船場 坐摩神社 三鳥居
鳥居の原型のようなものは弥生時代の集落にもあります。それは渡り鳥の休み場所でした。渡り鳥がやってくることで、その集落に春や秋の、季節の到来が判明した。春は種を巻き、秋は稲を刈る。その合図が鳥居に集う渡り鳥。集落民たちは早く渡り鳥がやってくるようにと深く祈ったことでしょう。それが神社というサンクチュアリへと繋がっていく。
画像は坐摩神社の珍しい三鳥居。坐摩さんの神格の高さですな。
鳥居の原型のようなものは弥生時代の集落にもあります。それは渡り鳥の休み場所でした。渡り鳥がやってくることで、その集落に春や秋の、季節の到来が判明した。春は種を巻き、秋は稲を刈る。その合図が鳥居に集う渡り鳥。集落民たちは早く渡り鳥がやってくるようにと深く祈ったことでしょう。それが神社というサンクチュアリへと繋がっていく。
画像は坐摩神社の珍しい三鳥居。坐摩さんの神格の高さですな。
江戸時代の大坂。シビアな弱肉強食の町人世界を生き抜くには、才覚が頼りでした。では仮に豪商の家で、あまり出来のよくない、無能の跡取りがでた場合、どうするか?
答えは、売物に出ている侍株を買って、「禄取り」に仕立て上げる。侍はなにもしないでも給金がでます。それで生活を安定させて、跡取りを厄介払いにして、有能な次男坊や番頭、手代に店を継がせたといいます。
侍の中には生活に困窮したものは、その身分を売るものがいたわけですが、それを利用して事態を丸く収め、競争主義の町人世界を生き抜こうとした。これも大坂商人たちの知恵です。
http://www.sideriver.com/ec/products/detail.php?product_id=14346
120ページ、121ページに、大阪あそ歩が特集されています。感謝。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100921/20100921034.html
国際協力機構(JICA)の研修プログラムで来日している9カ国・12人の研修員が20日、ツアーガイドによる大阪の街角探訪事業「大阪あそ歩」(大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会主催)を体験し、「まち歩き」観光事業の可能性を探った。
12人は集団研修プログラム「持続可能な地域観光振興」コースのプログラムの一環で来阪。同協議会のチーフプロデューサー、茶谷幸治さんが「大阪あそ歩」の概要を説明後、心斎橋を出発してミナミを散策。連休とあってまっすぐ歩けないほどの人出の中、心斎橋筋商店街や道頓堀、法善寺横町などを歩いた。
タイの観光局に勤める女性研修員(31)は大阪の街を「新しいものと古いものが共存し、生き生きとしている」と評し、「まち歩き」を通して“大阪そのもの”を感じた様子。
茶谷さんは「街を見てもらうことは、世界のツーリストにとって興味深いものだとあらためて実感した。街の魅力はたまらない」と手応えを話していた。
はやぶさ、7年間の旅
http://www.nec.co.jp/ad/hayabusa/
忠臣蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5
「はやぶさは平成の忠臣蔵ではないか?」。そう言いたくなるほど、この2つはドラマ、ストーリーの構造が似ています。
ご存知、忠臣蔵は浅野内匠頭の江戸城松の廊下の刃傷沙汰と切腹から物語がスタートします。赤穂藩の改易から赤穂城開城の受け渡し。御家再興の嘆願や大石内蔵助の「昼行灯」の放蕩や赤穂藩士たちの離散・・・。数々の問題、トラブル、艱難辛苦が発生して、それでも主君の仇討ちに邁進していく。やがて赤穂四十七士が結成されて、吉良邸討ち入り。見事に吉良上野介義央の首を討ち取りますが、将軍綱吉の命令によって、全員切腹。花と散ります。
「はやぶさ」もまったく同じようなトラブルに告ぐトラブルの宇宙航海でした。小惑星イトカワへの着陸失敗。化学エンジンの燃料漏れ。行方不明。通信不能。姿勢制御不能。キセノンガスの直接噴射による奇跡の姿勢制御。イオンエンジンの異常停止。壊れていないエンジン機能を組み合わせて動かすクロス運転による再開・・・。まさに満身創痍の状態でありながら、地球に見事に帰還。しかし小惑星サンプルを地球に届けるために大気圏に突入して、炎に包まれて火の鳥のように燃え尽きる。
目的遂行のためには、最後まで決して諦めなかった「はやぶさ」プロジェクトマネージャー川口淳一郎教授は、さしずめ忠臣蔵でいうところの大石内蔵助的存在で、そのプロジェクトチームは赤穂四十七士に他なりません。
日本人はこういう幾多の艱難辛苦を乗り越えて、集団が一致団結してプロジェクトを成功させ、しかしラストは悲劇(忠臣蔵だと切腹、はやぶさだと大気圏突入)で終わる・・・という物語が好きなんですな。日本人の心の琴線を打つ、平成の忠臣蔵=はやぶさ。その物語は、のちのちまで語り告がれ、愛されることでしょう。
京都(平安京)は非常に住みにくいまちでした。平安京は為政者(天皇、摂関貴族)が風水思想に影響されて作ったまちで、決してヒューマンスケールではないんです。たとえば平安京の道幅は、小路で4丈(約12メートル)、大路で8丈(約24メートル)以上もあり、朱雀大路に至っては、なんと28丈(約84メートル)という途方もない道幅でした。閑散とした都市空間で、人の数もまばら。おかげで、西京はあっというまに廃れました。慶滋保胤の『池亭記』(天元5年・982)によれば
「余二十年以来東西二京を歴見するに、西之京は人家漸く稀にして、殆ど幽墟に幾し。人は去るあれども来るなく、屋は壊るるあれど造るなし。夫れ此の如きものは天の西京を亡ぼすもの、人の罪にあらざる明也。東京は四条より以北、乾と艮との二方は人々貴賎となく群聚する所也。商家門を比べ堂を連ね、小屋壁を隔て簷を接す」
と「殆ど幽墟に幾し」とまで記されています。この京都がヒューマンスケールのまちに変容したのは、応仁の乱で京都がボロボロに崩壊して、その後、天正18年(1590)頃に、秀吉が新道をつけて、半町ごとに貫通させる短冊型の町割区画をしてからです。こうすることで、ようやく京都に町民階級が定住するようになりました。
そもそも都市という言葉には「都」という政治的意義と、「市」という商業的意義が込められてます。天皇なり、大名なり、君主なりが住んでいるだけでは、これは「都市」とはいいません。つまり京都(平安京)はあくまでも「都」ではありましたが「都市」ではなかった。
そういう観点からいえば日本都市史のエポックメイキングは、自治都市・堺です。堺は天皇や大名が治めた「都」ではなく「市」でした。貿易(日明貿易、南蛮貿易)といった商業的意義のみで成立したまち。堺には君主が存在しません。「納屋衆」という町衆の代表が、自分たちの町を作っていったまちです。
京都、堺の次に、ようやく成立したのが大坂です。大坂は天下人の太閤秀吉が建設して「都」としての政治性を含みつつ(当初は天皇、貴族を移住させようという計画もありました)、堺、平野、伏見、安土といった商人たちを無理やり大坂に移住させて、「市」としての機能も持たせたまちでした。
都市の誕生こそが、近代文明の入口であり、第一歩であり、証明です。日本ではじめての都市。それが大坂であるということは、大阪人として、大いに誇りに思って良いとぼくは思ってます。
http://news.livedoor.com/article/detail/3860420/
阪神電気鉄道、阪急電鉄、南海電気鉄道の3社は、共同事業「南海・阪急・阪神で巡る『関西あそ歩(ぼ)』–京都・大阪・神戸・堺 まち歩きラリー–」を9月18日から開催する。9月16日には、東京で「まち歩き」セミナーおよび事業概要説明会が行われた。
まず、主催者を代表して、阪神電気鉄道の久保田晃司 経営企画室部長が挨拶した。「京都・大阪・神戸・堺という関西4都市を歩くイベント『関西あそ歩』を開催する。このイベントを通じて、多くの人に関西の豊かな歴史・風俗を再発見してもらうことで、沿線の魅力を発信していきたい」と、同イベントにかける思いを紹介。「大阪集客プラン支援事業実行委員会の『大阪へ行こう!大阪で遊ぼう!アイデアプラン支援事業』に認定されている」と、自治体などからも支援を受けた事業であると力説していた。
続いて、「行政域を超えた地域連携の『まち歩き観光』~関西3私鉄「関西あそ歩」の挑戦~」と題して、イベントプロデューサーの茶谷幸治氏が講演を行った。「今までの観光は見物、つまりは物見遊山であった。それが知遊、つまり体験・探求に変化してきている」と、観光は新たな局面を迎えたと解説。「旅行者自身が選んで旅をするという、質のよい観光を望むようになった。このため、質の観光を提供するほうが旅行者の量も見込めるようになったのが、今の旅行業界の流れ」と、旅行者の変化によって、観光を提供する側も変化が必要であると茶谷氏は説く。
では、質の観光とはどのようなものであるのか。茶谷氏は「“まち歩き”を提案する」という。「それは、観光バスで観光地を巡る旅行ではなく、都市観光をして、その都市を歩いて見る観光。そして、その都市を知る観光であり、共有する観光でもある」と、まちに惹きつけられる観光のことを“まち歩き”と定義。「2006年に長崎市で初めてまち歩き博覧会を開催した。延べ724万人が歩いて860億円の効果が得られた。特筆すべきは、宿泊客が増加したということ」と、“まち歩き”が観光として大きなツールになり得た事例を紹介してくれた。
「そして、長崎の成功事例をもち込んだのが、京都・大阪・神戸・堺で“まち歩き”をする『関西あそ歩』だ。南海・阪急・阪神の私鉄3社が手を結び事業化したことで、準備期間も短時間で済んだ」と、企画から一気に事業化したという。「『関西あそ歩」というイベントから、観光メガロポリスが誕生したといっても過言ではないだろう」と、都市や沿線各社が手を結んだ試みは観光業界に地殻変動をもたらすと茶谷氏は息をあげる。「“まち歩き”で横のつながりができるということに関心を示してもらえると思っている」と、同イベントの成功に自信をみせる。「『関西あそ歩』をきっかけに、関西の魅力を再認識してもらいたい」と、多くの人に関西へ訪れて欲しいと述べていた。
「関西あそ歩」の具体的な内容について、阪神電気鉄道の北山裕史 経営企画室課長と南海電気鉄道の東方豊 営業推進室課長、阪急電鉄 都市交通事業本部の飯田陽一 都市交通計画部調査役が説明を行った。阪神電気鉄道の北山経営企画室課長が事業概要を紹介。
「『関西あそ歩』では、4都市に共通のテーマをもつ“まち歩き”コースを設定。4都市を巡るスタンプラリーを開催する」とのこと。「歩き方は、コースマップを入手して個人で楽しむ方法と、ガイドツアーに申し込み、解説を聞きながら楽しむ方法と、2通りを用意している」と、好きな歩き方を選択できるようだ。「ガイドツアーは10月と11月に各1週間実施する。受付はすでに始まっている」と、ガイドツアーの予約は開始しているという。「スタンプラリーでは、集めたスタンプの数に応じて、抽選でプレゼントが当たる」と、楽しいイベントも盛りだくさんだとか。「『関西あそ歩』の専用Webサイトも開設し、セミナーも東京をはじめ大阪でも開催する」と、マーケティングにも力を入れていく考えを示した。
具体的なコースについては、それぞれの沿線ごとに紹介。南海電鉄の東方営業推進室課長は、南海沿線の堺と大阪のコースを説明した。「堺では、土居川、ザビエル公園から鉄砲鍛冶屋敷までを歩く“「黄金の日日」の栄光をもとめて”と“日本最大の古墳・仁徳陵古墳を知る”となっている。仁徳陵古墳をまた別の角度から見て、新たな発見をしてもらいたい」と、堺の“まち歩き”ポイントを解説。大阪は、“祈りのまち・住吉を歩く”と“レトロモダンのまち・帝塚山を往く”を紹介してくれた。
阪急沿線は、阪急電鉄の飯田都市交通計画部調査役が説明した。「京都は有名な観光地が多数あるが、そこから少し離れたコースを設定した」とのこと。木屋町、先斗町(ぽんとちょう)から祇園新橋を歩くコースと祇園祭を受け継ぐまち・明倫を歩くコースを紹介してくれた。「大阪は十三を巡るものと、中崎町散策の2通り。十三は夜の繁華街というイメージが強いが、伝統的職人のまちでもある。そうした少し違った視点からまちを見て欲しい」と、楽しみ方をアドバイスしてくれた。
阪神沿線は、阪神電気鉄道の北山経営企画室課長が紹介。「神戸は、今話題の坂本龍馬ゆかりの海軍操練所跡を歩くコースや、文豪・谷崎潤一郎が愛した住吉川周辺を歩くコースがある」とのこと。「大阪は九条下町を歩くコースの他に、近松門左衛門の『曽根崎心中』の舞台を歩くコースがあり、大阪の歴史・風俗を存分に味わえるものになっている」と、魅力的なコースを用意し、観光客をもてなしたいとアピールした。
阪神電気鉄道=http://www.hanshin.co.jp/
阪急電鉄=http://rail.hankyu.co.jp/
南海電気鉄道=http://www.nankai.co.jp/
「関西あそ歩」ホームページ=http://www.kansai-asobo.jp/
お世話になっております名古屋のフリーライター、バカルト(大竹敏之)さんからの告知です。面白い試みですので、ご都合の付く方は、ぜひともご参加してみてください。以下、バカルトさんからのメールです。
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昨年、私が主宰として立ち上げたボランティアプロジェクト
「浅野祥雲作品再生プロジェクト」の五色園第3次修復活動を
来る10月30・31日に行うこととなりました。
(詳細はこちら↓をご覧ください)
http://www.days.ne.jp/chinmeisho/event/index.php#thirdevent
昨秋・今春の第1・2次活動には、それぞれのべ100名もの
参加者が集まってくれ、中には関東や遠く広島からわざわざ
足を伸ばしてくれた熱心な祥雲ファンもいらっしゃいました。
いわゆるB級スポットの作品を、有志の手で修復・保全していこうという
活動は、全国でも例を見ない試みです。
失われていくばかりの市井の民俗文化を、市井の人々の手で守っていける
ひとつのモデルケースになればとも僭越ながら考えております。
よろしければ、告知・ご参加など、ご協力・ご支援いただけましたら幸いに存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
ロシアの文豪レフ・トルストイが、その82年の生涯の最後に書いた手紙。
「貴方の雑誌、インディアンオピニオンを受け取りました。そこに書かれている無抵抗主義の人々のことを知り、喜んでいます。
そこで私の心に生まれた考えを貴方に聞いていただきたくなりました。それは無抵抗と呼ばれている事は、愛の法則に他ならないと言うことです。
愛は人間の生活の最高にして唯一の法則であり、この事は誰でも心の奥底で感じていることです。
私たち達は子どもの中にそれを一番明瞭に見出します。愛の法則はひとたび抵抗という名の元での暴力が認められると、無価値となり、そこには権力という法則だけが存在します。
ですから私はこの世の果てと思われるトランスヴァールでの貴方の活動こそ、現在世界で行われている、あらゆる活動の中の最も重要なものと信じます。 」
南アフリカで民族解放運動をしていた当時、41歳のマハトマ・ガンジーにあてたものでした。トルストイからガンジーへ。すごいバトンです。こうやって人類は、前に進んできたんでしょう。感動です。