囲碁の歴史
囲碁の歴史。
■636年の『隋書』の「倭国伝」に倭人は囲碁や双六、博打などの遊びが好きという記述。正倉院には百済の義慈王が藤原鎌足に贈った碁石入れがある。701年の『大宝律令』の中の「僧尼令」には「僧尼が音楽と博戯をすれば百日の苦役。碁と琴に制限はない」。
■日本で最初に「碁」の文字が用いられたのはじつは712年の『古事記』。イザナギ、イザナミの国生みで出来た「おのころじま」は「淤能碁呂嶋」と書かれる。『日本霊異記』では僧と一般人が碁で戦い、一般人が僧を嘲ると帰路に頓死する話が登場。逆に僧が碁に負け続けて口が歪み、終生治らなかった話もある。
■804年の遣唐使には碁師・伴宿禰少勝雄(とものすくねこかつお)が随行。唐の碁師と親善交流試合などをしたと思われる。少勝雄(こかつお)という名前が良いww 同行した青年の紀夏井は少勝雄の弟子で師匠を超える碁打ちに。夏井は菅原道真とも親交があった。道真も碁の漢詩などを作っている。
■「人々みな寝ぬるのち、外のかたに殿上人などのものなどいふ、奥に碁石の笥にいるる音のあまたたび聞ゆる、いと心にくし」 清少納言の『枕草子』より「心にくきもの」。野郎どもの五月蝿い徹夜の囲碁にイライラする清少納言。嫌いやったみたいですなww
■後三年の役は清原武則の孫・真衡が囲碁に夢中になり、無視された吉彦秀武が怒って帰ったことが発端という伝説がある。まさかの囲碁トラブルで戦争w 後三年の役で功を認められた源義家は囲碁好きで、屋敷に強盗が入った時も庭で囲碁に夢中だった。
■日蓮は囲碁を好んだという伝説がある。日蓮と弟子の日朗の棋譜もあるが、じつは江戸時代後期に登場。明らかに捏造。初代本因坊算砂は日蓮宗僧侶だが、どうも日蓮宗僧侶が囲碁をブランドにしようとしたらしい。囲碁と日蓮宗の結びつきは面白い。
■北条時頼は武士の博打を禁止。「但し囲碁・将棋者は非制限」と。武士はますます囲碁に熱狂する。庶民に本格的に浸透しはじめるのは室町期以降。宋銭の流入で貨幣経済の概念が産まれてから。要するに賭博として広まった。
■中世以降、庶民階級に「数遊び」「数取り遊び」が急速に流行してくる。貨幣経済、商品経済の浸透によって庶民の中に数観念や計量概念が発達した。それが囲碁発展のキッカケ。日本最初の商業都市・堺に仙也や林利玄といった伝説的、天才的な碁打ちが登場するのも、ある意味、必然だったといえる。
■『爛柯堂棋話』より「意雲老人は後土御門帝の世、囲碁の名手なり。庵を泉南に結びて居す。みずから可竹と号す」 『爛柯堂棋話』には本能寺の変の時の算砂と利玄の三劫のエピソード、信玄と高坂弾正、真田昌幸、信幸父子の棋譜なども収録。どうも嘘くさいですが囲碁好きにはおもろそうですなw
■堺・妙国寺にも関連する僧侶・日淵は、甥の日海をまず堺の伝説の碁師の仙也に弟子入りさせて修行させ、その後、日蓮宗僧侶に出家させている。碁打ちの実力を高めて、権力者や富裕層に取り入って法華を広めようとしたらしい。茶の湯がそうであるように、囲碁・将棋などもそうした政争の道具に使われた。
■利休が秀吉から拝受した碁盤が現存している。利休には「囲碁の文」もあり、同じく堺の伝説的な碁師の林利玄が対局する碁会に参加したこともわかっている。利休と利玄と。休はやめることで、玄はまぼろし。堺の利(経済)から離れようとしたか。それとも皮肉か。自嘲か。