「楠木姓」と「楠姓」
岸和田は「岸の和田氏」のことで、この和田氏とは楠木一族の家臣です。楠木正成は山城に立て籠もってのゲリラ戦が上手く、どうも山の民(和田)のイメージが強いですが、じつは海の民(岸の和田)をも掌握していた。つまり、岸和田のだんじりファイターは楠木系の子孫や一族でして。実際、だんじりの彫りもんの題材も、やたらと『太平記』もんが多い。「桜井の子別れ」とか「湊川出陣」とか。
「楠木正成」はまた「楠正成」と書く場合もあります。これは誰も指摘しているのを読んだことがないですが、ぼくは二文字姓(楠木)は「日本名」で、一文字姓(楠)は南宋との交易のさいの「中国名」ではないか?と思っているんですな。日本人はしばし大陸と交流するさいは、二文字姓から中国風の一文字性に変えていたそうで、例えば遣唐使で中国に渡り、現地で亡くなって墓碑が発見された「井真成」などは「井上真成」や「葛井真成」が正式な日本名ではないかと予想されています。つまり楠木一族(楠一族)は、海の民(岸和田)を通じて大陸と通じていたと。そうでないと正成に宋学(尊王攘夷)イデオロギーが濃厚な理由が説明出来ないんですな。
また正成が兵庫港(国際港)で戦死しているのも非常に興味深いなぁと思ってまして。正成は湊川で戦死しましたが、ほんまは兵庫港から逃げて再起を図ろうと思えば可能だったのではないか?しかし、それを、どうも、止めた。北朝に敗北したというよりも、正成の中の尊王攘夷イデオロギーが挫折したという感が強いです。イデオロギーに生きる人はイデオロギーが挫折すると死ぬ。その一例ではないかと。実際に「赤坂城の戦い」では正成は落城で焼死したふりをして、実は生き延びていて、1年後に劇的に再起しました。「千早城の戦い」では500名で山城に立て籠もり、数万の北朝方と100日間ほど戦い抜いたとか。これほどのことは平気でやってのける人物が湊川の戦いごとき、切り抜けれなかったわけがないと思うんですな。退路は、生還路はあった。
しかし赤坂城、千早城の時はまだ「建武の新政以前」で正成には後醍醐帝と新しい政治を作るというイデオロギーがありましたから。イデオロギーのためならゲリラ戦や死んだふりぐらいは当然やります。しかし「建武の新政以降」は正成は自分のイデオロギーが間違っていたことを知ってしまう。こうなるとイデオロギー信奉者は弱い。「建武の新政以前」の正成はゲリラやったり、煮えた糞尿を敵にぶっ掛けたりと、じつに凄まじいんですが、「建武の新政以降」の正成は、明らかにそんな凄まじさを感じない。自分のイデオロギーが揺らぎ、もはや死に場所を探し求めていたようにも感じる。じつに潔い。こういう落差が正成の面白さ。要するにイデオロギーに生きる人は醜く、イデオロギーに死ぬ人は美しいということなんかも知れません。