■11/26(水)19時より往来・暇活にて「まわしよみ新聞!」
https://www.facebook.com/events/376125969205855/
久しぶりに往来さんで「まわしよみ新聞」をやります!ご興味ある方はぜひともご参加してください!^^ もちろん『まわしよみ新聞のすゝめ』(1620円税込)も購入することができます!w
■開催日時:11/26(水)19時より21時ぐらい
■開催場所:コワーキングスペース往来
大阪市中央区谷町6-5-26 複合文化施設「萌」2階
(地下鉄谷町線「谷町6丁目」駅4号出口より徒歩3分)
http://ourai.jimdo.com/
■参加費:1000円+新聞
■定員:10名
■まわしよみ新聞
http://www.mawashiyomishinbun.info/
■『まわしよみ新聞のすゝめ』通販サイト
http://susume.base.ec/
■「まち歩き」とは何か?~生者が死者と出逢い、鎮魂する旅~
(「ナカモズグレイト!vol.6」より)
「まち」とは人工的なものです。電信柱ひとつとっても、創作者の名前はありませんが、誰かが作ったものです。また、まちはたったひとりの人間で作れるものではありません。大勢の人間が携わっている。桓武天皇が平安京を作りましたが、その後、いろんな人間が寺社仏閣を作り、屋敷を作り、電車を作り、タワーを作り、今日の京都が出来上がった。まちは「集団の創作物」ということです。さらにいえば、その集団の大多数は、すでに「死者」です。まちは「まちの先人たち」の「遺作」ともいえます。
あらゆるまちがそうであるように、堺のまちも「死者に彩られたまち」です。堺も大阪も町衆主体の商業都市ですが、この2つの都市は全く性格が違います。大阪は天下泰平の江戸時代以降のお気楽な商業都市ですが、堺は戦国時代の商業都市で、刀や鉄砲といった「人を殺す武器」で儲かった。現在の堺の人間は戦国時代の堺を「黄金の日日」「町衆が運営する平和な自治都市」といいますが、それは虚像で「死の商人のまち」が実像でしょう。いろんな敗北者に恨みを買っただろうし、憎まれた。そういう緊張感あふれる時代状況の中で誕生したのが利休の「数奇」です。数奇とは「数奇な運命」の数奇で、その行為の結果、一体、どうなるかわからないけれどもそこに全力で身を投じる…という奇なる精神や実践のこと。弱肉強食・下剋上の戦国時代。いまは栄華でも一朝には野辺の骸となってもおかしくない。人の生死が羽毛のように軽い時代だからでこそ、人と人との邂逅の奇を信じ、己と他者が生命を完全燃焼させる「聖なる一回性」の「一期一会」を具現化しようとした。利休の「利を休む」という号は「人を殺して儲けることを辞めよう」といった意味もあったのかも知れません。
「なかもず」も死の匂いが濃厚なまちです。百舌は不気味な鳥で「早贄」という残虐な習性を持ちます。咥えた虫を木の枝に突き刺して食べずに飛び去っていく。まるで磔刑のようで、まさに「死の鳥」といえます。そして、その名を冠した百舌鳥野が河内王朝系の大王たちが眠る「王家の谷」となった。その付近には土師たちが住み、彼らは古墳を造営した技術者であり、死者を弔う呪術者の集団でした。その土師一族から東大寺を建立した行基菩薩や、日本最大の祟り神・菅原道真公などが産まれてくる。こうして連綿と「死者の物語=まちの物語」は続いてきました。これからも続いていくことでしょう。
「まち歩き」は、こういったまちの先人たちの「遺作」を知り、その物語を体感することです。まちを歩くことで「生者と死者とが出逢う」…ぼくはそれを「死生観光」と名付けています。それは生者から死者への「鎮魂の旅」ですが、死者から生者への贈り物もあります。人生の苦悩や悲哀を受け止めて戦ってきた「死者の生きざま」を知ることで、生きる勇気をもらう「希望の旅」を得ることができます。
まち歩きの醍醐味とは、これです。
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大阪、堺市、中百舌鳥(なかもず)を遊びつくす地域密着情報サイト「ナカモズグレイト!」の「vol.6」に寄稿しました~^^ 「まち歩きとは何か?」というえらい大きなテーマを樋口さんからもらいまして・・・しかも「1500文字で書いてほしい」というムチャブリでしたww ぼくの原稿はあれですが、いろんなグルメ情報が掲載されてます。ご興味ある方は、ぜひとも手に取ってみてください!m(_ _)m
■大阪、堺市、中百舌鳥(なかもず)を遊びつくす、地域密着情報サイト「ナカモズグレイト!」
http://nakamozugreat.com/
■掲載店の36店舗ほか、以下の店舗にて無料配布中です。堺市立図書館にて貸出も可能です。
http://nakamozugreat.com/places.php
ぼくは学歴とか教養とか知識とか、既存のエトス(型や体系)がない人間で、だから、自分でなにかを始めるならば、自分なりにエトスを作るしかなかった。では、なにを作ればいいか?自分の得意分野ってなにか?と考えたら、それは「遊び」やった。要するに、過去を振り返って、自分がなにをしてきたか?というと、ずっと、ふらふらと遊んで生きてきただけで(単なるろくでなし&社会不適合者ですがw) それで「遊び」なら、そこそこ、自信がないこともないぞと。「大阪七墓巡り」は宗教を遊び、「まわしよみ新聞」は新聞を遊び、「直観讀みブックマーカー」は本を遊び、「当事者研究スゴロク」は人生を遊ぶ。遊んでいるうちになにが起こるか?というと、人が集まって、場が生まれてくる。自然と、ひとづくり、場づくりになってくる。
「漢字ドリル」とか「腕立て伏せ」とか、ロボットのように一定の運動を繰り返させる。そうやって知識や体力をつけさせる。まったく面白くない。子供は「かくれんぼ」やら「鬼ごっこ」をして遊んでいるうちに、自然と体力や知恵もつける。さらには仲間もできていく。「学び」と「遊び」の違いですな。おそらく最短距離で、最速で、なにかができるようになるには、学びの方がええんです。子供に大人の「まね」をさせて覚えさせる(そもそも「まなび」の語源は「まねぶ」です)。これはしかし、いってみればサルでもできる話で。「まね」がない世界となると、まるで通用しない。「いままでにないものを作ろう」とするならば、そのヒントは「遊び」の中にある。想像性、創造性は、遊びの中でこそ涵養されていく。
昨日、堺の図書館で、直観讀みブックマーカーをやって「なんでこんなことを思いつけるんですか?」といわれて「いやぁ、ぼく、遊んでばっかの人生やったんで・・・」と答えたんですが、言葉をもう少し付け足すと、そういうことですw
■直観讀みブックマーカー
http://tyokkannyomibookmarker.info/
新潟日報さんが新潟の高校で「まわしよみ新聞」を実施してくれていたとか。メールをいただいて発覚。面白かったのが「不勉強ながら、発祥を初めて知りました」とのことで、ぼくが考案者だと知らなかった・・・とのことw
もはや「まわしよみ新聞」は、ぼくの元から完全に離れて、「世間知」のようなものになってきている。嬉しいですな。ムーブメントになったことの証明です。こうなると、強い。
■『まわしよみ新聞のすゝめ』通販サイト
http://susume.base.ec/