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2009 年 3 月 1 日 のアーカイブ

喫茶去

2009 年 3 月 1 日 Comments off

大阪にも派遣村ができたとか。「100年に一度の大不況」だそうで、大変な世の中ですが、ぼくがふと思い出したのは、ルイス・フロイスのこの言葉です。

われわれは宝石や金、銀を宝物とする。日本人は古い釜や、古いひび割れした陶器、土製の器などを宝物とする。
「日欧文化比較」(1562年 イエズス会宣教師 ルイス・フロイス)


1610年、オランダ東インド会社の船が日本の平戸を出航してバンタムへ到着しました。その船には「茶」が大量に詰められていて、これが欧州社会にはじめて入った茶です。じつはヨーロッパ人が歴史上はじめて飲んだ茶は「日本茶」(緑茶)でした。実際に当時のヨーロッパの文献では茶のことは日本風に「CHA」(チャ)と記載されています。いまのように「TEA」と呼ぶようになるのは後代のことで、江戸幕府が鎖国して日本茶の輸出がなくなって、代わって中国・福建省が茶の最大の輸出拠点となり、福建語の「TAY」(テー)が「お茶」(TEA)を意味する言葉へと成り代わったわけです。

ここで注目して欲しいのは、当時の日本の茶というのはただの飲料ではなくて、世界最高峰、最先端の「文化」として伝えられたということです。主人が身分を越えて、一服の茶を入れて、客人におもてなしをする。天下人の太閤秀吉も、堺の魚屋(ととや)の町商人・千利休と膝をつきあわせてお茶を楽しんだ。娯楽であり、社交であり、遊戯でありながら、そこには自由、平等、博愛という高い精神性が求められます。中世の封建的な西欧社会では成立しえなかったノーブル(高貴)な文化。「市民社会」という近代的自我の芽生え。それが戦国時代の日本……とくに大坂・堺(ここんとこは重要です。笑)にはすでに成立していたわけです。

西洋人は日本、中国などのアジアの茶の文化に触れて強烈なコンプレックスを抱きます。「国王と一市民が膝をつき合わせて、一服の茶を楽しむ」という、その高度な文化的背景が何であるのかを理解しないままに…というよりも理解しえないがゆえに、彼らは茶や茶道具を欲しがりました。最初にご紹介したルイス・フロイスの言葉は、当時のヨーロッパ人の日本に対する侮蔑の言葉ではなくて、羨望の言葉であるわけです。また寒冷地のヨーロッパでは、温帯植物である茶は自生できません。まさに未知、神秘、憧れの東洋文化の象徴がお茶であったわけです。

中でも、とくに茶文化に強烈にのめり込んだのがイギリスでした。フランス、イタリア、スペインなどの地中海国家にはワイン文化圏が成立していましたが、ヨーロッパ大陸、地中海から遠く隔てたイギリスにはワイン文化がなかなか成立しえなかった。またヨーロッパ大陸の水は「硬水」でミネラル成分が溶けて癖がありますが、イギリスの水は日本と同じように「軟水」であることも東洋風茶文化の流行を後押したようです。

18世紀中期にもなると、イギリスのお茶の消費量は全欧州の茶の消費量の約3倍以上を記録します。イギリス上流階級の婦女子は、中国風の丸テーブルに、東洋趣味の盆を置いて、日本製、中国製の陶磁器(白磁や青磁の茶瓶、茶器)を並べ立てて、奇妙奇天烈な東洋絵を飾りながら、茶をすすりました。それが最先端のトレンドとして持て囃された。よくよく考えれば、倒錯的で、摩訶不思議な光景ですが、例えばドイツのマイセン陶磁器の誕生の背景などにも強烈なアジア・コンプレックスが伺えます。

現代社会ではアニメやゲーム、カラオケといった日本文化が世界を席巻してますが、じつは17世紀前半から「茶の湯」という日本発祥の文化革命が欧州社会に蔓延していったわけです。19世紀に日本が開国して「浮世絵」に代表される「ジャポニズム」が欧州画壇に深く影響を与えるよりも以前の話で、おそらくは日本文化が西洋社会に与えた最初の「Japanese Invasion」であったと思われます。

当初は日本式の緑茶を飲んでいたイギリス人ですが、日本の鎖国が完成して、中国茶に移行すると、時代が経るに連れて次第に紅茶志向になっていきます。緑茶と紅茶の違いは茶の「発酵度合い」によるものですが、肉食文化の西洋社会では淡白な緑茶よりも濃厚な紅茶のほうが嗜好がマッチングしたようで、そこにミルクと砂糖をふんだんに投入して飲むというイギリス流紅茶文化が花開きます。

「なぜ茶にミルクと砂糖を入れたのか?」というと、それがイギリス上流社会の富と権力の象徴であったからです。とくに砂糖(さとうきび)は茶と同じく熱帯にしか自生しない植物で、その獲得のためにヨーロッパ諸国はやっきとなります。南米や新大陸にどんどんと進出していって植民地化して、広大なさとうきび畑を作り、そこにアフリカから黒人奴隷を大量に移民させて強制的に耕作させました。いまの時代の砂糖というのはただの調味料に過ぎませんが、当時は「砂糖1グラムは銀1グラムと対価」という時代で、豪奢極まりない、まさに王侯貴族のための飲み物であったわけです。

日本の緑茶文化は千利休の茶道に代表されるように「わび」「さび」といった美意識、精神世界へと深く没入していったのに、欧州・英国の紅茶文化は、金銀と等しい砂糖をふんだんに投入するという豪奢な物質主義の世界へと変容していった。東洋文化と西洋文化の特異性、相違点をよく現していますが、これは今日の東西文化交流の悲劇的誤謬の始まりともいえます。というのも「茶の湯」という象徴に込められた、豊かな精神的生活や卓越した美意識を持った日本文化に対するコンプレックスと憧憬が、アジア東洋社会への奇妙な模倣を生んで、ヨーロッパ社会に「物質文明」の幕開けを到来させたわけで、それがやがて20世紀初期には帝国主義へと変質して、全世界を支配するに至ったからです。

いまだに西洋文明のベクトルや理念は、物質主義によって世界を支配しようとしているように見えます。残念ながら、彼らはお茶を大量に生産して、大量に消費するだけでした。日本からは「茶道」が生まれたのに、西欧社会からは、ついに「茶道」が生み出されることはなかった。むしろ哀しいかな。生み出されたのは植民地と黒人奴隷と帝国主義といえるかも知れません。西欧人は東洋人と同じように茶を飲んでいながら、一服の茶にこめられた、気高き精神性や文化的教養を味わっていません。茶の湯に込められた和のノーブルを伝えること。それが世界に必要なことではないだろうか?・・・と、そんなことを思ったりしながら、夜中にひとりで原稿を書きながら緑茶をすすっております。

喫茶去。喫茶去。


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