大阪市西成区生根神社のだいがく祭。毎年7月24日、25日と大阪天満宮の天神祭と同日に祭礼をやるので、大阪在住の方にも、あまり知られてませんが、大阪人なら必見の夏祭です。
清和天皇の治世、天安2年(858)頃に、難波の地がかつてないほどの酷い旱魃に襲われました。「こりゃなんとかせにゃならん」というので生根神社にて「日本六十六州の一の宮」と描かれた66個の御神燈と66個の鈴を掲げた櫓を打ち立てて雨乞いの祈願をしたところ見事に雨が降った・・・というのが「だいがく」の起源です。1200年以上続く伝統の祭礼で、天神祭(951年)はおろか、京都の祇園祭(869年)よりも古く、長い歴史を誇ります。
面白いのが京都の祇園祭との共通性。じつは祇園祭は京都に疫病が流行ったさいに「66本の鉾」を立てて厄払いをしたのが起源といわれていますが、「旱魃の雨乞い」(生根神社)と「疫病の厄払い」(八坂神社)、「66本の提灯と鈴」(生根神社)と「66本の鉾」(八坂神社)と妙に符号が一致するんですな。「だいがくは祇園祭のルーツである!」なんてことは言いませんが、もしかしたら、なにか、だいがくの雨乞いの成功が、祇園祭の祭礼に影響を与えたり、ヒントになったのかもしれません。また祇園祭は大いに変容して、現在は山車の祭礼になっていますが、だいがくは、当時そのままのスタイルで、古式をそのまま伝えています。そういう意味でも非常に貴重です。
なにはともあれ、こういう歴史ある祭りが、ひっそりと伝えられていることが、大阪のまちの奥深さ。ぜひ一度は、ご鑑賞を。
※最初の画像は「だいがく」です。高さは約20メートル。重さは約4トンほどとか。台に太鼓をくくりつけてあって踊り手もいます。昔はこれを担いで練り歩いていたそうで100人以上の担ぎ手が必要とされます。その練り歩きは、さぞかし盛大で、迫力満点だったことでしょう。
※次の画像は「だいがく」の提灯部分がグルグル廻っているところ。「だいがく」はじつはメリーゴーランドのように提灯が回転します。初めてこの仕掛けを見たときは、さすがに度胆を抜かれました。ちなみに隣にあるのが「中型だいがく」。あと小型の「ギャルだいがく」というのもあるそうです。「ギャルだいがく」て・・・。
『天文十九年十二月 聖ザヴィエル 堺に上陸し 日比屋了慶の館に入った。
是れ 西洋文明傳来の始で 近世日本文化は 茲に花と匂った。』
ザビエルはスペイン人ではなく「バスク人」です。バスク人はスペイン北東からフランス南西部のピレネー山脈周辺の山岳民族で、後期旧石器時代から住み続け、ヨーロッパでも最も古い民族といわれています。ザビエルはスペイン・バスク地方のナバーラで生まれ、その地方貴族でした。そもそもザビエルという名前そのものがじつはバスク語で「新しい家」という意味やそうです。
当初は山岳民族でしたが、やがてイベリア半島北岸のビスケー湾に居住するバスク人が出てきて、彼らは11世紀頃にノルマン人と交流。そこで捕鯨の文化を学習してクジラを食べる民族になりました。やがて13世紀頃に大西洋に進出。16世紀にはバスク人の捕鯨技術は最盛期を迎えました。とくにクジラのヒゲが高値で売れたそうで、これは甲冑、帽子、コルセットの骨などの装飾品に利用されました。当時の上流階級の女性を締め上げていたコルセットはバスク人が捕鯨しないと誕生しなかったわけです。
ヨーロッパ社会では非常に珍しい捕鯨の民で、大西洋(外洋)で縦横無尽に活躍することが可能なほど、卓越した航海技術を有していたバスク人。このバスク人の中から世界史を揺るがす超一流の冒険家が生まれています。ファン・セバスティアン・エルカーノ。スペイン王国に仕えてフェルディナンド・マゼランの船団を指揮して、1522年、史上初となる世界周航を達成した男です。「世界周航を成し遂げた男はマゼラン」とよく言われますが、マゼランは途中のフィリピンで戦死してますから彼自身は世界一周を成し遂げていません。正確には「世界周航を成し遂げたのはマゼラン船団」で、それは船団を引き継いだエルカーノがいたからでこそ達成できた偉業でした。もっと誉め讃えられるべき男なんですが、残念なことに巷間ではあまり知られてません。
いずれにせよ1522年のエルカーノの世界一周成功は「大航海時代」の幕開け、口火でした。そして、その後の1549年にフランシスコ・ザビエルが日本にやってくる。こうして考えると、ヨーロッパ社会から遙かなる極東の日本にまでやってきたのが、なぜバスク人宣教師のザビエルであったのか?がよく理解できます。
バスク人の輝かしい栄光と冒険はその後も続きます。例えばラテン・アメリカで独立運動を指導してベネズエラ、コロンビア、ペルーなどを誕生させたシモン・ボリーバル。またアルゼンチン出身でキューバ革命に携わったチェ・ゲバラもバスク系アルゼンチン人でした。「エルカーノ→ザビエル→ボリーバル→チェ・ゲバラ」と続けば、世界に冠たるバスク人の冒険家、情熱家の系譜を見る思いです。
ちなみにゲバラも被っていたトレードマークの「ベレー帽」はバスクの民族衣装です。バスク人たちがピレネー山脈に住んでいたさいに、厳しい天候に耐えるため、また蚊や蝿、蜂といった虫から頭を刺されるのを守るための帽子だったといわれています。ベレー帽こそはバスクの象徴であり、それが全世界の軍隊で軍帽として採用された。これは「バスク人の勇猛果敢な冒険心に肖りたい」という深層心理かも知れません。まぁ、最近は女性のファッションアイテムとしても利用されていますが(笑)
最後に。坂口安吾の処女作『風博士』にバスクのことが記載されてます。これがまた面白い。ご紹介。
「諸君は南欧の小部落バスクを認識せらるるであらうか?仏蘭西(フランス)、西班牙(スペイン)両国の国境をなすピレネエ山脈を、やや仏蘭西に降る時、諸君は小部落バスクに逢着するのである。この珍奇なる部落は、人種、風俗、言語に於て西欧の全人種に隔絶し、実に地球の半廻転を試みてのち、極東じやぽん国にいたつて初めて著しき類似を見出すのである。これ余の研究完成することなくしては、地球の怪談として深く諸氏の心胆を寒からしめたに相違ない。而して諸君安んぜよ、余の研究は完成し、世界平和に偉大なる貢献を与へたのである。見給へ、源義経は成吉思可汗(ジンギスカン)となつたのである。成吉思可汗は欧洲を侵略し、西班牙に至つてその消息を失ふたのである。然り、義経及びその一党はピレネエ山中最も気候の温順なる所に老後の隠栖を卜したのである。之即ちバスク開闢の歴史である。」
狂人・風博士の遺書の一文です。バスク人は習俗や言語構造が日本人に似ているそうで、それは文化人類学上の謎なんですが、なんと博士は「源義経→ジンギスカン→バスク人の祖先」だから、というんですな。ぼくが「バスク」なるヨーロッパの小地方と民族を知ったのは、この作品に接したことがキッカケでした。以後、ぼくにとってバスクは憧れの地です。
人間は水がないと生きていけません。しかし大坂は海に近く、井戸を掘っても塩気の水が多く出ました。真水の井戸は非常に貴重でした。だから真水が出る亀の井(四天王寺)、利休井(玉造稲荷)、玉出の滝(清水寺)、梅川(高津宮)、青湾(桜之宮)などはコミュニティの生命線として守られ、それらの多くはサンクチュアリとして崇められました。その代表格のひとつが露天神の露の井でしょう。生命の源の水を崇拝する・・・古代から続く原始シャーマニズムの姿を留めた聖地。大阪には、意外と、そういう寺社仏閣が多いです。
船場を焼いた大塩の乱(1837)の翌年に洪庵が船場・瓦町で適塾を開いてます。大塩焼けの焦土が復興する中で、適塾が出てきた。歴史いうんは、妙な符号をあわせますな。大塩は「知行合一」の陽明学者で、洪庵は「滴滴」なる蘭方医。まったく人間性も哲学、人生観もちがうんですが、なんとなく共通項を感じなくもありません。大塩は幕府に逆らって爆死して、洪庵は大坂を離れるのがいやで「討ち死にする所存」で江戸に召抱えられて客死した。「死にざま」が似てるせいかな?
色々と調べていて面白い、ユニークな男の存在を発見しました。天満の池田良輔。はじめは大塩平八郎の「洗心洞」で漢学を学んで、のちに洪庵の「適塾」に入って蘭学を学んで、医者になったという男です。大坂には、こういう人物もいたんですな。
文化13年生まれ(1816)で明治27年(1894)に79歳でなくなってます。洪庵の勧めで和歌山藩に仕えて、明治以降は陸軍省で西洋兵学や航海術などの翻訳を行ったとか。『法朗西文典案内』(1867)といった著作があるのもわかってます。フランス語の案内書でしょうかね?法名は「慈妙院孝英日法居士」。和歌山市東長町の正住寺に墓があるとか。
これは、いっぺん、いってみたいですな。
ちょっと大阪府庁に行く用事があって、ついでに大阪歴史博物館を通りました。画像は大阪歴史博物館の屋外に復元された高床式倉庫です。古墳時代(5世紀頃)に、大阪歴史博物館周辺に16棟もの建物が規則正しく建設されていて、古代の港湾施設の倉庫群だと考えられています。
この法円坂遺跡界隈は、その後、生玉森、前期難波宮、後期難波宮、石山、大坂本願寺、豊臣大坂城、徳川大坂城、陸軍兵器本部(砲兵工廠)、昭和大阪城・・・と変遷に次ぐ変遷を重ねていきます。まさに大阪の歴史がミルフィーユみたいに重層して積み上げられたところに、いま、大阪歴史博物館が建っている。
日本全国広しと言えども、こんなとこはありません。圧巻ですな。