画像は開高家の表札。開高さん自身の手によるものと思われます。
2010年12月10日、「一夜限りの最後のトリスバー」が大阪市東住吉区北田辺にある開高健の育った旧宅(残念なことに今月半ばに解体予定)にて開催されました。ぼくは、北田辺の大阪あそ歩ガイド、吉村直樹さんと谷福江さんのお誘いで末席に加えさせていただきました。
開高さんの旧制天王寺中学の同窓生で、京都大学化学研究所名誉教授の作花済夫さんの思い出話や、開高健さん自身の朝日新聞社主催の天王寺高校での講演会(昭和53年11月27日)の貴重な録音などを聞かせていただきました。講演会は、照れているのか横柄な物言いなんですが、時折、リップサービスで下ネタなんかを織り交ぜて、いかにも開高節炸裂!で興味深かったです。
総勢80名ほどの参加で、心の底から楽しい、素晴らしい「一夜限りの最後のトリスバー」でした。聞けば、なんと開催1週間前に企画して実行という超過密スケジュールだったとか。関係者の皆さんの、開高健に対する愛と情熱に深い敬意を。本当に頭が下がります。ありがとうございました。
※後日、毎日新聞にも掲載されました。
【一夜限りのトリスバー:開高健さんしのび開店 大阪の旧宅で乾杯】
作家の開高健さん(1930~89)が少年期から青年期を過ごした大阪市東住吉区の旧宅で10日、開高さんをしのぶ「一夜限りのトリスバー」が開店した。旧宅は今月半ばにも売却、解体される見通しで、「バー」はまちづくりボランティアらが企画。事前予約したファンや同級生ら約40人が集った。
「バー」では、開高さんが寿屋(現・サントリーホールディングス)社員時代に生み出したキャッチコピー「トリスを飲んで『人間』らしくやりたいナ」の言葉で乾杯して開会。約30年前に開高さんが母校の大阪府立天王寺高校(旧制天王寺中学校)で講演した時の録音テープが流され、生前の開高さんの思い出話に花が咲いた。
旧制中学時代の同級生の京都大名誉教授、作花済夫さん(80)は「開高は気さくな勉強家だった。たくさんの人たちが集まってくれてうれしい。すごい作家なんだと再認識しました」と話し、笑顔でグラスを傾けた。【矢島弓枝】
その昔、大坂には「大坂七墓」(濱、梅田、葭原、千日、蒲生、鳶田、小橋)がありました。そのうちの「濱」が、現在の豊崎にある行基菩薩開基南濱墓所(南浜墓所)に繋がっているといわれています。
ここは日本最初の火葬所ともいわれています。それまで倭人の葬送は土葬だったのですが、行基の導きによって、我が国で初めての火葬が行われたとか。
古代には土葬は儲かりました。大王や豪族というものは大きな古墳を作りますから、これは一種の公共事業、土木工事で、ビジネスやったんですな。ところが時代が経るに連れて、あっちこっちに古墳ができますから、そのうち用地も少なくなっていきます。大きな古墳というものは作れないし、作らない。そうなると事業にならないし、儲からない。
こういうときに行基が土葬ではなくて、火葬という新しい葬式システムを導入したんですな。というのも火葬は用地は必要としませんが、莫大な薪が必要でした。専門的な技術も必要でした(70%が水分である人間を、綺麗に骨だけ残して焼く・・・というのはなかなか難しいとか)。つまり古代では土葬にするよりも、火葬にするほうが費用がかかったんです。だから天皇、貴族といった金持ちは火葬でしたが、庶民はずっと土葬のままでした。
行基という人は、日本全国に温泉を掘ったり、橋を掛けたり、ため池を作ったりして、僧侶というより、完全に土木工事の親方です。最終的には国家の依頼で、東大寺の大仏まで建立しました。また行基の手下には「土師」(はじ)の一族がいて、これらが、そうした公共事業や土葬をやっていたようです。しかし、土葬に関して云えば、これはもう儲からないということで、行基の指導の下で、火葬を執り行う祭祀集団に切り替えたんでしょう。そうすることで、彼らのビジネスを成立させた。「土木コンサルタント 行基」ですな(笑)
学者先生は、土葬から火葬という流れは、日本人の死生観が神道式から仏教式に変わった証明・・・なんて難しいことをいうんですが、それも一理あるでしょうけれど、本当は、こうした経済的な理由もあったと思います。世の中、金が動かすということでしょうか。
お好み焼きの「ぼてぢゅう」いうんは大阪人らしいネーミングですな。いまはどこでもお好み焼にマヨネーズとからしをつけますが、この味付けは「ぼてぢゅう」が考案しました。店名の由来はお好み焼を「ぼてっ」とコテで返して鉄板の上で「ぢゅう」と焼くことから。非常に即物的。しかしリズムが良い。最初は「ぼ」の「濁音」から始まって最後は「ぢゅう」と「拗音」+「長音」で終わる。どこかユーモラスが漂う。即物的な擬音の羅列でありながら、お好み焼の匂い、熱、色、味のイメージまでもが彷彿とさせられる。唯物的であるのに一抹のおかしみがある。なかなかこんな店名おもいつけません。これぞミナミの、大阪人のセンス。
http://www.botejyu.co.jp/
フグいうたら扱いは細心の注意が必要です。血管や肝に毒があるそうで1本1本ピンセットで抜くそうですな。細かい神経の人間がやらなあかんのです。「ずぼら(づぼら)」な奴では困る。「ずぼら」いうんは大阪弁で「不精をする」「なまけもの」「面倒臭がり」みたいな意味です。「あんた、そないずぼらしたらあかんで」なんて具合に使いますが、そういう人間はフグの調理にはいっちゃん向いてない。しかし大阪ではそれがフグ屋の店名になってる。曰く「づぼらや」。フグ屋やのに「づぼら」いうたら「毒残ってまっせ。知りませんで」というようなもん。しかし安い。美味い。大阪の船場の旦那衆は「おもろい店や」いうんで通って流行りました。
http://www.zuboraya.co.jp/
「食い合わせが悪い」食べもんいうんが世の中にはあります。「天ぷらと西瓜」「蟹と柿」「鰻と梅干し」あたりは有名ですな。食道楽の大阪人もそのへんは敏感でした。ところがそこを逆手にとった店もあります。それがおでん(関東煮)の老舗「たこ梅」。じつは「たこ」と「梅」いうんは食い合わせが悪いもんとして忌避されてたんですな。一緒に食べると食あたりを起こす。食中毒を起こす。ところが、それを店名にした。これまた大阪流のブラックジョーク。ここは織田作の「夫婦善哉」にも出て来て有名です。
http://www.takoume.co.jp/
ミナミ、道頓堀を歩いていて、ふと。
堺の老舗鍛冶屋「水野鍛錬所」さんが店先に与謝野晶子の『住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路』の歌碑を建立したそうで、その除幕式に参加させていただきました。
「ななまち(七町)」というのは、宝暦8年(1758)に堺奉行・池田筑後守正倫の取り計らいで、堺製のタバコ庖丁を幕府公認として日本全国に売り捌くことになり、そのさいに37軒の鍛冶屋を公認業者として指定しましたが、それらの業者が堺北部の北旅籠町、桜之町、綾之町、錦之町、柳之町、九間町、神明町の「七町」に住んでいたことに由来するとか。カジヤ業界の専門用語らしいのですが、それを与謝野晶子が知っていたというところが、また面白いですな。いまはあまり聞かれませんが、堺では「ななまち」といえば有名で、ブランド化していたということなんでしょう。もちろん水野鍛錬所さんは、その「ななまち」(現在の桜之町西。紀州街道沿い)にあります。
「七」と「菜の花」の「na」の音の羅列。それを挟んで「住の」「和泉の」「街の」「七まちの」「鍛冶の」「菜の」「花の」と「no」の音が、まるで鍛冶屋のトンテンカンの音のようにリズミカルに響く。与謝野晶子というと、どうも情熱的な「明星派」の閨秀歌人といったイメージが先行してますが、じつはこうした音感、街の臨場感、都市感覚の表現にも優れた歌人やったんやなぁと改めて敬服しました。
晴天。じつに素晴らしい除幕式。水野鍛錬所さん、ありがとうございました。
日経新聞の記者さんから「大阪のまちの名称について」意見を求められて、電話取材にお答えしました。以下がその記事です。
大阪の繁華街「キタ」「ミナミ」、名前の由来は…
「今夜はキタで飲もう」「この服、ミナミの百貨店で買ったのよ」。大阪では聞き慣れたこの会話。キタは梅田周辺、ミナミは難波周辺を指すのは関西人だけではなく広く知られた事実だ。ではキタやミナミの呼び名はどのように浸透したのだろう。ヒガシやニシという言葉はないのか。
キタ、ミナミという言葉はどれほど定着しているのか。大阪市によると、いずれも公式文書で使われる正式な表記だ。ただ定義はあいまいで「繁華街としての大まかな場所を指す程度」(同市)という。
ではいつから、どのようにキタやミナミの呼び名が広がったのか。大阪市にまつわる歴史的な地図や資料を数多く保存する大阪市史編纂(へんさん)所(西区)を訪れた。
「キタやミナミは『北』『南』という単なる方角ではなく繁華街の固有名詞が崩れて愛称になったと考えるのが自然でしょうね」と話すのは大阪市史料調査会の古川武志さん(39)。明治時代の文献には「堂島の北、これを北の新地という」「南の新地、南地五花街」との記述が登場する。
古川さんによると、キタやミナミの語源は江戸時代に遡る。当時、住居や商店が集まる中心街は船場だった。現在のキタは森や畑が広がる村で、ミナミは寺や墓場などが目立つ土地だったという。キタとミナミは、まちづくりのために江戸幕府が人為的につくった地域だった。
ミナミの発祥は芝居小屋が幕府の許可を得て道頓堀に置かれたことが始まり。客が立ち寄る茶屋などが周辺に生まれ、繁華街らしく成長した。
一方、キタは商人が接待に利用する町として栄えた。中之島の蔵屋敷でコメの取引をした後、商売人が接待に使う町がないということでつくられたのが「北の新地」という。
さて、ヒガシやニシはどうだろうか。特に目立った地域がないことについて、大阪21世紀協会の堀井良殷理事長(74)は「船場を起点にすると、東は大阪城で西は大阪湾。繁華街が生まれる余地がなかったのだろう」とみる。
もっとも、まちおこしのキーワードとしてヒガシ、ニシが注目される機会もあった。
1990年発行の京阪電気鉄道の社史には「キタの中心が梅田、ミナミの中心が難波なら、ヒガシの中心は京橋だ」とある。同年4月にはJR京橋駅のある城東区に隣接する鶴見区などで「国際花と緑の博覧会」が開幕。京橋周辺には高層ビルが並ぶ大阪ビジネスパーク(OBP)が誕生、市営地下鉄鶴見緑地線(現長堀鶴見緑地線)が開通した。
社史によれば、ヒガシは京橋だけでなく、天満橋や大阪城、大阪府庁など官公庁を含むエリアを示す。新京橋商店街振興組合(都島区)の事務局担当者は「組合内では京橋をヒガシと呼ぶこともあるのに、なぜ一般に定着しないのでしょうか」と首をかしげる。
ニシはどうか。西区の自営業者らはニシという呼び方を定着させようと、2009年、「大阪ニシ.com」というポータルサイトを立ち上げた。
ただニシが阿波座や弁天町など西区や港区を指すのか、さらに西側の埋め立て地やユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ、此花区)などベイエリアまで指すのか、議論の分かれるところだ。埋め立て地がさらに西側に広がる可能性もある。「ポイントとなる繁華街は決められないのです。まちづくりは“発展途上”ですから」(古川さん)
「エリアを大ざっぱに表現すると街の色が消える。細かい地名で呼んでほしい」と訴えるのは、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会のアシスタントプロデューサー、陸奥賢さん(32)だ。
同会が企画する「大阪あそ歩」では、大阪市内で150コースの町歩きツアーを実施している。「船場と一口に言っても『八百屋町』『鳥屋町』など、かつて同業の人々が店を並べていた土地を指すような地域名が住民の間に伝わっている」(陸奥さん)
呼び慣れたキタやミナミ、なじみは薄くてもヒガシやニシの背景にある地域の歴史や人々の思いを知り、奥深い大阪への愛着がぐっと深まった。
(大阪社会部 松浦奈美)
[日本経済新聞大阪夕刊オムニス関西2010年12月1日付]
『忠臣蔵』の大石内蔵助良雄は有名ですが、父の大石権内良昭はまるで知られてません。ましてや、その父の墓が大阪市北区兎我野町の円通院にあることは、もっと知られていません。
大石良昭は寛永17年(1640)~延宝元年(1673)の人で、赤穂藩浅野家筆頭家老の大石良欽の嫡男です。父の死後には赤穂藩筆頭家老になるはずでしたが、赤穂藩の大坂屋敷に勤めていたさいに急逝(享年34)しました。その後、大石内蔵助は、祖父・大石内蔵助(祖父も内蔵助といいました)良欽の養嗣子となって大石家の家督を継ぎました。
ここで面白いのが、祖父の良欽は、寛文元年(1661)に京都内裏が炎上したさいに、新内裏造営を命じられた赤穂藩主浅野長直に代わって京都へ赴き、造営工事の総指揮をしたこと。その出来栄えは素晴らしく、後西天皇からも絶賛されたほどで、この成功から赤穂藩は皇室お気に入りの藩となりました。
その40年後の元禄14年(1701)、東山天皇の勅使が江戸に下ることになり、その接待役として赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が大抜擢されたのは、この皇室お気に入りということが起因でした。そして、その接待の指南役として赴任してきたのが高家肝煎の吉良義央だったというわけです。『忠臣蔵』には、こうした歴史的背景があるんですな。
一説によると、浅野内匠頭と吉良上野介(幕僚ですから、もちろん将軍派です)のイザコザとは、勅使(天皇の名代)と征夷大将軍のどちらの位が上か?どちらが上座に座るか?料理の順番はどちらが先か?といった問題で、作法云々ではなくて「朝廷VS幕府」という権力闘争だったとか。確かに江戸城松の廊下で抜刀して斬りつけるというのは、何かしら、よほどのイデオロギー(正義体系)がないと難しいだろうという気もします。
また大石内蔵助良雄は「皇室崇拝の祖父に育てられた」という歴史的事実は見逃せません。単なる「仇討ち事件」ではなくて、じつは「朝廷VS幕府」の政治闘争が背景にあった・・・そう考えるほうが『忠臣蔵』はわかりやすいかも知れません。
大阪府東大阪市にある河内一ノ宮・枚岡神社は、日本古代史上の一大聖地です。ここには初代天皇・神武天皇が東征をする以前から、謎の天孫族ナガスネヒコが住んでいました。枚岡神社のある生駒山脈は、大阪・河内(港)と奈良・飛鳥(都)を睥睨する拠点で、ここを抑えることは天下を押さえることを意味していたんですな。だから神武天皇も東征で当地の征服を目指したんですがナガスネヒコに大敗北を喫しました。そこで大迂回をして和歌山経由、熊野経由で奈良・飛鳥に入って天皇(スメラミコト、オオキミ)を名乗ります。「記紀」によれば日本という国はここから始まったこととされているんですが、よくよく考えると天皇家よりも強い天孫族が依然として大阪・河内に存在していたことになります。古代ヤマトは天皇中心の中央集権国家というよりも、地域部族の連合体であったことを暗示しています。
まぁ、そういった蘊蓄はさておき。以下は、お世話になっております、いずみ縁さんから枚岡神社の『笑い神事』の案内メールです。素晴らしい神事ですので、ご都合の合う方はぜひともご参加してください。
いつ頃からある神事なのか不明ですが、神武天皇を打ち破った山で大笑いするというのも非常に意味深やなと、ぼくなんかは考えるんですが・・・。
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笑い笑って日がのぼる 枚岡神社@12月25日
http://www.hiraoka-jinja.org/index.html
河内国一之宮枚岡神社神様が坐す神聖な場所日本のあけぼの地 (近鉄奈良線枚岡駅前)
元春日と称えられ、2600年前創建されたという河内一之宮枚岡神社静かな神奈備山には、日本最古と言われる豊かな森がひろがり神武天皇上陸の聖蹟の碑や、歴史上のプリンス達のひそやかな息使いが聞こえるような場です。数々の伝説の中で古代より、ひっそりと行われてきたご神事・・・この古式ゆかしいご神事は、室町時代より続く粥占神事の前に祭事として、冬至の日に行われていました。
昨日の冬至と、四百年に一度の皆既月食を越えて、新しき太陽が生まれかわった今日のこの日に、この様なメールを回せる幸せを感じます。時代が目まぐるしく変化しても、いつの世の日本人も自然のうつろいにそい、独自の美意識の中で脈々といにしえより伝わる祭を繰り返してまいりました。
今年も、天岩戸をひらく『笑い神事』は明日12月25日午前9時
前日より神社総代によってつくられた新しい注連縄(しめなわ)が はり渡され、その前で、中東宮司さま以下、神職、総代、氏子が「アッハッハー」と高笑し新しい春を迎える笑いの行事。今年一年のしめくくりに、感謝と祈りをこめて、皆さん誘い合わせてたくさんでお運びください。よろしくお願いします。
笑福会事務局@いずみ縁上本町ANNEX
大坂名物「往来安全」の行燈です。
江戸時代の大坂市中では、町人たちが自分たちでお金を出して、軒先にこうした「往来安全」の行燈を掲げたそうです。この行燈のおかげで、文字通り、夜中でも安全に町中を往来できました。これは江戸や京都にもない風習で、大坂名物でした。日本国中の都市の人間が、この行灯に驚いた。
つまり、大坂の町衆の、自治精神の象徴たるものが、この「往来安全」の行灯だったということです。自分たちで、自分たちのまちを作る、守るということ。その代わり、大坂庶民の多くは長屋に住み、地子銀(税金)を納めませんでした。
じつは当時は「屋敷持ち」が地子銀を納める義務があったんですが、大坂庶民は、金を持っていても、わざと長屋に住んで地子銀を払わなかったそうです。いろいろと諸説はありますが、大坂三郷30万人のうち、9割が長屋住まいだったといいますから、凄まじいですな。みんな節税の鬼でした(笑)
しかし、その代わりに、長屋住まいでも町人として認定されたそうで(普通は借家人として町会などには所属できませんでした)「町内式目」をちゃんと守っていました。お上のいうことには逆らいましたが、町会から「往来安全の行燈を出しなさい」といわれたら、借家人でも、自分の金を投じて、軒下に行燈を掲げたんです。
幕府に金は払わない。その代わり、自分たちで、まちを管理する。幕府にゴチャゴチャいわれんでも、自由にまちを作り、生活を楽しみ、遊びを謳歌したのが江戸時代の大坂でした。
ぼくは、現代の大阪を、まちを本当によくしようと思うなら、かつての江戸時代の大坂に倣うのが、いっちゃんええと思ってます。何故なら、まちに住むものが、まちのことを1番よく知っているから。まちを愛しているから。責任があるから。減税、無税にして、市民に、自治で、都市を、自分たちのコミュニティを管理させる。こうすれば行政コストも大幅に少なくできます。江戸時代、30万都市の大坂を、わずか1500人程度の武士で取り締まっていました。
いまは時代の過渡期とみています。いずれ、市民が、まちを、取り戻すでしょう。取り戻さないといけません。
道頓堀を開削した道頓、道卜の供養墓です。「贈従五位 安井道頓居士」「贈従五位 安井道卜居士」と刻まれています。
道頓は天文2年(1533)~元和元年(1615)の人物で、道頓堀の開削者です。苗字は安井説と成安説があってはっきりしていません。通称は市右衛門で、剃髪後に「道頓」と名乗ったといいます。
生涯は謎につつまれていますが、天正10年(1582)に大坂城の外壕掘削と猫間川の整備に対する功労で、秀吉から現在のミナミ界隈の土地を拝領したといいます。その後、慶長17年(1612)にミナミの開発には河川が必要として豊臣家の許可を受け、私財を投じて水路(これが後の道頓堀)の掘削に着手しました。ところが元和元年(1615)に大坂の陣が起こり、豊臣家に恩がある道頓は大坂方について大坂城で討死。しかし、水路そのものは幕府から許可を受けて道頓死後も進められ、従兄弟の安井道卜が跡を継いで完成させたといいます。
道頓は、おそらくは若い頃は豊臣家に仕える武士やったんでしょう。土木工事などが上手かった。加藤清正のような武闘派というより、石田三成的な実務家だったのかも知れません。いずれにせよ、大坂城のすぐ近くに土地をもらったほどですから、よっぽどの才能で、秀吉にも愛されたのでしょう。そして剃髪したということは、武士をやめた隠遁者であり、市井の人になったということです。町民になった。だから、新しいミナミというまちのために、私財を擲って水路を開発しようとした。
基本的に、商人というものは、利で動きます。例えば堺の商人は、徳川VS豊臣で、徳川の勝利と見て、長らくお世話になっていた豊臣方から手を引いて、家財道具をもって逃げ出しました。おかげで堺のまちはカラッポになり、豊臣方の武将・大野道犬に逆上的に放火されています。
ところが道頓は、生粋の商人というわけではなかった。豊臣の危機ということで、かつての武士の血が騒いでしまった。道頓ほどの聡い男であれば、豊臣方が負けるのは、当然、わかっていたはずです。しかし、元武士として、最後の最後は、利ではなくて、美学、イデオロギー(正義体系)で動いた。老体に鞭打って、大坂城に駆けつけた。もう齢はすでに80を超えてますから。すごい行動力です。本人は嬉しかったかも知れません。ついに、武士として、最高の死に場所を見つけた。男子の本懐である。
しかし歴史の残酷さは、大坂の陣では家康の計略で大坂城の外堀が埋められたこと。そのときに、まだ未完成の、掘削中の水路も、埋められたことでしょう。大坂城にいた道頓は、我が愛するミナミの水路を埋められる様子を見て、なんと思ったか?豊臣家だけではなく、我が愛するミナミのまちまで、踏みにじられた。武士としてではなく、町民としても、徳川を許せないと思ったことでしょう。
水路は、道頓の死後、徳川時代になってから完成しました。その名を決めるに当たって、幕府は敢て「道頓堀」の名を許可しました。幕府なりの「町民・道頓」に対する鎮魂であり、謝罪だったと、ぼくは思ってます。