11/16(土)13時から「AAF(アサヒ・アート・フェスティバル)2013報告会」で公益社団法人企業メセナ協議会の松木まどかさんと一緒に司会をやることになりました。日本全国各地の様々なアート・プロジェクトの成果報告が無料で参加できます。ご興味ある方はぜひともご参加くださいm(_ _)m
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■AAF報告会2013
アサヒ・アート・フェスティバル(AAF)は、今年も6月15日から10月14日までアートツーリズムでいこう」をキャッチコピーに、全国各地で様々なアートプロジェクトを展開しました。12年目となる今年は、全国から54のプログラム/団体が参加してAAF史上最大規模に!報告会ではAAF2013参加プロジェクト・団体がすべて集結し、その成果を発表するとともに、地域におけるアートプロジェクトの現在を参加者全員で共有し、今後の可能性について議論します。両日とも、どなたでも参加していただくことができます。多くのみなさまのご来場をお待ちしています ! !
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AAF2013報告会 タイムテーブル
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●1日目 2013/11/16(土) 13:00-19:20
司会:松木まどかさん、陸奥賢さん
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10:00:スタッフ会場入り
10:30:折込・会場設営
11:00:ブース準備開始(12:30までにブース準備終了)
12:30:受付開始
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13:00 開会挨拶 芹沢高志(AAFネットワーク実行委員会 事務局長)
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13:10-14:00 ◎セッション1(B枠・I枠より7組・各6 分)
1-1 B-01 ROAD TO 飛生芸術際2013(北海道白老郡白老町)
1-2 B-05 こうふのまちの芸術祭2013(山梨県甲府市)
1-3 I -06 423(しつみ)アートプロジェクト2013(京都府船井郡京丹波町)
1-4 I -09 土と火と、実りの里の芸術祭2013 in 船坂(兵庫県西宮市)
1-5 B-09 隠岐アートトライアル2013「美田小学校再生への実証活動」(島根県隠岐郡西ノ島町)
1-6 I -11 マイクロリサーチ/ON AIR(広島県尾道市)
1-7 I -12 かわぞう はじめての冒険(熊本県熊本市)
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14:00-14:10 休憩
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14:10-15:00 ◎セッション2 (B枠・I枠より7組・各6分)
2-1 B-02 酔っ払いに愛を〜横丁オンリーユーシアター〜(青森県八戸市)
2-2 I -01 アラカワ・アフリカ4:アーティストたちの荒川とアフリカでの仕事(東京都荒川区)
2-3 B-04 横浜下町パラダイスまつり2013(横浜市中区)
2-4 I -04 長者町ビアジャンボリーぷらす(名古屋市中区)
2-5 I -05 空き家マッチング事業(京都市東山区ほか)
2-6 I -08 「孤独に応答する孤独」シンポジウムと日常的実践(大阪市西成区)
2-7 B-10 コザクロッシング2013 ターミナルライフ(沖縄県沖縄市)
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15:00-15:10 休憩
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15:10-16:00 ◎セッション3 ( B枠・I枠より8組・各6分)
3-1 B-03 女川常夜灯「海と山の物語」(宮城県牡鹿郡女川町)
3-2 I -02 おおくぼパッチワーク(東京都新宿区)
3-3 I -03 Youkobo Plus(東京都杉並区)
3-4 B-06 中学校を美術館にしよう〜とがびアート・プロジェクト2013+こちょ☆ぷろ2013(長野県千曲市、長野市)
3-5 B-07 レディオ体操〜地域パフォーマンス集団立ち上げプロジェクト〜(静岡県浜松市)
3-6 I -07 大阪七墓巡り復活プロジェクト(大阪市内/七墓跡地)
3-7 B-08 新長田のダンス事情(仮称)上演会(神戸市長田区)
3-8 I -10 ようこそ鞆へ! 遊ぼうよパラダイス(広島県福山市)
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16:00-16:10 休憩
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16:10-16:35 ◎セッション4 (N枠より6組・各3分)
4-1 N-09 非公式物産展(全国各地)
4-2 N-12 余白工事の会(静岡県浜松市ほか全国各地)
4-3 N-16 「まち」として生まれ変わったパルルの発展を支援する住民の会(名古屋市中区)
4-4 N-18 輪音プロジェクト(大阪市北区ほか)
4-5 N-19 映像発信てれれ(大阪市浪速区ほか全国各地)
4-6 N-23 てしまのまど(香川県小豆郡土庄町豊島)
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16:35-16:45 休憩
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16:45-17:10 ◎セッション5 (N枠より6組・各3分)
5-1 N-01 NPO法人 アプカス(北海道函館市ほか)
5-2 N-02 NPO法人 あおもりNPOサポートセンター(青森県青森市)
5-3 N-03 ENVISI(宮城県仙台市ほか)
5-4 N-21 NPO法人 淡路島アートセンター(兵庫県洲本市ほか淡路島全島)
5-5 N-22 NPO法人 ハート・アート・おかやま(岡山県岡山市ほか)
5-5 N-31 NPO法人 アートスイッチ(熊本県熊本市)
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17:10-17:20 休憩
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17:20-17:50 ◎セッション6 特別協賛プログラム/交流支援プログラム(1組+6組・各3分)
6-1 特別協賛プログラム すみだ川アートプロジェクト[SRAP]2013 江戸を遊ぶ̶「ないまぜや!」鶴屋南北/アサヒビール大山崎山荘美術館
6-2 交流支援プログラム01 櫛野展正(鞆の津ミュージアム【広島県福山市】)
6-3 交流支援プログラム02 三浦一倫(Arts Audience Tables ロプロプ【名古屋市ほか】)
6-4 交流支援プログラム03 宇佐見祥子(飛生アートコミュニティー【北海道白老町】)
6-5 交流支援プログラム04 河本順子(picasom【京都市上京区】)
6-6 交流支援プログラム05 山田訓子(長者町まちなかアート発展計画【名古屋市中区】)
6-7 交流支援プログラム06 田仲桂(TSUMUGUプロジェクト実行委員会【福島県いわき市】)
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17:50-18:00 休憩
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18:00-19:00 座談会「プレゼンテーションから見えてきたこと」
ゲスト:甲斐賢治(せんだいメディアテーク主幹兼企画・活動支援室長)
AAFネットワーク実行委員:石綿祐子、加藤種男
進行:芹沢高志
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19:00-19:20 交流会のための会場準備
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19:20-20:40 交流会 参加費:1000円
ごあいさつ:原田卓也様(アサヒビール株式会社経営企画本部 担当部長)
20:50- 二次会 会場「 稲垣」(東京都墨田区東駒形3-25-4 電話: 03-3623-6389)
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●2日目 2013/11/17(日) 10:00-15:00
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9:30:スタッフ会場入り
9:45:受付開始
10:00-12:00 AAF世界ネットワーク・マッピング
進行:住中浩史、新見永治(世界ネットワークPJチーム)
12:00-13:30 休憩
13:30-15:00 AAFネットワーク拡大実行委員会
15:00 閉会
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■会場:アサヒ・アートスクエア
(東京都墨田区吾妻橋1-23-1 スーパードライホール4F)
http://asahiartsquare.org/ja/access/
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■主催:AAFネットワーク委員会
■特別協賛:アサヒビール株式会社
■助成:アサヒグループ芸術文化財団
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■お問合せ: AAF ネットワーク実行委員会 事務局
TEL:03-3353-6866
e-mail:joho@asahi-artfes.net
http://www.asahi-artfes.net/
◎参加申し込みはこちらから
https://ssl.form-mailer.jp/fms/8df917ac271412
◎フライヤーPDFはこちら
http://www.asahi-artfes.net/news/docs/aaf_debriefing_fly_03.pdf
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画像は統国寺のベルリンの壁前にて。撮影は江里口さん。
本日は「古地図片手にJR環状線まち歩き」で天王寺駅から新今宮駅までを歩きました。天王寺駅。悲田院。垣外四ケ所。長吏・林善次郎。料亭まつむら。住友春翠。南蛮吹き。白水会。旅の宿葆光荘。四天王寺闇市。阪和商店街。安藤さん。街娼の看板。清水地蔵堂。庚申池跡。庚申堂。三猿堂。庚申は「せざる」を入れて四猿なり。超願寺。竹本義太夫墓。竹本義太夫生家跡。阪口楼。阪口うし。阪口祐三郎。統国寺。ベルリンの壁。茶臼山。大雄殿。護摩壇。茶臼山遺跡。青空カラオケ跡。住友本邸。慈泉処。四恩学園。橘安純。ジャンジャン横丁。フェスティバルゲート跡・・・などなどをご紹介。かなりマニアックかつディープなまち歩きでしたw ご参加いただいた、みなさん、ありがとうございました!m(_ _)m
■10/27(日)10時より【全20駅制覇を目指して!古地図片手にJR大阪環状線まち歩き】第7回!天王寺駅から新今宮駅までを歩く!
http://www.facebook.com/events/487615078002021/
中之島の「アウトドアヨガ祭り2013」で「どこでもヨガ」の松本さんが「直観讀みブックマーカー」を実施してくれました!「ヨガと直観」ってちょっとどうなんでしょうか・・・?と思う組み合わせですが、おそらくはシャーマン体質(ヨガ体質?)なみなさんには直観讀みの言葉は心に響いたんやないでしょうか?w 松本さん、ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました!
「直観讀みブックマーカー」は「いつでも、どこでも、だれでもできるコモンズ・デザイン」ということで、勝手に、自由気ままに、しおり作りのイベントを企画したり、主催してもらって構いません(参加費をとっていただいてもOKですよ!)。白紙のブックマーカーは公式サイトからダウンロードできますので。ぜひお友達や仲間うちと一緒に、色んなところで、やってみてください!m(_ _)m
■直観讀みブックマーカー公式サイト
http://tyokkannyomibookmarker.info/
■しおりダウンロード
http://tyokkannyomibookmarker.info/bm_A4prt.pdf
■直観讀みブックマーカーfacebookページ
http://www.facebook.com/tyokannyomibookmarker
大阪・南河内の生活提案情報紙「らくうぇる。」さんが富田林・寺内町の古民家「錦家」さんで「まわしよみ新聞(南河内編)」を発行してくれました!「らくうぇる。」さん、ご参加いただいたみなさま、ありがとうございます~! ^^
「まわしよみ新聞」は誰でもご自由にやっていい(参加費を取って有料イベントにしてもOKですよ)「オープンフリー&オープンソースのワークショップ・メソッド」なので、ぜひまた色んなところで企画したり主催して実施してみてください!m(_ _)m
■まわしよみ新聞
http://www.mawashiyomishinbun.info/
■まわしよみ新聞の作り方
http://www.mawashiyomishinbun.info/manual/
■まわしよみ新聞facebookページ
http://www.facebook.com/mawasiyomisinbun
京都のまち歩きは「語り」を必要としません。「現物」が残っているからくどくど説明するより「まま。どうぞ。ごらんください」で終わってしまいます。そういう意味では大阪もんのぼくとしては、じつに呆気なく、物足りなく、味気ないんですな。大阪のまち歩きは「現物」がありません。戦災で燃えたり、戦後の乱開発で破壊しつくしましたから。「もとはお寺でしたが、いまはラブホテルです」のようなことが大阪の場合、往々にしてあるので「まま。どうぞ。ごらんください」なんてことがいえないw そうなると「かつてあった何か」というのは「語り」でしか表現せざるをえないんですな。
「語り」は「騙り」でもあって、結局、嘘が入ります。見たことないんですから、どうしてもそうなりますわな。しかし、この嘘が重要で。「講釈師、見てきたように嘘をつき」の、あのいかがわしさと、面白さが、大阪のまち歩きの醍醐味です。「虚実の皮膜にこそ美が宿る」といったのは近松門左衛門。偉大なる近松に倣って「真実3分に嘘8分。足すと11分で数が合わない」ってのがぼくのまち歩きですw 実際、大阪七墓巡りとかいってますが、いまは墓残ってませんから。まちなかですから。そこを「大阪七墓巡りです」と称して歩くのは、これはかなりトリッキーで、反則技で、高等すぎる芸ですw
京都のまち歩きは歴史であり、史跡案内。大阪のまち歩きは物語であり、語りの芸です。京都は知識を教えればいい。大阪は虚実を語ればいい。まち歩き=コミュニティ・ツーリズムとは、そのまち(コミュニティ)独自のツーリズムであるべきであって、だから、それでよろしい。
①長尾街道
堺から方違神社、河内国府、二上山などを経て式内社・長尾神社(葛城市)に至ります。古代の大津道の後進とされています。江戸時代には大和街道、奈良道などとも呼ばれました。日本書紀に「天武元年(672)に大海人皇子に味方した大伴吹負軍が高安城を占拠すると翌朝、大津道と丹比道(竹内街道)から大友皇子の軍勢が押し寄せてきた」という記述があります。
②方違神社
社伝では崇神8年(紀元前90)に天皇の勅願で物部大母呂隅足尼を茅渟石津原に遣わして須佐之男神を祀ったのが起源です。201年の忍熊王の乱では、神功皇后が三筒男神の教えで八十平瓮を作って方災除けを行って勝利しました。応神帝に方違大依羅神社と名づけられ、仁徳帝、孝徳帝、空海、平清盛、後鳥羽帝、徳川家康などが敬ったと関連文献にあり、明治元年(1868)の東京遷都では17日間の祈祷を行いました。摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の境にあるので三国山、三国の衢、三国丘と称され、万葉集にも「三国山 こずえに住まふ むささびの 鳥まつがごと われ待ち痩せむ」と出てきます。どこの国にも属さない聖地で、これが堺(境)の地名の由来ともいわれます。また神功皇后が方違神社南の鈴山という丘に黄金の雞を埋めたので、毎朝、美しい金鈴のような雞声が響き渡ったといい、その故事から幸雞の鈴(土鈴)を授与しています。
③旧天王貯水池
明治43年(1910)に堺初の上水道施設として野口広衛の設計で建設。大阪府下では大阪市(明治28年・1895)に次ぎ、総面積662平方メートル、約6万人の給水を補いました。正面入口は水道先進地の欧州にならって凱旋門風で、内部天井も優美な半円形のヴォールト架構です。貯水槽周囲は盛土で直射日光を遮り、細菌繁殖を防いで水質維持を図りました。また堺は良質な粘土が取れるので優れた瓦職人が数多くいましたが、明治以降は煉瓦職人として活躍、旧天王貯水池の煉瓦も堺産煉瓦が使われていると考えられます。昭和37年(1962)に使用停止。半世紀以上使用され、美しいデザインと優秀な施工技術は建築的価値が高く、平成13年(2001)に国の登録有形文化財に指定されました。
④反正陵古墳(田出井山古墳)
百舌鳥古墳群の北端にあります。墳丘規模は全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約14メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートルで、百舌鳥古墳群7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、出土した埴輪などから、大仙古墳(仁徳陵古墳)より新しい、5世紀後半に造られたと考えられています。一重の盾型周濠がめぐっていますが、かつて二重濠があったことが確認されています。百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。
⑤紅谷庵
大永年間(1521~1527)に堺の豪商・紅屋喜平が建て、牡丹花肖柏(1443~1527)が住んだことがあります。肖柏は室町期の連歌師で名門公家・中院通淳の子です。8歳のとき、無言で勉学する肖柏に「物をもいはで物習ふ人」というと「くちなしの花の色葉はうつすらむ」(くちなしの花は無口=無言、色葉をうつすはイロハを筆写する=勉学するという意味)と返して世間を驚かせた逸話があります。連歌師・宗祇(1421~1502)に師事して後土御門帝の内裏歌合にも参加。当代一流の宮廷文化人でしたが、応仁の乱(1467~1477)で摂津の大広寺(池田市綾羽町)に移り、「三愛記」(花・香・酒の風流記)を記述しました。師・宗祇が没したさいは、誰もが宗祇の秘伝を授かったと称して連歌界が大混乱したので後柏原天皇の勅で肖柏が式目(連歌の作法)を作り、事態を治めました。永正15年(1518)に摂津にも戦乱が及んだので紅谷庵に。河内屋宗訊、下田屋宗柳、坂東屋宗椿といった堺の豪商が集まる一大サロンを形成して、ここから堺伝授(連歌)、堺流(書)といった流派が生まれました。門人に囲まれながら肖柏は「角に金箔を施した牛に乗って往来」(扶桑隠逸伝)「牛の角に蹴鞠を結びつけて人々と蹴鞠を楽しむ」(類聚名物考)といった風雅な生活を送り、84歳で没しました。墓は南宗寺(南旅篭町)にあります。
⑥向泉寺閼伽井跡
聖武天皇勅願で天平(729~749)頃に行基(668~749)が建立した三國山遍照光院向泉寺の跡碑です。万病に効く閼伽井(閼伽とは仏前の供水のこと)が湧き、本堂が井戸(泉)に向っていたから、または寺院が和泉国に向っていたから向泉寺と称しました。王子社、方違社、東原天王社の祭礼の神水にも用いられましたが、永正年間(1504~1520)に兵火に遭い、次第に廃れていき、享保頃(1716~1735)に廃寺となりました。
⑦竹内街道
堺から二上山を越えて奈良・葛城に至ります。日本書紀の推古天皇21年(613)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」と記される日本最古の官道です。かつては丹比道(丹比野を横断するので)とも、また当麻道(当麻寺に至るので)ともいいました。飛鳥時代には遣隋・遣唐の使節や留学生らが往来するシルクロードで、経由する太子町界隈には聖徳太子廟の叡福寺や用明、推古、孝徳陵、小野妹子墓といった史跡が集積しています。文献上は7世紀に登場しますが百舌鳥古墳群や古市古墳群をつないでいるので古代から人々の往来があったと推測されます。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう」と記しています。
⑧西高野街道
堺から大阪狭山市、河内長野市、紀見峠を経て高野山に至ります。平安後期から参詣道として使用されたと考えられています。江戸時代には堺港と高野山との流通経路として大いに賑わいました。安政4年(1857)に茱萸木村の百姓人・小左衛門と五兵衛が発起して13本の一里塚道標を建立(堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一理堂標石まで)、すべて現存しています。また「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたのを契機に西高野街道観光キャンペーン協議会が発足。ウォーキングイベントを実施しているほか「西高野街道ウォーキング徹底ガイド」(堺東観光案内所にて販売:1部100円)なども発行して西高野街道の魅力創出に努めています。
⑨榎宝篋印塔
慶安元年 (1648)に僧・夢幻永海が勧進して建立。花崗岩製で高さ約4.39メートルあります。昭和30年(1955)の解体修理で塔内部から宝篋印陀羅尼経、塔建立の趣意書、寄進者の氏名、金額などを記した奉加帳が見つかり、塔を置いたのは道を行き交う多くの人々との良縁を結びたいと記されていました。竹内街道、西高野街道沿いにあり、350年以上の長きに渡って、数多くの旅人たちを見守ってきた歴史の生き証人といえます。
⑩堺東観光案内所
パンフやマップなど堺の観光情報が満載。観光ボランティアも常駐(10:00~16:30 第1月曜日・年末年始除く)で、堺の観光相談にお応えしてくれます。堺市優良観光みやげ品を販売しているほか、1日300円でレンタサイクルも行っています(貸出時には運転免許証など本人確認が必要です)。堺観光の際はぜひお立ち寄り下さい。※住所:堺市堺区中瓦町2-3-24博愛ビル1階/電話番号:072-238-7174/営業時間:9:00~19:00/休館日:年末年始 /駐車場:無し
⑪堺市役所21階展望ロビー・喫茶ミエール
堺市役所最上階にあります。地上80メートル、360度の展望が楽しめる回廊式ロビー(入場料は無料)で、大仙古墳、六甲山、関西国際空港、生駒・金剛山、大阪城などが見渡せます。ゆっくりくつろげる喫茶ミエールもあります。
①南海本線「湊駅」
明治30年(1897)10月に南海電鉄によって設置されました。出島浜に近く、戦前は海水浴客や大浜水上飛行場などで大いに賑わいました。出島浜の歴史は非常に古く、鎌倉時代に沖合に迷い込んだ鯨の捕獲に失敗して、漁師達が慰め合ったことがきっかけという「鯨まつり」が伝えられています。「くじらとろとて網まですいて くじら熊野へみなかえる 沖に見えるはくじらの山か おかへのぼせば黄金山」と鯨音頭を歌いながら、竹組みで作った模型の鯨を担いで出島浜から住吉大社まで練り歩くというもので、昭和29年(1954)の祭礼時は約27メートルの巨大鯨が奉納されました。
②与謝野晶子歌碑(湊駅前公園内)
湊駅前東通商店会が主体となって歌碑を建立しました。「ちぬの海 いさな寄るなる をちかたは ひねもす霞む 海恋しけれ」「夕されば 浜の出島の うたひめの 島田にまじり かはほりぞ飛ぶ」と湊、出島浜ゆかりの与謝野晶子の歌二首が刻まれています。
③旧堺紡績会社 変電所
明治29年(1896)、堺紡績会社の紡績工場が竣工して操業を開始。のちに阿波紡績、福島紡績と合併しましたが、紡績業界の斜陽化で昭和38年(1963)に木工工場となり、昭和51年(1976)にそれも移転しました。ノコギリ屋根の煉瓦造りの美しい工場群でしたが取り壊され、変電所の窓と外壁の一部を切り取ったモニュメントが保存されています。
④堺の穴子
かつて堺は「穴子屋筋」という通りがあったほど穴子漁が盛んで、「下関のふぐ 堺の穴子」と称される穴子の名産地でした。昭和3年(1928)の第5回内国勧業博覧会のさいに発行された旅行ガイドブック「堺市案内記」にも堺の名産として芥子餅、くるみ餅などと並んで「あなご料理」が記載されています。深清鮓さんはその伝統をいまに伝えてくれる老舗の穴子寿司専門店です。
⑤土居川
中世・堺は日本一の国際貿易港として繁栄し、堺の商人たちは戦国の争乱に巻き込まれないように環濠を作って自治都市を築きました。その後、秀吉によって環濠は埋め立てられ、大坂夏の陣の戦乱で堺は焼け野原となりますが、徳川幕府はすぐに堺の町を復興し、環濠も復活させました。これが現在の土居川で、土堤防(土居、土塁)を築いたことが川名の由来といわれています。マボラ、セスジボラ、メナダといった魚や、コサギ、ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、アオサギといった鳥の飛来も確認されています。
⑥紀州街道
大坂から住吉大社、堺を経て和歌山までを結ぶ街道です。古代には白砂青松の美しい海岸沿いにあって「岸の辺の道」と呼ばれ、江戸時代には紀州藩の参勤交代の街道としても栄えました。昭和48年(1973)には司馬遼太郎が「街道をゆく」の取材で紀州街道を訪れ、山崎理髪店(現・山崎たばこ店)の店主に船待神社を案内されています。司馬遼太郎は「中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っている」と堺のことを評しています。
⑦船待神社
かつては河内国大鳥群塩穴郷にあって天穂日命(土師氏・菅原氏の祖神)を祀る塩穴天神社と呼ばれ、延喜元年(901)1月には菅原道真公が太宰府へ下る船を待つあいだに参拝したといいます。その後、長保3年(1001)に管公の子孫・菅原朝臣為紀が管公を合祀し、船待天神社と改め、寛治年間(1087〜1093)に塩穴郷より当地に遷りました。管公お手植えの古松がありましたが昭和40年頃に枯死してしまい、その古木の下から発見されたのが腰掛石です。境内には明治40年(1907)に湊村字中筋にご鎮座していた村社・瘡神社も合祀されています。
⑧湊焼
奈良時代の僧・行基が熊取東部の丘陵地の白土を運び、湊の人に焼きものを教えたことが起源という伝説があり、また天正年間(1573~1593)に千利休の注文で点茶用の砂鍋を造り、その見事さに世人の賞賛を受けたと伝わります。しかし通説では楽焼の樂吉左衛門の弟・吉兵衛が、一子相伝の秘法を盗んだので勘当されて京都から来堺し、瀬戸物商の山本吉右衛門がパトロンとなって焼きものを始めたことが創始とされています。「本朝陶器攷證」によれば慶安年間(1648~1652)の話で、その後、吉兵衛は帰京して吉右衛門が焼きものを始め、18世紀末には交趾(ベトナム)風の釉薬が伝来して5代吉右衛門のときに「湊焼」を名乗り、15代吉右衛門は「火鉢屋吉右衛門」と呼ばれ、堺で知らぬ者がいないほどの名陶工でした。また明治に入ると山本家の職人頭が津塩吉右衛門と名乗って紀州街道筋に分家して、その住吉人形や南蛮人形、喜々猿(昭和55年・申年の年賀状切手の図案に採用されて日本全国に紹介されました)などは高く評価されています。また大鳥大社には明治13年(1880)奉納の「湊陶工吉右衛門」銘の陶額が、瘡神社に明治16年(1883)奉納の「能良遺法土師湊狂良」銘の陶額が現存しています。
⑨大内義弘供養塔(本行寺内)
大内義弘(1356~1400)は周防の守護大名でしたが、1371年に九州探題・今川貞世に協力して九州の南朝勢を討伐、1391年に山名氏が足利義満に叛乱した明徳の乱を鎮圧、1392年には南北朝合一に尽力して、和泉・紀伊・周防・長門・石見・豊前の6カ国を領しました。また李氏朝鮮や明との私貿易でも富を得ましたが、その勢力を恐れた義満と次第に対立。1399年、義満の挑発的な上洛命令を拒否して、鎌倉公方の足利満兼と通じて軍勢5000で堺に籠城。しかし関東管領・上杉憲定に説得されて満兼が挙兵を中止すると、義弘は孤立無援となり、幕府軍3万に攻められて壮絶な戦死を遂げました。俗にいう「応永の乱」で「応永記」という軍記にもなっていますが、のちに石川淳が応永の乱を舞台に「一露」という短編小説を書いています。
⑩瘡神神社跡
敏達14年(589)、瘡疾が流行したさいに、村民が医薬神・少彦名神を祀って祈願したところ、数多くの患者が治癒しました。霊験あらたかな神社として江戸時代には茶店が並び、門前市が出来て、参詣人が列を成したといいます。また瘡神社には牛と馬の2種類の絵馬があって、牛は生草を喰うので祈願時に牛の絵馬を、馬は枯草を食うのでお礼参り時に馬の絵馬を納める習慣がありました。瘡(くさ)を草(くさ)ともじったわけです。明治40年(1907)に鎮座していた湊村中筋から船待神社へと合祀されました。
⑪片桐棲龍堂(内部非公開)
創業400有余年の伝統老舗漢方薬局で、敷地内には江戸時代の伝統的建築物が数多くあり、主屋・東ノ蔵・中ノ蔵・摩利支尊天神社廟・西ノ蔵・洗い場・煉瓦塀は登録有形文化財となっています。また西ノ蔵は日本では数少ない漢方医薬専門資料館として国内外の専門家から高い評価を得ています。※内部非公開で、現在も店舗として使用されていますので、外観からの見学のみでお願いします。
⑫風車
明治以降、諸外国の輸入綿によって泉州の綿業は打撃をうけ、湊から石津にかけてはミツバ、ホウレンソウ、キクナといった野菜栽培を始めましたが、地域一帯は砂質土壌で大量の灌漑用水が必要でした。そこで大正期に地元の和田忠雄氏、高野長次郎氏、中尾正治氏らが、オランダ風車をヒントに、浜風を動力とした風車による地下水の組上げを考案。以後「堺の風車」は急速に普及して、1965年頃には400 基近くの風車が林立しますが、高度経済成長期に入ると農業地縮小やスプリンクラー導入などで風車灌漑は衰退し、現在では消滅してしまいました。新湊小学校前にある風車はレプリカで、湊の歴史文化を伝えるものとして保存されています。
⑬塩穴通
正式には堺市道「出島旭ヶ丘線」ですが、東に進むと「塩穴交差点」(大阪府道61号堺かつらぎ線)に出ます。承平年間 (931~938) に源順が編纂した辞書「和名類聚抄」にも「之保乃阿奈」(シオノアナ)という記述がありますが、湊地域はかつては和泉国大鳥郡塩穴郷に属していました。和銅元年(708)には元明天皇の勅命で塩穴寺が建立されたという記録もあります。また寛徳2年(1045)の藤原定頼の歌集「権中納言定頼卿集」には「さか井と伝所に しほゆあみに おはしけるに」とあって、当時の堺は万病に効く塩湯浴の名所として知られていました。現在でも湊には湊潮湯(関西唯一の海水のお風呂屋さん)などがあります。
⑭天下一御壷塩師堺湊伊織
天和3年(1683)に衣笠一閑が著した堺地誌「堺鑑」によれば、天文年間(1532~1554)に三十六歌仙のひとり・猿丸太夫の子孫という藤太郎(藤太夫説もあり)が、京都上鴨の畠枝村から湊に住みついて紀州雑賀塩を土壺に入れて焼き直して諸国に販売しました。承応3年(1654)には堺政所の石河利正土佐守が女院御所(東福門院、徳川秀忠五女、明正天皇生母)に湊壺塩を献上して、その繊細な味を褒め称えられ、「天下一」の美号を許されました。また延宝7年(1679)にも関白・鷹司殿下より美名「伊織」を賜りました。船待神社に壺塩屋が寄進した菅原道真公の掛軸があって、その裏に願文と壺焼屋の系図があり、伊織は9代目壺塩師ということがわかっています。湊壷塩は北は仙台城から南は鹿児島の鶴丸城でも発見され、また長崎・出島のオランダ商館にも持ち込まれていたという記録があります。
①堺駅
近畿の駅100選。江戸時代は戎島附洲新田(大和川の堆積土砂)で、明治21年(1888)に市最古の駅として開業。当時は吾妻橋駅とも呼ばれました。構内に「大正の広重」こと吉田初三郎(1884~1955)が河盛安之介市長の懇嘱で昭和10年(1935)に描いた「堺市鳥瞰図」(堺市博物館蔵)と、江戸初期の「南蛮屏風」(同館蔵)の壁画が掲示されています。
②堺駅観光案内所
南海堺駅ビル1F(9:00~18:00)、堺駅西口改札横(10:00~19:00)の2箇所あります。堺観光ボランティア協会のガイドさんが観光相談にお応えしてくれます(10:00~16:30 ※第1月曜日・年末年始除く)。またレンタサイクル(1日300円・貸出時は運転免許証など本人証明必要)も行っています。
③川の駅・堺(観濠クルーズSakai乗船場)
自由都市・堺の象徴=環濠の名残である内川・土居川で、観光船を運航するNPO法人観濠クルーズSakaiの乗船場です。バーテンダーや線香屋の若旦那、主婦など多彩なガイドさんによるクルージングが楽しめます。※運航期間:3月末~11月の土日 所用時間:約50分 定員:大人18名 料金:大人1000円・小人500円(小学生以下) 予約・問合せ:072-229-8851(受付時間10:00~17:00)
④南蛮橋(南蛮人像)
堅川に掛橋。南蛮人像が設置されています。中世・堺は日明、南蛮貿易港として栄え、数多くのポルトガル商人や宣教師が来堺しました。多彩な文化交流から火縄銃、線香、三味線、芥子餅などが生まれ、堺の名産となりました。
⑤堅川
宝永元年(1704)に大和川付替で土砂が溜まり、堺の港湾機能に支障が出ました。浅草商人・吉川俵右衛門は、奈良~江戸間の材木中継港として堺港復興を訴えて、堺商人と協力して修築を開始(寛政2年・1790)。暴風雨に遭難しながらも約20年がかりで工事を遂行、堺旧港の原型が形作られました。堅川は船が出入りする川口ですが、その工事は町衆総出の砂持興業で「町中追々砂持手伝とて、のぼり吹きしめ、花やかに仕立て、ばば、女、子供にいたるまで南北残らず出候。(中略)二万余人の人数、みなみな波止前にて太鼓・鐘・いろいろ鳴り物にてはやし、先代未聞の賑わひ、筆につくしがたく」と「堺代々御奉行記」にあります。吉川俵右衛門(江戸=東=吾妻)の功績を讃えて、内川に吾妻橋が架けられています。
⑥龍神橋
天保9年(1838)架橋。大和川付替で堺港は寂れる一方なので、天明6年(1786)越後の龍沢山善法寺の僧(注1)が港復興祈祷を行うと、日没後に海上に燈明が煌めきました。これぞ「龍神の霊験」と評判になり、吉川俵右衛門の築港事業で出来た新地を龍神と名付けました。遊郭、芝居小屋、御茶屋などが並び、「龍神よいとこよい酔心地 むかし隆達トントン拍子 今は小唄の音を聞きや可愛い いとしお方の花だより 龍神よいとこよい廓」といった粋な「龍神小唄」(作歌:食満南北 作曲:杵屋和吉 振付:藤間門壽郎)が流れる新地として大いに繁栄しました。(注1)出羽庄内善宝寺(龍神尊)の僧という説もあります。37日間の祈祷後、経文を石に刻んで海中に埋めると土砂が退散して港が繁栄を取り戻した…というものです。
⑦二世中村富十郎住宅址
二世中村富十郎(1786―1855)は初代市川甚之助に入門、後に三世中村歌右衛門の門弟に。頭角を現して天保4年(1833)には大坂角之芝居で三世中村松江から二世中村富十郎を襲名しました。天保13年(1842)「役者投扇曲」では「若女形巻軸白極上上吉」の位付で「難波の太夫」と呼ばれて「江戸の飾海老」こと七世市川団十郎と並ぶ名女形でしたが、質素倹約が旨の天保改革で豪奢な生活を咎められ、摂津・河内・和泉から追放されました(団十郎も江戸十里四方追放に)。その後、天領(御免地)の堺に移住し、当初は戎之町大道で小間物屋・八幡屋を営みますが、才を惜しんだ新地世話方・松原武次郎の説得で、「娘道成寺」の白拍子などを新地北芝居(龍神橋通2丁)で演じて舞台復帰。大坂はもとより京の三条紅粉平といった富十郎贔屓が押しかけ、初日から満員御礼の大入り。また堺奉行より「旅役者取締役」に任命され、以後、堺を拠点に京、伊勢、名古屋、江戸などで活躍。嘉永2年(1849)には京都北側芝居で七世市川団十郎、三世尾上菊五郎と共演しています。安政元年(1854)には評判記の位付で「無類」となり、「堺の大太夫」とも呼ばれましたが、安政2年(1855)に堺で没。大小路東向井領に葬られ、本成寺(寺地町東4丁)、正法寺(大阪市中央区中寺町)に詣墓があります。
⑧龍神駅跡(現・コンフォートホテル堺)
明治36年(1903)、大浜公園で第5回内国勧業博覧会開催。堺水族館・大浜潮湯・大浜少女歌劇などが出来て、大正元年(1912)堺駅南方500メートルに龍神駅が開業しました。龍神新地にも近く、殷賑を極め、戦前は市最多の乗降客数で特急・急行は堺駅を通過して龍神駅に停車するほどでした。戦災後は旅客営業は龍神駅のみで堺駅は貨物駅でしたが、昭和30年(1955)に両駅を統合。龍神駅(現・コンフォートホテル堺)を堺駅として使用しましたが、昭和60年(1985)南海本線高架化で現・堺駅へ移転しました。バスロータリー中央部の「南蛮船」は堺の彫刻家・岡村哲伸氏の作品で、氏は堺市制110周年記念事業として龍女神像(北波止町)制作も手がけています。
⑨神明神社
天保3年(1832)に佐々木長門なる人物が稲荷明神等を祀って旭社としましたが、天保12年(1841)に堺奉行・水野若狭守忠一が天照大御神と豊受大御神を勧請。宿院町・布屋源治郎から敷地を寄進されて神明社と改めました。「堺のお伊勢さん」ともいわれます。境内には天保4年銘、天保12年銘の石灯篭や、龍神新地の遊郭の楼主が寄進した玉垣が残っています。また蘇鉄山山岳会の活動拠点で、一等三角点が設置されている日本一低い山・蘇鉄山(標高6.84mメートル。大浜公園内)に登れば「蘇鉄山登山認定証」(有料。1枚20円)を発行してくれます。
⑩龍神堂
龍神祈願で堺港が復興したと喜んだ新地の人々は、天保6年(1835)に善法寺を建立、龍神堂と絵馬堂を造営しました。しかし明治維新後に廃寺に。龍神堂だけが旭館(⑬旭橋の項目を参照)内に残り、昭和5年(1930)国道26号線敷設で当地に移りました。全国各地の郷土玩具を描いた堺の画家・川崎巨泉(1877-1942)が遺した自筆写生画帳「人魚洞文庫」に「堺大浜通一丁目龍神堂奉納絵馬 昭和六年九月写」とクジラの絵馬が写生されています。
⑪堺魚市場
古来より堺は漁業が盛んでした。奈良・京都への貴重な海産物供給地で、堺魚商人の中には春日社供菜人(春日大社には天文7年・堺魚屋弥次郎寄進の石燈篭が現存)や御所の禁裏御用などもいました。供菜人、禁裏御用は関銭(関所の通行料)免除で、海産物を納める代償に諸国を自由に通行する特権を得て、回船業(流通業)などへも進出しました。堺魚市場は代々、魚商人を営んだ名家・久家が秀吉から土地(現・英彰小学校付近)を賜ったのが起源で、江戸時代には魚市場(紺屋町浜=少林寺町西4丁付近)と海船魚市(柳之町浜=柳之町西3丁付近)が開場。元禄8年(1695)には問屋30軒、仲買600軒と大繁盛しましたが明治以降に現在地(栄橋町)に移転しました。鎌倉期に住吉大社に魚を奉納して豊漁祈願し、市をたてたのが起源の大魚夜市(毎年7月31日に大浜公園で開催)は堺の夏の風物詩として知られています。
⑫旭橋の橋柱(アサヒビールゆかりの地)
天保5年(1835)に掘られた旭川に架橋。昭和30年(1955)に川は埋立てられ橋柱のみです。嘉永(1848〜1853)頃に描かれた「泉州堺湊新地繁栄之図」(堺市立中央図書館蔵)には、旭橋近くに「朝日の家」が記されていますが、堺屈指の御茶屋で有名でした。その後、明治21年(1888)に旭橋西詰に4000坪の大庭園を有する政財界の名士社交場「旭館」が開館。鳥井駒吉(1854~1909 堺の酒造家)が会議として使い、翌年、大阪麦酒会社(現・アサヒビール株式会社)を創業。この旭館が「アサヒビール」の由来という説があります。またビール発売当初の「波に朝日」ラベルは、「浪花百景」などを手がけた堺の浮世絵師・中井芳瀧(1841~1899)が描きました。旭館は昭和6年(1931)の国道26号開設時に閉館。堺市役所前の大蘇鉄は旭館から移転したものといわれています。
⑬堺事件発生の地
慶応4年(1868)、大坂入りしたフランス領事を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスの水兵が堺に上陸したところ、警備中の土佐藩軍艦府は「通達がない」と上陸を阻止。言葉が通じない混乱の中、フランス兵が藩旗を倒そうとしたため、土佐藩側が発砲。水兵11名を殺傷、溺死させました(堺事件)。フランス公使レオン・ロッシュは猛烈に抗議して関係者20名の切腹、15万ドルの賠償金を要求。国力差から明治政府は全ての要求を受諾。当初、関係者は29名いたので土佐稲荷神社(大阪市西区)で籤を引いて切腹者を選抜。妙国寺(材木町東4丁)で刑が執行されますが、切腹のあまりの凄惨さに軍艦長デュプティ=トゥアールは11人目で中止を要請、結果として9人が助命されました。自刃した藩士は宝珠院(宿屋町東3丁)に葬られ、国指定史跡「土佐十一烈士墓」となっています(同院には後にフランス兵の慰霊碑も建立)。森鴎外「堺事件」、大岡昇平「堺港攘夷始末」、司馬遼太郎「新装版 俄 -浪華遊侠伝-」などの小説の題材にもなっています。
⑭パンゲア
元々、工場だった建物を改造してカフェに。海が見えるテラスが人気で、堺旧港・龍女神像の彼方に沈んでいく夕陽を眺めながら、美味しいお食事、お酒が楽しめます。NPO法人SEINの運営で堺市民の活発なコミュニティ活動の情報なども。堺探検クラブのマップも入手できます! ※営業時間:平日15:00~23:00 土曜12:00~23:00 日曜12:00~22:00(月曜日定休)TEL:072-222-0024
⑮与謝野晶子像
与謝野晶子(1878~1942)生誕120年記念、堺陵東ライオンズクラブ結成25周年記念アクティビティとして設置されました。「ふるさとの 潮の遠音の わが胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」(歌集「舞姫」より)の歌が刻まれています。