沖縄市立郷土博物館。カンカラ三線。戦後の捕虜収容所で産まれた空き缶を用いた手作り三線。戦後の沖縄三線の歴史はここから始まるとか。いまも沖縄の小学校ではこれを作って遊ぶそうです。
那覇市。琉球國一之宮。波上宮。個人的に気になったのは琉球三恩人を奉る「世持神社」でした。
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三恩人の多岐にわたる功績については、広く知られているところだが、まず野国総管については、中国から「甘藷(イモ)」を導入したことがあげられる。一六〇五年(万暦三十三・中国暦)、進貢船で帰国する際、鉢植えにして持ち帰り、故郷の北谷間切野国村(現嘉手納町)や野里村で栽培したといわれている。毎年台風が襲来し、農作物に甚大な被害の出る沖縄にとって、地中で生育し、台風の被害の少ない「イモ」の導入は、人々にとって大きな福音だったといえるだろう。
次に儀間真常の功績については、イモ作の普及、製糖法の導入普及、木綿織りの導入普及があげられる。野国総管からイモを譲り受けて国中に普及させた。一六二三年(天啓三)には領地の真和志間切儀間村の村人を中国に送って製糖法を学ばせ、同村から順次各地に普及させた。また一六〇九年(万暦三十七)に島津侵入を受けて尚寧王が鹿児島へ連行された際には、お供として鹿児島に行き、そこで木綿に着目し、帰国にあたって種子を持ち帰って栽培、その後木綿布を冬の防寒用の衣類として普及させた。
また、蔡温は王府時代の沖縄を代表する大政治家で、四十年間も三司官の要職に就いていた。この間、中・北部の植林などの林政、羽地大川を始めとする大小数十の河川の改修及びそれを通しての漁業の振興、更に検地から耕地の手入れや農民の心構えなど、広く農政について、多岐にわたる施策を行った。蔡温の施策は、その後長く沖縄の農業、林業の指針となった。
このように、野国総管、儀間真常によって導入普及された「イモ」は、その後長く沖縄の人々の主食と成り、儀間真常の導入した製糖法は沖縄糖業の基礎となり、沖縄第一の換金作物・商品として王府財政を支え、県財政を支え続け、現在に及んでいる。蔡温の農政・林政は、野国、儀間の仕事をうけて、それを確立し、発展させたといえるだろう。