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『まわしよみ新聞のすゝめ』より。「逢着」のススメ~まわしよみ新聞と2畳大学/梅山晃佑(2畳大学学長)

2014 年 11 月 27 日

梅山くんに『まわしよみ新聞のすゝめ』の寄稿をお願いして、「逢着のススメ」というおもろい原稿を頂きまして(あの本に載ってる寄稿は、ほんまに全部、どれも素晴らしいものですが)。梅山くん、記念に公開したいということなので、ぼくもシェアしますw

梅山くん、ほんまにありがとう!^^

■『まわしよみ新聞のすゝめ』通販サイト(susume.base.ec)
http://susume.base.ec/items/845777

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陸奥賢さんの記念すべき初著書『まわしよみ新聞のすすめ』に寄稿させてもらいました。「まわしよみ新聞と2畳大学」というお題をいただいたので、そんなタイトルです。せっかく書いたので、ここにも残しておきたいと思います。もしよかったら読んでみてくださいね。

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「逢着」のススメ~まわしよみ新聞と2畳大学/梅山晃佑(2畳大学 学長)

まわしよみ新聞の面白さは「逢着が起こる」ことだと思う。

「逢着」とは、「出会う」という意味だけでなく「出くわす」「行きあたる」という意味も含んだ言葉で、「未知のものに意図せずに出会ってしまう」という意味で使われる言葉である。僕はこの「逢着」が好きで、特にポジティブでもなく、ネガティブでもない、フラットなニュアンスがあるところが気にいっている。「出会い」というとポジティブな感じがするし、「事故」というとちょっとネガティブで、しっくりこない。何者(物)かに逢着し、楽しかったり、悲しかったり、揺さぶられたり、考えさせられたり、憤ったり、感動したりさせられる。色々なことがそこから起こる。そしてそれらはあくまで「意図せず」に始まっているのだ。この「まわしよみ新聞」もまさに「逢着」が起きる場所だ、というところがみんなが夢中になる所以ではないかと思う。予想だにしてなかった角度から現れた何者(物)かに驚かされるから、面白い。

僕がまわしよみ新聞に共感をとても感じるのは、自分自身もそういう「逢着」に魅せられているからだ。僕は自宅の2畳の部屋を開放し(いわゆる「住み開き」というやつ)、「2畳大学」という私大学を「世界一小さいキャンパス」と言って勝手にやっている。これは元々東京のシブヤ大学を参考にしながら、「大阪らしさ」「自分が継続できる形」をコンセプトに2008年よりスタートし、現在で丸6年になる。シブヤ大学をはじめ、たくさんのソーシャル系大学と比べて決定的に違うのが、事務局側(といっても僕1人だけ)が基本的に何も企画・主導しないところだ。そうではなく、授業は誰かが「○○○したい!」と声をあげたところから「この指とまれ」方式で人が先に集まり、それから授業になっていく。なので極端に言うと、誰も何も言わなかったら何もしていない。

ただ、月に1回オープンキャンパスを開催している。たいそうな名前をつけているが、ただ「家を開けている」というだけのことである。それでも毎月少なくて3人、多いと10人以上の人が遊びに来てくれる。しかし、よくあるイベントのように普通にある「テーマ」がないもんだから、その時ごとに全然違う顔ぶれになる。サラリーマン、学生、フリーランスのデザイナー、福祉職、アーティスト、建築、まちづくり関係、学校の先生などなど。普段全く接点のない人同士が居合わせてしまう。そうすると、冒頭で述べた「逢着」が起きるのだ。例えば、これまでテレビや新聞でしか見聞きしたことのなかった社会問題について、福祉や就労支援の最前線で働いている人の生の声を「意図せずに」聞くことになったり、珍しい趣味の話を「意図せずに」聞いて興味を持ってしまったり。オープンキャンパスに来る人は社会問題の話を聞きに来たわけでもなければ、マニアックな趣味の話を聞きにきたわけでもない。ただ「何か楽しそう」とふらっと遊びに来たら偶然出会ってしまったのだ。

こんなに楽しいこの「逢着」、しかしながら社会の中では減ってきているように思う。目的や効率が重要視される社会の中では、こういう偶然の出来事をのんびり待つようなことは、「無駄」というレッテルを貼られてしまう。そして、効率化や消費主義の発達により、経済的には成立しない地域のコミュニティスペース的な役割を担っている逢着の起きる場所はどんどんなくなっていったり、インターネットの発達によって同じような価値観を共有している人とは繋がりやすくなった反面、交友関係がクローズになっていくことで違う価値観の人と出会いにくくなったり、否定したりしてしまう、という傾向がどんどん強まっていってるように感じる。こういう予定調和で無難な社会では逢着が起こることは少ない。これは本当に本当に本当につまらない。自分の想像できる範囲の中にあるものにしか出会ないなんて、個人的には耐えられない。

これまでは自然とそういった逢着の起きる場所や機会があったのだが、今は意図的にそういう場所や機会を作り出したり、自ら出向いたりしないと、逢着が起きにくくなっている。まわしよみ新聞はまさにそういう機会として存在しているし、その逢着のおもしろさをわかりやすく体感できる手法なのだと思う。社会のこういう傾向が良いのか悪いのかはよくわからないけれど、少なくとも「まわしよみ新聞」はこういう時代の産物であることは間違いない。

(『まわしよみ新聞のすすめ』より)


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