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今日は「應典院コモンズフェスタ2014」の第1回企画会議。ありがたいことに去年に引き続いて今年も企画委員として携わることになりました。去年は「如是我聞」「まわしよみ新聞」「葬食」「117から311へ」などを企画。去年はコモンズということを重要視しましたが、今年は應典院という「場(トポス)の力」を引き出すような企画をやってみたいなぁと思ってます。
■應典院コモンズフェスタ2013
http://www.outenin.com/modules/contents/index.php?content_id=682
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の8月15日の「七墓巡礼」のハイライトはこの瞬間でした。正午ちょうどに真田山陸軍墓地で8000名を超える英霊たちと一緒に聞いた「玉音放送」。
国内法としても、国際法としても、8月15日は終戦記念日ではないんです。この日は、ただ、玉音放送が流れただけ。
8月14日に「明日、重大なラジオ放送がある」ということは国民に告げられていたらしく、それを聞いて覚悟した人が大勢いたそうです。「もし天皇陛下が死のうといったら喜んで死のう」と。連日連夜の空襲で、都市が灰燼と化し、敗北必須の状況にあって、生き延びることを考えなかった夏。
ラジオというのは電波です。目に見えない。それは霊波にも似ている。そして日本人の祖霊は盆のときに帰ります。なぜ8月15日に玉音放送が流されたのか?ぼくはこの玉音放送は、生者のみではなく、目に見えない存在=死者にも向けられた放送だったと思ってます。だから、日本は終戦を迎えることができたと。
■8/15(木)8時よりJR福島駅より【大阪七墓巡り2013~真田山・陸軍墓地で玉音放送を聴き、釜ヶ崎夏祭りの慰霊祭で祈る~】
http://www.facebook.com/events/172394669609419
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の葭原墓地編で使用したレジュメ。七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/13(火)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑤葭原編】「北夙川不可止伯爵のレクイエム歌會」と葭原まち歩き
http://www.facebook.com/events/238355509622577/
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【沖向地蔵は知っている。「おしてるや」の夕陽と海を】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 葭原墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●葭原墓地は上町台地の北端に位置する。
古代、上町台地は海に囲まれていた。やがて河川の土砂が堆積し、それが砂州となり、島地となり、湿地帯となり、葭原(葦原・吉原・蘆原・芦原)となった。それは浪花の男と女の別れと再会の能楽『芦刈』の原風景にもなった。また周辺には中崎、豊崎、黒崎など、かつて葭原墓地周辺が「崎」であったことを伝える地名も多い。
●沖向地蔵
この沖とは「西方浄土の海」のこと。沖向地蔵は難波の枕詞「おしてるや」(押し照るや=押し照らすかのようにキラキラと光り輝く)の夕陽と海を眺めていた。ちなみに地蔵菩薩は基本、東(太陽が昇るところ)か南(太陽が一番高い所)を向く。西向きや北向きは非常に珍しい。これは太陽ではなく夜の世界(死者)の方角ともいえる。
●日想観の影響
『観無量寿経』 西方浄土に往生を遂げるための初観(第一の観)
釈迦、韋提希に告げたまわく「汝、および衆生は、まさに心を専らにし、念いを一処に繋げて西方を想え。云何が想を作さん。凡そ想を作すとは、一切の衆生、自ら生盲に非ずして、目をもつ徒は、皆、日没を見て、まさに想念を起すべし。正しく西に向いて坐し、諦らかに日を観て、心をして堅く住め、専ら想を移さざらしめ、日の没せんと欲するときの状は鼓を天に懸けたるが如しと見よ。既に日を見おわりなば、目を閉づるも目を開くも皆、明了ならしめよ。これを日想と為し、名づけて初観と曰う。この観を作すをば名づけて正観と為す。他の観の若きを名づけて邪観と為す」
●西方浄土への補陀落渡海
「当堺にきたる後、日本人が偽の天国にいく方法を見たり。すなわち艱難多き現世壓き、安静なる他の世を望める者、天国行きを実行せんと決心せり…日本人は国多数あるがごとく天国も多数あり…天国中、海水の下にあるものあり。彼らは衣をあらため、最もよき物を着し、各々背に大石を縛り付け、袖に石を満たし、すみやかに天国に達せんとす。余が見たる人は7人の同行を伴いたり。船に乗り海に投ずる時おおいに歓喜せることは、余が非常に驚きたるところなり」
永禄2年(1562) 宣教師ガスパル・ビレラの書簡より
「一人ずつ深き海、むしろ地獄に投身せり、追随せし人々は、ただちに空虚なる船に火を付けたり」
永禄5年(1565) 宣教師ルイス・フロイス書簡より
●法然上人 ご詠歌
「阿弥陀仏と いうよりほかは 津の国の なにはのことも あしかりぬべし」
一心不乱に南無阿弥陀仏と唱えること以外のことをしてはいけない。南無阿弥陀仏と唱えることで、津の国・難波のことは、すべてよくなる。
●後白河法皇 ご詠歌
「難波潟 入りにし日をも 眺むれば よしあしともに 南無阿弥陀仏」
難波の地にやってきて、海に沈み行く夕陽を眺めれば、良い人間も悪い人間も極楽往生にいける。
●長柄墓地(大阪市設北墓地)
明治維新後、大阪市中の各墓地は整理され、北(梅田墓地、葭原墓地など)は長柄に、南(小橋墓地、千日墓地、飛田墓地など)は阿倍野にまとめられ、明治40年(1907)より大阪市が経営することになった。約6.5平方キロメートルの敷地に5000以上の墓碑がある。司馬遼太郎の『俄-浪華遊侠伝-』の主人公としても知られる任侠者の小林佐兵衛、大阪商法会議所(のちの大阪商工会議所)設立に尽力して初代副会頭となった中野梧―、土佐の武市半平太の従兄弟で第3代大阪市長の山下重威などが眠っている。
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の飛田(鳶田、太子)墓地編で使用する予定だったレジュメ。これはしかし12時間にも及ぶ七墓巡礼のあとで披露困憊だったので、結局、使用できませんでしたw 大阪七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/15(木)20時よりココルームにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑦飛田編】「詩業家・上田假奈代による詩のワークショップ」と飛田まち歩き
http://www.facebook.com/events/399655600143585/
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【現在進行形の無縁大慈悲。弱法師たちは今日も狂う】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 鳶田墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●太子墓地(鳶田墓地)=聖徳太子起源の大阪最古級の墓地
聖徳太子とはなにものか?皇族(神道の祭祀王)でありながら仏教(外来思想)に帰依した→「神仏習合」。また、ちゃんとした「修行」などをした形跡はないが「夢殿」に篭ったという伝承がある。さらに「當麻寺」を作っている→「大麻寺」? 宣教師はアヘンを用いて清の信者を獲得した。もしかしたら太子の夢殿と當麻寺の関係性は…?
●弱法師
日本最古の宗教地であり、「西方浄土」(浄土教)の聖地となった大阪。四天王寺西門下(現在の釜ヶ崎界隈)には救済(お布施)を求めて日本全国各地から「弱法師」(社会的弱者)が集まった。とくに有名な弱法師として河内国の俊徳丸がいる。讒言により我が子「俊徳丸」を追い出した河内国高安の左衛門尉通俊。自分の罪滅ぼしに天王寺で七日間の施行を行っていると、盲目の乞食「弱法師」がやってくる。弱法師は天王寺の有難さを語ることでお布施を頂いていたが、よく見ると我が子・俊徳丸であった。あまりのみすぼらしい姿に道俊は名乗りを上げることがでいない。夜になってから密かに会いに行き、道俊は弱法師に日想観を説き、その有難さに弱法師は狂う。
「日想観なれば曇りも波の。淡路絵島須磨明石。紀の海までも見えたり見えたり。満目青山は心にあり。おう。見るぞとよ見るぞとよ。いまは狂い候わじ。今よりはさらに狂わじ」「今ははや夜も更け人も静まりぬ。いかなる人の果やらんその名を名のり給えや」「思いよらずや誰なれば。わが古を問い給う。高安の里なりし.俊徳丸が果なり」「さては嬉しやこれこそは。父高安の通俊よ」「そも通俊はわが父の。そのおん声と聞くよりも。胸うち騒ぎあきれつつ」「こわいかにとて」「俊徳は」「親ながら恥かしとて。あらぬ方へ逃げ行けば。父は追いつき手を取りて。何をか包む難波寺の。鐘の声も夜紛れに。明けぬさきにと誘い。高安の里に帰りけり。高安の里に帰りけり」
●大坂四ヶ所 転び切支丹(棄教者)が首切り役人となった
「垣外」とも言われ天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所の居住地のこと。この間に上下関係はなかった。垣外は多数のキリスト教信者が住んでいたが、その殆どが寛永8年(1631)の弾圧で棄教者(転び)となったもの。改宗を拒んだものはマカオなどへ追放されている。
「迫害は、北部、及び南部の諸州で、多數の殉教者を出してゐた、しかし、それは、天領、殊に京都、伏見、堺、大坂の如き大都市では、更に全般的で、更に殘酷であつた。熱心なキリシタン達は、執拗に捜し出され、自白させんがために、拷問にかけられた。ために、若干の人々は、生命を棄てて、靈魂を救つた、或る者は、不幸にも、棄教して、その精神的の父を裏切つた。この精神的の父に對し、暴君が死刑を科したのは、彼等の體に對してではなくて、靈魂に對してであつた。乞食や癩病人に至るまで、何でもないキリシタン達が、例外なく追放された」
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』
●大塩平八郎の乱
天保の大飢饉で飢えた大坂庶民を救うため、大坂奉行所の名門与力でありながら、「救民」の旗印を掲げて決起した。その大塩の爆死した死体は塩漬けにされ、鳶田の仕置場で磔刑にされている。釜ヶ崎界隈の民衆に、大塩の無残な姿を見せつける必要があったのだろう。また1961年から度々、釜ヶ崎では暴動が起きる。2008年にも第24次暴動が起きた。
●釜ヶ崎夏祭
1972年に第1回が開催。毎年8月15日には亡くなった日雇労働者らを慰霊する祭壇が用意され、追悼式が行われる。
●阿倍野墓地
明治7(1874)年に完成。千日前、小橋、飛田にあった墓地などが移転された。
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の蒲生墓地編で使用したレジュメ。七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/14(水)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑥蒲生編】「書家・田面遙華による書のワークショップ」と蒲生まち歩き
http://www.facebook.com/events/206690852822069/
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【大坂城炎上!なにわのことは夢のまた夢…】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 鳶田墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●大坂夏の陣の戦死者たち…その数、10万人
関東方が討ち取った大坂方の首は『長沢聞書』によれば18350人。『大坂物語』によれば14629人。これは、しかし、戦闘員の首の数で、非戦闘員については不明。
「大坂にこもりたる衆は、命ながらへたる衆は、ことごとく具足をぬぎ捨て、裸にて女子もにげちる」(大久保彦左衛門『三河物語』より)
「多くの人は約10万人が死んだと言い、町の中で殺された人々のほか、合戦が行われた周辺も死体で埋まっていた。大坂の川(大川)は水が豊富で非常に深いだけに、敵の武器や火事を免れようとした多くの人々のために、かえって墓場と化した。川底は死体で埋もれ、向岸へ渡ろうとすれば、その上を歩かねばならないほどであった。やっと命を助かって大坂から逃げた人々が途中で殺されることもあった。つまり土民や他の人々は逃亡者の持ち物を奪い取り、彼らを虐待するため、襲い掛かって彼らを殺してしまうのは、このような時の日本のならわしである」
(『切支丹研究第17集』の「耶蘇会史料」より)
●豊臣政権の滅亡
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」
●弁天島→大阪砲兵工廠時代
弁天島・弁天社→淀君神社→墓は現在は太融寺へ。「淀の君」の「君」というのは遊女的意味があって蔑称。「淀の方」が正式。※大坂城の鬼門(東北)に淀の方の墓を置かれた事実。怨霊鎮めのためと考えられる。
●京橋空襲 1945年8月14日(終戦前日の悲劇)【大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑】
太平洋戦争終戦前日の昭和20年8月14日、大阪は最後の大空襲を受けた。B29戦略爆撃機は特に大阪城内の大阪陸軍造兵廠に対し、集中攻撃を加えたが、その際、流れ弾の1トン爆弾が4発、京橋駅に落ちた。うち1発が多数の乗客が避難していた片町線ホームに高架上の城東線(現、環状線)を、突き抜けて落ちたため、まさに断末魔の叫びが飛び交う生き地獄そのものであったという。判明している被爆犠牲者は210名であるが、他に無縁仏となったみ霊は数え切れなく、500名とも、600名とも言われている。当時、地獄のような惨状を目撃した大東市の森本栄一郎氏があまりの悲惨さに胸を痛め、その霊を弔おうと昭和22年8月14日、自費で建立された。
●大阪砲兵工廠跡は戦後最大のアジール(悪所)と化す アパッチ族
伊沢組、松山組、徳山組、大川組、松岡組がいた。新米は1日3食付で200円の教授料を支払う。昭和27年(1952)当時、30万円の人夫代で2000万円を古鉄を集めた。当時の30万円は現在の紙幣価値で約200万円ほど。2000万円は約1億3000万円。※時代は朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)。鉄こそが力の時代。祖国を分断する戦争に使用される鉄を拾い集めていたのが大阪の在日コリアンたちだった。
※ちなみに一番最初は婆さん2人からスタート。そのうちのひとりの名前は「おきく婆さん」
●アジールから生まれたアートという系譜
太子墓地から「弱法師」が、千日墓地から「大近松」が生まれたように、蒲生墓地(アパッチ族を題材にして)から戦後大阪文学(開高健、小松左京)が誕生している。
開高健・・・アパッチ族を題材に『日本三文オペラ』を書く。ベトナム戦争からアマゾンまで。行動派作家。ルポ作家の奔り。
小松左京・・・アパッチ族を題材に『日本アパッチ族』を書く。日本SFの父。パニック小説。輪廻転生SFの大傑作『果てしなき流れの果てに』
「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」の千日墓地編で使用したレジュメ。七墓巡りの資料として公開しておきます。
■8/12(月)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ④千日編】「舞踊家・木室陽一による舞踊ワークショップ」と千日まち歩き
http://www.facebook.com/events/209576585862450/
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【悪所狂ひの身の果ては、角の芝居か?千日墓地か?】
~大阪七墓巡り復活プロジェクト 千日墓地のゲニウス・ロキ(地霊)を語る~
●大阪夏の陣で討ち死にした安井(成安)道頓
安井道頓は秀吉に仕え、大坂城の外壕を掘鑿に対する賞として城南の地を拝領。その後、豊臣家の許可を受けて私財を投じて水路開発に着手。ところが1615年(元和元年)の夏の陣で自分の堀川を埋め立てられる。道頓堀はすでに武士を引退していたが、なんと82歳の高齢で大坂城に立てこもり、城内で壮絶に討ち死に。いまの道頓堀川は戦後、幕府によって掘り返され、その名前は彼の功績(怨霊鎮め?)を讃えて「道頓堀」となづけられた。非常に「豊臣の匂い」「豊臣色」が強い土地で、そこに戎(えびす)を信仰する被差別民の河原者(芸能の民)が集まり、やがて芝居小屋(道頓堀五座)が生まれてきた。
●道頓堀川にかかる戎橋
戎橋は今宮戎神社への参詣道。現在は戎橋筋商店街になっている。戎神は日本古来の漂流神で、流れ者、芸能の民の神となった。人形を用いて戎信仰を広めた芸能民として「傀儡師」(くぐつし)たちがいて、これが「人形浄瑠璃」「文楽」「からくり芝居」となり、果ては「くいだおれ人形」(電気仕掛けのからくり人形)に通じる。
●道頓堀(芝居小屋)と千日前(墓地、死刑場)が産んだ近松門左衛門の「虚実皮膜論」
角座(道頓堀五座の中で最大の小屋)からは、小屋裏にあった千日墓地の罪人の晒し首が見えた。大坂の芝居は世話物で和事。江戸芝居のような英雄悪漢・傾城傾国の美女が大活劇を繰り広げる!という荒事ではない。主人公は何の変哲もない町衆で、金と色と欲と義理と人情の板ばさみで、犯してはならぬ罪咎に悩み、苦しみ、傷つけられ、最後は天網恢恢疎にして洩らさずの過酷な運命の裁きで千日前の獄門台へと涙涙に送られていく。大阪の町衆は角座で千日墓地の罪人たちのドラマに涙した。千日刑場は最高の演出であり、また裏を返せば、道頓堀の芝居は、千日の罪人たちに対する鎮魂劇であり、レクイエムだった。芝居なのか?真実なのか?わからない。「虚実の皮膜」(近松門左衛門)こそが、もっとも面白い。芝居小屋と刑場。道頓堀と千日前というまちは、そういう関係にある。
●近松門左衛門『曾根崎心中』のスピード感
『曽根崎心中』は、元禄16年4月7日(1703年5月22日)に遊女「はつ(21歳)」と手代「徳兵衛(25歳)」が露天神で情死した事件が題材。人形浄瑠璃『曽根崎心中』は一か月後の5月7日(6月20日)に道頓堀の竹本座で初演された。この生々しさ。まるでニュース番組のようなスピード感で、近松は関係者を片っ端から聞き取り調査、リサーチしている。近松は作家というよりは、一種のドキュメンタリスト、ジャーナリストといえる。
●千日墓地からお化け屋敷、見世物小屋に
千日墓地は明治2年(1869)に廃止され、土地は競売に。しかし、だれもこんな禍禍しい土地は買わない。ところがここを興行師(というよりも山師の類)が買い取って「お化け屋敷」(ちゃんとゴールできたら返金という宣伝が評判を呼んだ)を作り、大ヒット。そこから化け物屋敷→見世物小屋→フリークスのまちになった時代もある。これはしかし「ミナミの大火」(明治45年・1912年)によって灰燼と化し、その記憶も忘れ去られている。また千日前から初めての映画製作興行会社が誕生しているが、当時の洋物映画は怪物映画(フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男、ミイラ男など)が主流だったことも忘れてはならない。
●土壇場
人間の体の中で、一番重いものは頭。首を斬られると、まず頭が「ドタン!と落ちる。そのあとにゆっくりと力の抜けた首のない胴体が「バ!」っと伏せる。ドタンバは、つまり人間が首を斬られたさまを表すリアルな「擬音語」。
●大阪七墓巡りはなぜ「七つの墓」なのか?・・・妙見信仰
かつて千日刑場前には蓮登山自安寺があった。自安寺は、徳川中期の寛保2年(1742)に日蓮宗の門跡寺院(大本山本圀寺の末寺)で、慈光院日充上人(本圀寺歴代上人)が創建し、境内に本堂・妙見堂・鬼子母神堂・浄行菩薩堂・清正公神祇堂・秋山白雲霊神堂・法相日前大菩薩堂・絵馬堂・鎮守堂・三光堂・位牌堂・鐘楼堂および能勢妙見遥拝所を構えていた。「妙見信仰」というのは北極星、北斗七星に影響を受けた星辰信仰で、妙見菩薩はその中心に位置する北極星の象徴仏。北極星は北の空にあって位置が変わらない。「スターナビゲーター」であり、海の民や山の民にとって道しるべとなる有難い星だった。その北極星への信仰(妙見信仰)が、都市に入ったさいに、この世で道を誤った迷い人たちを導く星であり神仏であるという信仰へ変容した。道を誤った人たちというのが、すなわち罪人や流れ者たちで、それがゆえに千日前に妙見さんが安置されたと推測される。そう考えると「大阪七墓巡り」の「七つの墓」というのは、北極星を取り巻く北斗七星といえるのではないだろうか?なぜ無縁仏を供養する祭礼の「大阪七墓巡り」で「七」という数字が選ばれたのか?・・・この「七」という数字にも、当時の人々の宗教心が込められていると考えられる。実際のところは不明であるが、一考の余地はあるだろう。
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「大阪七墓巡り復活プロジェクト2013」無事に終了いたしました。2011年の1回目は巡礼のみ。2012年の2回目は巡礼+アーティストのパフォーマンス。3回目となる2013年は巡礼+アーティストのパフォーマンス+「参加者もパフォーマンスする」という様子を付け加えました。なんとなく「現代版大阪七墓巡り」として理想のスタイルに近づいたのですが、来年はできることなら「客体者」ではなくて「主体者」を作りたいと思ってます。できるかどうかわからんし、どういう風にやるか?はまったくの白紙なんですが・・・。
なにはともあれ、七墓の跡地で鎮魂と供養のパフォーマンスとワークショップをやっていただいた日常編集家兼DJ話芸家元のアサダワタルくん、ランドスケープ・アーティストかつ俳優かつ大学准教授のハナムラチカヒロさん、舞踊家・木室陽一さん、歌人の北夙川不可止伯爵、書家の田面遙華さん、ココルーム代表で詩業家の上田假奈代さん。「葬食」の場をお借りしたり、色々と仏教についてご教示いただく應典院の秋田光彦住職。日本全国にいて、じつに刺激的な企画や活動をしてはるAAF(アサヒ・アート・フェスティバル)のみなさま。そして、なによりも、この企画にご参加いただいたみなさまに。みなさんのおかげで、今年も大阪七墓巡りを楽しく実施することができました。本当にありがとうございましたm(_ _)m
大阪七墓巡り復活プロジェクト プロデューサー むつさとし拝