大阪的(町衆的)公共
2014 年 3 月 31 日
東京(江戸)の「公共」は「幕府」や「政府」といった権力構造が支えてきたことに対して大阪(浪華)は常に「町衆」の手にありました。しかし明治維新以降の150年に及ぶ近代国民国家システムと、「生政治化」(ミシェル・フーコー)によって、ついに大阪的(町衆的)公共も麻痺しはじめて、それが「大阪都構想」(中央集権モデル)を提唱する橋下市長や維新現象にも繋がっている。東京がすでに、こうした中央集権的な公共モデルに限界を露呈して急速に崩壊しつつある中で、大阪が今更「東京モデル」に舵を取ることは周回遅れで、はっきりいえば不毛です。大阪には大阪らしい公共モデルがあるはず。その覚醒のためには「堺」「大坂本願寺」「タニマチ気質」といった大阪の誇るべき「歴史的公共」を再検証することや、「失われた20年」を経て誕生してきた「かえっこバザール」「住み開き」「まわしよみ新聞」といった「遊びの公共」が重要な鍵を握るのではないか・・・?
以上、呟き。
カテゴリー: 雑感