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2008 年 9 月 17 日 のアーカイブ

住吉

2008 年 9 月 17 日 Comments off

1、神ノ木駅
かつて住吉の地が海岸地帯であったころに、大きな古松があり「神の木」(現在は消失)として崇められていたことから駅名になりました。駅近くには神ノ木地蔵さんがいます。ここから「大阪あそ歩」がスタート!

2、六道の辻 閻魔地蔵
道が1本増えて「七道の辻(?)」になっていますが、昔は6本道の交差点だったので、今でも「六道の辻」と呼ばれています。仏教の輪廻転生の教えでは、人が死ぬと生前の行いを閻魔王に審査されて、六道(地獄・餓鬼・畜生・人間・修羅・仏界)のどこかに生まれ変わります。地獄に落ちたさいに唯一、救済してくれる仏さまが地蔵菩薩ですが、地蔵菩薩は、じつは閻魔王の化身という説があります。閻魔地蔵は、そうした考え方が反映された珍しいお地蔵さんで、その昔、難波の浜辺から運ばれて、六道の辻に来たさいに、急に重くなって一歩も進めなくなったので当地に安置されました。戦国時代の天文7年(1538)の銘が刻まれて、恐ろしい閻魔大王の姿をしていますが、心は優しい地蔵菩薩として地域住民に崇められています。とくに本堂の後ろに回って壁を撫でながらお願いごとをすると霊験あらたかとか。

3、生根神社
住吉大社より古くから当地に鎮座していたという伝承があります。ご祭神は少彦名命で、現在の本殿(大阪府指定重要文化財)は淀殿の寄進で造営されました。境内社の天満宮の菅公の木製御神像は、文明14年(1482)、天台法主・融円律師の作で国宝級の価値を有しています。菅公像は時代を経るにつれて、怒りの表情から笑顔に変わる傾向がありますが、木製御神像は無表情で、過渡期にあることがわかります。また本殿東側にある穴のあいた石=神明穴立石は少彦名命が海外に行ったさいの浜の石を運んで「何首鳥」(漢方薬、強精剤の名前)と刻んで霊石として崇めたものです。和歌浦より一夜で住吉浜までやってきた…という伝説などもあります。現在は穴の位置は東西を向いていて、伊勢神宮を遥拝できるように立てられています。

4、一運寺
推古21年(613年)に聖徳太子が建立して、最澄、空海、法然などもご説法なさったという住吉きっての名刹です。境内には赤穂浪士の大石良雄・主税の親子と寺坂吉右衛門のお墓があって、これは赤穂浪士を資金面で援助した大坂商人・天野屋利兵衛の子孫が建てたものです。利兵衛は討ち入り用の槍を堺の職人に製作依頼しましたが、職人たちはふって沸いたような臨時収入に住吉の料亭・三文字屋で豪遊しました。このとき運悪く隣座敷に町奉行の与力衆がいたことで「なぜ槍の製作を依頼したのか?」と怪しまれてしまい、利兵衛は捕縛されて拷問されます。しかし義理堅い利兵衛は「天野屋利兵衛は男でござる!」と啖呵を斬って吉良邸討ち入りが終わるまで決して口を割りませんでした。ちなみに捕り物劇の舞台となった料亭・三文字屋は、現在では奇しくも住吉警察署となっています。

5、宝泉寺 十三仏
天元5年(982)に「往生要集」で有名な源信上人によって開基された融通念仏宗の寺院です。石仏の十三仏は元亀年間(1570-73)に、旧住吉村字石本(神ノ木駅付近)にあった巨石をもとに刻んだもので、釈迦如来以外の十二仏は「干支のお守り本尊」として信仰されています。薬師如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩の3体は他の石仏に比べて小さく、「石工が計算違いをした?」という説もあって親しみがわきます。また「幽霊の片袖」伝説の発祥地で、元和3年(1617)に、箱根山を歩いていた巡礼者の前に、住吉大社の禰宜・山上松太夫の妻の幽霊が現れて、宝泉寺の道和上人に回向を頼みました。その証拠に「幽霊の片袖」を手渡したのですが、山上松太夫は宝泉寺の檀家で、道和上人は融通念仏宗総本山・大念仏寺の法主となっていたので、現在は大念仏寺の宝物殿に幽霊の片袖と香合が残っています。正式に鑑定したところ、間違いなく、江戸時代初期の片袖という結果も出ています。

6、熊野街道石碑
京都から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)までの約300キロにも及ぶ参詣道で、その一部はユネスコの世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されています。平安時代中期から熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになり、907年に宇多上皇が参詣すると皇族、女院の参詣(熊野御幸)や貴族の参詣が相次ぎ、とくに鳥羽上皇は21回、後鳥羽上皇は28回、後白河上皇に至っては32回も熊野に参詣しています。室町時代以降は、皇族や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになり「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいの街道となりました。

7、池田屋本舗
大阪府下唯一の手作り味噌のお店です。400年以上前の元禄年間に酒造業として創業しましたが、明治初期に味噌作りを始めました。明治、大正、昭和天皇にも献上された「住之江味噌」は住吉名物として有名です。熊野街道と住吉街道の四つ角にあって、表の屋根には住吉大社の高灯籠が置かれています。1892(明治25年)の建築ですが、白壁の虫篭窓など昔ながらの風情を伝える商家で、国指定登録有形文化財になっています。

8、住吉大社
創建211年。日本全国にある住吉神社の総本社で、海神の住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と神功皇后を祀っています。住吉造の本殿は国宝指定で、遣隋使や遣唐使は、大陸への航海に出発するさいは、必ず住吉大社に参詣しました。住吉津は、日本最古の国際港でもあり、シルクロードの日本の玄関口でした。おとぎ話の「一寸法師」は、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参って子供を出産し、その子供が住吉津から大阪湾、淀川、京にのぼって、武士になるために鬼退治をするという設定です。また名所として知られる反橋(太鼓橋)は、慶長年間に淀殿が寄進したもので、長さ約20m、幅約5.8mの木造桁橋です。朱色の優美なシルエットが美しく、大阪府出身でノーベル文学賞を受賞した川端康成の自伝的小説「反橋」(1948年発表)では、「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました」という名文句によって回顧されています。

9、粉浜商店街
大正8年に粉浜の米屋さん7名が店舗を構えたことが粉浜商店街のはじまりです。住吉大社の門前市として発達して、現在では350メートルの商店街に120店舗もの店が並んでいます。3、4代続く老舗も多く、豆腐やこんにゃく、うどん、おかきなどの専門店などは住吉名物として、遠方からやってくる多くの参詣客から親しまれています。月初めには商売繁盛、家内安全を願うイベント「はったつ市」を主催しています。住吉大社参詣のおみやげ処としてオススメです。


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