陸奥家ファミリーヒストリー。曽祖父・陸奥利宗は大蔵省専売局の官僚でしたが大正7年(1918)に突如、東京から宇治山田市(現・伊勢市)に移転して宇治山田市役所に書記として勤務する。
「一体、利宗は、どういう経緯で宇治山田に…?」と長年の謎であったのですが、大正6年(1917)4月に宇治山田市長となった渡邊新太郎が、じつは元・大蔵省専売局の副参事で、利宗の函館専売局時代の上司であった!という事実がわかり、おそらく渡邊新太郎市長に呼ばれたのであろうと推測できました。
ところが渡邊新太郎という人物も調べてみると、元は福井県士族で宇治山田の人ではない。「一体、誰が渡邊新太郎を宇治山田に…?」と思って『伊勢市史』を調べたらキーパーソンが出てきました。宇治山田市出身で当時、大蔵省専売局参事であったという池田敬八です。
この池田敬八は、のちに衆議院議員にもなり、宇治山田市の地元では尾崎行雄よりも人気(得票)があったという大物政治家になります。また1931年には宇治山田市長にもなっている。以上、ウィキペディア情報ですw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%95%AC%E5%85%AB
では「なぜ池田敬八がわざわざ福井県士族の渡邊新太郎を宇治山田市長に呼んできた?」ですが、これまた『伊勢市史』を調べてみると、渡邊新太郎市長の前市長となる福地由廉時代の市政の混乱、不祥事が原因というのがわかりました。
じつは福地市長時代の大正5年(1916)11月に、宇治山田市役所の収入役が8650円という公金横領を起こした後に投身自殺をするという大事件を起こし、その責任で福地市長が市会と対立し、辞任したようです。
宇治山田市政は大混乱となり、その再建のために宇治山田市出身の大蔵省専売局参事の池田敬八が市政に乗り出すことになり、部下である大蔵省副参事の渡邊新太郎を公金横領事件翌年の大正6年(1917)に宇治山田市長として送り込んだ。そして渡邊新太郎の部下として東京にいた利宗が抜擢され、その翌年(1918)に宇治山田市役所で勤務することになった。池田敬八→渡邊新太郎→陸奥利宗ライン。
まさか公金横領事件の後始末といいますか、宇治山田市政再建のために大蔵省専売局人脈が動いていたとは思わなかった…。ドラマチックすぎるがな…。
ちなみに宇治山田市長は渡邊新太郎(1917~1921)→岸本康通(1921~1924)→澤瀉久富(1924~1926)と続き、また福地由廉(1926~1931)が返り咲きます。利宗は1917年~1928年まで宇治山田市役所に勤務し、書記から主事となりますが、福地市長時代に辞任している。まだ48歳。その後の経歴が、いまいちわからない…w
まだまだ、ぼちぼち、リサーチを続けます。
陸奥家ファミリーヒストリー。地道にリサーチを続けておりますw
『職員録』などから曽祖父・陸奥利宗は大蔵省専売局で働いていたことがわかりましたが、函館勤務時代(明治44・1911~大正2・1913)の上司が福井県士族出身の渡邊新太郎。
この渡邊新太郎が大正6年(1917)4月に専売局副参事から宇治山田市長となり、その翌年の大正7年(1918)から利宗が宇治山田市役所で勤務する…という流れがわかりました。
利宗を東京から宇治山田に呼びよせたのは、おそらくは渡邊新太郎市長でしょう。大蔵省専売局は日本全国各地に支局を持ち、戦前は支局長などが地方行政に多大な影響を及ぼし、かなりの権力を握っていたようです。
利宗の人生をリサーチしていると戦前日本の行政統治システムがなんとなくわかってきましたw なんでも調べてみるもんですなあ。
大分県。別府市。別府最大の魔境、秘境はココかもしれません。書肆ゲンシシャさん。
コレクションの数々に圧倒されました。「あのウワサの?!」という都市伝説のようなものが次々と登場し、紹介され、それらを現実に、目の当たりに、手にとるという驚き。衝撃。眩暈。頭クラクラしてきましたw
眼福でございました。ゲンシシャさんに深く感謝。必ず行くべし!
http://www.genshisha.jp/
大分県。別府市。鉄輪。昔の別府を撮影した写真集を見せて頂く。鉄輪は「ヤングセンター」という大衆演劇場が名物であったらしい。ネーミングが時代を感じる。ヤングセンター。
大分県別府市。鉄輪温泉は一遍上人開基伝説があるが、ちゃんと時宗のお寺がある。温泉山永福寺。
毎年、湯あみ祭りで、一遍上人像を湯浴みするとか。すごいなあ。見てみたい。
霊友会の過去帳『靈鑑』。
霊友会は在家法華教団(日蓮信仰)ですが、それにシャーマニズム(霊媒信仰)と先祖供養(祖霊信仰)が渾然一体となっているのが特徴です。
青経巻(法華経の読み下し文)、お題目(南無妙法蓮華経)を熱心に唱えながら霊能者(霊友会信者で大体、年長の女性。支部長といった役職があったりする)が相談者の祖霊を呼び起こして助言をする。大事なのは祖霊、先祖供養で、先祖をちゃんと祀れば悪いことは起きないし、何か悪いことが起きるのは先祖供養を蔑ろにしているから…というように考えます。
『靈鑑』は霊友会狂だった母が熱心に父方、母方(母方を大事にするのも新宗教系、霊友会の特徴であり、面白いところ)の先祖を徹底して遡り、調べて、作成したものです。霊友会独自の戒名(おえらいさんがつけてくれる。もちろん謝金がいります)をつけて、実際の墓に刻まれた戒名とは違うのですが、こうやって過去帳を制作する。
じつはこの『靈鑑』を作成するために、あちらこちらの役所から母が先祖の戸籍を取り寄せて、それが今回、父の死をキッカケに、僕の手に渡ったことが陸奥家ファミリーヒストリーのはじまりだったりしますw
霊友会の『靈鑑』に必要なのは「先祖の名前」ぐらいで「生前、何をしていたか?」とか「どこに住んでいたか?」といったようなことは気にしません。だから母もそんなことまでは調べなかった。
ただ、僕は父を亡くしたことをキッカケに戸籍簿の束を入手したもんだから、どうしても「父と子の関係」が気になった。「僕と父の関係」を考える上で「父と祖父」「祖父と曽祖父」の父子関係を知りたくなった。
特に曽祖父・陸奥利宗の存在が気になるのは「祖父が曽祖父から勘当された」という父と子の断絶が大きい。僕の家は勘当された家だから、本家や他の親戚筋と全く交流がない。祖父は晩年になって曽祖父の墓参りを親戚筋に願いましたが、それも許されなかった。
どんな相剋があったのか?もう古い話だから、調べたってわかりはしない。ただ曽祖父と祖父の人生、関係、物語を知ることで「父と子」の実存に迫れるかもしれない。死者を、祖霊の思いを受け継ぐというのはそういうことではないだろうか?
陸奥家ファミリーヒストリー。伊勢市役所に改めてお問い合わせ。データベースを調べてくれて、より詳しい情報が出てきました。曽祖父・陸奥利宗は末娘(祖父・文夫の妹)の手で大世古墓地から改葬されていたのですが、その時期がわかりました。平成18年(2006)10月らしいです。
さらに大世古墓地のどこにあったのか?区画もわかりました。「8◯4-◯」の区画。いまは誰か別の方の墓になっていることでしょう。
実は年末に宇治山田、伊勢を訪問して「曽祖父の墓があるとしたら、ここではないか?」と目星をつけて訪問したのが大世古墓地でした。我ながら見事な推理でしたが、16年前に改葬されていました。間に合わなかったか…。
調べてみてわかったのは現在、伊勢市内には永代供養はない(!)ということ。永代供養というのは地方民が集住して形成された大阪とか東京といった大都市のニーズなんですな。伊勢は古いまちですから。家のお墓というのが残っている。まだそれほど一般的ではないということでしょう。ニーズがない。
しかし平成18年(2006)に伊勢市の人が永代供養に改葬しようとすると、一体、どこの寺院になるのか?もしかして大阪・一心寺ではないか?という気もしますな。そうだったらビックリw 比叡山の久遠墓地という可能性もあるかな…。
陸奥家ファミリーヒストリー。曽祖父・陸奥利宗が一時期住んでいた大井町・見晴らし通り。
高知で生まれて大蔵省に入り、徳島→出水市→鹿児島市→東京・銀座→函館で大蔵省を退職。
その後、大正2年(1913)2月から「東京市芝区高輪台町28番地」にいたが大正5年(1916)3月には「東京府荏原郡大井町418番地」に移転したことがわかっている。そこで三女・日出子の出生届を出している。ただ東京・高輪→東京・大井町の東京時代は謎です。何の仕事をしていたのか?よくわからない。
そして突如、宇治山田市の行政マンとして勤務し、それも10年で退職し、その後の経歴は不明ですが、宇治山田で亡くなった。
利宗が住んでいた大井町エリアを歩いてみたら何かわかるか?と思い、さすらってみましたが、全く何もわからないw
陸奥家ファミリーヒストリー。三重県伊勢市最大の市営墓地が伊勢やすらぎ霊園。曽祖父・陸奥利宗は宇治山田市役所勤務経験があり、戦時中に町内会の副会長をやっていた経歴も確認できたので、おそらく宇治山田市(戦後に伊勢市と改名)で亡くなっただろうと推察し、伊勢市営墓地の管理事務所、伊勢市環境課に連絡してみました。
僕の読みはズバリ的中で、曽祖父・陸奥利宗の墓があった場所を教えて頂きました。「大世古墓地」という戦前からある伊勢市内の墓地です。
ところが誠に残念なことに、市役所のデータでは大世古墓地にあった利宗の墓は数年前に、すでに娘さん(祖父・文夫の妹)の手によって「改葬」されていることが判明しました。
この妹さんは独身で、父である利宗の墓の管理をしていたようです。しかし晩年になって後継がいなくなることから、おそらくは利宗の墓を永代供養墓に改葬したようです。
伊勢市営墓地には永代供養墓がないらしく、どこかのお寺の永代供養墓に眠っているのではないか?と思われます。付近の寺院を虱潰しに調べるしかないか…。
曽祖父・陸奥利宗が働いていたのは宇治山田市役所。いまは伊勢市役所です。
宇治山田市は元々、宇治(伊勢神宮内宮)と山田(伊勢神宮外宮)を併せてできた市ですが、名称問題が常にあり、ついに戦後の昭和30年(1955)に伊勢市となりました。
利宗は、こちらに大正7年(1918)から昭和2年(1927)まで働いていた。利宗は当時37歳から48歳。僕(43歳)と同世代の頃は行政マンだったということですな。