千年、働いてきました

2007 年 12 月 28 日 Comments off

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http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4047100765/

「世界最古の企業」ってどこにあるか知ってますか?答えをいいますと大阪にあります。聖徳太子が建立した日本最初の官寺・四天王寺を施工した「金剛組」(大阪市天王寺区)。これが世界最古の企業で、創業はなんと「578年」やそうです。1578年やないですよ。578年。日本の年号でいうと「敏達天皇6年」。「千年、働いてきました」は、金剛組のような日本の老舗企業の取材記事をまとめた本なのですが、金剛組は1000年どころか、よくよく考えると「1500年ぐらい働いてる」わけで、どれだけ古いねん?って話ですな。
http://www.kongogumi.co.jp/index.html

この本によると日本には創業200年を越える会社が3100社ほど存在するそうで、全世界の老舗企業の約40%を占めてるそうです。ちなみに欧州ではイタリア・フィレンツェの金細工メーカー「エトリーニ社」が創業1369年で最古。アジアでは中国の漢方薬製薬会社の「北京同仁堂」が創業1669年やそうで、大阪の金剛組には到底といいますか、はるかに及びません。

要するに日本は「企業体」ってのが長く続くお国柄なんですな。理由としては色々とあります。島国で、基本的に戦争が少ない国であったこと。「ものづくり」を非常に尊重する民族であったこと。「ものには命が宿る」とする「アニミズム」の信仰が浸透していること。「もの」を生み出す「職人」(職人文化)が、大切にされてきたこと。「同族経営」(団結心が強い。互いを支えあう構造にある)でありながら「他の血族」(新しい技術や優れた文化)を易々と受け入れる傾向にあること…などです。ひとつひとつの詳細な事例を挙げていくと大変ですし、詳しくは本に書いてますので、まぁ、みなさん、読んでみてください。

師走で慌ただしいのですが、こういうときこそスケールの大きい本を読むに限ります。


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挑戦する中小企業 in OSAKA

2007 年 12 月 23 日 Comments off

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面白い本を教えてもらいました。「挑戦する中小企業 in OSAKA」

日本全国には約27万社の中小企業が存在するそうですが、そのうち約2万4000社が大阪に存在します。これは東京(2万1000社)や愛知県(2万2000社)よりも多く、都道府県の面積と事業所の数を比較すると、東京都の約1.3倍、愛知県の約3倍にもなるとか。大阪は日本最大の「中小企業の町」なんですな。また中小企業といえども日本国内トップはおろか、世界トップシェアの「オンリーワン企業」も決して少なくありません。
http://www.pref.osaka.jp/kogyo/mono/mono001.html
http://www.pref.osaka.jp/aid/naniwa/naniwa2003/n2003_3_5.pdf

大阪の中小企業が支える、ものづくり文化は日本経済再生のキーワード。この本、よーさん売れて欲しいです。
http://cart05.lolipop.jp/LA06686589/?mode=ITEM2&p_id=PR00101425489


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大坂堂島米会所物語

2007 年 12 月 19 日 Comments off

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島実蔵氏著。時事通信社。

「堂島米会所」て、ご存知ですか?世界初の公設先物取引市場。
http://www.ose.or.jp/profile/pr_reze.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6%E7%B1%B3%E4%BC%9A%E6%89%80

じつは「Dojima Rice Exchange」は国際的に有名で、実際に米国版wikipediaで「dojima」と検索すると「the forerunners to a modern banking system」(現代的な銀行システムの先駆け)と記述されて登場します。世界最大の先物取引市場のシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)の見学ツアーに行くと「この取引所のルーツは日本の先物取引所であり大坂が発祥の地です。私たちは世界で最初に整備された日本の市場を参考に開設されました」というガイドの音声テープが流されるそうで、玄関ホールにも堂島米会所を顕彰する銅版があるとか。
http://en.wikipedia.org/wiki/Dojima
http://en.wikipedia.org/wiki/Chicago_Board_of_Trade_Building

江戸時代の日本全国の米相場は大坂商人が決定していました。前田藩・金沢100万石とか伊達藩・仙台62万石とかいいますが、この石とは米のことです。米は大名や地域の生産力、経済力の指標でしたが、その相場は、幕府ではなくて大坂・船場商人が握っていました。どうやって握ったか?というと堂島米会所の先物取引で米の収穫前に、米を「証券」で買いつけたり、売ったりしたんですな。

米は不作もあれば豊作もあって価格は常に不定です。それを船場商人が予測して、新潟からなんぼ買いつけて、土佐になんぼで売りつけてと、すべて収穫前にやりくりしていたわけです。よく大坂のことを「天下の台所」といいますが、なぜ大坂に米が集められたか?というと、先物証券で米を「買った!」「売った!」していたから日本全国から大坂に米が集まってきたわけです。

堂島米会所には2つの米市場があって、1つは「正米取引所」といって、実際に米を取引する市場で、もう1つは「帳合米取引所」といって「帳簿の米(まだ収穫前で帳簿の上でしか存在しない米)を合わす取引所」・・・つまり先物取引の市場でした。幕府は正米取引所には参加してたんですが、帳合米取引所には決して参加しようとしませんでした。「帳簿の米なんて得体の知れないもので取引なんかできるか!」とバカにしてたんですな。経済オンチといいますか、これが幕府の限界でした。

じつは江戸中期から幕府財政はガタガタになります。江戸初期には考えられなかったことですが、幕府や全国各地の大名が新田開発に取り組んだ結果、日本全国の米の生産量が日本全体の総消費量を上回り、時には「米余り」「米のインフレ状態」になったわけです。こうなると「米の価格」は下落する一方で、米に依存する経済機構の幕府や大名は一生懸命に米を増産するんですが、どれだけ米を生産しても米の価格が安くなって儲からない。

そこで必要なのが先物取引で、じつは先物取引には米の生産量を調整する役割もあります。先物は例えば「1年後に私は米を100石買いますよ」というような取引形態です。「買いの注文」が殺到すれば需要が増えるから米の価格は上がります。しかし逆に「1年後に私は米を100石売りますよ」と「売りの注文」が殺到すれば供給が増えて米の価格は下がります。こうやって先物売買を済ませていると、収穫前なのに「1年後の米の価格」がおぼろげながら見えてきます。「1年後の米の価格が判る」となると、「米が高く売れる」となれば精を出して米を生産しようとするし「米の値段が安くて売っても儲からない」となると米の生産よりも何か違う特産品に精を出そうとします。「米あまり」「米インフレ」の状態を解消するには先物取引の調整システムが必要不可欠やったんですな。

実際に大坂・船場商人は「旗降り通信」「のろし」などで情報網を張り巡らせて、米の相場はもとより生産地の「晴れ」「雨」「災害」「事件」などを刻一に記録しておりました。米の豊作や凶作を予測していたわけで、日本全国各地に「旗振山」「旗山」「相場山」「相場振山」という妙な名前の山が数多くあるんですが、これらは大坂・船場商人の旗振り通信の拠点だったところです。

0 http://www.nakanishiya.co.jp/modules/myalbum/photo.php?lid=223

対して当時の幕府の情報伝達方法は飛脚でした。お役所仕事ですから書状にしてサインとかハンコがないと有効ではないんですな。「忠臣蔵」では浅野野長矩が吉良上野介を斬りつけた「江戸城松の廊下の事件」を伝えるために江戸から赤穂まで620キロをわざわざ飛脚が走ってます。「4日間でたどり着いた」といわれてますからこれまたスゴイ体力ですが、旗振り通信なら2時間あればニュースが届けられたといいます。相場の世界は一分一秒を争いますから飛脚では情報が遅すぎて役に立ちません。

大坂・船場商人は「堂島米市場」や「旗振り通信」といった幕府には到底思いつかない独創的アイデアで、日本の流通経済を牛耳ったわけです。先人というのは偉大といいますか、大坂・船場商人の知恵には驚かされますな。

次はこれを読もうと思います。
http://book.jiji.com/books/publish/p/v/249


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堺探検クラブ「堺旧港まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 17 日 Comments off

堺旧港_01

①堺駅
近畿の駅100選。江戸時代は戎島附洲新田(大和川の堆積土砂)で、明治21年(1888)に市最古の駅として開業。当時は吾妻橋駅とも呼ばれました。構内に「大正の広重」こと吉田初三郎(1884~1955)が河盛安之介市長の懇嘱で昭和10年(1935)に描いた「堺市鳥瞰図」(堺市博物館蔵)と、江戸初期の「南蛮屏風」(同館蔵)の壁画が掲示されています。

②堺駅観光案内所
南海堺駅ビル1F(9:00~18:00)、堺駅西口改札横(10:00~19:00)の2箇所あります。堺観光ボランティア協会のガイドさんが観光相談にお応えしてくれます(10:00~16:30 ※第1月曜日・年末年始除く)。またレンタサイクル(1日300円・貸出時は運転免許証など本人証明必要)も行っています。

③川の駅・堺(観濠クルーズSakai乗船場)
自由都市・堺の象徴=環濠の名残である内川・土居川で、観光船を運航するNPO法人観濠クルーズSakaiの乗船場です。バーテンダーや線香屋の若旦那、主婦など多彩なガイドさんによるクルージングが楽しめます。※運航期間:3月末~11月の土日 所用時間:約50分 定員:大人18名 料金:大人1000円・小人500円(小学生以下) 予約・問合せ:072-229-8851(受付時間10:00~17:00)

④南蛮橋(南蛮人像)
堅川に掛橋。南蛮人像が設置されています。中世・堺は日明、南蛮貿易港として栄え、数多くのポルトガル商人や宣教師が来堺しました。多彩な文化交流から火縄銃、線香、三味線、芥子餅などが生まれ、堺の名産となりました。

⑤堅川
宝永元年(1704)に大和川付替で土砂が溜まり、堺の港湾機能に支障が出ました。浅草商人・吉川俵右衛門は、奈良~江戸間の材木中継港として堺港復興を訴えて、堺商人と協力して修築を開始(寛政2年・1790)。暴風雨に遭難しながらも約20年がかりで工事を遂行、堺旧港の原型が形作られました。堅川は船が出入りする川口ですが、その工事は町衆総出の砂持興業で「町中追々砂持手伝とて、のぼり吹きしめ、花やかに仕立て、ばば、女、子供にいたるまで南北残らず出候。(中略)二万余人の人数、みなみな波止前にて太鼓・鐘・いろいろ鳴り物にてはやし、先代未聞の賑わひ、筆につくしがたく」と「堺代々御奉行記」にあります。吉川俵右衛門(江戸=東=吾妻)の功績を讃えて、内川に吾妻橋が架けられています。

⑥龍神橋
天保9年(1838)架橋。大和川付替で堺港は寂れる一方なので、天明6年(1786)越後の龍沢山善法寺の僧(注1)が港復興祈祷を行うと、日没後に海上に燈明が煌めきました。これぞ「龍神の霊験」と評判になり、吉川俵右衛門の築港事業で出来た新地を龍神と名付けました。遊郭、芝居小屋、御茶屋などが並び、「龍神よいとこよい酔心地 むかし隆達トントン拍子 今は小唄の音を聞きや可愛い いとしお方の花だより 龍神よいとこよい廓」といった粋な「龍神小唄」(作歌:食満南北 作曲:杵屋和吉 振付:藤間門壽郎)が流れる新地として大いに繁栄しました。(注1)出羽庄内善宝寺(龍神尊)の僧という説もあります。37日間の祈祷後、経文を石に刻んで海中に埋めると土砂が退散して港が繁栄を取り戻した…というものです。

⑦二世中村富十郎住宅址
二世中村富十郎(1786―1855)は初代市川甚之助に入門、後に三世中村歌右衛門の門弟に。頭角を現して天保4年(1833)には大坂角之芝居で三世中村松江から二世中村富十郎を襲名しました。天保13年(1842)「役者投扇曲」では「若女形巻軸白極上上吉」の位付で「難波の太夫」と呼ばれて「江戸の飾海老」こと七世市川団十郎と並ぶ名女形でしたが、質素倹約が旨の天保改革で豪奢な生活を咎められ、摂津・河内・和泉から追放されました(団十郎も江戸十里四方追放に)。その後、天領(御免地)の堺に移住し、当初は戎之町大道で小間物屋・八幡屋を営みますが、才を惜しんだ新地世話方・松原武次郎の説得で、「娘道成寺」の白拍子などを新地北芝居(龍神橋通2丁)で演じて舞台復帰。大坂はもとより京の三条紅粉平といった富十郎贔屓が押しかけ、初日から満員御礼の大入り。また堺奉行より「旅役者取締役」に任命され、以後、堺を拠点に京、伊勢、名古屋、江戸などで活躍。嘉永2年(1849)には京都北側芝居で七世市川団十郎、三世尾上菊五郎と共演しています。安政元年(1854)には評判記の位付で「無類」となり、「堺の大太夫」とも呼ばれましたが、安政2年(1855)に堺で没。大小路東向井領に葬られ、本成寺(寺地町東4丁)、正法寺(大阪市中央区中寺町)に詣墓があります。

⑧龍神駅跡(現・コンフォートホテル堺)
明治36年(1903)、大浜公園で第5回内国勧業博覧会開催。堺水族館・大浜潮湯・大浜少女歌劇などが出来て、大正元年(1912)堺駅南方500メートルに龍神駅が開業しました。龍神新地にも近く、殷賑を極め、戦前は市最多の乗降客数で特急・急行は堺駅を通過して龍神駅に停車するほどでした。戦災後は旅客営業は龍神駅のみで堺駅は貨物駅でしたが、昭和30年(1955)に両駅を統合。龍神駅(現・コンフォートホテル堺)を堺駅として使用しましたが、昭和60年(1985)南海本線高架化で現・堺駅へ移転しました。バスロータリー中央部の「南蛮船」は堺の彫刻家・岡村哲伸氏の作品で、氏は堺市制110周年記念事業として龍女神像(北波止町)制作も手がけています。

⑨神明神社
天保3年(1832)に佐々木長門なる人物が稲荷明神等を祀って旭社としましたが、天保12年(1841)に堺奉行・水野若狭守忠一が天照大御神と豊受大御神を勧請。宿院町・布屋源治郎から敷地を寄進されて神明社と改めました。「堺のお伊勢さん」ともいわれます。境内には天保4年銘、天保12年銘の石灯篭や、龍神新地の遊郭の楼主が寄進した玉垣が残っています。また蘇鉄山山岳会の活動拠点で、一等三角点が設置されている日本一低い山・蘇鉄山(標高6.84mメートル。大浜公園内)に登れば「蘇鉄山登山認定証」(有料。1枚20円)を発行してくれます。

⑩龍神堂
龍神祈願で堺港が復興したと喜んだ新地の人々は、天保6年(1835)に善法寺を建立、龍神堂と絵馬堂を造営しました。しかし明治維新後に廃寺に。龍神堂だけが旭館(⑬旭橋の項目を参照)内に残り、昭和5年(1930)国道26号線敷設で当地に移りました。全国各地の郷土玩具を描いた堺の画家・川崎巨泉(1877-1942)が遺した自筆写生画帳「人魚洞文庫」に「堺大浜通一丁目龍神堂奉納絵馬 昭和六年九月写」とクジラの絵馬が写生されています。

⑪堺魚市場
古来より堺は漁業が盛んでした。奈良・京都への貴重な海産物供給地で、堺魚商人の中には春日社供菜人(春日大社には天文7年・堺魚屋弥次郎寄進の石燈篭が現存)や御所の禁裏御用などもいました。供菜人、禁裏御用は関銭(関所の通行料)免除で、海産物を納める代償に諸国を自由に通行する特権を得て、回船業(流通業)などへも進出しました。堺魚市場は代々、魚商人を営んだ名家・久家が秀吉から土地(現・英彰小学校付近)を賜ったのが起源で、江戸時代には魚市場(紺屋町浜=少林寺町西4丁付近)と海船魚市(柳之町浜=柳之町西3丁付近)が開場。元禄8年(1695)には問屋30軒、仲買600軒と大繁盛しましたが明治以降に現在地(栄橋町)に移転しました。鎌倉期に住吉大社に魚を奉納して豊漁祈願し、市をたてたのが起源の大魚夜市(毎年7月31日に大浜公園で開催)は堺の夏の風物詩として知られています。

⑫旭橋の橋柱(アサヒビールゆかりの地)
天保5年(1835)に掘られた旭川に架橋。昭和30年(1955)に川は埋立てられ橋柱のみです。嘉永(1848〜1853)頃に描かれた「泉州堺湊新地繁栄之図」(堺市立中央図書館蔵)には、旭橋近くに「朝日の家」が記されていますが、堺屈指の御茶屋で有名でした。その後、明治21年(1888)に旭橋西詰に4000坪の大庭園を有する政財界の名士社交場「旭館」が開館。鳥井駒吉(1854~1909 堺の酒造家)が会議として使い、翌年、大阪麦酒会社(現・アサヒビール株式会社)を創業。この旭館が「アサヒビール」の由来という説があります。またビール発売当初の「波に朝日」ラベルは、「浪花百景」などを手がけた堺の浮世絵師・中井芳瀧(1841~1899)が描きました。旭館は昭和6年(1931)の国道26号開設時に閉館。堺市役所前の大蘇鉄は旭館から移転したものといわれています。

⑬堺事件発生の地
慶応4年(1868)、大坂入りしたフランス領事を迎えるべくフランス海軍のコルベット艦デュプレクスの水兵が堺に上陸したところ、警備中の土佐藩軍艦府は「通達がない」と上陸を阻止。言葉が通じない混乱の中、フランス兵が藩旗を倒そうとしたため、土佐藩側が発砲。水兵11名を殺傷、溺死させました(堺事件)。フランス公使レオン・ロッシュは猛烈に抗議して関係者20名の切腹、15万ドルの賠償金を要求。国力差から明治政府は全ての要求を受諾。当初、関係者は29名いたので土佐稲荷神社(大阪市西区)で籤を引いて切腹者を選抜。妙国寺(材木町東4丁)で刑が執行されますが、切腹のあまりの凄惨さに軍艦長デュプティ=トゥアールは11人目で中止を要請、結果として9人が助命されました。自刃した藩士は宝珠院(宿屋町東3丁)に葬られ、国指定史跡「土佐十一烈士墓」となっています(同院には後にフランス兵の慰霊碑も建立)。森鴎外「堺事件」、大岡昇平「堺港攘夷始末」、司馬遼太郎「新装版 俄 -浪華遊侠伝-」などの小説の題材にもなっています。

⑭パンゲア
元々、工場だった建物を改造してカフェに。海が見えるテラスが人気で、堺旧港・龍女神像の彼方に沈んでいく夕陽を眺めながら、美味しいお食事、お酒が楽しめます。NPO法人SEINの運営で堺市民の活発なコミュニティ活動の情報なども。堺探検クラブのマップも入手できます! ※営業時間:平日15:00~23:00 土曜12:00~23:00 日曜12:00~22:00(月曜日定休)TEL:072-222-0024

⑮与謝野晶子像
与謝野晶子(1878~1942)生誕120年記念、堺陵東ライオンズクラブ結成25周年記念アクティビティとして設置されました。「ふるさとの 潮の遠音の わが胸に ひびくをおぼゆ 初夏の雲」(歌集「舞姫」より)の歌が刻まれています。


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堺探検クラブ「三国ヶ丘まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 17 日 Comments off

三国ヶ丘_01

三国ヶ丘_01

①長尾街道
堺から方違神社、河内国府、二上山などを経て式内社・長尾神社(葛城市)に至ります。古代の大津道の後進とされています。江戸時代には大和街道、奈良道などとも呼ばれました。日本書紀に「天武元年(672)に大海人皇子に味方した大伴吹負軍が高安城を占拠すると翌朝、大津道と丹比道(竹内街道)から大友皇子の軍勢が押し寄せてきた」という記述があります。

②方違神社
社伝では崇神8年(紀元前90)に天皇の勅願で物部大母呂隅足尼を茅渟石津原に遣わして須佐之男神を祀ったのが起源です。201年の忍熊王の乱では、神功皇后が三筒男神の教えで八十平瓮を作って方災除けを行って勝利しました。応神帝に方違大依羅神社と名づけられ、仁徳帝、孝徳帝、空海、平清盛、後鳥羽帝、徳川家康などが敬ったと関連文献にあり、明治元年(1868)の東京遷都では17日間の祈祷を行いました。摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の境にあるので三国山、三国の衢、三国丘と称され、万葉集にも「三国山 こずえに住まふ むささびの 鳥まつがごと われ待ち痩せむ」と出てきます。どこの国にも属さない聖地で、これが堺(境)の地名の由来ともいわれます。また神功皇后が方違神社南の鈴山という丘に黄金の雞を埋めたので、毎朝、美しい金鈴のような雞声が響き渡ったといい、その故事から幸雞の鈴(土鈴)を授与しています。

③旧天王貯水池
明治43年(1910)に堺初の上水道施設として野口広衛の設計で建設。大阪府下では大阪市(明治28年・1895)に次ぎ、総面積662平方メートル、約6万人の給水を補いました。正面入口は水道先進地の欧州にならって凱旋門風で、内部天井も優美な半円形のヴォールト架構です。貯水槽周囲は盛土で直射日光を遮り、細菌繁殖を防いで水質維持を図りました。また堺は良質な粘土が取れるので優れた瓦職人が数多くいましたが、明治以降は煉瓦職人として活躍、旧天王貯水池の煉瓦も堺産煉瓦が使われていると考えられます。昭和37年(1962)に使用停止。半世紀以上使用され、美しいデザインと優秀な施工技術は建築的価値が高く、平成13年(2001)に国の登録有形文化財に指定されました。

④反正陵古墳(田出井山古墳)
百舌鳥古墳群の北端にあります。墳丘規模は全長約148メートル、後円部径約76メートル、高さ約14メートル、前方部幅約110メートル、高さ約15メートルで、百舌鳥古墳群7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、出土した埴輪などから、大仙古墳(仁徳陵古墳)より新しい、5世紀後半に造られたと考えられています。一重の盾型周濠がめぐっていますが、かつて二重濠があったことが確認されています。百舌鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。

⑤紅谷庵
大永年間(1521~1527)に堺の豪商・紅屋喜平が建て、牡丹花肖柏(1443~1527)が住んだことがあります。肖柏は室町期の連歌師で名門公家・中院通淳の子です。8歳のとき、無言で勉学する肖柏に「物をもいはで物習ふ人」というと「くちなしの花の色葉はうつすらむ」(くちなしの花は無口=無言、色葉をうつすはイロハを筆写する=勉学するという意味)と返して世間を驚かせた逸話があります。連歌師・宗祇(1421~1502)に師事して後土御門帝の内裏歌合にも参加。当代一流の宮廷文化人でしたが、応仁の乱(1467~1477)で摂津の大広寺(池田市綾羽町)に移り、「三愛記」(花・香・酒の風流記)を記述しました。師・宗祇が没したさいは、誰もが宗祇の秘伝を授かったと称して連歌界が大混乱したので後柏原天皇の勅で肖柏が式目(連歌の作法)を作り、事態を治めました。永正15年(1518)に摂津にも戦乱が及んだので紅谷庵に。河内屋宗訊、下田屋宗柳、坂東屋宗椿といった堺の豪商が集まる一大サロンを形成して、ここから堺伝授(連歌)、堺流(書)といった流派が生まれました。門人に囲まれながら肖柏は「角に金箔を施した牛に乗って往来」(扶桑隠逸伝)「牛の角に蹴鞠を結びつけて人々と蹴鞠を楽しむ」(類聚名物考)といった風雅な生活を送り、84歳で没しました。墓は南宗寺(南旅篭町)にあります。

⑥向泉寺閼伽井跡
聖武天皇勅願で天平(729~749)頃に行基(668~749)が建立した三國山遍照光院向泉寺の跡碑です。万病に効く閼伽井(閼伽とは仏前の供水のこと)が湧き、本堂が井戸(泉)に向っていたから、または寺院が和泉国に向っていたから向泉寺と称しました。王子社、方違社、東原天王社の祭礼の神水にも用いられましたが、永正年間(1504~1520)に兵火に遭い、次第に廃れていき、享保頃(1716~1735)に廃寺となりました。

⑦竹内街道
堺から二上山を越えて奈良・葛城に至ります。日本書紀の推古天皇21年(613)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道を置く」と記される日本最古の官道です。かつては丹比道(丹比野を横断するので)とも、また当麻道(当麻寺に至るので)ともいいました。飛鳥時代には遣隋・遣唐の使節や留学生らが往来するシルクロードで、経由する太子町界隈には聖徳太子廟の叡福寺や用明、推古、孝徳陵、小野妹子墓といった史跡が集積しています。文献上は7世紀に登場しますが百舌鳥古墳群や古市古墳群をつないでいるので古代から人々の往来があったと推測されます。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で「もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾-竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう」と記しています。

⑧西高野街道
堺から大阪狭山市、河内長野市、紀見峠を経て高野山に至ります。平安後期から参詣道として使用されたと考えられています。江戸時代には堺港と高野山との流通経路として大いに賑わいました。安政4年(1857)に茱萸木村の百姓人・小左衛門と五兵衛が発起して13本の一里塚道標を建立(堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一理堂標石まで)、すべて現存しています。また「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されたのを契機に西高野街道観光キャンペーン協議会が発足。ウォーキングイベントを実施しているほか「西高野街道ウォーキング徹底ガイド」(堺東観光案内所にて販売:1部100円)なども発行して西高野街道の魅力創出に努めています。

⑨榎宝篋印塔
慶安元年 (1648)に僧・夢幻永海が勧進して建立。花崗岩製で高さ約4.39メートルあります。昭和30年(1955)の解体修理で塔内部から宝篋印陀羅尼経、塔建立の趣意書、寄進者の氏名、金額などを記した奉加帳が見つかり、塔を置いたのは道を行き交う多くの人々との良縁を結びたいと記されていました。竹内街道、西高野街道沿いにあり、350年以上の長きに渡って、数多くの旅人たちを見守ってきた歴史の生き証人といえます。

⑩堺東観光案内所
パンフやマップなど堺の観光情報が満載。観光ボランティアも常駐(10:00~16:30 第1月曜日・年末年始除く)で、堺の観光相談にお応えしてくれます。堺市優良観光みやげ品を販売しているほか、1日300円でレンタサイクルも行っています(貸出時には運転免許証など本人確認が必要です)。堺観光の際はぜひお立ち寄り下さい。※住所:堺市堺区中瓦町2-3-24博愛ビル1階/電話番号:072-238-7174/営業時間:9:00~19:00/休館日:年末年始 /駐車場:無し

⑪堺市役所21階展望ロビー・喫茶ミエール
堺市役所最上階にあります。地上80メートル、360度の展望が楽しめる回廊式ロビー(入場料は無料)で、大仙古墳、六甲山、関西国際空港、生駒・金剛山、大阪城などが見渡せます。ゆっくりくつろげる喫茶ミエールもあります。


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堺探検クラブ「七道まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 16 日 Comments off

七道_01

①放鳥銃定限記と鉄砲鍛冶射的場跡
大正3年(1914)に運河掘削工事現場から漢文碑・放鳥銃定限記が出ました。「鉄砲師範・小濱民部丞嘉隆は文武両道で試射場を作って砲術研究を重ねた」とあり、寛文4年(1664)に砲術家・川名金衛門忠重が立てたものです。鉄砲鍛冶射的場跡は大正13年(1924)建立(駅整備などで当地に移転)。かつて七道には周囲約9メートル、高さ約1.8メートルの鉄砲塚(現存せず)があり、鉄砲制作すると塚から大和川の的に試射しました。鉄砲にゆかりが深い土地で駅界隈は鉄砲町ともいいます。

②河口慧海顕彰立像
河口慧海(1866~1945)は仏教学者、探検家で浜筋山伏丁(北旅籠町西3-11)の樽職人・善吉と常の6人兄弟の長男です。本名・定治郎。清学院、錦西小で学びますが「職人に学はいらぬ」と父の方針で退学。しかし慧海は懇願して儒者・土屋鳳州の私塾・晩晴書院で学び、釈迦一代記を読んで出家を志します。父は「長男の出家は困る。代りに弟を出家させる」と三男の岩吉、四男の善七を出家させて阻止。鬱屈した慧海は徴兵令改正反対で天皇直訴を企てたり、宣教師からキリスト教を学んだり、堺市の小学校で教員をしたりしますが、結局、東京の黄檗宗五百羅漢寺に寄宿して哲学館(後の東洋大学)に入学。明治23年(1890)に得度して同寺住職になりますが日本仏教界の腐敗に怒って辞職。仏教原典入手のためにチベット行きを決心して明治30年(1897)に堺や大阪の友人の支援を受け、神戸港から出発しました。当時、チベットは鎖国で密入国者は死刑でしたが、クン・ラ峠(標高5411メートル)越えで明治34年(1901)、日本人として初めてラサに到達。ラサ三大寺院のひとつ・セラ寺で学びますが素性がばれて翌年、脱出。帰国後「西蔵旅行紀」(Three Years in Tibet)を発表すると一大センセーションとなって英訳も出ました。その後、チベットが清に侵略されてダライ・ラマ13世が亡命すると慧海はインドで接見。再訪を許されて大正2~4年(1913~1915)にチベット入りして、多くの仏典、仏像、仏画、仏具、民俗資料、動植物・鉱物標本を入手しました(東北大学に保管)。以後は仏典研究を続け、晩年は「蔵和辞典」編集に没頭しますが、1945年2月に世田谷の自宅で逝去。銅像はチベットに向かう慧海で、昭和58年(1983)に、堺ライオンズクラブ創立25周年記念事業として堺の彫刻家・田村務氏によって制作されました。

③菅原神社御旅所
「堺の天神さま」こと菅原神社(戎之町東)の御旅所です。社伝では菅原道真(845~903)が太宰府より手彫の木像を海へ流し、それが摂津国北の庄・海船濱に流れ着き、長徳3年(997)に天台宗威徳山天神常楽寺の僧徒が天神社を創建して木像を祀ったことが社の縁起です。御旅所内の石灯籠に寄進者「樽善」(樽屋善吉。慧海の父)が刻まれています。

④千日井
七道は、かつて七堂濱と呼ばれました。行基(668~749)が神亀元年(724)に開いた清浄土院高渚(たかす)寺の七堂伽藍があったためで、千日井は、その寺の井戸といわれています。上水道整備がされるまで地元民の優れた飲料水源でした。「此の井は行基菩薩七堂構榮の地に鑿掘したるところと傳ふ 今や蒲生氏及び其一族の特志により修理の巧を竣へ清泉滾々として盡きす 汲む人其遺澤を憶へ 四天王寺現薫 大僧正 大應 撰書」の石碑(1930年建立)と、行基石像板(1961年 近泉紡績会社社長 中山彌左衛門建立)、文政9年(1826)に神南辺道心が発起、宗見寺真誉上人が導師、付近の農民が世話人で建立した岩喜兵衛(土居川・千日橋の建立者)と水難者の供養碑があります。道心は「燗鍋弥兵衛」と呼ばれた堺の鋳物師ですが酒に溺れて妻を病死させ、育児も放棄。荒れた生活を送りますが、僧となった息子に「父を救えない私を殺して下さい」と泣いて懇願されたことで罪を悟って仏門に。以後、堺、大阪、奈良、和歌山で自ら汗まみれになって井戸、橋、堤防、道標などを作って困窮者救済に尽力。嵯峨御所から錫杖を下賜され、聖者と崇められながら天保12年(1841)に没しました。大阿弥陀経寺(寺地町東4丁)に墓があります。

⑤清学院
元禄2年(1689)の堺大絵図には山伏清学院とあります。江戸末の建築で不動堂、庫裏、門は国の登録文化財です。修験道場ですが幕末から明治5年(1872)まで習字手習いの寺子屋として使用され、慧海も学びました。

⑥鉄砲鍛冶屋敷(内部非公開)
「鉄砲記」(1606年頃・南浦文之玄昌著)には、天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商客之徒・橘屋又三郎が来島して鉄砲製法を学び、堺に伝えて「鉄砲又」と呼ばれたとあります。和歌山市・金剛宝寺には「那賀郡堺鋳工橘屋又三郎」銘の天正3年(1575)の梵鐘があり、又三郎は鉄砲、梵鐘など金属を扱う鋳物師と推測されています。いずれにせよ鉄砲製法が堺に伝わると堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地になりました。鉄砲鍛冶屋敷は江戸時代から続く鉄砲鍛冶・井上関右衛門の居宅で堺大絵図(1689)にも記載され、最古級の町家建築かつ堺鉄砲の生産現場が残る貴重な建築物で、市の指定有形文化財です。多くの鉄砲史料や日本一といわれる高さ1メートル、長さ2メートル余りの吹子が保存されています。

⑦北之橋跡
中世・堺は環濠自治都市でした。環濠は秀吉によって埋められましたが江戸初期に復活。その環濠の紀州街道出入口に架けられたのが北之橋です。長さ7間(約12.7メートル)、幅2間半(約4.5メートル)の幕府管理の公儀橋で、大門と高札場がありました。堺市史によれば北之橋から南之橋(現在の少林寺橋)まで長さ24町37間(約2.7キロメートル)と記されています。

⑧高須神社
根来で初めて火縄銃を制作した芝辻清右衛門妙西の孫・理右衛門(?~1634。名は助延、号は道逸)ゆかりの神社です。理右衛門は慶長16年(1611)に銃身1丈(約3メートル)、口径1尺3寸(約39センチ)、砲弾1貫500匁(約5.6キロ)の我が国初の大筒を家康に納入。慶長19年(1614)大坂冬の陣でも家康に三匁五分玉の鉄砲500丁、六匁玉の鉄砲500丁を納入して戦場では火縄銃修理を行いました(豊臣方からも鉄砲500丁を受注しますが納入記録が残っていません)。以上の功績で元和元年(1615)に高須に土地を賜わり、社を建てました。境内北側になでると願いが叶うという萬願石があります。

⑨海船政所跡
永正元年(1504)、阿波守護・細川澄元の家臣・三好長輝(1458~1520)が阿波と京の中継として海船町に館を建て、孫の元長(1501~1532)の頃に完成しました。桜之町付近を中心に東西360歩(約650メートル)、南北720歩(約1300メートル)の大館で、大永元年(1521)には「政所」の号を勅されています。高楼があって四方を監視し、事が起こると鐘、太鼓を鳴らして郎党に知らせました。元長没後も長慶、義興、義継などが居住して摂ノ尼崎ノ城、泉ノ新堀城、岸和田ノ城、河ノ小山、古市ノ諸城(全堺詳志より)などを束ねる三好一族の本城的役割を果たしました。

⑩七まち町家会
「住の江の 和泉の街の 七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の道」と与謝野晶子にも歌われた七まち(七道)。幸運にも戦災を逃れて江戸時代からの建築物が数多く残っていますが、2009年、地域の町家や町並みの保存と活用を目指して有志が集まって「七まち町家会」を発足させました。町屋公開などの催しを行っています。

【A】水野鍛錬所…明治5年(1872)創業。明治時代からの鍛錬工房があります。戦後まもなくの法隆寺大改修のさいに、300年に一度かけかえられる国宝五重塔九輪の「魔除け鎌」を鍛造して奉納。法隆寺の1300年前ともいわれる古釘を集めて作った魔除け鎌を展示、実際に手に持つこともできます。鍛錬所前にあるのが榎並屋勘左衛門・芝辻理右衛門屋敷跡の碑で、勘左衛門は御用鉄砲鍛冶として家康に重用され、鉄砲鍛冶年寄の重職を務めました。榎並屋勘左衛門、芝辻理右衛門の両家に、分家の榎並屋九兵衛(次右衛門)、榎並屋勘七(忠兵衛)、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(九兵衛、勘七没落後は三鍛冶)が堺の鉄砲鍛冶を統制しました。

【B】内田家住宅…明治前期の旧商家(醤油造り)。現在も住居として使用していますが、1階吹き抜け部分、2階作り付けの欅箪笥といった一部を不定期に公開しています。

【C】ろおじ…大正期の長屋を改装したギャラリー&茶店です。

【D】藤井刃物(まちかどミュージアム)…古い町屋の刃物工房で、現在の刃物作りを見ることができます。

【E】薫主堂…江戸末期の建物。創業明治20年(1887)で、120年以上になる天然香料を使った手作り線香の店です。店主は2002年に堺市から「堺ものづくりマイスター」に選ばれました。

【F】堺鉄砲館…町家を改装した火縄銃展示館です。火縄銃保存会会員による解説もあります。また鎧兜着用による若武者返信体験もあります(100円・限定20人) 

【G】鳳翔館…大正時代の町家を活用した展示&休憩スペース。館主が与謝野晶子のファンで、晶子の生家をイメージしています。

【H】七まちびいどろ・・・町屋の空間を利用したガラスギャラリー&とんぼ玉制作工房。とんぼ玉制作風景を見たり、個性的なとんぼ玉(模様の入った紐を通すことのできる穴の開いたガラス玉)制作体験ができます。


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堺探検クラブ「湊まち歩きマップ」イラストと解説文

2007 年 11 月 16 日 Comments off

湊_01

①南海本線「湊駅」
明治30年(1897)10月に南海電鉄によって設置されました。出島浜に近く、戦前は海水浴客や大浜水上飛行場などで大いに賑わいました。出島浜の歴史は非常に古く、鎌倉時代に沖合に迷い込んだ鯨の捕獲に失敗して、漁師達が慰め合ったことがきっかけという「鯨まつり」が伝えられています。「くじらとろとて網まですいて くじら熊野へみなかえる 沖に見えるはくじらの山か おかへのぼせば黄金山」と鯨音頭を歌いながら、竹組みで作った模型の鯨を担いで出島浜から住吉大社まで練り歩くというもので、昭和29年(1954)の祭礼時は約27メートルの巨大鯨が奉納されました。

②与謝野晶子歌碑(湊駅前公園内)
湊駅前東通商店会が主体となって歌碑を建立しました。「ちぬの海 いさな寄るなる をちかたは ひねもす霞む 海恋しけれ」「夕されば 浜の出島の うたひめの 島田にまじり かはほりぞ飛ぶ」と湊、出島浜ゆかりの与謝野晶子の歌二首が刻まれています。

③旧堺紡績会社 変電所
明治29年(1896)、堺紡績会社の紡績工場が竣工して操業を開始。のちに阿波紡績、福島紡績と合併しましたが、紡績業界の斜陽化で昭和38年(1963)に木工工場となり、昭和51年(1976)にそれも移転しました。ノコギリ屋根の煉瓦造りの美しい工場群でしたが取り壊され、変電所の窓と外壁の一部を切り取ったモニュメントが保存されています。

④堺の穴子
かつて堺は「穴子屋筋」という通りがあったほど穴子漁が盛んで、「下関のふぐ 堺の穴子」と称される穴子の名産地でした。昭和3年(1928)の第5回内国勧業博覧会のさいに発行された旅行ガイドブック「堺市案内記」にも堺の名産として芥子餅、くるみ餅などと並んで「あなご料理」が記載されています。深清鮓さんはその伝統をいまに伝えてくれる老舗の穴子寿司専門店です。

⑤土居川
中世・堺は日本一の国際貿易港として繁栄し、堺の商人たちは戦国の争乱に巻き込まれないように環濠を作って自治都市を築きました。その後、秀吉によって環濠は埋め立てられ、大坂夏の陣の戦乱で堺は焼け野原となりますが、徳川幕府はすぐに堺の町を復興し、環濠も復活させました。これが現在の土居川で、土堤防(土居、土塁)を築いたことが川名の由来といわれています。マボラ、セスジボラ、メナダといった魚や、コサギ、ゴイサギ、カワウ、ユリカモメ、アオサギといった鳥の飛来も確認されています。

⑥紀州街道
大坂から住吉大社、堺を経て和歌山までを結ぶ街道です。古代には白砂青松の美しい海岸沿いにあって「岸の辺の道」と呼ばれ、江戸時代には紀州藩の参勤交代の街道としても栄えました。昭和48年(1973)には司馬遼太郎が「街道をゆく」の取材で紀州街道を訪れ、山崎理髪店(現・山崎たばこ店)の店主に船待神社を案内されています。司馬遼太郎は「中世末期に自由都市として栄えた堺というのは、日本史における宝石のような、あるいは当時世界史の規模からみて大航海時代の潮流を独り浴びつづけたという意味において異様としかいいようのない光彩を放っている」と堺のことを評しています。

⑦船待神社
かつては河内国大鳥群塩穴郷にあって天穂日命(土師氏・菅原氏の祖神)を祀る塩穴天神社と呼ばれ、延喜元年(901)1月には菅原道真公が太宰府へ下る船を待つあいだに参拝したといいます。その後、長保3年(1001)に管公の子孫・菅原朝臣為紀が管公を合祀し、船待天神社と改め、寛治年間(1087〜1093)に塩穴郷より当地に遷りました。管公お手植えの古松がありましたが昭和40年頃に枯死してしまい、その古木の下から発見されたのが腰掛石です。境内には明治40年(1907)に湊村字中筋にご鎮座していた村社・瘡神社も合祀されています。

⑧湊焼
奈良時代の僧・行基が熊取東部の丘陵地の白土を運び、湊の人に焼きものを教えたことが起源という伝説があり、また天正年間(1573~1593)に千利休の注文で点茶用の砂鍋を造り、その見事さに世人の賞賛を受けたと伝わります。しかし通説では楽焼の樂吉左衛門の弟・吉兵衛が、一子相伝の秘法を盗んだので勘当されて京都から来堺し、瀬戸物商の山本吉右衛門がパトロンとなって焼きものを始めたことが創始とされています。「本朝陶器攷證」によれば慶安年間(1648~1652)の話で、その後、吉兵衛は帰京して吉右衛門が焼きものを始め、18世紀末には交趾(ベトナム)風の釉薬が伝来して5代吉右衛門のときに「湊焼」を名乗り、15代吉右衛門は「火鉢屋吉右衛門」と呼ばれ、堺で知らぬ者がいないほどの名陶工でした。また明治に入ると山本家の職人頭が津塩吉右衛門と名乗って紀州街道筋に分家して、その住吉人形や南蛮人形、喜々猿(昭和55年・申年の年賀状切手の図案に採用されて日本全国に紹介されました)などは高く評価されています。また大鳥大社には明治13年(1880)奉納の「湊陶工吉右衛門」銘の陶額が、瘡神社に明治16年(1883)奉納の「能良遺法土師湊狂良」銘の陶額が現存しています。

⑨大内義弘供養塔(本行寺内)
大内義弘(1356~1400)は周防の守護大名でしたが、1371年に九州探題・今川貞世に協力して九州の南朝勢を討伐、1391年に山名氏が足利義満に叛乱した明徳の乱を鎮圧、1392年には南北朝合一に尽力して、和泉・紀伊・周防・長門・石見・豊前の6カ国を領しました。また李氏朝鮮や明との私貿易でも富を得ましたが、その勢力を恐れた義満と次第に対立。1399年、義満の挑発的な上洛命令を拒否して、鎌倉公方の足利満兼と通じて軍勢5000で堺に籠城。しかし関東管領・上杉憲定に説得されて満兼が挙兵を中止すると、義弘は孤立無援となり、幕府軍3万に攻められて壮絶な戦死を遂げました。俗にいう「応永の乱」で「応永記」という軍記にもなっていますが、のちに石川淳が応永の乱を舞台に「一露」という短編小説を書いています。

⑩瘡神神社跡
敏達14年(589)、瘡疾が流行したさいに、村民が医薬神・少彦名神を祀って祈願したところ、数多くの患者が治癒しました。霊験あらたかな神社として江戸時代には茶店が並び、門前市が出来て、参詣人が列を成したといいます。また瘡神社には牛と馬の2種類の絵馬があって、牛は生草を喰うので祈願時に牛の絵馬を、馬は枯草を食うのでお礼参り時に馬の絵馬を納める習慣がありました。瘡(くさ)を草(くさ)ともじったわけです。明治40年(1907)に鎮座していた湊村中筋から船待神社へと合祀されました。

⑪片桐棲龍堂(内部非公開)
創業400有余年の伝統老舗漢方薬局で、敷地内には江戸時代の伝統的建築物が数多くあり、主屋・東ノ蔵・中ノ蔵・摩利支尊天神社廟・西ノ蔵・洗い場・煉瓦塀は登録有形文化財となっています。また西ノ蔵は日本では数少ない漢方医薬専門資料館として国内外の専門家から高い評価を得ています。※内部非公開で、現在も店舗として使用されていますので、外観からの見学のみでお願いします。

⑫風車
明治以降、諸外国の輸入綿によって泉州の綿業は打撃をうけ、湊から石津にかけてはミツバ、ホウレンソウ、キクナといった野菜栽培を始めましたが、地域一帯は砂質土壌で大量の灌漑用水が必要でした。そこで大正期に地元の和田忠雄氏、高野長次郎氏、中尾正治氏らが、オランダ風車をヒントに、浜風を動力とした風車による地下水の組上げを考案。以後「堺の風車」は急速に普及して、1965年頃には400 基近くの風車が林立しますが、高度経済成長期に入ると農業地縮小やスプリンクラー導入などで風車灌漑は衰退し、現在では消滅してしまいました。新湊小学校前にある風車はレプリカで、湊の歴史文化を伝えるものとして保存されています。

⑬塩穴通
正式には堺市道「出島旭ヶ丘線」ですが、東に進むと「塩穴交差点」(大阪府道61号堺かつらぎ線)に出ます。承平年間 (931~938) に源順が編纂した辞書「和名類聚抄」にも「之保乃阿奈」(シオノアナ)という記述がありますが、湊地域はかつては和泉国大鳥郡塩穴郷に属していました。和銅元年(708)には元明天皇の勅命で塩穴寺が建立されたという記録もあります。また寛徳2年(1045)の藤原定頼の歌集「権中納言定頼卿集」には「さか井と伝所に しほゆあみに おはしけるに」とあって、当時の堺は万病に効く塩湯浴の名所として知られていました。現在でも湊には湊潮湯(関西唯一の海水のお風呂屋さん)などがあります。

⑭天下一御壷塩師堺湊伊織
天和3年(1683)に衣笠一閑が著した堺地誌「堺鑑」によれば、天文年間(1532~1554)に三十六歌仙のひとり・猿丸太夫の子孫という藤太郎(藤太夫説もあり)が、京都上鴨の畠枝村から湊に住みついて紀州雑賀塩を土壺に入れて焼き直して諸国に販売しました。承応3年(1654)には堺政所の石河利正土佐守が女院御所(東福門院、徳川秀忠五女、明正天皇生母)に湊壺塩を献上して、その繊細な味を褒め称えられ、「天下一」の美号を許されました。また延宝7年(1679)にも関白・鷹司殿下より美名「伊織」を賜りました。船待神社に壺塩屋が寄進した菅原道真公の掛軸があって、その裏に願文と壺焼屋の系図があり、伊織は9代目壺塩師ということがわかっています。湊壷塩は北は仙台城から南は鹿児島の鶴丸城でも発見され、また長崎・出島のオランダ商館にも持ち込まれていたという記録があります。


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堺が生んだ幻の天才女流画家 『島成園と浪華の女性画家』(編集:小川知子/産経新聞大阪本社 出版:東方出版)

2007 年 11 月 1 日 Comments off

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買いました。京都の上村松園、東京の池田蕉園と並び称されて「三都三園」と呼ばれた浪華の島成園。堺が生んだ幻の天才女流画家の画集です。

※島成園
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%88%90%E5%9C%92
なにわ人物伝 島成園(上)
なにわ人物伝 島成園(下)

生まれは堺市の熊野町(ゆやちょうと読みます)。父親は堺の襖絵師で、母親は堺・乳守の遊女出身。「乳守」(ちもり)というのは「竜神」と並んで堺でもっとも古い遊郭でした。表紙の絵は「影絵」。遊郭での他愛のないお座敷芸を描いたものでしょう。よく見るとまだ年端のいかない美しい少女ですが、この屏風の裏には旦那衆がいるわけで、残酷さとイノセンスが渾然と入り混じっています。

上村松園の美人画は気品に満ち満ちた聖化された祇園の女を描きますが、島成園はもっとリアルに肉薄して遊郭の情景を切り取ります。こうした遊郭の内実は堺・乳守遊郭で生まれ育った島成園のみに描きえた世界観でしょう。最高傑作「伽羅の薫」などは狂的で禍々しささえ漂う、ファムファタールの美を描いて圧巻です。監修されている画集は今のところ東方出版のこれだけ。
http://www.tohoshuppan.co.jp/s06-992-4.html

これはほんと久しぶりの大ヒットでした。ご興味のある方はぜひ。


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SAKAI賞・未来賞:田所さんと陸奥さんに/大阪(毎日新聞・2007年10月27日)

2007 年 10 月 27 日 Comments off

堺商工会議所が堺市の産業活性化に役立つ商品やビジネスの企画を顕彰する「第3回SAKAI賞」(毎日新聞社後援)の表彰式が26日、同会議所であった。同賞は00年に創設され、約3年に1度募集。今回のテーマは「こんな『新製品』・『新ビジネス』堺にあったらいいね!」。日常生活の利便性を高める新製品や新ビジネス、社会に広く認識されていない堺の優れた製品の再発掘をもとにした事業など、全国から115点の応募があった。審査の結果、堺の伝統産業である刃物のリース事業を提案した和泉市の公務員、田所広行さん(44)▽ツアー参加者のニーズに合わせた新しい観光ビジネス「堺おもてなしツアー」を提案した堺市北区、フリーライター、陸奥賢(さとし)さん(29)の2人が、「SAKAI賞・未来賞」に選ばれた。表彰式では中尾良和・同商議所会頭が「将来性を加味して審査し、未来賞と名付けた。提案の実現に向け、みなさんの協力を」とあいさつ。2人に同賞や毎日新聞社賞の表彰状、盾、賞金が授与された。

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毎日新聞に掲載されました。明日かな?と思ったら今日やったみたいですね。応募総数は115点。「3年に1度」のコンペとは知りませんでした。ありがとうございます。


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第3回sakai賞

2007 年 10 月 11 日 Comments off

堺商工会議所主催、毎日新聞社後援のビジネスコンペですが、ぼくの論文が入賞したと留守番電話がありました。後日、正式に書面が届くそうです。

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【第3回SAKAI賞】 
堺商工会議所では第3回SAKAI賞として日常生活において今後開発されると便利な「新製品」「新ビジネス」について下記のテーマにより募集を行い、 堺発・堺商工会議所発として生み出し、各地へ発信していきます。

【テーマ】
こんな「新製品」「新ビジネス」堺にあったらいいね!~堺から世界へ・未来へ発信できるヨ! (1)堺から発信でき、将来“あったらいいね”と思われる新製品や新ビジネスの提案。 (2)あまり社会に認識されていない堺の優れた製品やビジネスの再発掘を行っての事業展開。 (3)堺のポテンシャル(潜在力や底力)を活かし、既に堺の製品やビジネスとして広く知られているものを活用した新たなプロジェクトの展開。

【応募資格】
堺をこよなく愛する方

【応募方法】
●A4用紙4枚(1枚あたり1000文字以内)に事業活動の目的及び内容、 具体的な実施方法等詳細を小論文(図や写真でも可)としてご記入いただき堺商工会議所までご送付ください。 ●要約版としてA4用紙1枚(1枚あたり1000文字以内)を別途作製し、添付してください(図や写真でも可)。 ●専門用語等がある場合については、別途説明書を作製し、添付してください。●住所・氏名・年齢・職業・性別・電話番号・メールアドレスを別途記載し、提出してください。

【注意事項】 
●堺商工会議所が実施できる事業内容であり、現実的に事業展開ができるもの。なお、当所が関連団体等と協力あるいは連携を図り実施する事業内容(堺商工会議所がコーディネート役や先導役)も可。 ●現状の課題分析と実施手法が盛り込まれていること。 ●既に実施している(継続中や検討中のものも含む)事業、またはそれに関連するものでないこと。 ●知的財産等の権利関係については、未出願のもの。 なお、応募者が権利を保有している場合は、登録番号等を明確に記入すること。 ●作品の審査、選考についての問合せはできません。 ●応募作品は一切返却いたしません。 ●受賞作品の著作権は堺商工会議所に帰属されるものとします。

【賞】 
●SAKAI賞1名・・・・堺商工会議所から賞状及び100万円 毎日新聞から毎日新聞社賞として賞状及び記念品
●フロンティア賞2名・・・堺商工会議所から5万円及び賞状 SAKAI賞受賞作品(提案)は堺商工会議所の取り組むべき事業として、実現に向けて検討していきます。受賞者名及び内容は銘板を作製し、モニュメント内に保管します。

【応募期限】 平成19年6月29日(金)必着(郵送可)
【発表】 平成19年度「会員の集い」にて発表及び表彰
【応募先・問い合わせ】 〒591-8502 堺市北区長曽根町130番地23 
堺商工会議所内「SAKAI賞」事務局宛
TEL 072-258-5581 FAX 072-258-5580 E-mail sakaicci@sakaicci.or.jp
URL http://www.sakaicci.or.jp
■主催/堺商工会議所 
■後援/毎日新聞社


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