またやってしまいました…コンピューター相手に大人気ない…。 将棋は、しかし、ええですな。「本将棋」もできるし「はさみ将棋」「まわり将棋」「将棋崩し」「将棋倒し(ドミノ倒し)」などと、いろいろと可変可能で、カスタマイズができる。
またやってしまいました…コンピューター相手に大人気ない…。
将棋は、しかし、ええですな。「本将棋」もできるし「はさみ将棋」「まわり将棋」「将棋崩し」「将棋倒し(ドミノ倒し)」などと、いろいろと可変可能で、カスタマイズができる。
子供の頃は将棋のコマの動き方とか難しくて覚えられないですが、でも、将棋倒しぐらいならできる。並べて倒していく。それだけ。ピタゴラスイッチですな。
将棋崩しもええですな。音を立てずに、山からコマを抜いていく。結構、キンチョーしますw
こういうカンタンな、わかりやすい遊びから、やがてはさみ将棋、まわり将棋なんかを覚えて、どんどん遊びのスキルが向上してやがて本将棋ができるようになる。三つ子の魂百までやないですが、ほんまに将棋というのは3歳から100歳まで遊べる。
駒(8種類40枚)と盤(9×9の81マス)というシンプルなデザイン。だから、いろんな「遊び方」が産まれてくる。
目的的な道具で、いろんな使い方ができるというのは大変です。むかし子供の頃に流行りましたな。「筆箱」なんですが、ボタンとかいっぱいあって、いろんな隠しボックスとか仕掛けがでてくるやつ。あれは遊びとしてはオモロイですが、筆箱としては失敗で。なにがなにやらわからん。勉強にならん。筆箱で遊び出す。
でも「遊びのデザイン」というのは、ユーザーがどれだけ関与できて、どれだけカスタマイズ可能で、自分勝手に好き放題、可変することが可能か?というのが、いっちゃん大事で、優れたデザインやと思うんですな。
ゲームでありますな。一方通行のゲーム。ユーザー関与できる余地が少ない。可変できない。ぼくはそういうのが苦手で。とくにロールプレイングゲーム(ドラクエとかファイファンとか)は大体、同じことの繰り返しで。ああいうのは、ぼくはアカンでしたな。
むしろゲーム雑誌の『ファミコン通信』の投稿にあったんですが、ゲームのバグを発見して、それを投稿するという人たちが世の中にはいて。ぼくは、これにハマりましたな。ゲームのバグは、ゲームの設計者、デザインする人からすると、失敗やし、あかんことなんですが、しかし、それがオモロイとバグをむりやりやったり、再現したりする。
時々、「このバグをやるとゲーム壊れるかもしれないよ」とか注意書きがあったりしますが、やるやつはやるんでしょうな。遊びってのは、常に、逸脱です。過剰で、無駄で、「あ。やっちゃった!」です。
無意味にマリオを殺し、ピーチ姫を無視し、クッパを増やし、バグらせ、ゲームがクリア不能になる。これ以上、ゲーム続行不能。リセットボタンを押すしかない。しかし、固定化された、一方通行の、一本道の、ゲーム設計、ゲームデザインの枠組を、果敢に外していく人たち。こういう人がほんまの「遊びの達人」なんや思います。アホともいえるし、無意味やけど、文化的です。人間の業ともいえる。
ゲームの設計通りにゲームする人は、たぶん、勉強もいわれた通りにできまっせ。やりまっせ。やってることは、おんなじことやからw ええ会社人間になれます。ええ兵隊にもなれるかも知れない。
ぼくは、基本的に、「遊びのデザイン」をやってるので、逸脱してほしいと、ほんまに思ってます。まわしよみ新聞も、直観讀みブックマーカーも、当事者研究スゴロクも、劇札も、みんなそういう「逸脱できる余地」「過剰になれる余白」「無駄なことかできる緩さ」のようなものは、すでに内包されてます。たぶん「こうしたらあかん!」と、ぼくは言ったことがないw 「やりたい人の、やりたいように、自由勝手気ままに、可変してください。カスタマイズしてください。我流でええです」と言い続けてる。
優れた「遊びのデザイン」は、そういうもんです。ぼくは、こういうのは、将棋で覚えましたなあ。将棋が、そういうデザインなんです。素晴らしい。遊びのデザイン。