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古代ギリシャ哲学の始まりと終焉まで

2014 年 9 月 19 日

なんとなく西洋哲学史を勉強中。ツイッターで気になる点を投げていて、そのまとめ。古代ギリシャ哲学の始まりと終焉まで。結局、キリスト教に回収されていくんですなぁw
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■哲学のはじまりの地はミレトス。エーゲ海東側の小アジアの港湾都市でギリシャの植民地都市だった。ギリシャ神話(宗教)がそれほどまでに影響を及ぼさない。貴族ではなくて商人階級が多く、商人は即物的に物の価値判断を考える。ここから「万物の起源は水である」とする唯物論のタレスがでてくる。

■ギリシャに近いとギリシャ神話の影響で唯物論などは弾圧される。ミレトスは植民地都市かつ商業都市であり、東西交流が活発な小アジアにあった。多様な人々、多様な価値観が許容される。それがタレス、アナクシメネスなどの「ミレトス学派」を産んだ。古代ギリシャ哲学というが場所性からすると、じつはこれは「小アジア哲学」であったりする。

■クセノパネスもパルメニデスもデモクリトスもみんな植民地都市で無神論的な唯物論を展開していった。ギリシャ本国で哲学を展開するようになるのは、ペルシャ戦争で植民地がボロボロになり、商人階級がどっとアテナイに移住することになってから。いつだって辺縁から革新の文化が産まれる。

■辺縁の哲学者で面白いのがピタゴラス。彼はピタゴラス教団という宗教結社を形成した。ミレトス学派のような無神論的な立場ではない。有神論者であり、だから数を神秘的な霊数として考えて、それがピタゴラスの定理などを産む。数理は神の至芸であり、技だった。

■ペルシャ戦争でギリシャはかろうじて勝利するが、それは海軍力に勝っていたから。当時の海軍は手漕ぎ櫂船で、結局、水夫の数で決まる。水夫を集めたのは商人階級で、そのおかげで商人階級が大きな影響力を持つようになった。ギリシャの祭司階級やら貴族階級が弱まり、商人階級の支持を受けた哲学者が活躍しはじめる。

■ペルシャ戦争でギリシャは植民地を失い、商人階級はアテナイに戻る。しかし職がない。そこで植民地で得た様々な見聞録や知識体系を売って商売にする。これが「ソフィスト」の始まり。結果、哲学は「万物の根源とはなにか?」を探る自然学的立場から「アテナイをどうするか?」という社会学的視点が付与される。

■アテナイでソフィストたちが商売をはじめると、とくに政治を目指す者たちが、大衆の支持を得るため、また学識があると議論でも優位にたてると学び出した。この中から「どうすれば相手を言い負せられるか?」ということで論理、批判、反論などの「弁論術」なんかも産まれてくる。

■弁論術は哲学の政治利用で、この時期のアテナイの哲学者に大した人物はいない。論理よりも挑発、ハッタリで大衆の支持を得ることが目的となってしまい、哲学は停滞した。このときに知識ぶるソフィストたちに「私は何も知らないことを知っている」と「無知の知」を掲げて登場してきたのが大ソクラテス。

■「無知の知」を掲げたソクラテスはそれまでの自然学的な認識論者でもなく、政治学的な弁論術者でもなく、真に哲学的な哲学者だといえる。生涯、自分の知識で金を取らなかった(当時は常識だったのに)。本を一冊も書いていない。書斎ではなくて行動のひとで、当時から奇人変人で有名だった。

■プラトンは若い頃はアテナイの政治家を希望していた。しかしペロポネソス戦争でアテナイはスパルタに敗北して大混乱。衆愚政治に陥り、師のソクラテスが若者を扇動していると刑死される。プラトンは全てに失望してアテナイを去り、10年後にアテナイに戻る。そこからようやく『対話篇』を書き出す。

■プラトンが初期の『対話篇』を書いた時代はスパルタの全盛期。アテナイは敗北都市でボロボロだった。そこで全盛期のアテナイの栄光を書いた。プラトンははじめアテナイの政治家を目指し、その夢が敗れて、次に40歳前後から「歴史家」として登場してきたことは、特筆しておきべき事実。

■初期の『対話篇』を書いたあと、プラトンは南イタリア・タラスの数学者アルキュタスを訪れる。アルキュタスはピタゴラス学派で学校を運営していた。それを模範にしてアテナイ郊外に作ったのが「アカデメイア」。900年以上存続した古代ギリシャ史上最大の教育期間。

■伝説ではプラトンはタラスのあとシシリーに渡り、美青年ヂオンと愛しあう。しかしヂオンの一族に嫌われて離れることになり、その途中で囚われて奴隷に。絶体絶命のピンチに陥るが友人になんとか買い戻されて命からがらアテナイに帰ったとか。ほんまかどうかはわかりませんが、なかなか面白い伝説。

■若き頃に政治家を目指したプラトンのユートピアが描かれたのが『国家』。統治者は「善のイデア」を理解する哲人王であり、支配者階級は財産や妻子の私有を禁止して「共有」でなければならないと説く。優秀な男と優秀な女で優秀な支配者階級を維持しようと。いやあ、トンガってますなあ。プラトンはw アテナイの敗北がよっぽど悔しかったんでしょうな。

■「最も優れた男たちは最も優れた女たちとできるだけ交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちはその逆でなければならない。また優秀な男女から生まれた子どもは育て、他方の子どもたちは育ててはならない。もしこの羊の群れが優秀なままであるべきならね」 プラトン『国家』

■ギリシャがマケドニアに支配され、アレクサンドロスの東征によってヘレニズムとも交流する。ここでギリシャ哲学は大飛躍の可能性もあったが世界帝国の出現に対して「この多様な世界をどうするか?」ではなく、「この複雑な世界の中でどう生きるか?」という個人主義に陥ったのは実に惜しい。

■世界帝国出現に対してギリシャ哲学がストア派、エピクロス派といった個人主義的な哲学に内向していったのは謎だが、ギリシャ哲学が我々の想像以上にじつはポリスと密着していたということではないか?いろんな意味で基盤が揺らいでしまった。この辺りがギリシャ哲学の限界性??

■ソクラテスはアテナイの民に殺され、プラトンはアカデメイアに、アリストテレスはリュケイオンに篭った。ギリシャ哲学に対してアテナイの民ですら批判的、弾圧的だった。哲学への無理解。これでは世界帝国の哲学たり得ない。後代がギリシャ哲学を買い被りすぎているということなのかも知れない。

■事実、アリストテレスは弟子のアレクサンドロスに対してポリスをいかにどうするか?という教えしか出来なかったらしい。世界帝国をいかにどうするか?といった提言はただの一度も無かった。アレクサンドロスは古臭いアリストテレスを疎ましいとすら思っていた節があるとか。そりゃそうでしょうな。

■アレクサンドロスによってギリシャ(地中海文化圏)はヘレニズム(インダス文化圏)と混淆する。海の文化と陸の文化の混淆。ギリシャ哲学は反宗教的、無神論的であったが東方ヘレニズムの神秘主義的な宗教と混じることで有神論的になる。新プラトン派のプロティノスの「一者」などはその影響。

■プロティノスはイデアの源泉ともいうべき「一者」を説き、さらに一者との合一による「エクスタシス(恍惚)」を説いた。プラトンはイデアを説いたがイデアとの合一なんてのは説いてない。このへんがプロティノスの神秘主義的傾向であるし、この「一者」概念からキリスト教の「神」概念はとても近い。

■プロティノスは生涯に4回、エクスタシスを経験。弟子のポルピュリオスは生涯に1回だけエクスタシスを体験。なんやそれ?ですなw ここまでくると哲学なのか?宗教なのか?ようわからん。ソクラテスやプラトンにエクスタシスはない。プラトン主義とヘレニズム神秘主義の混淆。そういう意味でいえばプロティノスは面白い。

■紀元1世紀のローマは支配層はギリシャ哲学の流れを組む個人主義的倫理学をやり、しかし民衆や奴隷はミトラ教、イシス教などの東方ヘレニズムの妖しい秘儀宗教を信奉していた。そのあいだに登場してきたのがキリスト教。キリストは高い倫理性とオープンな儀式性で両者を結びつけ、世界宗教化していく。

■プロティノスは一者とのエクスタシスを説いたが、これは上昇志向的なものといえる。逆に下降志向の哲学もあって神が民衆に降りてくるというもの。これがグノーシス派の特徴。秘儀をやることで神とのエクスタシスを説いた。ネオプラトニズムもグノーシスも初期キリスト教に多大な影響を与えている。

■新プラトニズムもグノーシスも東方ヘレニズムの神秘主義の影響を受けたとはいえ、やはり哲学で、だから、やがてキリスト教からは排撃されていく。神学者テルトゥリアヌスは「不合理なるがゆえにわれ信ず」と叫び、ネオプラトニズム、グノーシス的な知識によってキリスト信仰を説くスタイルを批判した。

■テルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種」だとか「三位一体論」だとか、ある意味、反知性主義の神学者でキリスト教グノーシス派は異端視していった。ただ、クレメンスやオリゲネスなどのアレクサンドリア系神学者は逆にネオプラトニズム、グノーシスの知識体系をキリスト教に同化、転用していった。

■終末論と救世主を説くユダヤ教+イデアを説くギリシャ哲学の知識体系+東方ヘレニズムの神秘主義的な秘儀宗教の3つがアレクサンドリア大王の東征で結びついて民族、国家、文明やらが混淆されて熟成された結果、キリスト教が世界宗教化していく。ああ。これでようやく初期キリスト教の歴史的成立背景が説明できるぞw

■アウグスティヌスはネオプラトニズムでキリスト教を説明する。「人間の心の中にはイデアはあるが、この原因は我々自身ではなく神から与えられたもの」と説く。人間は徹底して無力で最高の真理は信仰によってのみ可能となる。「信ぜよ、さらば理解されよう」。人間の知を信じたギリシャ哲学の終焉。

■アウグスティヌスは若い頃は遊びまくったそうで私生児も産んでいる。さらに東方神秘主義のマニ教の信者だった。それがネオプラトニズムと出会い、ついにキリスト教信者へと至った。『告白』は若さ故の過ちの懺悔録だが、いってみれば「キリスト教と出逢ってこんなに素晴らしい人間になれた!」という宗教洗脳本の元祖w

■「不合理なるが故に我信ず」のテルトゥリアヌス、「信ぜよ、さらば理解されよう」のアウグスティヌス。ギリシャ哲学とキリスト教を結びつけた教父哲学者たち。要するに知識と信仰の関係性の問題に取り組んだわけだが、答えはすでに「キリスト教万歳!」なわけで、だから哲学としてはさほど面白くない。

■アウグスティヌスが430年に亡くなり、476年にはゲルマン民族の襲撃によって西ローマ帝国は滅亡。プラトンのアカデメイアは東ローマ帝国内にあったが非キリスト教的であるとして皇帝の命令で529年に閉校される。俗にいう哲学が「神学の下女」となった時代。これは中世の幕開けでもある。

■明らかに古代の方が科学的で中世の方が迷信的であったのは天動説、地動説のエピソードからもわかる。古代ギリシャの哲学者は地動説を理解していたが中世のキリスト教信者は神が作った地球こそが宇宙の中心と天動説を唱えた。科学が敗北して宗教が勝った。なぜそうなったか?このへんの「知の反動」の歴史はなかなか興味深い。


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