我々は間違える。その自戒を常に。
間接民主主義・・・代議士制そのものに懐疑的です。かといって、ではネット国会ひらいて1億人みんなで「いいね!」の一票なんていう直接民主主義がいいとも全く思いません。これはむしろ怖いですな。本当に「全員参加のネット国会」なんてのが成立すると、仮に「6対4」なんてことになっても「直接民意で過半数を得ているんだから」ということで「4」(弱者)の意見を完全に切り捨てることに何の躊躇もなくなるでしょう。これこそが全体主義国家であり、究極の恐怖政治が誕生しえます。人間は簡単に間違う。個人ならまだしも、ましてや大衆となるとそれこそ歯止めが効かない。魔女狩り、大恐慌、アウシュビッツ、原爆・・・時に集団発狂を起こすのが人類史の常ではなかったか。
要するにぼくらは常に間違う存在だということを前提に政治というのを組み立てないといけない。簡単に「答え」を出してはいけない。「答え」を出さないと先に進めない。それはわかりますが、「答え」を早急に出すことが、じつは最も恐ろしい衆愚政治を呼ぶ。
「いってみると会場の中には板間に20人ほどすわっており、外の樹の下に3人とか5人かたまってうずくまったまま話し合っている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情を聞いてみると村で取り決めを行う場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめは一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話し合って区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかなければ、また自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家にかえることもある。ただ、区長・総代は聞き役、まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜も昼もない。ゆうべ暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。」
以上の記述は、民俗学者・宮本常一の『失われた日本人』から。この歴史的名著には、かつてはどこにでもあったであろう、日本の村の「寄合」の光景についての記述があります。宮本常一によると「寄合」というのは、「話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい」ということを延々と繰り返したとか。要するに、昔のひとは「では、会議も定刻になりましたから、みなさん、賛成か反対か一票を」なんてことはやらなかったんですな。「全員総意」に至るまで、何時間でも、何日でも、何週間でも、何ヶ月でも話し合う「寄合」で物事を決めていった。決まらない案件もあるかも知れない。それは子子孫孫に至るまで考えればいい。やがて、時が解決するかもしれない。解決しないことかも知れない。そんな大問題は、そもそも人間の判断の及ぶものではないのかも知れない・・・。
西洋は「間接民主主義」を産み、「会議」を産み、「選挙」を産み、じつにスピード感溢れる政治を行ってきました。しかし西洋政治史とは、とんでもない過ちを犯し続けた歴史でもあります。とにかく、この政治は血が流れる。大失敗が多い。これは結局のところ、革命やらクーデターやら独裁者やらを産む政治です。180度、360度、急展開する。ジェットコースターのような政治です。
日本の「寄合」はそうではありません。これは西洋政治の対極に位置するもので、とにかく、徹底して考えようというスタンスです。急がない。早急に答えを出さない。話をしよう。待とう。聞こう。とりあえずごはんでも食べよう。ちょっと横になって寝よう。また明日、話をしよう・・・ということを延々と繰り返す。スピード感はまるでありません。しかし、間違いは少ないでしょう。
なんでもかんでも急がされる阿鼻叫喚の末期的な近代文明の中で、「寄合」なんて時代錯誤も甚だしいことを提言しても、実質的にはなんの意味もなく、なにを眠たいことを・・・という話なのかも知れません。しかし、ぼくは「寄合」という方法論は、人類の長年の試行錯誤の果てにたどり着いた、ひとつの究極の政治の在り様であり、智慧やと思ってるんですな。近代国民国家という枠組みの中では、これはムリなことなのかもしれない。しかし、もう少し小さいコミュニティの政治・・・都市や地縁社会などでは、こういう方法論の復活も可ではないだろうか?と思っています。
我々は間違える。その自戒を常に。