世界はむしろ他者性に満ち満ちている
まわしよみ新聞はコミュニティ・デザインではないんですな。というと誤解をあたえますが、コミュニティ・デザイン的な使い方ももちろんして頂いて結構です。ただ「コミュニティ」というよりも、「他者性」というものをぼくは強く意識して、まわしよみ新聞を設計しました。だからわざわざ聞き慣れないですが「コモンズ・デザイン」と銘打ったりもしてます。
では、コミュニティ・デザインとコモンズ・デザインでは、なにがちがうのか?
みんなで集まって、新聞をまわしよんで、記事を切り取り、対話を積み重ねて、また新しく新聞を作る。ここまではコミュニティ・デザインの範囲といえます。ところが、まわしよみ新聞は、最後に「みんなで作った新聞を掲示しよう」とやったところが新しかったんですな。カフェや商店街や居酒屋でみんなで作った「まわしよみ新聞」を貼っておくと、まだ会ったこともない見知らぬ他者が「なんやこれ?」と足を止めて興味・関心を持つかもしれない。想像もしない「他者との出逢い」が発生するかも知れない。
要するにコミュニティへのアプローチだけではなくて、その外周にいる「他者へのアプローチ」までを意識してデザインされている。ぼくは「コミュニティ+他者」「みんな+だれか」を、まわしよみ新聞で包括しようとしたわけです。
だから、まわしよみ新聞を作ったら、そこで掲示して欲しいし、実施する場所も掲示がOKの場所でやった方が、まわしよみ新聞の持ち味が生きてくるんですな。新聞、メディアというのは「読者」(他者)に届いてこそ、新聞ですから。「他者に読んでほしい!これはおもろい!とまわしよんで欲しい!」という新聞を作るのが、まわしよみ新聞です。
もちろん、みんなで仲良くまわしよみ新聞を作って、おもろい!で完結してもええんですが、「他者」を意識してまわしよみ新聞を作ると、まったく違った世界が開けてきます。
コミュニティは限界があります。世界はむしろ他者性に満ち満ちている。
※コミュニティ・デザインがあかんというてるわけやのうて、とても大事なことやと思ってます。ただ、そこから零れ落ちるものがある。ぼくはそこが気になってしょうがなかった(それはぼく自身がコミュニティに馴染めないアウトサイダーであるからなんですが)。それで現代社会にはコミュニティ・デザインとコモンズ・デザインってのが必要なんちゃうか?と思って、しかしコミュニティ・デザインはみんなやってますから、ぼくはあえてコモンズ・デザインをやろうと孤軍奮闘してるわけです。蟷螂の斧を振り回してますかね…。
※ちなみに「究極の他者」とはなにか?というと、これは「無縁仏さん」になるんやないか?と思ってます。無縁仏さんへのアプローチが「大阪七墓巡り」で。他者性にどうアプローチするか?という立脚点から「まわしよみ新聞」と「大阪七墓巡り復活プロジェクト」が結びつきます。要するに、ぼくのやってることは、あんまり変わらない。「アホのひとつ覚え」みたいなもんですわw