で日本国首相になりました。鈴木貫太郎は、日本の敗戦濃厚の時期に、昭和天皇から「頼む。もう鈴木しかいない。ぜひとも総理大臣になってくれ」と懇願されて、いやいやながら首相になったという人物。昭和天皇から頭を下げられて首相になったのは日本の歴史上、鈴木貫太郎のみといわれてます。鈴木貫太郎がやったことは和平交渉であり、連合国のポツダム宣言の受諾。「進め!一億火の玉だ!」「一億総玉砕!」なんて物騒なことを叫ぶ軍部の暴走をとめて日本を敗戦に導きました。終戦記念日を題材にしたドキュメンタリーブック『日本のいちばん長い夏』(半藤一利)なんかを読めば、鈴木貫太郎の仕事は、まさに命がけの仕事だったことがよくわかります。
幣原喜重郎も昭和天皇から請われて成立した敗戦処理の臨時内閣です。幣原はすでに政界を引退していましたが、どうも近々、首相に任命されそうや・・・と鎌倉に引越して逃げようと荷物をまとめていたところで昭和天皇から呼び出されて直々に説得され、しぶしぶ首相になった・・・という人物。鈴木貫太郎も幣原喜重郎も首相になろうとしてなったのではなく逃げ回っていたわけで、こういうとこが、じつに大阪人的ですなw 幣原喜重郎は戦前から「幣原外交」と呼ばれる平和外交で有名でした。幣原路線でいっていれば日本は太平洋戦争を回避できたかも知れませんが結局、戦争拡大路線の田中義一派(長州出身。俗にいう田中外交)にやられて日本は破滅への道をひた走りに走ってしまった。また幣原はしぶしぶ首相になりましたが、一世一代の奇策を編み出しまして。それが「日本非武装中立宣言」。これが憲法9条に結びついて戦後日本の「重経済・軽軍備路線」が確定しました。最近は9条に対して「時代にそぐわない。改憲すべき」といった論調も数多くみられますが、幣原が「非武装中立」なんて言い出したときは現在の比ではなく「理想論」「狂気の沙汰」「非現実的」「老人の世迷言」「日本が滅ぶ」と散々に貶されました(なんせ当時は米ソ冷戦の幕開け時代でしたから)。しかし、この幣原の「非武装中立宣言」がなかったら、今日見られるような、戦後日本の空前絶後の経済的繁栄はなかったと断言できます。日本が戦争に負けてボロボロだったからでこそ編み出された、幣原外交の奇策中の奇策。じつに超々高度な政治的判断でした。
鈴木貫太郎が1945年4月から8月の4ヶ月間。幣原喜重郎が1945年10月から1946年5月までの7ヶ月間。ふたりあわせても1年にも満たないですが、この2人の大阪出身の首相が在任中にやったことは戦後日本にとって非常に大きい。太平洋戦争という歴史の大きな流れを個人の責任に帰結するのは横暴な話ですが、しかし開戦前夜の首相・・・近衛文麿(京都・公家出身)や東条英機(東京・軍人出身)がやった愚かしい太平洋戦争の尻拭いを大阪の首相2人でやったというのは紛れも無い歴史的事実です。日本という国が、ボロボロでどうしようもなくなったときに、さっと登場して、やるだけのことをやると、すぐに首相をやめていった。「大阪の首相」が登場したのは日本という国が非常に特殊な事情であっただけで、完全にこの2人の存在は大阪という政治家不在の風土からすれば「イレギュラー」であり「異分子」です。大阪はアンチ政治家の風土であり、ほんまは首相なんて出てくる土地柄ではないですから。時代のどうしようもない要請で、たまたま、偶然、そうなっただけ。大阪人が首相をやる時は、日本がおかしなったときですw
そういう馬鹿馬鹿しい時代が再び来ないことを祈りますよ。大阪人は政治なんてやるほどヒマやないんです。人生は短い。もっと有意義に、実質的に、一所懸命に、楽しまないといけない。
デンマークは原則6歳になるまで、子供に読み書きや算数を教えないとか。では一体なにをするのか?「遊び」をするそうです。遊びを通して社会性や集団行動、自由、責任を体感させる。さらに義務教育では試験も通知表もないそうで、高校、大学、専門学校では、入学試験も、入学金も、授業料も一切必要ないとか。さらにさらに仮に高校、大学などの高等学校を卒業しても、まったく「資格」がなく、職業はどれでも自由に選択できるそうです。職業適性というのは、実際に仕事の現場に出て、そこで初めて、合うか、合わないかが問われる。資格がないから、どんな人間でも、あらゆる職業に挑戦できる。ダメな奴はダメ。才能のある人は成功する。非常にシンプル。そんな教育で大丈夫なんやろか?と思いますが、じつは教育指数:0.993で世界一位。世界最高峰の教育大国です。そして自由教育世界1位のデンマークは、また「国民の幸福度」でも世界1位だったりします。自由教育、無試験制度、資格ビジネス、権利ビジネスの撤廃、職業選択の自由、誰でもチャレンジできる機会均等の市民社会が成熟している。要するに「失敗しても何度でもやりなおせる社会」なんです。リスタートができる。どんな人間にも、可能性がある。だから、みんな、幸福なんでしょう。ガチガチの管理教育で縛りつけて、たった一度でも失敗したら「負け組」に転落して、そこから容易に抜け出せない。「失敗が許されない日本」とは大違いです。こんなに過酷で、辛い、人生はないです。今後の日本の教育をどうするか?の答えとして、デンマークの自由教育に、ぼくは可能性を感じています。
「あんた江戸っ子だってね?食いねぇ食いねぇ!寿司食いねぇ!」といえば任侠者・森の石松の名セリフ。
ところで、この森の石松が薦めた寿司は、じつは江戸前ではなく、押し寿司、箱寿司の大坂鮨だったということは案外、知られてません。石松は金毘羅参りの帰路で、大坂・天満八軒屋浜から京に向かうさいに、江戸っ子を見つけて、上記のセリフを吐いたんですな。江戸っ子に大坂鮨を薦めるところが森の石松の愛嬌ですな(笑)
そもそも当時の旅では江戸前は携帯できませんでした。日持ちしませんから。その点、大坂鮨はネタも酢で締めているので日持ちします。また揺れに揺れた淀川の船旅では江戸前はひっくり返って、ネタとシャリがバラバラになります。大坂鮨は押し寿司なんで、そういう事態も防げる。旅の携帯食として、大いに利用されたのが大坂鮨やったそうです。道頓堀の芝居観劇にも定番メニューでした。
江戸前にはない大坂鮨の良さ。智恵。文化。それを大阪人は誇って、大切にしたいですな。
「隣に住むおばちゃん、キライやねん」
これはぼくはええことや思います。隣に住むおばちゃんがどんな人かは知りませんが、発言者とおばちゃんが個人的な交流をした結果であり、その体感、実感ですから。
しかし、このおばちゃんが例えば大阪人で、そこから発言者が「大阪人にはろくな奴はおらん」といった時、これは途方にくれますな。これは実感が元になっていたとしても「概念」「イメージ」ですから。あなたは全大阪人と付き合ったり、交流があるのですか?ということになります。
「いや、おれは大阪に30年住んで、大阪人の知人も1000人ぐらいいる。その大阪人はやな奴ばかりやった」
そう言い張ったとしても、それでも矢張り個人的体感には限界があり、「大阪人」を語るには圧倒的に情報が足りません。どこかで論理の飛躍があり、決めつけがあり、思い込みがあります。固定観念という奴です。
概念やイメージ、固定観念を改めさせるというのは、とても難しいことです。それは結局、その人間の知性によります。
知性のある人間ほど、新しい事実や経験、体感に対して、概念やイメージ、固定観念を柔軟に変化させて物事に対処することができる。受け入れる事ができる。
知性のない人間ほど、過去に自分自身が作った概念やイメージ、固定観念に囚われる。新しい事実や経験、体感を受け入れる事ができずに、物事を理解できない。
概念に囚われない。自由な、柔軟な知性を。以上は自戒です。
大阪の面白さは「多様性のまち」であることです。大阪のまちは、ほんまに、それぞれ、カラーがちゃいます。
「なんでかな?」とぼくも考えたんですが、まず大阪いうんは、もともとは摂津国・河内国・和泉国と三国から形成されてるんですな。また、摂津、河内、和泉の漢字を見て貰うとわかりますが、これはすべて「水」「海」に関連する言葉です。大阪は西に海を抱いているわけで、海は交易の拠点です。大阪は港町で、大陸文化の玄関口であり、いろんな人種、文化が、大阪のまちを出入りしました。
それで、海以外の方向・・・北、東、南の山のほうは、京都(北都)、奈良(南都)、高野山、熊野と、政治都市や、宗教都市が集積してるんです。そのいずれにも影響されて、また影響を与えて、大阪という都市は発展してきました。
複合的で、多面的で、重層構造。ひとことで「大阪のまちとはこうです」ということはなかなかいえません。しかし、それがおもしろい。「大阪あそ歩’10春」のまち歩きでは、そこを楽しんでください。要するに、できれば1回だけではなくて、2回、3回、4回と、いろんなまちのまち歩きに参加してください。「百花繚乱のまち」のおもしろさがありますから。
昨日に引き続いて宣伝でした(笑)
http://www.osaka-asobo.jp/
いよいよ明日から「大阪あそ歩’10春」です。
http://www.osaka-asobo.jp/
大阪いうんは、戦災で焼けてもうて、また戦後の高度経済成長のイケイケドンドンの乱開発で、都市景観はボロボロです。奈良、京都の寺社仏閣、神戸の異人館のようなハードは残ってません。残念なことですが。
しかし蓄積された「物語」は、日本最大のキャパシティを誇る都市や思てます。そもそも大阪は、日本有数の歴史都市なんですわ。例えば奈良・平城京(710)、京都・平安京(794)よりも古いのが大阪・難波宮(645)です。歴史が長い。歴史が長いいうことは、物語が豊富いうことです。
実際に、難波宮の時代には、難波宮から南北に「難波大道」いう朱雀大路みたいなんが作られたんですが、いまもそのライン上に「大道町」いうんが残ってたりします。道路は跡形もありません。地名、町名が残ってる。ハードはないけど、ソフトとして語り継がれている。「物語」が伝わっている。
大阪あそ歩は、そういう大阪のまちに眠る物語を体感しよういう遊びなんですな。ハードウェアの観光やおまへん。ソフトウェアの観光。これは、だから、非常に高尚で、知的なゲームです。なによりもイマジネーションが必要です。大阪あそ歩を楽しめるお客さんというんは、だから、非常に知的レベルが高い(笑)
でも大阪人は、もともと「形のないもん」を扱うんがうまいんですわ。大阪人が得意なもんはなんや?いうたら金融でっしゃろ?味覚でっしゃろ?笑いでっしゃろ?物語もそうです。大阪人にソフトを扱わせたら、そりゃあ、日本でいっちゃん、おもろいですわ。他都市に負けまへん。
大阪あそ歩は、そういう新しい観光です。いっぺん、参加してみてください。おもろいですから。ほまりますよ。ほんまに。
大阪日日新聞「澪標」のコラムです。
いよいよ「大阪あそ歩’10春」のホームページ(http://www.osaka-asobo.jp/)がオープンして予約受け付けを開始しました。4月10日から6月6日まで、大阪市内で105コースのまち歩きと、5プログラムのまち遊びを実施します。パンフも完成してJR、地下鉄、各私鉄の駅、大阪市の公共施設などで配布されますので、ぜひ手に取ってご覧ください。
さて、今回は、大阪あそ歩のまち歩きの中身についてお話しましょう。まず、大阪あそ歩のまち歩きには必ずコースマップが付きます。駅改札やバス停留所など、公共交通機関をスタート地点として、十数カ所のまち歩きスポットが、イラストと解説文で記されています。平均1コースは約2~3キロ程度で、徒歩約40分ほどの距離なのですが、大阪あそ歩では、このマップを片手に、ガイドさんの話を聞きながら、2時間から3時間ほどかけて、ぶらぶらと、まちを巡ります。
健康づくりのウオーキング企画などでは5キロ、15キロ、40キロ(!)をひたすら歩いたりしますが、大阪あそ歩は長距離は歩きません。またウオーキングは50人、100人、300人といった大人数の参加者を募集しますが、大阪あそ歩は15人定員です。
これはなぜか? といいますと、大阪あそ歩は「大阪のまちを体感する」ことを目的とするからです。大阪のまちの雰囲気を、色を、匂(にお)いを、音を、感じてほしい。そのためには、わずか2~3キロの距離を15人の少人数で、ガイドさんと一緒になって、じっくりと、ゆったりと、歩くことが必要になるわけです。しかし、こうすることで、確実に、まちの見え方が変わってきます。
残念ながら、いま、まちというのは、資本を消費するだけの空間になっています。例えばコンビニに行って商品をレジに差し出すと、「ピッ!」とバーコードを読み取られ、お金を差し出せば、一言も口を開かずに何でも買えてしまう。経済効率を最優先すると、まちに、人間らしい温かみが急速に失われていきます。
しかし大阪あそ歩では、まちに根付いた店を、まちのガイドさんと一緒に巡りますから、自然とそこに、ふれあいや交流、会話が生まれます。「なにしてんの?」「大阪あそ歩いうんでまち歩きのガイドしてんのや」「あ。そう。ところで○○、元気?」…。大阪あそ歩では、こうしたガイドさんとまちの方が、たわいのない会話を繰り広げるという光景が多々あるのですが、それを参加者が共有することで、まちの濃厚な物語が見えてくるのです。
まちというものは、本来は、こうした人間のふれあい(共同体=コミュニティー)で成立しているものなのですが、それが忘れ去られている現実があります。
しかし、大阪あそ歩に参加すると、まちに、コミュニティーに住む人々の息吹のようなものが感じとれて、そこが「おもしろい!」となるわけです。
このおもしろさは、なかなか言葉では伝えにくいものですが、一度、参加すると、それはもう病みつきになるぐらいおもしろいのです。