うちのオカンから「お経をよめ!」と繰り返し繰り返しいわれて僕は小さい頃から意味不明なお経を毎日毎日読まされていた。
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うちのオカンから「お経をよめ!」と繰り返し繰り返しいわれて僕は小さい頃から意味不明なお経を毎日毎日読まされていた。
その影響で「文意を理解せずとも読む」が身に備わった僕は小4ぐらいには『日本人とユダヤ人』『戦国武将の危機管理(リスクマネージメント)』なんて本を平気で読んでいた。
どれだけ難解な本でも、なんとなく読む。目を通してみる。意味がわからなくても読む。「本とは意味不明なものである」というのがわかっているから全く苦にならない。難しくない。理解できなくてもいい。「わからんなあ」と思いながら何度も繰り返し読むと、だんだんとわかってくる。
時には間違って理解したりもするが、それでもいい。その間違いが、時と場合によっては間違いでない時もある。「間違い」「勘違い」「錯覚」もまた人生の綾であり、彩りです。それがないと恋愛すら始まりまへんでw
文意、論理、ロジカルではなくて詩的に読む。ポエティックに読む。それが「直観」に繋がる。
「直観」(直ちに達観する)というのはそういうもので、そこに理由や理屈、エビデンスなどないw 自分にとって「閃き」になれば何でもいい。「本とは、言葉とは、直観するものである!」という僕の信念、思想、哲学が後年に「本遊び」の直観讀みブックマーカー~本と人との新しい出逢い方~に結実するわけですw
要するに、意味不明なまま読むお経は、江戸時代の寺子屋でいうところの「素読」の修練になってたんですな。いつのまにか「直観力」を鍛えることになった。それが僕の生きる力となっている。
母方の家が、オカンがカルトにはまったから、そういう力に、作用に、僕は気付いてしまった。いやあ、霊●会すごい(そうなのか)