鹿児島。日置市。美山。白薩摩名手だった鮫島訓石(曽祖父・陸奥利宗の義兄)の名前を継いだ鮫島佐太郎さん(鮫島訓石→鮫島実→鮫島佐太郎)の工房が佐太郎窯。
昔は運営されていたようですが現在は閉業状態でした。まちなかで見かけた美山の案内図には「佐太郎窯」がちゃんと記載されてます。
美山で鮫島の名を継ぐ陶芸家はいるんやろうか?鮫島寿郎さんという方が佐太郎窯について語り、それを聞き書きしたという研究論文(2012年)があるので活動しておられると思うのですが。
鮫島訓石の薩摩焼の実物はまだ見聞したことないのですが、佐太郎さんの薩摩焼は世間に出回っているようです。いつか実物を見聞して入手したい。
大阪まち歩き大学。谷町を歩く。曹洞宗寺院・吉祥寺。
ここは江戸時代、赤穂藩・浅野家の大坂祈願所であったらしい。それが由縁となって忠臣蔵・赤穂義士の墓が建立されている。
吉良家は将軍家(武家)のご接待の指南役。浅野家は天皇家(公家)側のご接待のお世話係となり、その両者が対立した。吉良と浅野の対立は将軍と天皇のメンツ、プライドの相剋であり、ある種の代理戦争という側面もあった。
大石内蔵助は浅野家の筆頭家老のお家柄であるが祖父が熱烈な天皇教、天皇崇拝者であったらしい。内蔵助は父が若くして夭折し、この祖父に育てられた。
吉良邸討ち入りの時、内蔵助は45歳。不思議なことに大塩平八郎も45歳で乱を起こし、三島由紀夫も45歳で決起している。男の45歳は危ない。最もクーデターを起こしかねない歳である。
実は僕が現在45歳。来月には46歳になるので、なんとかクーデターを起こさずに済みそうだが、気を抜くとクーデターを起こしかねないので注意している。
鹿児島。日置市。美山。
僕の曽祖父・陸奥利宗の妻(曽祖母)はヲカという。旧姓は小山田ヲカで、この小山田家は薩摩藩の鉄砲師範役であった。ヲカには姉がいた。タカという。さすが鉄砲師範役の家の娘で「丘」やら「鷹」やら鉄砲に纏わる名前なのが少し面白い。
そのタカは実は美山の陶工・鮫島訓石に嫁ぎました。鮫島訓石は幕末、明治の人で特に白薩摩の名手として知られていて第五回内国勧業博覧会やシカゴ万博などにも白薩摩の名作を出品している。
鮫島訓石には弟子がいて、それが鮫島司、鮫島実という。もとは「崔さん」「何さん」という朝鮮系の人らしく鮫島訓石に薩摩焼を習い、鮫島の名前を頂いた。その鮫島実の息子で跡を継いだのが鮫島佐太郎さんという。
鮫島佐太郎さんも薩摩焼の名人、大家であったが郷土研究のようなこともしていたようで、いくつか美山のことを書いた本を残している。そのうちのひとつが『苗代川のくらし』。この本が欲しかったが、もちろん絶版で古本屋では数万円の値段がして、なかなかおいそれと買えるものではなかった。
ところが、この本が沈壽官窯の隣のカフェの本棚にあった。いくつか写真もあり、佐太郎窯の様子や鮫島流の黒薩摩などを見ることができた。
曽祖母の姉の嫁ぎ先だから鮫島訓石(鮫島家)と僕は直接的な血の繋がりがあるわけではない。遠い遠い親戚ということになるが全く交流もないし、いま鮫島訓石氏のご子孫がいるのかどうかもわからない。わからないが鮫島訓石の薩摩焼を継承した方(鮫島司、鮫島実、鮫島佐太郎)がいて、その関係者の著書が読めたのは望外の幸甚でした。
まさか美山に自分の親戚がいたとは…です。数年前までは全くわからなかった。父の死後、陸奥家の古い戸籍を遺品として受け取って調べた結果、いろいろとわかってきた。陸奥家ファミリーヒストリーですw
鹿児島。日置市。美山、玉山神社は美山集落を見下ろす山の上にあるが、その玉山神社の周りは墓地となっている。昔は寺もあっのかもしれないが鹿児島のことなんで廃仏毀釈にやられたのかもしれない。
この玉山宮の墓地が朝鮮陶工のみなさんの先祖代々の墓所となっている。日本・薩摩に連行された江戸時代初期の第一世代の墓が最上段にちゃんと残っていて、そこから子子孫孫の墓が徐々に降って作られている。当初は朝鮮名であり、朝鮮式の墓であるが、やがて日本名となり、日本式の墓となっていく様子もよくわかる。
そもそも朝鮮陶工たちが美山に集落を構えたのも、美山の風景、風土が朝鮮の故郷を思わせるからであったという。日本に強制的に連行されたが、朝鮮の信仰や生活は意外と許された。民は由らしめず知らしめず。生かさず殺さず。薩摩藩の政治的な打算や思惑もあったのかもしれない。
鹿児島。日置市。美山。玉山神社。
美山に住み着いた朝鮮陶工たちの信仰の拠り所となったのが、こちらの玉山神社。元は朝鮮宗廟の神である檀君が祀られていたという。玉山神社では朝鮮風の神舞が伝えられており、江戸時代は藩主の御前や祭礼では朝鮮踊として披露されたという。当初は朝鮮式のお宮であったらしいが、時代と共に日本式に変化し、明治以降はご祭神もスサノヲ他になっている。
いくつか祭礼の古写真があり、また古い祝詞の記録も見たが古い朝鮮語がつかわれているようで他に見られない独特の言い回しであった。秘伝の神下ろしの祝詞があり、供人は神がかりになった状態で村々を回るらしい。
いっぺん見てみたい祭礼ですな。こういう信仰が守られ、伝えられ、いまも実施されているとは驚嘆です。
鹿児島。日置市。美山。沈壽官窯。
美山といえば薩摩焼。薩摩焼といえば沈壽官。沈壽官といえば司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』。
鹿児島に来ると、あちらこちらで司馬遼太郎の痕跡が残っている。幕末、維新の主要人物は薩摩出身者が多いから現地の鹿児島をよく訪れたようで面白そうな題材を発見すると悉くネタにして小説にしている。
『故郷忘じがたく候』は短編だが、数ある司馬遼太郎作品の中でも特に印象深い。まず司馬遼太郎が存命中の人物(14代沈壽官)を主人公にしたのは、この作品のみであるということ。それだけでも異色作であることがわかる。
薩摩焼は秀吉の朝鮮出兵・慶長の役(1592~98)に参加した島津義弘が朝鮮陶工80数名を捕虜として薩摩へ連れ帰り、焼き物を作らせたことが発祥となる。朝鮮陶工たちは遠い異国の地・美山で多くの受難を乗り越えて日本はおろか世界にも認められる薩摩焼を創始し、発展させてきた。
もはや日本に連れ去られて400年近い年月が経ち、朝鮮陶工の子孫たちは日本に帰化しているが、それでも「故郷忘じがたく候」という望郷の念を抱き続け、今日も薩摩焼を焼き続けている。故郷とは何か?民族とは何か?国家とは何か?といった命題を考えさせられる小説として、これほどの名作も他にあるまい。
僕は中学生の頃に司馬遼太郎狂いになり、全集を読破したが、いつかは行ってみたいと憧れたのが美山だったので今回、訪れることが出来て一人、感無量でした。沈壽官窯の中にはミュージアムもあり、残念ながら撮影禁止であったが白薩摩、黒薩摩の逸品、名品揃いで、いやあ、眼福でした…。
鹿児島、薩摩は火山が多い。火山は特殊な土壌を産む。そこから独特の釉薬も発見される。薩摩焼もまた風土(火山)の恵みから齎される。奥深い。
鹿児島。桜島。桜島ビジターセンター。フェリー乗り場を降りて、すぐ近くにあるのがこちらの施設。桜島の歴史、生活、観光、防災などが学べる。小さいながらも良くできている。
度肝を抜かれたのが大正の大噴火の古写真。例えとしては不謹慎かもしれないが広島、長崎の原爆を思い出した。鹿児島、桜島はこんな大噴火がいつ起こるかわからないというのだから恐ろしい。
恐ろしいが、しかし、だからでこその恵みもあるというのが自然の妙で。桜島は溶岩、火山灰で形成されているので土壌が特殊で、なかなか他の地域には見られないものであるとか。名物が日本最大の大根という桜島ダイコンや日本で最も小さいという桜島小みかん。ダイコンは大きく、みかんは小さくなるらしい。
ビジターセンターで流される動画では桜島の農家も取材、インタビューされていて活火山は怖いし大変だが、だからでこその農作物ができて、それが誇りであると語っていた。じつは桜島は縄文時代から人が住んでいた形跡があるらしく火山は脅威だが人間という奴もなかなか驚異な生物であろう。
また火山灰対策として鹿児島、桜島では「克灰袋」というのが常備されている。みんなで火山灰を集めて回収する。それらは陶芸や魚の灰干し、シラスを使ったガラス製品や化粧品、溶岩の焼肉プレートなどに使われるらしい。
火山灰の再利用。リサイクル。活火山すら使いこなしてくれようという気概。その知恵と工夫。感服です。
鹿児島。桜島フェリー。鹿児島人の心の故郷、原風景は、やはり桜島であろう。活火山で、つねに白煙黒煙を吐き続けて火山灰を市中至る所に降り注ぎ続けている。
「活火山と共生する」という世界的にみても稀有なプロジェクト(?)を難なく、自然に、受け入れて遂行しているのが鹿児島人である。
環境が、風土が、人を作るというが桜島のような活火山を前に日常生活を送り、人生を歩む鹿児島人のメンタリティは雄大というべきか、大愚というべきか。贅六にあくせくして生きる上方人、大阪人からすると端倪すべからざる存在である。
じつは僕自身は生まれは住吉、育ちは堺で生粋の大阪人ではあるが血、ルーツはそうではない。曽祖父・陸奥利宗は高知(吾川郡池川村)生まれであり、曽祖母の陸奥ヲカ(小山田ヲカ)は鹿児島の人である。
この小山田家は薩摩藩の鉄砲師範役(小山田真蔵)をやっていたらしいが、してみると僕の血の8分の1は鹿児島人がルーツであるわけで仕事などで鹿児島に来るたびに不思議なご縁を感じたりしている。
桜島フェリーは鹿児島市内と桜島をわずか15分で繋ぐ。錦江湾は狭いというか、鹿児島市内と桜島の近さに驚く。またフェリーは24時間営業らしく、常に市内と島をひっきりなしに往復している。
島には5000名近い人々が暮らしているそうで小学校や中学校まである。深夜にフェリーに乗って桜島に行く人がいるのか?と思うが桜島は24時間体制で活火山の様子を記録したりしているらしい。防災関係者には深夜も早朝もないそうだ。
また桜島は本当に、いつ噴火するかわからない。緊急避難の出動なども常に想定されている。噴火の落石があっても大丈夫なように、まちなかの至る所に避難壕(シェルター)が32カ所も設けられている。大型のシェルターなら100人が入れるという。常在戦場。もはや火山と戦争状態。ダモクレスの剣である。
桜島フェリーの名物が「やぶ金」さん。わずか15分しか乗船時間はないが、みんなフェリーに乗ったかと思うと、やぶ金に駆け込んでパッと注文して、パッと勘定を払い、パッと食べて、パッと器を返して島(鹿児島市内)に降りていく。見事である。
常在戦場ですからな。鹿児島も江戸と似て早寝早飯早風呂という文化圏なのかもしれない。
鹿児島。木之下。伝・豊臣秀頼の墓。なんと鹿児島には豊臣秀頼の墓があるww
鹿児島に残る伝説では秀頼は大坂夏の陣で死んだのではなくて、じつは真田幸村が密かに用意した「真田の抜け穴」から脱出。鹿児島まで逃げてきて島津公に匿われたとか。
初めてその話を聞いた時は「んなあほな!」と爆笑してましたが、ちゃんと墓もあると聞いて今回、訪れることに。ちゃんとありました。民家の真ん前。敷地内。え?こんなとこに?!ってとこにあります。
秀頼は生き延びたあと、しかし自分だけ生存して他の者が全員、討死、戦死したので申し訳なさ、不甲斐なさから自分を責め、病気になり、夏の陣の翌年の1616年に亡くなったという。
なんか生き延びて現地の女性と結婚して、こどもができて「私が豊臣家18代目の当主です」みたいな人が出てきたりしたらウソくさい!ってなりますが逃げのびたけど翌年、心労で亡くなった…という不幸なラストが、どうもほんまにありそうな話で実に興味深い。
真実は闇の中ですが。
中之島美術館にて『決定版!女性画家たちの大阪』。
2006年になんば・高島屋で開催された『島成園と浪華の女性画家』を僕は観に行っていて島成園や女四人の会の活動に衝撃を覚え、図録まで購入していたのですが、今回の展示はその後継で「決定版!」とか。
東京画壇、京都画壇の研究や評価は著しいですが、なかば世間から忘れ去られているのが大阪画壇の哀しさ。いや、そもそも大阪には画壇(と呼べるほどの組織)があったのか?という論議もあるほどで、これは、しかし国の影響もあり、大阪には私立の美術系の大学はたくさんありますが、いまだに国公立の美術大学がなかったりする。
結果として美術畑のアカデミシャンが大阪ではなかなか育たないし、自然と東京画壇、京都画壇などをフィールドにする。大阪画壇(大阪の画家たち)を研究しても、残念ながらアカデミックな世界では、いまいち評価されないというわけです。
大阪行政もていたらくで専門的かつ公的な美術館がなかなか出来なかった。大阪市立近代美術館は「準備室」のままで30年以上も経過した。もはや「モダンな近代美術館」を作る時代でもなくなり、「ポスト・モダン、コンテンポラリーな現代美術館」として、ようやく近年、中之島美術館としてカタチとなったが、この辺の情けない顛末は大阪のみならず、日本の美術界そのものにとっても大いなる損失であり、不毛の時代であった。
こんなこというとあれですが大阪行政が悪いということは結局、大阪市民、大阪府民が悪いということです。行政を動かす力があるのに、その力を行使しなかった。自分たちの足元にある、大阪画壇の素晴らしい絵画、美術、宝の山に、まったく無理解で無関心で無教養で無知以外の何者でもなかった。うう。つらい。
しかし伝統やアカデミックといったヒエラルキーが強くなりがちな東京画壇や京都画壇と違い、大阪画壇はよくも悪くも自由闊達。草の根的で多様性に満ち溢れた百花繚乱な大阪画壇の先鋭、独自性、面白さ、ユニークさ、前衛は大阪画壇を愛してやまない関係者各位の熱意のおかげで、徐々にではあるが知られるようになってきたし、大阪の女性画家たちの実態も、その詳細がわかるようになってきた(それでもまだいまいち詳細がわからない作家もたくさんいるようだが…今回の展示でも詳細不明、今後の研究が待たれると解説されている作家が数多くいた)。今回の企画展は、その成果発表というわけです。
男性画家の描く女性画は、やはりどこか理想化された女性像が投影されている。モデルがそもそも若く、美しいことが多い。しかし女性画家たちが描く女性画は、女性のリアルな、実存を描きます。ただ若さや美しさだけを描くものではない。むしろ女性性の中にある複雑さや醜さやいやらしさや穢らしさや未熟さや酷さや老いがどうしても滲み出たりする。ミロのヴィーナス像のような完璧な美を描こうとしない。そんなものはない、仮にあっても一瞬、刹那のことであるということを肌感覚、身体感覚として知っていますから。
また大阪画壇の女性画は、そういう女性画家たちの生々しさが際立つように思う。東京画壇、京都画壇は、やはり男性優位、男性本位であったから女性美への幻想が強い縛りとして存在するが、まだ比較的、大阪画壇は、女性画家たちに一定の自由領域があった。
それはやはり大阪という経済都市の土地柄、都市性が反映されていて、そもそも商家文化は女性優位ですから。船場の大店では男の子が生まれたら、みんな絶望したといいます。大抵、金持ちのボンは苦労知らずでアホボンになる。女の子が生まれたら万々歳。商売がわかっている叩き上げの、やり手の手代を見つけて入婿にしたら商売が繁盛して店もますます大きくなる。
江戸時代、封建社会、武士社会の場合は、男の子が生まれないと、お家お取り潰しになるという時代ですから大阪の商家文化が、いかに特殊な環境下にあったか?がよくわかる。自然と女性たちの存在が一目置かれるし、ごりょさん、いとさん、こいさんが大事にされた。経済力もあるから教養が大事であるとお茶、生花、お琴といった芸事を嗜むものも多く、もちろん書や絵もお稽古として推奨された。
実際に大正時代の大阪画壇では帝展、文展に入選した画家の2割以上が女性画家だったりするという。これは東京画壇、京都画壇にはない傾向で大阪画壇の大いなる特徴、特性であり、誇りだといえよう。
企画展では第五章が撮影可能で、島成園や女四人の会、生田花鳥といった偉大なる女性画家たちの画塾で学んだ後継の女性画家たちがクローズアップされていた。全く名前も聞いたことがない女性画家がてんこ盛りで、いや、これは刮目するどころではない。底が見えない。奥が深すぎる。「決定版!」などというが、これはまだまだ途中過程であろう。
大阪画壇のポテンシャル、女性画家たちの可能性、その全貌はいまだに解明されていない。これから、でしょう。2006年からの18年間で、いろいろと研究が進んだのでしょうが(ほんまに素晴らしい仕事です!頭が下がる)個人的には「決定版!」の次を大いに期待したいし、大阪の町衆には声を大にして呼びかけたい。これは観に行きなはれ!!