無題

●大坂相撲力士と新撰組の乱闘事件
南堀江は大坂相撲興行の地として発展しましたが、文久3年(1863)、大坂相撲力士と新選組との乱闘事件が起こりました。局長の芹沢鴨ら8名が北の新地へ舟遊びに出掛けたさいに、些細なことで力士一行と口論に。乱暴者の芹沢は鉄扇で力士を殴って茶屋に入り、激昂した力士たちは角材を持って乱入。慌てた新撰組は刀を抜いて、関取・熊川熊次郎が重傷(のちに死亡)、新撰組も負傷者3名を出すという大乱闘になりました。事件後、年寄・小野川秀五郎と新撰組が和解交渉したさいは、小野川は老齢ながらも皿を噛み砕いて新撰組の度肝を抜いたといいます。以後、新撰組は大坂相撲と京相撲の仲を取り持つなど関係を深め、また一騎当千の凄腕の剣客たちが揃った新撰組に、無謀にも討ち入った大坂相撲力士は、その名を大いに上げたといいます。

●実用自動車製造株式会社の創業者・久保田権四郎
久保田権四郎は前名を大出権四郎といい、明治3年(1870)に広島の因島の貧農の子として生まれました。蒸気船に憧れて「あんな船を作りたい」と15歳で上阪。鋳物屋の丁稚で資金を貯めて明治23年(1890)「大出鋳物」を創業しました。当時、大阪では伝染病のコレラが流行り、水道整備が急務でしたが鋳鉄管は輸入品頼み。そこで権四郎は独力で鋳鉄管製造に着手し、明治30年(1897)、我が国初の鋳鉄管製造に成功すると、日本国中の水道管・ガス管に使用されて会社は大発展を遂げました。その後、取引先の久保田燐寸(まっち)機械製造所を経営する久保田藤四郎に望まれて養子となり、店名を「久保田鉄工所」と改称して発動機、機械製造へと事業を拡大。大正区では日本初の国産自動車メーカー・日産の母体となった「実用自動車製造株式会社」を設立しています。生涯に得た特許70件、実用新案150余件の発明家で、昭和34年(1959)、89歳の天寿を全うしました。明治44年(1911)には西成の子供たちのために私財を投じて「私立徳風尋常小学校」を設立。篤志家としても知られました。

●折口信夫も大絶賛!食満南北の名随筆
福地櫻痴(東京・歌舞伎座の開設者)や9代目市川團十郎(劇聖。鴈治郎の終生のライバル)、11代目片岡仁左衛門(食満南北を座付き作家として起用)らを描いた『作者部屋から』(昭和19年1月)と、上方歌舞伎の大名優・初代中村鴈治郎を描いた『大阪の鴈治郎』(昭和19年3月)は食満南北の名随筆として知られています。「仁左衛門は稽古にすこぶる丁寧で舞台はやや粗雑であった。鴈治郎は稽古はどちらかというと嫌いの方だが、舞台では丁寧であった」といった座付き作家でしか知りえない俳優論が展開され、国学者・折口信夫をして「南北として、これ以上のものは、もう書けない」「よくもこんなのんきな本がいまどき許されたと思う」と大絶賛しました。「のんきな本」というのは刊行されたのが戦争末期であるのに、時勢と隔絶した南北の世界観に感慨を覚えたわけです。戦争なんてお構いなしで芝居随筆本とは、まさに大阪きっての粋人の面目躍如といったところでしょうか。南北の随筆には他に『上方色町通』(昭和5年・1930)があり、こちらも名著として知られています。

●源義経ゆかりの大宮神社
千林大宮駅から西に続く千林大宮商店街を通り抜けると大宮神社にたどり着きます。社伝によれば文治元年(1185)2月に、源義経が平氏追討で西国に向かうさいに当地に宿泊。すると夜中に宇佐八幡が登場する霊夢を見て、また目覚めてみると1本の梅木に霊鏡が掛けられていました。義経は「われに神佑あり」と暴風雨の中にも関わらず、少数の船で出撃して平氏の拠点・屋島を奇襲して大勝利。その後、壇ノ浦まで平家を追いつめ、ついに平家を討ち滅ぼしました。義経は勝利を導いた霊鏡を後鳥羽天皇に奉上して、当地に社を建て、大宮八幡宮と称したといいます。往時は南方約1キロメートル先にある京街道に一の鳥居があって広大な規模を誇り、また天正11年(1583)には豊臣秀吉が来社して大坂城の鬼門の守護神として崇め、江戸時代も大坂城代は必ず参拝したといいます。社殿の前に枯木がありますが、それが義経が霊鏡を見つけたという神木・影向梅(ようごううめ)です。大阪市内では珍しく源義経伝説の残る古社ですので、ぜひご参拝してみてください。

●呉の織姫と三井財閥の意外な関係
長町にやってきた呉の織姫たちに関する記述が『日本書紀』にあります。それによると雄略天皇14年(470)1月に身狭村主青(むさのすぐりあお。呉の孫権の末裔と称しました)が呉国(当時は宋?)から帰国して、衣縫技術に長けた兄媛・弟媛・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)の4人の女性を率いて住吉津にたどり着いたといいます。その後、兄媛は大三輪神社に奉られ、弟媛は漢衣縫部、漢織は飛鳥衣縫部、呉織は伊勢衣縫部のそれぞれの祖となりました。このうち最も繁栄したのが伊勢衣縫部で、彼らは伊勢の住民に高度な機織技術を伝承して、その後、15世紀にエジプトやインド原産の木綿が日本に伝来すると「松阪木綿」が誕生。この松阪木綿は江戸で年間50万反の売上げを誇るほど大流行し、その商いで大成功したのが越後屋三井呉服店(三井財閥)です。松阪木綿は現在は国の無形民俗文化財となり、伝統産業として、いまも伊勢の地で受け継がれています。

●江戸の消費と大坂の経済を支えた菱垣廻船
なにわの海の時空館に菱垣廻船「浪華丸」が展示されていますが、菱垣廻船は元和5年(1619)に堺商人が紀州富田浦の廻船を借り受けて木綿・油・酒・酢・醤油などの商品を積み込んで江戸へ送ったことが始まりです。その後、寛永元年(1624)に北浜の泉谷平衡門が江戸積船問屋を開業して「廻船業」が確立しました。『白嘉納家文書』(白鶴酒造創業家)によれば元禄13~15年(1700~1702)には江戸に1300艘の廻船が入港したと記録されています。当初は大坂~江戸間を平均32日、最短10日で回航しましたが、航海技術の発展で江戸後期には平均12日、最短6日で辿り着いたといいます。また安政6年(1859)には、スピードレースの「新綿番船」で大坂~江戸間を50時間でたどり着いたという驚異的な記録が残っています。こうした海運業の盛り上がりが当時、世界最大の人口規模を誇った100万人都市の江戸の消費と、商都大坂の経済的発展を支えました。

●中央公会堂を建てた男・岩本栄之助
岩本栄之助は明治10年(1877)安堂寺橋通2丁目(現・南船場2丁目)生まれの株式仲買人です。明治40年(1907)の株大暴落では全財産を投じて買いに走り、野村徳七などの仲買人を救って「北浜の風雲児」と呼ばれました。明治42年(1909)に視察渡米。「富豪ガ公共事業ニ財産ヲ投ジテ公衆ノ便宜ヲ謀リ又は慈善事業ニ能ク遺産ヲ分譲セル実況ヲ目撃シテ大ニ感激」したことから帰国後に大阪市に金100万円(現在の価値で約50億円ほど)を寄付。中央公会堂の建設が始まりました。しかし大正5年(1916)に一次大戦の異常景気で大衆買いが殺到。栄之助は市場を守ろうと売りに出ますが大敗北して破産状態に。短銃自殺を図って同年10月に享年39歳で永眠しました。辞世句は「この秋をまたでちりゆく紅葉哉」です。中央公会堂は大正7年(1918)11月17日に落成し、現在、地下1階に「岩本記念室」が設置されています。官立ではなく民間人が立てた公会堂は、まさに町人のまち・大阪の象徴といえるでしょう。

●油掛地蔵尊があった幻の大刹・安曇寺とは?
油掛地蔵尊は「天平11年(739)安曇寺」と刻まれていたそうですが、この安曇寺は『日本書紀』にも登場する幻の大刹です。白雉4年(653)には難波宮の孝徳天皇が、同寺で病床にあった名僧・旻(遣隋使。国博士)を見舞い、「若し法師今日亡なば、朕従ひて明日に亡なむ」と哀しんだことが伝えられています。事実、旻が逝去すると孝徳天皇は翌年(654)に跡を追うようにして亡くなりました。また『聖武記』には「幸安曇江、遊覧松林、百済王等奏百済楽」とあり、天平16年(744)に聖武天皇が「安曇江」に行幸して松林を遊覧、百済から亡命してきた王族たちの異国の音楽を楽しんだとあります。油掛地蔵もその光景を見ていたかも知れませんね。ちなみに安曇とは海神(ワタツミ)を信仰する海洋族(安曇族)のことで、安曇寺はその氏寺と推測されていますが創建場所や、いつ消失したかが不明です。京都の安祥寺に「嘉元4年(1306)摂津渡辺安曇寺」銘の梵鐘があり、摂津渡辺の地に鎌倉時代までは寺院があったことは判明しています。

●弥次さん喜多さんも訪れた坐摩神社
十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802~1814)に、弥次さん喜多さんが坐摩神社を訪問する話が登場します。京都から船に乗って大坂・八軒家についた2人は初日は長町の「分銅河内屋」に宿泊。翌日は大坂見物で高津宮や大坂天満宮を廻り、その途上で坐摩神社の富札を拾いました。どうせハズレと思いながらも坐摩神社に辿りつくと、なんと大当たり!しかしお金の受け渡しは翌日とのことで、その日は、もう大金を手にしたも同然と2人は憧れの新町遊郭に繰り出しての大散財。翌日、当たり札を持って意気揚々と坐摩神社に行くと、じつは印が違っているという大どんでん返しで、2人の顔はみるみる青ざめました。河内屋に帰って宿主人に一文無しであることを白状すると、主人は2人の事の顛末が面白かったのか、なんと四天王寺、生国玉神社、住吉神社に連れて行って観光案内をしました。さらに別れ際には路銀まで持たせ、2人は大坂町人の度量の大きさに感じ入りながら、また旅を続けることが出来ました。ちなみに「河内屋」は明治半ばまで営業していて、「弥次喜多の間」が作られて大いに客を集めたといいます。

●道頓堀への愛着が込められた『心中重井筒』
宝永元年(1704)の心中事件を元にした作品です。紺屋の婿養子・徳兵衛は六軒町(現・宗右衛門町)の色茶屋「重井筒」のお房と馴染みでした。ある日、お房の父を助けるために妻お辰名義で400匁(約60万円)の借金をして、これが岳父にばれて「何事か?」とお辰が詰問責めに。お辰は事情が判らないままに夫を庇い、その様子を盗み聞きした徳兵衛は妻の献身に己の所業を深く反省。岳父が帰ると借金の理由を打ち明け、お房と別れると借金も渡しました。その後、岳父の元へ釈明に向かうのですが、ふとお房のことを思い出し、ついつい重井筒屋へ。お房と会うと、やはり別れることが出来ずに、ついに2人は道行『芝居尽くし』に。高津の大仏殿勧進所に辿りつくと妻・お辰が2人を探す声が聞こえ、徳兵衛は慌ててお房を刺し、お辰に見つからないように隠れようとして誤って古井戸に落ち、そこで絶命しました。じつは宝永4年(1707)10月4日に道頓堀を壊滅状態にした「宝永の大地震」があり、その復興祈願で上演されました。近松の芝居町・道頓堀への愛着が伺える名作です。

●仁徳天皇が愛した兎我野の鹿鳴
兎我野の地名は非常に古く『日本書紀』には、こんなエピソードが伝えられています。仁徳38年(410)7月、天皇と皇后が避暑で高台に登っていると毎夜、兎我野の雄鹿の鳴く声が聞こえ、その調べに耳を傾けていました。雄鹿は初秋に発情期を迎えるので、鹿の鳴く声は秋の訪れの象徴で、また雌鹿に逢いたいという「妻恋」の意味もあったといいます。ところがある日、突然、鹿の声が聞こえなくなり、不審に思っていると配下の佐伯部が鹿肉を献上してきました。まさかと思って質問すると「兎我野の鹿を刈りました」とのことで天皇は嘆き悲しみ、佐伯部の姿を見たくないと安芸の渟田に左遷しました。かつては兎我野の不動寺に「鹿塚」があったそうですが、残念なことに戦後、寺と一緒に豊中市に移転。現在は「白鹿堂」として同寺に祀られています。

●天神祭の華!御迎人形を鑑賞しよう
大坂が商都として繁栄すると天神祭にも様々な趣向が凝らされ、船渡御の船に乗せる厄除けの「御迎人形」が登場しました。当初は2メートルほどの大きさでしたが、やがて4.5メートル以上もの大型人形も作られたといいます。文楽人形の職人たちが作りましたが、中にはカラクリ仕掛けで歌舞伎の見栄を切る人形や、鯛を釣り上げる恵比寿などもあったといいます。最盛期には50体以上ありましたが、大塩焼けや戦災などで減少。現在は羽柴秀吉・木津勘助・安倍保名・酒田公時・関羽・八幡太郎義家・胡蝶舞・鬼若丸・猩々・素盞嗚尊・鎮西八郎・佐々木高綱・与勘平・三番叟・雀踊・豆蔵・恵比寿(頭のみ)の16体が残っています。毎年、天神祭の時期に天満宮境内で飾られますので、ぜひともご鑑賞を!

●なぜ蕪村は毛馬に帰らなかったのか?
蕪村には「幼童之時、春色清和の日ニは、心友だちと、此堤ニのぼりて遊び候・・・」という門人宛の手紙が残っています。幼い頃に毛馬堤で遊んだことを懐かしんだものですが、しかし不思議なことに蕪村は若き頃に毛馬を出てから、ただの1度も毛馬に帰りませんでした。安永6年(1777)4月には京都から弟子の几菫と一緒に来坂していますが、すぐに布引の滝へ出掛けています。翌年(1778)3月にも弟子の大江丸の案内で桜の宮で花見をして毛馬の目前まで来ていますが、訪問せずに京都に帰りました。石川啄木が「石をもて追はるる如く故郷を出でし哀しみ」と詠み、室生犀星が「故郷は遠きにありて思うもの」と歌ったように蕪村の毛馬も、その様な「故郷」だったのかも知れません。ちなみに蕪村は「名物や蕪の中の天王寺」という句を残すほど蕪好きで、それが俳号の由縁といわれていますが、これは「蕪(あ)れた村」で毛馬を指すのではないか?という説もあります。毛馬=蕪れた村なのか?なぜ蕪れてしまったのか?・・・色々と想像を掻き立てられますが真相は謎です。

●正岡子規、孫文、蒋介石も訪れた萩の寺
かつて中津には「萩の寺」として有名な東光院がありました。天平7年(735)に行基が開創した寺院で「南の四天王寺、北の東光院」と並び称されたほどの格式ある古刹でした。明治43年(1910)に箕面有馬電気軌道(現・阪急電車)が作った電車唱歌にも「東風吹く春に魁けて 開く梅田の東口 往来う汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋 業平塚や萩の寺 新淀川の春の風 十三堤の野遊びに摘むやたんぽぽ五形花」と萩の寺が歌われています。多くの文人墨客が訪れ、正岡子規は「ほろほろと 石にこぼれぬ 萩の露」の句を詠み、他にも日本亡命中だった孫文が訪れ、留学中の蒋介石と会っています。1914年(大正3年)に阪急電車敷設によって移転。現在は豊中市にあります。

●幻の名勝負!?「岩見重太郎VS宮本武蔵」
かつて伯楽橋の辺りは博労淵と呼ばれ、ここは大坂冬の陣の戦場となりました。豊臣方は砦を築いて薄田隼人に守らせ、徳川方は水野勝成らが攻めました。難攻不落の砦でしたが、薄田隼人が遊郭に行った隙を攻められ、徳川方がまさかの大勝利。薄田隼人はこの失態で「橙武者」(鏡餅の上の橙は食べられない=飾りだけで役に立たないの意味)と嘲笑され、その汚名を恥じて大坂夏の陣では最前線で奮戦、華々しく戦死しました。薄田は後世に大蛇や狒狒退治で有名な「豪傑・岩見重太郎」として講談などで人気者となりますが、実際はかなりの粗忽者だったようです。また水野軍の配下には剣豪・宮本武蔵がいて活躍していました。もし薄田隼人が遊郭通いしなかったら豪傑と剣豪の幻の名勝負があったかも!?

●米沢彦八
米沢彦八は江戸時代中期(元禄から正徳)に活躍した上方の芸人です。「上方落語の始祖」とも呼ばれます。一説によると正徳4年(1714)に興行先の名古屋で死去したといいます。本名は不明で「豊笑堂」と号しました。『摂津名所図会大成』によれば、かつての生国魂神社は「茶店軒を列ねて賑わしく」「傍邊の貸食屋には荷葉飯を焚て進むさる程に遊客の手拍子きねが鼓の音に混じ三絃のしらべ神前の鈴の音に合して四時ともに繁盛なる」とあり、境内では様々な大道芸人たちが集まって、技を競いあって大いに賑っていました。彦八もそのうちの一人で公家や大名の物真似をユニークに演じる「当世仕方物真似」で人気を博しました。京や江戸では到底できないようなアナーキーな笑いで、町人のまち・大坂であったからでこそ成立した芸といえるでしょう。彦八が書いたとされる軽口本集『軽口御前男』『軽口大矢数』『祇園景清』なども伝わっています。ちなみに近松門左衛門『曽根崎心中』で、お初を生玉に連れ出した田舎者が見に行くのも彦八の物真似でした。

●井原西鶴
井原西鶴は寛永19年(1642)に大坂・鑓屋町に生まれました。松尾芭蕉よりも2歳上、近松門左衛門より11歳上になります。鑓屋町は槍や刀剣、武具などの扱う問屋街でしたので、おそらく西鶴もそうした商家で生まれ育ったと思われます。西鶴没後45年後の元文3年(1738)に出た伊藤梅宇の『見聞談叢』には「大坂ニ平山藤五トイフ町人アリ 有徳ナルが妻早ク死ニ 一女アレド盲目 ソレモ死セリ 手代ニ譲リテ僧ニモナラズ 頭陀ヲカケ 諸国ヲ巡リ俳諧ヲ好ム ノチ名ヲ西鶴ト改メ 永代蔵・西ノ海トイフ書ヲ作レルモノナリ」と記されて、本名は平山藤五と言い、妻を早くに亡くし、盲目の娘を抱えて、それも早世。手代に店を譲って俳諧を始めて西鶴と名乗った・・・とあります。若い頃のことはほとんどよく判っていませんが、寛文6年(1666)の俳句集『遠近集』に「心ここに なきかなかぬか 郭公」という句が収録され、これが西鶴のデビュー句と言われています。寛文13年(1673)に生玉南坊にて俳人200人を集めて大規模な万句興行を成功させて、俄然、注目を浴びました。その後、「矢数俳諧」(一昼夜でどれだけ俳句を詠めるか競う)に独特の才能を発揮し、延宝5年(1677)には生玉本覚寺で一昼夜1600句、延宝8年(1680)には、生玉神社南坊で一昼夜4000句、貞享元年(1684)には住吉大社で一昼夜2万3500句という驚異的な数の俳句を独吟して、その超人的なパフォーマンスに世間は「阿蘭陀西鶴」と呼んで大いに持て囃しました。しかし西鶴自身は俳諧から浮世草紙の創作に力を入れるようになり、『好色一代男』『武道伝来記』『世間胸算用』『日本永代蔵』などを次々と発表。その作品群は世界各国で翻訳され、その文学的価値は高く評価されています。昭和43年(1968)には、ユネスコ(国連教育科学文化機関)によって紫式部や近松門左衛門らと並んで、世界的偉人の一人に選ばれました。

●軒親と杭倒れ
しかし借家人たちが自由勝手気儘に暮らしたか?といえばそんなことはなく、例えば京都では町会の構成員は家持ちのみでしたが、大坂は借家人も町会の構成員として扱い、町会の法律「式目」の条目数は、京都の倍以上ありました。町会で起こる様々な諸問題の対応が記述されていて、例えば軒下に捨て子があれば、その家が養育すると定められていました。これを「軒親」といい、軒親や隣家、向かいの家などの負担率が定められ、町会が責任を持って捨て子を養育したわけです。また現代の大阪は「食い倒れのまち」と呼ばれますが、これも元は「杭倒れ」が語源という説があります。大坂では町会が橋や堀川の管理を行い、その管理費は莫大なものでしたが、稀に豪気な旦那衆がいて「杭倒れ」しそうになるぐらい私財を擲って杭の修繕などを賄ったわけです。つまり「杭倒れ」という言葉には「自分たちのまちは自分たちで守る」という自治精神の発露と、それだけの財力を有した大商人であるという誇りが込められていました。戦後社会は、まちの問題や公共投資はすべて行政任せで、それゆえに大坂の誇りだった堀川なども埋め立ててしまいました。かつての大坂のように自分たちでまちをマネジメントしていれば、そんなことはなかったかも知れません。軒親や杭倒れに見られる大坂の町人たちの心意気を、今こそ見習うべきといえます。

●町人と借家人
江戸時代の大坂の居住事業は借家が9割にも達しました。大坂では借家人であることは決して恥ではなく「裏長屋」ではなくて、表通りに面した「表長屋」があって、借家で商売を行いました。また京都や江戸の借家は建具つきでしたが、大坂は「裸貸し」で建具などは借家人が自分で工面しました。建具の誂えには資本が必要ですが、職種に応じて自由に模様替えが出来るわけで、商売には非常に合理的な借家だったわけです。中には商売に成功して家屋敷を持つだけの資本力があるにも関わらず、借家人のままという人間も続出しました。これは家屋敷を持つと、町役負担があるので、それを疎んじたわけです。溜まりかねた町奉行所は「金銀手廻り候者は家屋敷諸事居たし候様心がけ然るべく候事」と何度もお触書を出しましたが、幕府の権威など歯牙にも掛けない借家人たちには、まったく効果はありませんでした。

●竜馬が惚れこんだお龍の大坂武勇伝!
坂本竜馬の妻・お龍には、大坂で悪党を相手に妹を助けたという武勇伝があります。お龍の父・楢崎将作は京都で侍医を営む勤王家でしたが安政の大獄で逮捕されて文久2年(1862)に病死。楢崎家は困窮して、妹の光枝が騙されて大坂の女郎屋に売られることになりました。それを知ったお龍は刃物を懐に大坂に下り、悪党に詰め寄りました。竜馬が姉に送った手紙によれば、悪党は「女のやつ殺すぞ」と脅しますが、お龍は「殺し殺サレニはるばる大坂にくだりてをる、夫ハおもしろい、殺セ殺セといゝけるニ、さすが殺すというわけニハまいらず、とふとふ其いもとおうけとり、京の方へつれかへりたり」と、啖呵を切って見事に奪い返したことが記されています。竜馬は「おもしろき女」といってお龍の気風の良さに惚れこみ、その後、2人は結ばれました。

●直木に続け!大阪出身の直木賞作家たち
新人作家の登竜門として知られる直木賞。偉大なる先輩・直木三十五に続け!とばかりに、数多くの大阪出身の作家が受賞しています。まずは船場の老舗昆布商に生まれたのが『花のれん』で受賞した山崎豊子。大阪の大学病院を舞台にした『白い巨塔』は映画化で大人気となりました。『梟の城』で受賞したのが司馬遼太郎。『俄』『花神』『大坂侍』など大坂の歴史小説も数多く手がけています。「西成もの」で知られる黒岩重吾は『背徳のメス』で受賞。上方落語家・桂馬喬を描いた『鬼の詩』で受賞したのが放送作家出身の藤本義一。近年は『マークスの山』の高村薫、『テロリストのパラソル』の藤原伊織、『容疑者Xの献身』の東野圭吾などミステリー系の作家が続いています。いずれも名作・傑作揃いですので、ぜひご一読を。

●西鶴『凱陣八島』VS近松『出世景清』
西鶴と近松は、生涯で一度だけ、道頓堀で浄瑠璃対決したことがあります。貞享2年(1685)、興行師の宇治加賀掾が台本を西鶴に依頼して、西鶴は源義経の都落ちを題材にした悲劇『凱陣八島』を創作しました。それに対抗して竹本座の竹本義太夫は新進の近松門左衛門を起用。近松は「向こうが源氏ならこちらは平家」と平景清の苦悩を描く『出世景清』を創作。客の人気は分かり易い『凱陣八島』に集まりましたが不運なことに芝居小屋が出火して上演中止に。『出世景清』は不入りでしたが深い物語性で、それまでの古浄瑠璃とは違う新浄瑠璃として現在では高く評価されています。西鶴は近松の浄瑠璃作家としての天才性に気づいたのか、以後、浄瑠璃からは離れて、『好色一代男』を発表。浮世草紙作家としての地位を確立していきました。

●適塾で学んだ手塚治虫の曽祖父・手塚良仙
手塚治虫の『陽だまりの樹』は手塚治虫の曽祖父・手塚良仙を主人公にした漫画です。良仙は江戸からやってきて適塾で学びました。福沢諭吉の『福翁自伝』によれば良仙は「身持ちが善くない」人物で、諭吉が「北の新地に行くことは止しなさい」と注意すると、良仙は了承して「もし違約をすれは坊主にされても苦しからず」と証文を書きました。ところが悪戯好きの諭吉は遊女の恋文を偽造して良仙に送り届けて誘い出しに成功。良仙が新地から帰ってくると、諭吉はハサミを持って良仙を脅し、良仙は手を合わせて拝んで、坊主だけは勘弁と懇願しました。結局、良仙は酒や鶏を奢らされて「お願いだ、もう一度(新地に)行ってくれんか、また飲めるから」と塾生たちにからかわれたそうです。適塾生たちの仲の良さ(?)が伝わるエピソードですね。

●我が国最初の灯台・住吉高灯籠
住吉公園には我が国最初の灯台で鎌倉時代末創建といわれる住吉高灯籠があります。当時は高さ約16メートルの常夜灯で江戸時代には浪華名所として知られ、灯台としての役割を果たすと同時に展望台としても利用されました。瀬戸内や淡路島、六甲摩耶の山並みに諸国を行き交う菱垣廻船の白い帆などが伺えて、ここからの眺めは絶景だったといいます。しかし昭和25年(1950)のジェーン台風で木造部分が破壊されて石組みの台のみが残り、昭和47年(1972)には道路拡張で撤去。昭和49年(1974)に場所を約200メートル東の現在地に移して高さ21メートルの高灯篭として再建されました。現在は第1・第3日曜日に一般開放されています。海岸線は遥か西の彼方で見えないのですが、在りし日の住吉の光景を思い描いて登ってみてください。

●鉄幹と晶子を引き合わせた男・河野鉄南
祐貞寺に住んでいた与謝野寛は漢学塾に通い、堺の覚応寺の子・河野通該と出会いました。2人は文学的才能を認め合い、大和川を挟んで北に住む寛は「鉄幹」と名乗り、南に住む通該は「鉄南」と名乗りました。この鉄南の詩の弟子として覚応寺に通っていたのが鳳晶子で、晶子は鉄南のことを「兄」と呼んで慕い、詩の手紙を何度も送りましたが、その文面は明らかに恋する女性のそれでした。しかし住職の跡取り息子の鉄南は晶子に対してあくまでも師匠としての立場を崩そうとしませんでした。そのうち鉄南は大阪にやってきた鉄幹に晶子を紹介して、すると晶子は途端に鉄幹に夢中になり、2人は大恋愛の末に結ばれました。「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」の「君」とは、河野鉄南であるという説もあります。

●東京タワーを作った男・前田久吉
前田久吉は明治26年(1893)に今宮村(現・西成区)の貧農に生まれ、大正2年(1913)に天下茶屋で新聞販売店を開業しました。大正11年(1922)には「南大阪新聞」を創刊。戦前戦後を通じて、さまざまな新聞を吸収合併しながら、これが現在の「産経新聞」に繋がっています。戦後は電波メディア時代の到来を予見。日本電波塔構想が持ち上がると「建設するからには世界一高い塔でなければ意味がない!」と、エッフェル塔を越える世界最高の自立式鉄塔を計画。昭和33年(1958)に東京タワーを設立しました。またラジオ大阪、関西テレビを開局して、それぞれの初代社長に就任。昭和40年(1965)に勲一等瑞宝章を受章して、昭和61年(1986)に93歳で死去しました。まさに天下茶屋から立身出世をして天下を取った男といえるでしょう。

●初心者にオススメ!竹田出雲の浄瑠璃
竹田出雲(?~1747)は芝居座元の子として生まれ、「太夫は竹本義太夫。作者は近松門左衛門。興行師は竹田出雲」と賞賛される名興行師です。人形遣いの型などを考案して「ぷつぷつと智恵の吹出雲」と呼ばれました。当初、浄瑠璃人形は精巧ではなく、大坂庶民は「語りの美しさ」に熱狂しましたが(近松の浄瑠璃は語りの美しさを極めたものです)、やがて人形遣いの技術が発展すると「人形の動きの美しさ」が求められ、出雲はそこに新機軸を打ち出しました。また近松に師事して脚本も手掛け、『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』は浄瑠璃の三大傑作といわれています。ストーリーが分かり易く、大衆受けするので経営難の芝居小屋を救う独参湯(特効薬)といわれたとか。浄瑠璃初心者はまず上記作品の鑑賞からオススメします。

●幻の九十九王子を探してみよう!
堀越神社には、渡辺津(現在の天満)にあった九十九王子の第一王子・窪津王子が合祀されています。この「九十九王子」というのは平安時代以降に熊野詣の参詣者への道案内などを務めた神社のことです。実際に九十九あったわけではなく、「多数ある」ことの比喩で、天満の八軒屋浜から熊野古道まで最盛期でも80ほどだった(諸説あり)といわれています。大阪市内では「窪津王子」(現・坐摩神社行宮)→「坂口王子」(現・南大江公園)→「郡戸王子」(現・高津宮)→「上野王子」(現・上之宮町4界隈。上宮跡の石碑あり)→「阿倍王子」(現・阿部王子神社)→「津守王子」(現・墨江小学校)があったといわれています。ほとんどの王子が消滅していまっていますが、昔の熊野詣の旅人気分で歩いてみると、色んな発見があるかも知れませんよ。

●顕如上人を助けた折口信夫のご先祖さま
民俗学者の折口信夫の小説『折口といふ名字』には自らのルーツと生まれ育った木津村について書かれています。それによると折口の先祖は「(石山合戦で信長と徹底抗戦した本願寺第11世)顕如上人根来落ちの際(中略)汀にもやうた舟への降り口を、案内申したと言ふので、上人から賜つたおりくちを、家名とした」とあり、また上人を助けたことから「(木津村の)願泉寺檀徒の講衆が西さん(西本願寺)の法会に京へ上ると、他の国々の講衆の一番上席に据ゑられ」たといいます。折口は日本全国各地に外部から突然やってきた来訪者や漂流者を歓待する民俗風習があることに気づいて、それを「まれびと信仰」と呼びましたが、木津村にいた折口の先祖たちも、そうした「まれびと信仰」で上人を助けたのかも知れませんね。

●玉江橋の南に天王寺の五重塔が見える?
福沢諭吉が生まれた中津藩邸から南に下ると堂島川に架かる玉江橋があります。この玉江橋は江戸時代は「玉江橋の南に天王寺さんの五重塔が見える」といわれて、大坂庶民の謎のミステリーとして非常に有名でした。方角的には玉江橋の東南に四天王寺が位置するはずなのに、橋の南の位置に五重塔が見える…こう聞けば、確かに不思議な話なのですが、じつは堂島川が微妙に西南に流れていて、橋が微妙に斜に架けられていたから…というのが種明かしでした。当時の測量技術ではまだ正確に川や橋の位置関係が把握できなかったのでしょう。ちなみに現在では中之島、船場界隈には高層ビル群が立ち並んでいるので、まったく天王寺さんの五重塔は見えません。ミステリースポットが見えなくなって、ちょっと残念な気もしますね。

●大阪港にマーメイド像がある?
『人魚姫』(1836年発表)といえば、デンマーク王国の代表的な作家アンデルセンの有名な童話です。コペンハーゲン港にある「マーメイド像」は、世界各地から観光客が訪れる観光名所にもなっていますが、そのマーメイド像が、なぜか大阪港にもあります。じつは大阪港とコペンハーゲン港は平成6年(1994)に交流港となり、その友好を記念してビール会社のカールスバーグ社から像が寄贈されたのです。コペンハーゲン港のマーメイド像を作った彫刻家エドワード・エリクセン(1876~1959)の意思を継いだエリクセン財団が制作したもので、由緒正しい(?)マーメイド像です。ちなみに大阪港のマーメイド像の近くにはサントリーミュージアムがありますが、サントリーの会長・佐治敬三氏は、コペンハーゲンでカールスバーグ社のビールに魅了されて、技術指導を受けて新しいビール事業に乗り出しました。大阪とデンマークの意外なつながりですね。

●「堀江六人斬り」と大西順教尼
西長堀川の南には、かつて堀江遊郭がありましたが、そこで明治38年(1905)、「堀江六人斬り」という凄惨な事件が起こりました。貸座敷「山海楼」で主人・中川万次郎が後妻と養子に迎えた甥の仲を邪推して、酔った勢いで家人6人を惨殺。養女で芸妓の大石よね(当時17歳)も両腕を切断されましたが、なんとか生き残りました。その後、よねは地方(じかた・演奏する芸妓)に転向して、旅巡業中にカナリヤが雛にエサをやる様子を見て口で字を書くことを思いつき、独学で書画を始めました。昭和8年(1933)には出家得度して「大石順教」と改め、身体障害者の世話をする福祉活動に励み、昭和43年(1968)、心筋梗塞で死去しました。両腕を切断した養父・中川万次郎のためにも供養の墓標を立てるなど、慈愛に満ちた順教尼の生きざまや、口で描いた書画は高く評価されて、「日本のヘレンケラー」とも呼ばれています。

●浪速の知の巨人!木村蒹葭堂
元文元年(1736)、北堀江瓶橋北詰の造酒屋に生まれたのが木村蒹葭堂です。文人画家、本草学者、蔵書家、コレクターで「浪速の知の巨人」とも称されます。23歳のとき、詩文結社「蒹葭堂会」を主催。漢詩、黄檗禅、書画骨董、煎茶、篆刻、動植物標本、オランダ語、ラテン語(!)などにも精通したといいますから驚きます。その知識や収蔵品を求めて諸国から文化人が訪れ、『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されています。寛政2年(1790)に密造酒製造の罪で町年寄役を罷免され、伊勢長島川尻村に転居という屈辱的罰を受けますが、寛政改革で大坂商人の勢力を抑えようとする幕府の弾圧といわれています。しかし2年後に帰坂して船場呉服町で文具商を営むと、以前にも増して隆盛となりました。享和2年(1802)、享年67で没。昭和35年(1960)、木村蒹葭堂邸跡地に顕彰碑が建立されました。現在、この地は大阪市立中央図書館となっています。

●大阪人に敬愛された仁徳天皇
高津宮の御祭神の仁徳天皇。上町台地に難波高津宮を構えた第16代天皇ですが、一体、どういった人物だったのでしょうか?記紀によれば難波高津宮から人家の集落を眺めると、竈から炊煙が立っていないので、貧窮して炊事が出来ていないことに気づいて税免除を行ったという善政の逸話が伝えられています。その一方で女性が好きで、よく皇后の嫉妬に悩まされたという非常に人間臭い一面もあったようです。大阪人に深く敬愛された天皇で、現在の大阪市歌「高津の宮の昔より よよの栄を重ねきて 民のかまどに立つ煙…」の歌詞も仁徳天皇のエピソードが由縁です。それにしても財政には鋭いけど女性には弱いというのは、なんとなく商都・大阪の男性によくいるタイプのような…。今も昔も大阪の男性はあまり変わらないということでしょうか?

●朝鮮通信使たちが見た大坂
北御堂は江戸時代、朝鮮通信使たちの接待の宿舎として利用されましたが、朝鮮人たちが見た当時の大坂の記録が残っています。明和元年(1764)に第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙が書いた『日東壮遊歌』によれば、大阪港について「その昔、桜船で下る王濬が益州を称えた詩があるが、大坂港に比べれば間違いなく見劣りする」「倭の11隻の金の桜船が迎えに来ていた。その豪華絢爛ぶりは万古に例を見ない見事さだ」と書き、大坂のことは「三神山の金闕銀台(中国の伝説上の神山と金銀で出来た宮殿)とは、この地のことだ」「倭人の富豪は銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾り立てている」「わが国の鍾絽(漢城の繁華街)の万倍も上の賑わいである」「北京の訳官も中原の壮麗さも大坂には及ばないといった」と絶賛しています。いまの大阪以上に当時の大坂は世界に冠たる大都市だったのかも知れませんね。

●織田作之助(オダサク)も通った波屋書房
千日前にある波屋書房。大正8年(1919)創業の老舗本屋ですが、ここはオダサクもよく通いました。小説『神経』の中では「大阪劇場の前まで来ると、名前を呼ばれた。振り向くと、波屋の参ちゃんだった。波屋は千日前と難波を通ずる南海通りの漫才小屋の向いにある本屋で、私は中学生の頃から波屋で本を買うていて、参ちゃんとは古い馴染だった。参ちゃんはもと波屋の雇人だったが、その後主人より店を譲って貰って波屋の主人になっていた」とあります。ちなみに波屋を創業したのは明治末から昭和初期にかけて活躍して、「大阪の夢二」と呼ばれた画家・宇崎純一です。藤沢桓夫、武田麟太郎らと組んで同人誌「辻馬車」の出版にも携わり、その表紙絵や挿絵イラストは大正・昭和のモダン大阪の象徴として、今日、高く評価されています。

●法善寺を愛し、法善寺に愛された藤山寛美
法善寺に足しげく通った芸人といえば藤山寛美。昭和4年(1929)に関西新派「成美団」の役者・藤山秋美と新町のお茶屋「中糸」の女将・稲垣キミの息子として生まれ、わずか4歳で初舞台に立ちました。昭和22年(1947)に松竹新喜劇に参加。阿呆役の「あほの寛ちゃん」で大人気を博しました。「遊ばん芸人は花が無うなる」という母親の言葉を忠実に守り、「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれるほど豪遊。その結果、昭和41年(1966)に1億8000万円という多額の負債で自己破産しますが、それでも舞台に立ち続けて、19年目に見事、返済しました。平成2年(1990)、肝硬変で死去。亡くなる3日前に急に「中座に行きたい」と言い出し、妻と共に深夜に中座へ行ったといいます。法善寺の西側看板は藤山寛美の筆によるものです。

●太融寺は「国会期成同盟発祥之地」
自由民権運動を展開していた政治結社「愛国社」の第4回大会が、明治13年(1880)、太融寺で開催されました。それまでの愛国社は明治政府への不平士族が中心でしたが、明治11年(1877)の西南戦争の敗北から方向性を転換。板垣退助は「国会開設」「憲法制定」「地租改正」などを目的とする「国会期成同盟」を結社しました。とくに地租改正には農村指導者が賛同して、自由民権運動は全国規模へと拡大。その勢いは凄まじく、翌年(1881)には政府から「10年後には国会を開く」と約束させました。その後、明治22年(1889)に帝国憲法制定、翌年(1890)に帝国議会が開催。太融寺は近代日本政党政治の誕生の舞台となったわけです。太融寺には、そのことを記念した「国会期成同盟発祥之地」の石碑があります。

●大阪人のご先祖も住んでいた?森小路遺跡
関目高殿駅から京街道を北東に歩くと森小路界隈にでますが、その近くの新森中央公園に「森小路遺跡」の石碑があります。昭和6年(1931)に土地区画の整理工事中に石包丁、石斧、石槍、石錐、弥生式土器、須恵器などが発掘され、調査の結果、半径300メートルに及ぶ弥生中期から古墳時代にかけての複合集落があったことがわかりました。表面に人物の姿を先刻した土器片や、セタシジミやハマグリといった貝殻、イノシシやシカの骨なども出土しており、当時の狩猟採集生活の様子が伺えます。また後年に二上山産のサヌカイトによる見事な打製石剣が発見され、他の集落との交流・交易などもあったことが推測されています。発見当時は大阪市内の最低平地にある弥生遺跡(標高2.8メートル)としても注目されました。弥生時代は、このあたりは淀川の沖積作用によってできた河内潟の三角州であったと推測されています。旭区民センター内の郷土資料室に遺跡で発見された出土品の一部などが展示されています。

●京町堀出身!博覧強記の雑家・暁鐘成
西船場小学校にある先賢景仰碑にも名が刻まれている暁鐘成は、江戸時代後期の地誌『摂津名所図会大成』『天保山名所図会』『西国三十三所名所図会』などの著者として知られています。寛政5年(1793)に京町堀の醤油商の和泉家の妾腹の4男として生まれ、博労町で日本各地の名所名物を模した菓子などを売る土産物屋を営みましたが、天保の改革の質素倹約令の煽りで閉店。その後、難波の瑞竜寺門前に茶店を開きながら、著作業に励みました。万延元年(1860)に妻の親類がいる丹波国福知山を訪れ、そこで百姓一揆に加担した罪で投獄され、釈放の数日後に急死しました。地誌以外にも木村蒹葭堂のコレクションを整理してまとめた『蒹葭堂雑録』(1859年刊)などは高く評価されています。洒落本、随筆、狂歌などにも通じて、その博覧強記と多作ぶりから『浪華当時人名録』には「雑家」と記されています。墓は浦江の勝楽寺にあります。

●町人たちによる不撓不屈の新田開発
江戸時代前半から大坂湾沿岸の河口周辺部で、大規模な新田開発が行われました。その多くは「代官見立新田」「藩営新田」といった幕府や藩が行うものではなく、大坂在住の町人たちが自らの資本で行う「町人請負新田」でした。新田はすべて開発者の土地となり、成功すれば莫大な利益を上げましたが、大坂沿岸部は水害も多く、非常に投機リスクの高い賭けでした。何度も失敗しながらも果敢に挑戦し続ける豪商たちが数多くいて、事実、船場淡路町の両替商・加賀屋甚兵衛などは本業の両替商を廃してまでも子孫4代にわたって新田開発に専念して、ついに成功を収めました。じつは現在の大阪市総面積の約1/3が、こうした近世豪商のたちの民間活力による開拓地です。また、新田開発の農作物の収穫量に大きな影響を与えたのが下肥でした。科学肥料がない時代ですので下肥は大変、貴重な肥料で、大坂という大都市があるからでこそ、都市近郊農業が栄えたわけです。米はもちろんのこと、四天王寺蕪、田辺大根、毛馬胡瓜、勝間南京といった「なにわ野菜」も各地で栽培され、大坂の豊かな食文化を支えました。

●道頓堀川の水は飲料水だった!?
海を埋め立てて作られた船場や島之内は井戸を掘って水が出てきても塩気があり、飲料水としては不適で、主に生活用水として用いられました。飲み水は専用の販売業者の「水屋」がいて、それが水桶で各家庭に届けていましたが、ではその水はどこから汲んできたのか?といえば、じつは市中を縦横無尽に流れる堀川から汲んでいました。堀川は諸国の名産を運ぶ水運網であり、それが商都大坂の経済的繁栄を支えましたが、じつは上水道としての機能をも併せ持っていたわけです。道頓堀川の水でも、かつては飲料水として使用され、実際に道頓堀を開削した安井家は道頓堀川沿岸住民から飲料水代として「水料」を明治に至るまで徴収していました。幕末期の大坂名所案内『浪華の賑ひ』にも四ツ橋の下で水船が水を汲んでいる光景が描かれています。屎尿などの生活排水は太閤下水によって集められ、それは近郊農業の肥料(下肥)として利用されたため、市中の堀川は決して汚されることがなかったわけです。大坂三郷の人口は最盛期には35万人ほどでしたが、それだけの大都市でありながら、美しく綺麗な堀川が保たれていた・・・まさに「水の都」の名に相応しい、エコロジカルな都市が江戸時代の大坂でした。

●淀屋3 討幕運動に全財産を献上
しかし淀屋は数年前から幕府の動きを察していたので、闕所前に倉吉に暖簾分けした店を開き、後代になって大坂で再興しました。この後期淀屋は幕末まで存続して、倒幕運動が起こると全財産を朝廷に献上。江戸幕府の崩壊と明治維新の到来を見届けると、歴史の表舞台からその姿を消しました。

●淀屋2 幕府の陰謀によって闕所処分
これだけの贅を誇った淀屋ですが、宝永2年(1705)、5代目辰五郎のときに突如、幕府から闕所(全財産没収)されました。「町人の身分に過ぎた振る舞い」が表向きの理由でしたが、諸大名の淀屋からの借金が巨額となり、そのあまりの財力に恐れをなした幕府が、権力によって淀屋を取り潰したわけです。没収された財産リストによれば、小判12万両、銀12万5000貫(小判でざっと200万両)、金屏風50双、金塊3000個、美術刀剣720本、船150艘と記されていて、まさに想像を絶します。またビードロも実は磨き上げた水晶板だったと言われ、もしかしたら当時の淀屋は世界一の財産家だったかもしれません。

●淀屋1 先物取引市場の先駆!淀屋の米市
元禄期の大坂最大の豪商・淀屋の初代は岡本三郎右衛門といいます。のちに隠居して仏門に入り、常安を名乗りました。秀吉に仕えて伏見城や大坂城の造営に尽力したり、大坂の陣では徳川方について陣屋の造営や食料調達などを行いました。その後、十三人町(現在の北浜)に移り、淀屋を称して中之島の開拓を行い、米市を設立。米市では現物取引のみならず、手形による帳合米取引を行い、世界の先物取引市場の先駆として高く評価されています。また、このとき船場と中之島を結ぶ橋として架けられたのが淀屋橋です。その後、2代目言當が青物市や雑喉場市を設立。淀屋は大坂三大市場と呼ばれた米市、青物市、雑喉場市を掌握して莫大な財産を築きました。2万坪の土地に1万坪の屋敷、170人の奉公人、「いろは」の順に48の蔵、大小の書院はすべて金張り、16畳の夏座敷と呼ばれる別院には天井をビードロ(ガラス)張りにして水をたたえて金魚を泳がせたという話(『元正間記』)は有名です。

●遊女と町衆の恋の舞台・北の新地
河村瑞賢が貞享2年(1685)に堂島新地を開発。西国街道の要路で、私設の茶屋や湯女が接客する風呂屋が出来ました。その後、元禄10年(1697)に堂島米市場が開所されると開発が進み、曾根崎川北側に遊所が集まり、「北の新地」と呼ばれました。新町は幕府公認の遊郭で、大名がお忍びで通い、豪商が贔屓にしましたが、北の新地は格下で、醤油屋、紙屋、粉屋といった新興商人の手代や丁稚が遊ぶ庶民的な遊郭でした。身を売られて端女郎として抱えられた女性と、士農工商という封建社会の身分制度で最下級の地位にある町衆とが出会う北の新地は、どうにもならない現実世界を必死に生きる男と女の真実の恋の舞台となりました。その激しい葛藤を描いたのが近松門左衛門で、『曽根崎心中』のお初・徳兵衛、『心中天の網島』の小春・紙治の物語は、いまも名作として語り継がれています。

●天下一の花街・新町と夕霧太夫
寛永6年(1629)ごろ 、大坂各所に点在した遊所を集めたのが新町遊郭のはじまりです。幕府公認の遊郭で、船場の旦那衆が客を接待する「島」(江戸では遊所は岡ですが大坂では島といいました)として発展。延宝期(1673~1681)には太夫、天神、鹿子位、端女郎など2200名以上の遊女がいて、京の島原、江戸の吉原と並ぶ天下の三大遊郭と呼ばれました。西鶴『好色一代男』では「京の女郎に江戸の張りを持たせ大坂の揚屋であはば、このうえ何かあるべし」と記され、「神代このかた、また類なき御傾城の鏡」の夕霧も登場します。夕霧は扇屋の伝説的な太夫で、吉原の高尾、島原の吉野と並んで天下の三大名妓と呼ばれましたが若くして亡くなりました。33回忌には近松が『夕霧阿波鳴渡』を書き、その中の吉田屋の段を歌舞伎用に改作した『廓文章』は、初代坂田藤十郎の当たり役で一世を風靡しました。また幕末期に扇屋で生まれたのが「頬かむりの中に日本一の顔」(岸本水府)と謳われた上方歌舞伎の名優・初代中村鴈治郎で、その孫が人間国宝の四代目坂田藤十郎です。花街はなくなりましたが、新町が生んだ芸能文化は、現代の大阪まで脈々と受け継がれています。

●芦刈、一夜官女、江口の君・・・淀川デルタは伝説の宝庫
淀川の土砂によって出来た湿地帯は、広大な芦原を形成し、それは難波の名物となりました。平安時代前期に成立した『大和物語』には、難波の芦を刈って生業とする夫と、京に上って出世する妻との再会の物語が収められています。これは後に世阿弥の手によって謡曲『芦刈』となりました。この他にも暴れ川を治めるために生贄を差し出していた村を救った豪傑・岩見重太郎の狒狒退治や、「雉も鳴かずば討たれまい」ということわざを産み出した長柄の人柱、西行法師と遊女・江口の君との邂逅など、淀川デルタには水とかかわった人たちの数多くの物語が伝えられています。

●「放出」は草薙剣を放り出したから?
難読地名で知られる「放出」(はなてん)も古代は河内湖の中でした。天智7年(668)、新羅僧の道行が草薙(くさなぎ)剣(のつるぎ)を熱田神宮から盗んで船で逃亡しましたが、ここで突然の嵐に襲われ、神罰と恐れをなした道行は草薙剣を「放り出し」、これが地名となったといわれています。草薙剣は無事に熱田神宮に納められましたが、その御恩から、現在も放出にある阿(あ)遅速(ぢはや)雄(お)神社の例祭日には熱田神宮の神職が参拝する習慣が続いています。

●大阪に「島」がつく地名が多いわけ
淀川近くには「島」がつく地名が数多く点在しています。柴島、都島、堂島、福島、加島、御幣島、出来島…。河内湖に注ぎ込む淀川が土砂を運び、島を形作りました。古代人たちは上町台地から河内湖を眺め、次々と海中から島(国土)が誕生してくる不思議な光景に畏敬の念を覚え、これを「難波八十島」と呼びました。それはまさに記紀神話のイザナギとイザナミによる「国産み伝説」そのもののように感じられたことでしょう。また難波八十島のひとつ・姫島には、うら若き乙女の屍が漂流しているのを嘆き悲しんだ河辺宮人の歌「妹が名は 千代に流れむ 姫嶋の 小松が末に 苔むすまでに」(『万葉集』)が伝わり、これを日本の国家・君が代の本歌とする説もあります。

●江戸では仇討、大坂では心中
近松門左衛門は承応2年(1653)に越前藩士の子として生まれました。京都の公家に仕え、宇治加賀掾と出会ったことで浄瑠璃の台本書きに。天和3年(1683)、『世継曾我』が竹本義太夫によって上演されると好評を博し、その後、大坂に転居して元禄16年(1703)に世話物『曽根崎心中』を発表。それまでの浄瑠璃は英雄、悪漢による単純明快な勧善懲悪物でしたが、無名の大坂庶民の人間ドラマを描く近松の世話物は、日本近世文学の一大転換点となりました。ちなみに曽根崎心中の4ヶ月前に起こったのが忠臣蔵で、大坂では色恋沙汰のために命を捨てる心中が流行り、江戸では主君のために命を捨てる仇討事件が巷間を賑わせました。その後も『冥土の飛脚』『心中天の網島』などで人気を博しましたが、それに影響された若い男女の心中事件が相次いだので、享保8年(1724)、ついに幕府から心中禁止令が出されました。近松はそうした世情の騒乱を横目に翌年、72歳で没。辞世の句は「残れとは思ふも愚か 埋み火の消ぬ間徒なる朽木書きして」(作品が残れと願うのも愚かこと。残り火が消えるまでの間に書き散らしただけなのに)

●阿蘭陀西鶴
井原西鶴の本名は平山藤五。寛永19年(1642)に鑓屋町の商人の子として生まれ、風刺精神が旺盛な談林派の西山宗因に俳諧を学びました。西鶴を世に知らしめたのが、一昼夜でどれだけの俳句を詠むか競う矢数俳諧で、貞享元年(1684)には住吉大社境内で俳人・小西来山や芭蕉の高弟・宝井其角らを前にして、2万3500句(単純計算で3~4秒に1句を発したことになります)という大記録を達成。記録者はあまりの速さに追いつかず、初句「神力誠をもって息の根留る大矢数」のあとは棒線で数を記録したほどで、世人は「阿蘭陀西鶴」と呼んで驚嘆しました。その後、俳諧から転じて小説(浮世草紙)を書き始め、『好色一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』などで日本近世文学にその名を留めました。生涯に「たはぶれし女三千七百四十二人、少人のもてあそび(男色のこと)七百二十五人」と描かれた『好色一代男』の世之助の如く、享楽的な元禄文化の体現者と思われがちですが、私生活では下戸で、最愛の妻を若くして亡くしても独身を貫き、盲目の娘の面倒を見ながら質素に暮らし、元禄6年(1693)、52歳で世を去りました。辞世の句に「鯛は花は見ぬ人もあり今日の月」「浮世の月見過しにけり末二年」が伝えられています。

●2代目徳川大坂城
豊臣大坂城の跡地には、元和5年(1620)から2代将軍・秀忠によって城再建が始められ、寛永6年(1629)に2代目の徳川大坂城が完成しました。豊臣大坂城の残骸の上に高さ約1~10メートルもの盛り土をして石垣を積み、豊臣大坂城を越える高さの天守(約58メートル)を作りました。豊臣氏の栄華の面影を懸命に大坂から払拭しようとしたわけですが、天守は寛文5年(1665)に落雷で焼失しました。幕府直轄の城なので城主は徳川将軍ですが、将軍は江戸城に居るので代わりに譜代大名が大坂城代として赴任。後には大坂城代や京都所司代を経て老中に就任するのが譜代大名の出世コースとなりました。慶応3年(1867)に薩長との対立で15代将軍・慶喜が入城。しかし鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北したと聞くと、慶喜は深夜に部下を見捨てて愛人と一緒に船で江戸へ敵前逃亡しました。主を失った大坂城は大混乱に陥って突如、出火。ほとんどの建物が灰となりました。初代大坂城の炎上は豊臣滅亡の象徴でしたが、2代目大阪城の炎上は、幕府崩壊の象徴的事件となりました。

●大阪市民が建てた昭和大阪城
明治時代には大阪城跡地は帝国陸軍の所有地となりました。また大阪砲兵工廠(兵器工場)が設けられ、軍事機密を守るために民間人の入場は禁止され、大阪市民からは遠い存在となりました。しかし昭和3年(1928)に関一大阪市長が天守再建を提案すると、なんと大阪市民から150万円(現在の資産価値で60~80億円)もの募金が集まり、昭和6年(1931)に見事に3代目昭和大阪城が完成しました。当時の大阪は関東大震災で被害を受けた東京市に代わって日本最大の商工業都市(大大阪の時代)で、3代目大阪城はまさに大大阪の象徴といえます。太平洋戦争では空爆の標的となりましたが、奇跡的に天守は残りました。しかし工廠は爆撃で崩壊し、その跡地で大量の鉄屑を盗んで売り捌くアパッチ族が出没。これは後に小松左京や開高健が小説化して、戦後大阪文学の出発点にもなりました。豊臣、徳川の天守はそれぞれ約30年で焼失しましたが、大阪市民が建てた3代目天守は70年の年月を超えて、いまも大阪城にあります。

●浪華三大橋にして近代大阪の象徴・難波橋
『元亨釈書』によれば「聖武天皇の天平17年(745)に僧行基が難波ノ橋をかけた」とあります。江戸時代には200メートルを超える公儀橋で、天神橋、天満橋と共に「浪華三大橋」と呼ばれました。反橋で眺望が素晴らしく、西鶴『日本永代蔵』には「難波橋より西見渡しの百景、数千軒の問丸、甍をならべ、白土雪の曙をうばう。杉ばへの俵物山もさながら動きて、人馬に付おくれば、大道轟き地雷のごとし」とあります。明治9年(1876)に鉄橋化しましたが、明治18年(1885)の淀川大洪水で浪華三大橋はすべて流失。残骸が安治川橋に絡まり、さらなる水害の拡大を防ぐため、橋もろとも爆破されました。その後、大正4年(1915)の市電事業で難波橋筋(堺筋の1つ西にありました)から大阪のメインストリートだった堺筋に移設され、重厚な石橋風デザインが施されて近代大阪の象徴となります。天岡均一の阿吽の獅子石像があるため、「ライオン橋」と呼ばれますが、なぜ獅子を用いたのか不明です。難波橋から16の橋が見えたのを歌った「西ひがし みな見にきたれ なには橋 すみずみかけて 四四の十六」(蔭山梅好)の狂歌が橋中央の顕彰碑に刻まれていて、この「四四と獅子を掛けたのでは?」という説がありますが真相は謎です。

●道行名残の橋づくし
近松門左衛門の最高傑作とも呼ばれる浄瑠璃『心中天の網島』。享保5年(1720)10月14日に、網島の大長寺で起こった天満の紙屋治兵衛と北の新地紀伊国屋の遊女・小春の心中事件を元に描かれたものですが、中でも「道行名残の橋づくし」は名文で知られています。「閨の内、愛し可愛と締めて寝し、移り香も何と流れの蜆川」「君を慕いて大宰府へ、たった一飛び梅田橋。跡追い松の緑橋、別れを嘆き悲しみて、跡に焦がるる桜橋」「この世を捨てて行く身には、聞くも恐ろし天満橋」「妙法蓮華京橋を、越ゆれば至る彼の岸の、玉の台にのりをえて、仏の姿に身をなり橋」といった調子で、小春と紙治が北の新地から大長寺までに流離った、蜆川や12の橋を次々と羅列しながら、滅びに向かっていく心情を謳ったものです。北の新地は大坂市中の郊外にあって蜆川、堂島川に囲まれ、町衆が到るには、必ず橋を渡りました。橋をひとつ渡れば「夜毎に燈す燈火は、四季の蛍よ雨夜の星か」(『曽根崎心中』)という眩いばかりの別世界で、まさに橋こそが昼と夜の、此岸と彼岸の境目でした。「名残の橋づくし」には、そんな大坂の町衆の橋に対する深い憧憬の念が感じられます。

●日本最大の繁華街だった高麗橋
橋名は古代難波宮の時代に、高麗使節を迎えた迎賓館があったからという説があります。東海道57次の基点で、江戸の日本橋、京都の三条大橋に当たるものが、大坂の高麗橋です。12の公儀橋の中でも最も格式が高く、西詰めには御触書を掲げる高札場、東詰めには諸国への距離をはかる里程元標がありました。旅人が行き交った高麗橋通は鴻池、岩城桝屋、三井越後屋といった両替商や呉服商が並ぶブランドストリートで、日本最大の繁華街として発展しました。現在でも日本料理の最高峰として君臨した本吉兆が高麗橋通にあるのは、その名残です。明治3年(1870)には大阪最初の鉄橋として架け替えられ、「鉄橋」「くろがね橋」と呼ばれて文明開化の象徴にもなりました。

●芝居町と色町を結んだ心斎橋
船場と島之内を分ける長堀川に架かっていました。島之内には道頓堀があり、心斎橋を渡って順慶町を西に進めば新町があり、つまり芝居町と色町を結ぶ橋として発展しました。大丸や十合といった呉服店が繁昌しましたが、船場の旦那衆が馴染みの芸妓を引き連れて歩いたことが由縁ともいわれます。明治以降は心斎橋を散策することを「心ぶら」といい、「東の銀座、西の心斎橋」と歌われた時代もあります。明治6年(1873)にドイツから輸入された弓形の鉄製トラス橋が架けられ、一躍、浪華名所になりました。鉄橋はその後、境川橋→新千舟橋→篠懸橋と名前を変えながら大阪市内を転々として再利用され、緑地西橋として鶴見緑地内で現在も活躍中です。

●木津川飛行場の甘~い想い出
木津川飛行場は大正12年(1923)に水上機の空港として開港しました(後に陸上機機能も持ちます)。着物を着た「エアガール」というお世話役の女性がいて、これが日本のスチュワーデス第1号ともいわれています。また水上機は木津川に離着水していたわけですが、乗降のさいは人夫がお客さんを肩車して陸地に運んだといいます。当時の飛行機は超高級のVIPが利用する乗り物で、大資本家や映画女優、一流料亭の芸妓などをよく肩車したそうで、「あのときの芸妓さんの柔らかい感触は、この歳になっても忘れられませんわ!」と告白する元人夫のご老人もいたとか。工場群が立ち並ぶ現代の木津川からは、ちょっと想像がつかない色っぽい光景ですね。

●大阪俘虜収容所が齎したドイツ文化
第1次世界大戦後、中国にいたドイツ人捕虜を収容するため、大正3年(1914)、大正区に「大阪俘虜収容所」が造られました。760人の捕虜がいましたが、捕虜に対する扱いは、朝夕2回の点呼以外は、とくに労働もなく、音楽、演劇、スポーツなどを何不自由なく楽しめたといいます。よっぽど居心地が良かったのか、開放後も日本に永住を希望して留まった者も数多くいて、のちに神戸でバウムクーヘンを製造して成功するカール・ユーハイムもそのうちの一人です。また日本で初めてベートーベンの第9を演奏した指揮者ヘルマン・ハンゼンも捕虜で、その縁で大正橋に第9の楽譜がデザインされています。

●「君が代」の作曲者・林廣守は伶人町出身
「君が代」の作曲者・林廣守は天保2年(1831)、四天王寺の楽人・林廣倫の三男として伶人町に生まれました。林家は聖徳太子に仕えて飛鳥時代に活躍した秦河勝の末裔といいます。11歳の若さで朝廷に出仕して、慶応元年(1865)には朝廷楽人の中でも最高の試験である上芸の試験を満点で及第。これは長い雅楽寮の歴史の中でも5人目という快挙でした。明治2年(1869)に明治天皇の東京行幸とともに東京に移り、宮内省雅楽局(現・宮内庁楽部)に配属。明治13年(1880)に国歌制定委員となって「君が代」の楽譜案を提出して、国歌となりました。明治36年(1903)にドイツで行われた世界国歌コンクールでは「君が代」が一等を受賞しています。

●三角公園と仁徳天皇の不思議な関係!?
アメリカ村の象徴・三角公園。正式名称は「御津公園」といい、近くには御津八幡宮もあります。この御津という言葉は非常に古い地名で、天平21年(749)に宇佐八幡宮の神輿が東大寺の大仏殿建立のために平城京に遷幸されて、そのさいに「難波の御津に上陸した」と書かれた文献があります。世阿弥の謡曲『芦刈』には「忝くも仁徳天皇この難波の浦に大宮作りし給ふ。おん津と書いて御津の浜とは申すなり」とあり、天皇の港であるので「御津」と名づけられたと書かれています。三角公園の辺りは古代は仁徳天皇の国際港で数多くの渡来人がやってきて、現在はアメリカ村になっていると考えると、なんとも不思議な土地柄ですね。

●阿倍野の地名となった阿倍一族って?
阿倍氏(後に安倍氏)は古代日本の豪族で、一族には難波宮の孝徳天皇に仕えて我が国初の左大臣になった阿倍内麻呂や、「竹取物語」でかぐや姫に言い寄る右大臣のモデルとなった阿倍御主人などがいます。奈良時代は権勢を誇りましたが、徐々に新興の藤原氏に圧されて低迷。代わりに学者、知識人を数多く輩出しました。有名なのが遣唐使として大陸に渡り、科挙に合格して唐の玄宗に仕え、李白、王維らと交流した阿倍仲麻呂や、藤原道真に仕えた天才陰陽師・安倍晴明でしょう。晴明からは土御門家が生まれ、これは明治時代まで陰陽寮を統轄しました。内麻呂の時代から数えると1200年の長きに渡って宮中で活躍した一族で、壮大なドラマを感じます。

●西念寺を建てたのはインドの仙人!?
西念寺は大化元年(645)に法道仙人に建立されたと伝わりますが、この法道仙人は非常に謎の多い人物です。仙人という名の如く、なんと紫雲に乗って天竺(インド)から中国、百済を経て日本に飛来してきたといいます。「飛鉢の法」という術を使ったそうで、とある飢饉の村を救うために瀬戸内海の船に向かって、鉢を飛ばしてお布施をしてほしいと訴え、拒否されると船の積荷が次々と村に向かって飛んでいき、船主が慌てて侘びを入れると積荷が戻って米一俵だけが村に残って村人を助けた…といった話が残っています。また難波宮の孝徳天皇が病気になったときに平癒祈祷をして見事に治し、そのお礼として法華山一条寺(西国第26番)を寄進されたといいます。

●まぼろしの天保山遊園
かつて天保山には天保山遊園という遊園地がありました。富山出身で薬屋・立志堂を経営していた野口茂平衛が明治10年代に当時最新の健康法として紹介された海水浴に着目。天保山周辺の土地を買い集めて出資者を募り、明治21年(1888)に念願の天保山遊園をオープン!豪華絢爛な洋風建築の娯楽施設「海浜院」に、海水温泉、魚釣堀、潮干狩園、茶店などが集うテーマパークとして注目を浴びました。しかし初めのうちは物珍しさで客も多かったようですが次第に寂れてしまい、明治30年(1897)の築港工事開始を契機に閉鎖。ちなみに野口茂平衛の曾孫は、黒澤明監督の『乱』の衣装デザインで日本人女性初のアカデミー賞(衣装デザイン賞)を受賞したワダ・エミ(和田勉の妻)です。

●徳川家康を救った我孫子観音
大坂夏の陣で真田幸村の軍勢に追われて、本陣を逃げ出した家康が無我夢中で我孫子観音(吾彦山大聖観音寺)に転がり込んだ…という伝説が地元に残っています。家康が命からがら寺院に入って住職の快敬上人に「幸村に追われているから匿ってくれ!」と必死に懇願しますと、なんと住職は元武士で、家康がかつて今川家に人質になっていたときに、家康をお世話したことがある旧知の間柄でした。快敬上人は昔の縁(よすが)で、家康を本堂の観音像の須弥壇に隠し、幸村が来ても知らぬ存ぜずで押し通し、家康の窮地を救いました。「これぞ観音さまのお導きである」と家康は甚く感激して、江戸時代には徳川家の庇護の下、我孫子観音は非常に隆盛を極めました。塔頭寺院は36を数え、皇室、諸国の大名たちの信仰も集め、日本有数の観音霊場としてその名を全国に轟かせたといいます。

●江戸は忠臣蔵。大坂は曽根崎心中が世間を賑わせた
元禄16年(1703)4月7日の夜明け前。堂島新地・天満屋の端女郎のお初(当時21歳)と、内本町の醤油商・平野屋の手代である徳兵衛(当時25歳)が、曾根崎村の露天神の森で心中しました。この実際の事件を題材に「曽根崎心中」として浄瑠璃作品に仕上げたのが近松門左衛門で、事件から1ヵ月後の5月7日に、道頓堀の竹本座で初演すると「心中もの」の大ブームが巻き起こりました。ヒロインのお初は劇中では19歳という設定で、「観音廻り」では「上りやすなすな下りやちょこちょこ。上りつ下りつ谷町筋を。歩みならはず行きならはねば。所体くづほれアアはづかしの。もりて裳裾がはらはらはら・・・」と、起伏の激しい谷町界隈を歩いて着物が着崩れて肌が見えるという、いかにも官能的な遊女として登場します。また「生玉神社の場」では出茶屋から「ありや徳様ではないかいの」と手を叩いて、お初の方から徳兵衛を呼び止めるなど、何の屈託もない快活な様子が伺えます。まったく死の予感など想像させない天真爛漫なお初が無惨な結末を迎えるところが、曽根崎心中のカタルシスといえます。それまでの浄瑠璃は英雄、悪漢が登場する単純明快な勧善懲悪ものばかりでしたが、「曽根崎心中」以降は平凡な庶民が主人公となる「世話もの」が流行り、日本の近世文学の一大転換点となりました。ちなみに曽根崎心中の4ヶ月前の元禄15年12月に起こったのが、赤穂浪士の吉良邸討ち入りです。大坂では色恋沙汰のために命を捨てる心中が流行り、江戸では主君のために命を捨てる仇討ち事件が巷間を賑わせました。町衆のまち・大坂と、武士のまち・江戸の都市文化の違いが明確に感じられます。

●西鶴が「日本広しといえども最もすばらしい太夫」と絶賛した夕霧太夫
新町の伝説の名妓・・・それが夕霧太夫です。本名はお照といい、京都・島原の扇屋に抱えられていましたが、扇屋が新町に移転すると新町の太夫となりました。西鶴の「好色一代男」には、主人公・世之助と夕霧の逢瀬の場面があります。2人が冬の夜にお忍びで語り合っていると、いきなり客がやってきたので、夕霧はすぐさま世之助を炬燵の中に隠し、傍らにあった何でもない手紙を曰くありげに読みながら部屋から脱出。それを見た客がいぶかしげに夕霧を追う隙に、世之助を裏口から逃がして見事に窮地から救います。恋の手練手管に長けた女性として描かれ、「日本広しといえども最もすばらしい太夫」と世之助に語らせています。吉原の高尾、島原の吉野と並んで天下の三大名妓といわれましたが、大坂へ来た6年後、延宝6年(1678)正月に病に倒れて、その儚くも短い一生を終えました(享年22歳~27歳説などがあります)。墓は下寺町浄国寺で、戒名は「花岳芳春信女」。大坂中の男が悲しみ、俳人・上島鬼貫は「この塚は柳なくてもあわれなり」という句を贈り、亡くなった日は夕霧忌として俳句の季語にもなっています。33回忌には近松が浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」を書き、この中では夕霧はすでに死の病に犯されていて、恋人の藤屋伊左衛門に「万歳傾城」と罵られると、わっと咽び泣いて「この夕霧をまだ傾城と思うてか。コレほんの女夫ぢゃないかいの。明くればも二十二。十五の暮から逢ひかかり、もう何年になることぞ」と涙を流して、愛する男に縋る可憐な女として登場します。この「夕霧阿波鳴渡」の吉田屋の段を歌舞伎用に改作したのが名作「廓文章」で、初代坂田藤十郎の当たり役で一世を風靡しました。

●住吉公園に、あの光源氏がやってきた!?
住吉公園は、かつては住吉大社の境内地で、すぐそばまで海が迫り、美しい白砂青松の光景が続いていました。現在、その住吉公園に「源氏物語碑」があります。源氏物語第14帖「澪標」によると、光源氏が政変によって須磨へと隠遁して、そこで出会った明石の上と激しい恋に落ちますが、やがて光源氏は罪を許されて都に帰り、泣く泣く2人は別ることになります。都に帰った光源氏は出世して住吉大社に盛大に参詣しますが、偶然にも明石の上も住吉に参詣していて、しかし、あまりの光源氏の煌びやかな様子に身分の差を思い知らされて名乗りを上げませんでした。後に明石の上が来ていたことを知った光源氏は、声もかけずに去った恋人を哀れに思い、「みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも 巡り合いける 縁は深しな」(身を尽くして恋をした証明で住吉でもあなたと会った。私とあなたの縁は深く決して切れません)という恋歌を贈りました。源氏物語碑は、それを記念して作られたモニュメントです。大切なあの人と一緒に訪ねてみては?

●一寸法師は道頓堀川から京に上った!?
津の国難波の里に住んでいた子供のない老夫婦が、子供を恵んでくださるように住吉大社に祈ると見事に子供が出来て、しかし産まれた子供は身長が一寸しかなかった…といえば、誰もがご存知の一寸法師。この一寸法師ですが、じつは道頓堀川から京都の都に向かったという伝説があります。享保年間(1716~1736)に大坂の渋川清右衛門が出版した「御伽草子」によると、一寸法師は「すみなれし 難波の浦を たちいでて 都へいそぐ わが心かな」とあり、この「難波の浦」(難波津)は現在の三津寺付近という説が有力なことから、そこを流れる道頓堀川を出発したにちがいない…という説が出たわけです。実際に道頓堀の浮世小路には一寸法師大明神の祠が建立されていますので、ぜひ御覧になって下さい。お椀の舟で川を上る一寸法師は、まさに食の都・水の都の道頓堀の象徴といえるでしょう。

●朱印船貿易の大商人・末吉孫左衛門の活躍!
長堀川(現在の長堀通)の東の端、東横堀川に架かる橋のことを末吉橋といいますが、この橋は、江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した平野郷の豪商・末吉孫左衛門が架けたものと伝えられています。孫左衛門は、秀吉から朱印状を受けて、「末吉船」とよばれる大船で、ルソン、ベトナム、タイなど南洋方面に出かけていって海外貿易を行い、巨万の富を得ました。大坂の陣では家康方につき、その功績で平野、河内など2郡の代官にもなったといいます。また夏の陣が終わると埋め立てられた長堀川の開削を行い、船場・島之内の開拓にも参加しました。平野には現在も末吉家のご子孫の方がいらっしゃいますが、心斎橋筋北商店街にある人気和食店「和楽」の徳近社長も、この末吉孫左衛門のご子孫のひとりです。

●狂歌にもなった、なにわの伝統野菜「玉造黒門白瓜」
玉造は、かつて「玉造黒門白瓜」の名産地として非常に有名でした。「黒門白瓜」とは妙な名前ですが、大坂城の玉造門が黒塗りの門であったので別名「黒門」と呼ばれ、白瓜は、この黒門付近で作られたので、そう名付けられたといいます。大坂庶民の遊び心が感じられるネーミングですね。また名水処として知られている玉造には、江戸時代中頃からは幕府から酒造の権利(酒造株)が与えられ、多くの酒造業者が集まりました。この玉造の酒造りから出る酒糟に玉造黒門白瓜を漬けると、美味しい奈良漬が出来たそうで、なにわ名物として非常に有名になったといいます。南御堂前の菓子商に生まれた狂歌師の鯛屋貞柳は「黒門と いえども色は あをによし 奈良漬にして 味をしろうり」という一首を留めています。

●幻の京阪「高麗橋駅」とは?
明治9年(1876)、大阪と京都間の淀川右岸(西側)に官営鉄道(現在のJR京都線)が敷かれました。しかし当時、ライバルの淀川の蒸気船が上り12銭・下り10銭であるのに対して、官営鉄道の運賃は27銭と非常に高値で、そこで大阪の財界人たちは、淀川左岸(東側)の京街道沿いに、大阪と京都を結ぶ電気鉄道を建設しようと考えました。これが京阪鉄道計画のはじまりですが、じつは当初は、大阪市東区高麗橋詰町(現在の大阪市中央区東高麗橋付近)~京都市下京区朱雀町五条大橋東詰(現在の京都市東山区朱雀町付近)間を通す予定でした。東海道57次の宿場である高麗橋こそがターミナルに相応しいと考えたのでしょう。ところが大阪市電との調整を図るために、結局、高麗橋駅ではなく天満橋駅へと変更され、明治43年(1910)年に京阪電車が開通しました。幻の京阪「高麗駅」が出来ていたら、いまとまったく違った光景が高麗橋辺りに展開していた…かも?

●渡辺綱、羅城門の鬼退治伝説!
怪力無双で知られる渡辺綱には羅城門の鬼退治の伝説があります。友人と酒を飲んでいて「羅城門の鬼が旅人を襲って食べる」という噂を聞いた綱は「鬼なら俺が退治してやる」と酔った勢いで、たった1人で羅城門に向かいました。大通りから目指す羅城門が見えてくると、突然、暗雲が立ちこめ、羅城門の鬼が背後から綱に襲いかかりました。しかし綱は先祖伝来の太刀で鬼の片腕を切り落とし、鬼は「おのれ!綱め!必ず腕は取り返す!」と暗雲の彼方に去りました。綱が自宅に戻って鬼の片腕を見守っていると、綱の乳母が来訪してきました。乳母は綱にとって頭が上がらない存在で「鬼の片腕を見せて欲しい」という懇願を聞き入れると、乳母は、みるみるうちに巨大な鬼となって自分の腕を奪い取っていきました。乳母に化けて綱を見事に騙した鬼ですが、しかし、それ以後、羅城門で鬼が出ることはなくなったといいます。

●北の新地…そこには端女郎と町衆の、真実の恋があった
安治川の開削を行った豪商・河村瑞賢が貞享2年(1685)に北に曾根崎川(蜆川)、南に堂島川が流れる中州の堂島を新地として開発しました。西国街道の要路にあたり、農村ののどかな光景が広がり、北摂の山々が遠望でき、夏の夕べには涼み舟を出したといわれ、元禄初期には私設の茶屋や湯女が接客する風呂屋などが建ち始めていました。ところが元禄10年(1697)に堂島米市場が開所されたことで一気に開発が進み、曾根崎川の北側・曾根崎新地に商家の人々が集う遊所が形成。大坂市中の北に位置したため、「北の新地」と呼ばれました。新町は幕府公認の官許の遊郭で、大名がお忍びで通ったり、淀屋といった大豪商が通いましたが、北の新地はそうではなく、格下の遊所で、醤油屋、紙屋、茶碗屋といった大坂の新興商人の丁稚や手代などが通う庶民的な場所でした。それゆえに、どこにも身寄りのない女性が端女郎として働かされ、「士農工商」という封建社会の身分制度で、最下級の位置づけにある町衆とが出会う北の新地は、どうにもならない現実世界を忘れたい男と女の、真実の恋の舞台にもなりました。その激しい葛藤とドラマを愛したのが近松門左衛門で、「曽根崎心中」のお初・徳兵衛、「心中天の網島」の小春・紙治の悲劇には、そうした社会的背景があったといえるでしょう。

●ドイツ人学者ケンペルも絶賛した、日本最大の遊興都市・新町
大坂の遊郭は、天正13年(1585)に豊臣秀吉が大坂町中での遊女屋営業を公認したのがはじまりといわれています。大坂城建築などで諸国から浪人が集められ、その慰撫として設置されたわけです。その後、寛永6年(1629)頃、大坂各所に点在している遊所を集めて新町遊郭を形成。大坂唯一の幕府公認の遊郭で、船場の旦那衆が全国各地の商用客を接待する「島」(江戸では遊所のことは岡といいましたが、大坂では島といいました)として、商都・大坂の発展を支えました。その繁栄ぶりは凄まじく、延宝年間(1673~1680)には太夫、天神、鹿子位、端女郎など2200名を越える遊女がいたといわれます。町衆は自分の懐具合と相談して遊女と遊ぶことができ、お金がないときは冷やかして歩く(これをぞめきといいました)だけでも結構とされたので、ぞめき客の往来で大いに賑わいました。京の島原、江戸の吉原と並んで、天下の三大遊郭と呼ばれ、西鶴は「京の女郎に江戸の張りを持たせ大坂の揚屋であはば、このうえ何かあるべし」と「好色一代男」の中で記しています。豪商・淀屋辰五郎などは元禄15年(1703)、15歳で家督を継ぐと、僅か1年半ほどで16万両以上を新町遊郭に注ぎ込み、これが闕所の理由のひとつでした。また元禄4年(1691)に来日したドイツの博物学者ケンペルは「贅沢をしたり、官能的な娯楽をするのに必要なものは何でもある。それゆえ日本人は大坂をあらゆる歓楽に事欠かない都市だという」(江戸参府旅行日記)と、元禄の大坂が日本最大の遊興都市であったことを記しています。時代は下りますが、天保年間に出された日本全国の遊所ランキング「諸国遊所見立角力直段附」でも、新町が「東の大関」(当時は横綱がなく、大関が最高位でした)と記載されていて、長く繁栄を誇ったことが伺い知れます。さまざまな男と女のドラマが繰り広げられた新町は、文豪たちの格好の題材でもあり、西鶴は茨木屋の松山太夫に入れ上げて身を持ち崩す「椀久一世の物語」を。近松は槌屋の端女郎・梅川と飛脚屋・亀屋忠兵衛との心中事件を題材に「冥途の飛脚」を執筆しました。同じ新町を舞台にしながらも西鶴は太夫、近松は端女郎の物語で、西鶴と近松の文学的視点の差異が感じられます。

●くだらないの語源は鴻池の酒?上方落語にも登場する豪商
鴻池家は始祖・新六が慶長頃に伊丹の地で酒造業を始めたことが創始です。慶長4年(1599)には、樽酒を江戸に運んで販売する「江戸送り」を開始。当時は濁酒が主でしたが、鴻池の酒は清酒で、これには主人に叱られた丁稚が腹いせに桶に灰を入れたところ、 翌日に香りのよい清酒となったという発明のエピソードが伝わっています。鴻池の酒は江戸ですこぶる評判が良く、大量輸送するためには馬の陸上輸送ではなく、船の海上輸送が必要だと、元和5年(1619)、大坂の内久宝寺町に店を構えました。ちなみに大坂から江戸に送る酒のことを「下り酒」「くだりもの」といい、これが「くだらない」の語源になったといいます。その後、鴻池は寛永2年(1625)には海運業を初め、年貢米などを扱うようになって大名貸しにも進出。明暦2年(1656)には幕府の御用両替「十人両替」に選ばれました。元禄年間に鴻池家と取引のあった大名は尾州、紀州以下32藩にも及び、 嘉永7年(1854)には長者番付の最高位で東の大関にもなっています。それだけの大富豪でありながら、上方落語「鴻池の犬」「はてなの茶碗」などに鴻池善右衛門が登場して面白おかしく演じられ、大坂庶民の鴻池に対する愛着が伺い知れます。

●世界最古の財閥・住友財閥。その繁栄は元禄期に開発された別子銅山から
住友の歴史は寛永頃に住友政友が京都に書籍と薬を商う「富士屋」を開き、姉婿(義兄)の蘇我理右衛門が「泉屋」という銅吹屋を開業したことから始まります。蘇我理右衛門は若い頃に堺に出て、南蛮人から銅吹きの技術を習得。鉛を使って銀と銅の吹き分けが出来る「南蛮吹き」を完成させました。当時の日本の未熟な銅吹き技術では、粗銅内に銀が残ったままで輸出され、外国商人の不当な利潤となっていたのを阻止したわけです。その後、理右衛門は海のない京都では銅の流通に不便として、実子・住友友以(政友の娘婿として住友家に入りました)とともに大坂に進出。泉屋は貿易商・両替商・銅山経営と手を広げて「大坂に比肩する者なし」と言われるほどに栄えました。とくに元禄4年(1691)に開発された別子銅山は、昭和48年(1973)に閉山されるまで約75万トンの銅を産出。282年という長きに渡って住友財閥を支えました。

●大坂最大の豪商!幕府に倒され、幕府を倒した淀屋
初代・淀屋常安は本名を岡本三郎右衛門といいます。武家出身でしたが資材調達などに独特の才を発揮。秀吉に仕えて伏見城や大坂城の造営に尽力したり、大坂の陣では徳川方について食料調達などを行いました。その後、十三人町(現在の北浜)に移り、淀屋と称して中之島の開拓を行い、米市を設立したといいます。このとき、船場と中之島を結ぶ橋として掛けられたのが淀屋橋です。その後、2代目言當が青物市や雑喉場市を設立。淀屋は大坂三大市場と呼ばれた米市、青物市、雑喉場市を掌握して莫大な財産を築きました。とくに米市では現物取引のみならず、手形による帳合米取引を行い、これは世界の先物取引市場の先駆例として高く評価されています。ところが大坂最大の豪商だった淀屋は、宝永2年(1705)、5代目辰五郎のときに突如、幕府から闕所(全財産没収)されました。「町人の身分に過ぎた振る舞い」が表向きの理由でしたが、真実は諸大名の淀屋への借金の総額が20億両(現在の価値に換算すると約120兆円といわれています)にも上り、そのあまりの財力に恐れを成した幕府が、権力によって淀屋を取り潰したわけです。しかし淀屋は数年前から幕府の不穏な動きを察していたので、闕所前に倉吉に暖簾分けした店を開き、後代になって大坂で再興しました。これを後期淀屋といいますが、この後期淀屋は、幕末まで存続して、倒幕運動が起こると、全財産を朝廷に献上。江戸幕府の崩壊と明治維新の到来を見届けると共に、歴史の表舞台から、その姿を消しました。


2009年 6月 30日
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