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市民主義、対話主義、民主主義の樹立のために、まわしよみ新聞は存在している

2016 年 7 月 4 日

本来、政治ちゅうんは、国会議事堂やのうて、日々の生活の中にあるもんです。暮らしの中に、日常の中に、極自然と、政治について話をする場ちゅうんが、どれだけあるか?というのが、民主主義国家の要諦です。まちに、家庭に、学校に、会社に、風呂場に、商店街に、カフェに、寺に、会話、対話の場があること。それが民主主義国家を作るマトリックス(母胎)となる。

いまの日本の選挙いうんは、むしろ「日々の政治」を蔑ろにする非日常の、お祭り騒ぎのように感じてしまう。とりあえず有権者の票を集めるためならパフォーマンスでも何でもして(ウソだって平気でつきますな)当選したら勝ち!という椅子取りゲームのようになってしもとるんやないか?また30パーセント以下の支持率の党が国会で70パーセント以上の議席を占めるというのもヒドイ。代議士制(小選挙区制)の制度的限界ですが、あまりに死票が多い。多すぎる。「日々の政治」がまるで反映されん。こんな国家は到底、民主主義国家とはいえんですわ。

大袈裟で、騒々しい、場当たり的な、一過性的な、選挙ゲームに比べたら、まわしよみ新聞の方が、極々、小さい場(3人、4人で集まって成立する小さい場です)ですが、よっぽど民主主義的な場になってます。まわしよみ新聞は、新聞記事を踏み台に、政治、広告、芸能、経済、4コマ漫画、文化、ニュース、映画、事件、地域、コラム、囲碁・将棋、テレビ、ラジオ、投稿欄など・・・世界中の事象から、日常の些事、暮らしの実感のようなものまでを参加者銘々が話す場ですが、これを繰り返すことで、市民主義、対話主義、民主主義の礎のようなものは確実に芽生えてくる・・・と思う。思いたいw

市民主義、対話主義、民主主義の樹立のために、まわしよみ新聞は存在している。そういう意味では、まわしよみ新聞は、まさしく、ぼくなりの、一市井による「政治的活動」です。当たり前すぎて、こんなことは表明するのもアホらしいことですが。

ただ「政治的活動」とかいうとなんや場が重なるし、ぼくはそういうマジメな人間やないんで「メディア遊び」とかいうてますw メディアを遊び、政治を笑う。それが民主主義国家の成熟した姿やろうと思ってます。ほんまもんの政治を。日常の中に。暮らしの中に。


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