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2023 年 7 月 のアーカイブ

「おもてなし」と「ほったらかし」のええ塩梅

2023 年 7 月 31 日 Comments off

福島県白河市。お試し住宅「まちなかベース」にて。関谷農園さん、有賀酒造さんもご参加頂いて交流会。

お試し住宅というのは白河移住を考えている方のために、文字通り、お試しで、ちょっと1週間ほど白河に滞在してみませんか?というもの。なんと1週間あたり7000円という破格のお値段で白河のまちなかに宿泊することができるという。

https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/sp/page/page008274.html

東京、関東県ではコロナ禍の影響でリモートワークが増加しました。すべてオンラインの完全フルリモートの会社や労働形態も珍しくない。もはやそうなると、わざわざ家賃の高い東京に住んでいる必要がない。

白河は北関東・栃木県の那須の隣で、東北の玄関口(白河の関)だが、東京・上野駅から東北新幹線を使えば新白河駅まで約90分ほどで到着する。大阪から白河までは遠いが、意外と東京・関東圏から白河は近い。

いままでは地方に移住となると、ひとまず仕事を用意するということが絶対条件、必須条件だった。しかしリモートワークの時代には仕事は東京、大都市圏で賄う。地方移住の決め手は仕事の要件、条件ではなく、もっと生活者のインフラになってくる。

快適で安価な不動産物件があるか?新鮮な野菜や肉、魚が買えるスーパーマーケットがあるか?保育・子育て・教育の公的機関の充実、支援制度はどうか?週末に家族で楽しめる、遊べるレジャー、リラクゼーションの施設や空間があるか?いざという時のための病院、医療機関のインフラや防災体制は大丈夫か?そういうことが決め手になってくる。

しかし、なによりも都会人には地方の風土や人との関わり方の距離感が大事になってくると思われる。あんまり他者に対して遠慮がなく、馴れ馴れしく踏み込んでくるのも苦手だろうし、余所者に対して排外的で冷淡なのも困る。地方ではあるが、じつは都会的なものへのセンス、アンテナがあるというのが非常に重要な移住者の要素になってくる。

そして、そういうセンスやアンテナが結構ちゃんと備わっていてるのが白河ではないかと僕は睨んでいる。白河は歴史的には奥州街道の宿場町で、東北文化圏と関東文化圏の結節点のようなところにある。

また宿場町というのは旅人を常に受け連れて発展してきた。他者に開かれている。おもてなしができると同時に、じつはドライでもある。旅人や他者にそれほど過度に期待などしない。このおもてなしとドライさという匙加減が、じつは難しい。

これが単なる農村では、そういう他者との交流の文化的な背景が育たない。農村部はやはり(宿場町、商業都市などに比べれば)閉鎖的な集落で、人と人との交流は、人間関係が近すぎて、コミュニティが濃厚すぎて、都会人は、その距離感に戸惑う。

これは余談だが、いま日本全国各地で地域おこし協力隊などがトラブル(?)になったりしているが、これは結局は都会人と地方人の「他者との関わり方」「人との距離感」の相違によるコミュニケーション不全が問題の一因だろうと思う。

白河は、おもてなしをちゃんとしてくれる。でも、ちゃんと「ほったらかし」もしてくれるんですw

それは例えばコミュニティカフェ・エマノンにいけばわかります。ここは特に高校生たちが、自由に行き来してますが、エマノンのスタッフと高校生たちは、微妙な人間関係の距離感で成り立っている。近すぎず。遠すぎず。あつくもなく、つめたくもなく。

つまり、おもてなしをするし、ほったらかしもする。これが良い。これがないと、じつは僕みたいなシティボーイ(ま、僕は単なるコミュ障かもしれないがw)は困るんです。

ひとりになりたい時もある。そのくせ、さみしい時には、適度に相手してくれる。それができるか?できないか?じつは都会人の移住者を増やしたい時は、こういう塩梅が非常に重要なファクターとなる。

生活の条件とかインフラとか、そういったハードウェアは、ある程度は資本などで用意できるでしょう。でも「人との距離感」といったヒューマンウェアは、そんなのは一朝一夕には育たない。用意できない。簡単に作り上げることはできない。

こういうヒューマンウェアは教育でも難しい。風土や街場。歴史。文化。言葉。そういうものに培われてきた教養というものです。

おもてなしとほったらかしのええ塩梅。それが白河にはある。東京、関東圏、都市圏の移住者を増やしていく上では、これは非常に重要なアドバンテージやないかと僕は思ってます。


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平野郷の「横軸」(大念仏寺)と「縦軸」(杭全神社)

2023 年 7 月 14 日 Comments off

平野郷まち歩きにて。夏祭のだんじり。

平野郷は面白い。寺内町ではあるが、大阪にある多くの寺内町は浄土真宗の寺院がコミュニティの要として機能し、中心的な役割を果たしている。それに対して平野郷コミュニティの最大の要は大念仏寺で、これは浄土真宗ではなくて融通念仏宗の寺院だったりする。

融通念仏宗開祖の良忍さんは同じく念仏系の法然さん、親鸞さんの先輩的な存在で、その偈文は「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」という。この「一人一切人 一切人一人」は「わたしの念仏はみんなのための念仏で、みんなの念仏は、わたしひとりのための念仏である」というような意味だと融通念仏宗のお坊さんから教えてもらった。なんとなくラグビーの「One for all All for one」の合言葉にちょっと似ている。

また平野郷は坂上田村麻呂の息子・広野麻呂の所領地で開拓されたという。じつはこの坂上家の子孫がいまだに平野郷にいて「坂上七名家」として続いている。平野郷の氏神様の杭全神社は坂上一族が建立した神社で境内には坂上田村麻呂を崇め奉る田村社がちゃんとある。

ちなみに、この杭全神社には日本唯一の連歌所なんかもあり、いまも毎月、連歌の会が催されているという。所属メンバーはやはり坂上七名家のみなさんが中心的らしく、坂上一族という「血の連帯」と連歌という「文化芸術の連帯」によって繋がりを深め、平野郷を守護している。

融通念仏宗総本山の大念仏寺が平野郷の町衆の「横軸」のネットワークとするならば、坂上一族が建立した杭全神社こそが先祖代々から脈々と続く坂上七名家という「縦軸」のネットワークを形成しているといえよう。

この「横軸」と「縦軸」の微妙、絶妙なバランスが平野郷という大阪でも、いや、日本でも有数の自治都市を形作っている。

「まちづくりとは何か?」という問いは平野郷を探ることで答えの糸口が見つかる気がしてます。深い都市です。平野郷。


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堺大魚夜市

2023 年 7 月 3 日 Comments off

六月晦日は夏越の祓えであるが、昔は住吉大社の夏祭りもその時期に行われていた。現在は7月末から8月1日。要するに旧暦から新暦に移行して1ヶ月ズレた。

住吉さんの祭礼行列、神輿などが住吉から堺・宿院までやってくるが、堺の大浜では住吉さんの御祭礼だからということで堺はもちろんのこと、大阪湾、淡路島、小豆島、明石、瀬戸内、西日本各地から漁民たちがやってきて住吉大神への供物として新鮮な魚などを捧げたらしい。

しかし、そんなに大勢の漁民たちがやってきて魚をもってきても余りに大量なので捌ききれない。そこで供物の魚類はその後、「おさがり」として堺の町衆に売られることになった。新鮮な魚が安く手に入るということで「堺大魚夜市」は有名になり、堺の名物行事となった。

この堺大魚夜市が、いつから始まったのか?はよくわからないが伝承としては鎌倉時代ぐらいから始まったという。800年以上続く市場、祭礼ということになるが、まぁ、しかし、この辺のことは本当かどうかはよくわからない。なんせ堺の人(僕も含めて)はすぐ話を盛るというか大袈裟だから…w

堺大魚夜市は、だから「お祓い市」とも呼ばれた。夏越の祓えにあわせてやるから、お祓いの市というわけで、また魚市ではタコがよく商われたので「タコ市」とも呼ばれたとか。タコは「お祓いタコ」と呼ばれて縁起物でもあった。

面白いのが「夜市」であることで、これは夏の暑い盛りにやるものだから、自然と日が暮れた夜にやるほうが魚も傷まなくていいということだろう。また夜通し市をやるものだから堺の町衆の人たちは魚市の威勢のいい掛け声を聞きながら浜辺でゴロゴロ、朝まで寝たりしてたらしい。あんまりにもみんなが浜辺で寝ているものだから「堺の外寝」といって、それがまた名物でもあった。

もちろん若い男女が夜中にでてきてゴロゴロしてるわけで、だから浜辺のあちらこちらで風紀が乱れまくったりしたw いや、むしろ、それがメインかつ目的で、みんな堺大魚夜市に集まってきたといっても過言ではない。妓楼の女性も多かったようで商売繁盛すぎて過労で倒れたなんて話もある。

いまの世の中では到底ありえない公序良俗に反する堺の名物風俗行事であったが、こういうのはやはり戦時中に統制された。太平洋戦争中は堺大魚夜市は禁止されて、魚類の商いも国がコントロールする。公定価格が決められ、商い量も決められ、しかし堺の漁民たちは闇の魚商売をやって、それで当局に捕まったりしている。一般のマーケットには出回らないが一部の高級料亭などに魚を卸していたらしい。国のいうことなんか聞かない。自治都市・堺、万歳!w

この堺大魚夜市は戦後も続くが1960年代ぐらいから国の政策方針もあって堺の浜辺は工業地帯と化していく。『万葉集』にも歌われた白砂青松の美しい堺の浜辺が、どんどんとコンクリートの護岸に固められ、消滅していった。無念。

浜辺消滅に伴い、堺大魚夜市も、その存在意義が失われていく。海も見えない大浜公園の中で続けられたがアイデンティティ・ロストしてしまったので、どうにも盛り上がらない。結果として堺大魚夜市は1974年に中止となって、代わりに始まったのが「堺まつり(南蛮行列)」だったりする。この堺まつりも、いろいろとネタ話はあるんですが、まぁ、そのいろいろは割愛しましてw

結局、堺大魚夜市は一時期は中止だったんですが、いや、しかし堺の古くからの名物行事であるし…という声も多く出てきて、その後、また復活して現在も大浜公園で続けられております。

僕も若い頃は、ちょこちょこ遊びにいってました。ちょっと背伸びした中学生、高校生が浴衣きてやってきて楽しくやっております。時代の変遷と共に中身が変容してきておりますが、こういう祭礼があるのは珍しいし大切なことではないかと思います。

■堺大魚夜市

https://yoich.com/index.html


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