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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

大阪まち歩き大学。玉造まち歩き。玉造稲荷神社。 日本航空の朝田静夫社長が寄進した玉垣。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

大阪まち歩き大学。玉造まち歩き。玉造稲荷神社。

日本航空の朝田静夫社長が寄進した玉垣。大阪市出身で官僚となり、運輸省トップの事務次官になり、天下りで1971年に日本航空の社長になった。

しかし朝田時代の日航は日本航空ニューデリー墜落事故、日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故、ドバイ事件、羽田発那覇行きジャンボ機乗っ取り事件、ダッカ日航機ハイジャック事件と、事故、事件、不祥事のオンパレード。

当時はあんまりにも体制が酷いので国会で安全管理体制がなってないと追求されたりもしたが、朝田静夫は天下りのワンマン社長らしく、長く社長の座に君臨し続けた。

その後、1981年に社長から顧問となるが、次の高木社長時代の1985年に日航ジャンボ機墜落事故が起きてしまう。高木養根社長は事故の責任で社長を辞めて以後、毎年のように御巣鷹山に慰霊登山を続けていた。僕もこどもの頃にテレビのドキュメンタリーかニュース番組で、その様子を観たことがある。遺族にも謝罪の訪問を繰り返していた。

ヒヤリハットではないが、ああいう悲劇的な大事故が起きる背景には日航体質というか、組織的な問題があったろうと思われる。朝田時代の不祥事の数々がそれを証明している。そういう意味ではやはり朝田社長の責任は大きいだろう。

そういう組織の問題、組織の闇、組織の恐ろしさについて追求したのが山崎豊子の『沈まぬ太陽』。小説の中で登場する小暮社長のモデルが朝田社長といわれてます。


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新潟市民のソウルフードらしいです。みかづきのイタリアン。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

新潟市民のソウルフードらしいです。みかづきのイタリアン。

焼きそばにまさかのミートソース。これがですね。意外とイケるw

名古屋の方には大変、申し訳ないんですが、名古屋名物のあんかけスパよりかは、こちらの方が好きかもしれません。申し訳ございません。

まあ、新潟は焼きそばで、名古屋はパスタですから、比べるものでもない。


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万代バスセンターのカレー

2022 年 4 月 7 日 Comments off

しかし新潟といえば万代バスセンターのカレーでしょ?といわれ、何度も何度も食べたいと思いつつ、タイミングが悪く行くたびに大行列で諦めてたんですが今回、ようやく人生初のバスセンターのカレー。

美味でした…。これは人気になるのも当然。大満足。新潟いったらバスセンターのカレーです。間違いない。ビックリした。


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『沖縄人として日本人を生きる』

2022 年 4 月 7 日 Comments off

久しぶりに関西沖縄文庫の金城-金城(カナグスク-キンジョウ)馨さんに会う。ついつい話し込んでしまった…。

『沖縄人として日本人を生きる』をご恵贈頂く。中を開くと大阪あそ歩の大正区・平尾のまち歩きマップが。金城さんにいろいろと話を聞いて作ったマップ。たぶん2009年頃の制作で、もう13年前か。懐かしい…。


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大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。

2022 年 4 月 7 日 Comments off

大阪まち歩き大学。佐渡島留学編。順徳天皇御配所跡。黒木御所跡。

順徳天皇はある意味、最後の天皇といえる。百人一首では最後の100首目が順徳天皇(順徳院)。99首目が順徳天皇の父の後鳥羽上皇(後鳥羽院)。この二人は承久の乱で鎌倉幕府(北条政子、義時)に敗北し、遠島された。天皇家が初めて庶民に敗北した。この時、古代から連綿と続いていた天皇家の政治的権力は地に堕ちたといえる。

天皇、公家といった貴族が貴族たる由縁は「歌を詠む」ところにある。天皇は言霊の司祭であるが、その大いなる仕事は「勅撰和歌集」を編むことだった。中国の歴代王朝は散文の歴史書を編纂することで王権を継承したが、天皇家は詩文の和歌集を編纂することで、その系譜の正統性を証明した。

勅撰和歌集は『古今和歌集』(延喜5年・905年)から『新続古今和歌集』(永享11年•1439年)まで534年間に「二十一代集」が作られているが、特に初期の8つは「八代集」として和歌の世界の古典とされる。

この八代集の最後『新古今和歌集』の編纂を命じたのが後鳥羽院で藤原家隆、藤原定家などが編者となり、1216年頃に完成する。しかし完成の5年後に後鳥羽院は承久の乱(1221)で隠岐島に流される。
その後、後鳥羽院は隠岐島で19年間を過ごしたが、その間に何をしていたか?といえば、この「新古今」を一人で黙々と改定し続け、2000首ほどから400首を外し、1600首ほどに再編集した。俗にいう「隠岐本」でマニア(?)は「こちらこそ真の新古今!」と持ち上げたりする。

重要なのは後鳥羽院が隠岐島に流されたさいに、政治的な仕事は何もかもなくなり、しかし自分にできる仕事として新古今を編集し続けた…ということ。天皇は言霊(歌)を司るから、その天皇としての自分の存在証明として隠岐本を作成した。怨念めいているというか怖い本です。隠岐本。これ、完成した後、後鳥羽院は藤原家隆卿(定家ではない。定家はあっさりと武家政権に擦り寄った)に送ってますが家隆卿も後鳥羽院の執念に身震いしたんやないやろか。

後鳥羽院の息子である順徳天皇は佐渡島に流された。父の後鳥羽院は1239年に隠岐島で60歳で亡くなる。順徳天皇はその3年後の1242年に44歳で佐渡島で亡くなった。

順徳天皇も佐渡島で21年ほど過ごしたことになる。この黒木御所で一体、何をしていたのか?やはり和歌を作っていた。それが『順徳院御百首』。後鳥羽院、藤原家隆に送り、点(添削、批評)をつけてもらっている。

黒木御所跡に足を伸ばすと釈迢空(折口信夫)、与謝野寛、斎藤茂吉、松瀬青々など近代歌人の石碑に取り囲まれていた。近代天皇制が生まれて天皇の復権が成された結果、近代歌人たちが挙って古代の天皇に挽歌を贈った。なるほどなあ。


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「江尻浩二郎さんと歩く大阪七墓巡り復活プロジェクト」の画像集その①

2022 年 4 月 6 日 Comments off
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「江尻浩二郎さんと歩く大阪七墓巡り復活プロジェクト」の画像集その②

2022 年 4 月 6 日 Comments off
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「江尻浩二郎さんと歩く大阪七墓巡り復活プロジェクト」の画像集その③

2022 年 4 月 6 日 Comments off
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八尾の広報誌『Yaomania』で「ヤオマニアック噺」の連載をもっています。今回は「八尾ミステリー モスクワで発見された久宝寺観音院の梵鐘?」

2022 年 4 月 6 日 Comments off

八尾の広報誌『Yaomania』で「ヤオマニアック噺」の連載をもっています。今回は「八尾ミステリー モスクワで発見された久宝寺観音院の梵鐘?」というわけで、奇しくもロシアネタになりました。

僕が記事を書いたのは今年の1月末。まだロシアのウクライナ侵攻(2022年2月24日)前でした。要するに偶然の産物。そういうことあるんですな。

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■YaomaniaバックナンバーVol.43 2022年特別号(2022年3月31日発行)

http://www.yaomania.jp/pdf/yaomania-vol43.pdf

■八尾ミステリー「モスクワで発見された久宝寺観音院の梵鐘?」
久宝寺・寺内町にある許麻(こま)神社は延喜式にも記載されている古社です。かつてはこの辺りは「許麻荘(巨麻荘)」といい、また「こま」は「高麗」の音と通じ、高麗の渡来人たちが集住したエリアといいます。社伝によると、それらの渡来人たちが自分たちの祖霊神を祀るために宮を建立し、それが許麻神社になったといいます。実際にいまでもご祭神として素盞嗚命、牛頭天王、許麻大神と並んで「高麗王霊神」という、なかなか他の神社では見聞きしない珍しい神さまが祀られています。

また当社界隈には、かつて聖徳太子が開基したという伝説の「久宝寺」がありました。河内随一の大寺だったそうですが、戦国時代に松永久秀の兵火で焼失していまい、しかし、その後継として久宝寺観音院が復興しました。ところが観音院も残念ながら明治時代の神仏分離令の影響などで廃寺となり、いまはご本尊であった十一面観音だけが寺内町の念佛寺に祀られています。

今回、注目したいのは、この久宝寺観音院に、かつてあったという梵鐘です。十里(約40キロ)先でも鳴り響く名鐘として有名であったようで、寛政(1789~1801)年間の久宝寺の南町の大火の時には、火災を警告する鐘の音が、なんと生駒の山を超えて、遠くは大和高田あたりにまで達したといいます。

久宝寺村自慢の名鐘でしたが、しかし、明治の廃仏毀釈の混乱で、いつのまにか、どこかにいってしまうという悲劇に見舞われます。村人たちがいろいろと探し回ったのですが、発見できない。心痛めていたところ、まったく予想もしない形で梵鐘の行方が知られることになりました。

事の経緯はこうです。明治37年(1904)に日露戦争が始まりましたが、その兵隊として第六師団(熊本・大分・宮崎・鹿児島など九州南部出身の兵隊で編成された部隊)に徴兵された清水重吉という男がいました。この清水重吉が大陸の戦闘でロシア軍の捕虜となり、首都モスクワまで移送されました。そして、そのモスクワで外出を許されたときに、とある「ニコライの寺院」(ロシア正教系寺院のことか?)に「澁川郡久寶寺村」と刻まれた梵鐘を発見しました。遠い異国の地で、日本・大阪の梵鐘を発見した重吉は吃驚仰天して、従兄の清水三吉に、そのことを伝える手紙を送りました。そして、それを読んだ三吉が、久宝寺村に問い合わせた結果、村人たちは自分たちが探し回っていた観音院の鐘が、なぜか遠くモスクワにあることを知ったというわけです。しかし当時の村人たちは取り戻す術などまったくわからずで、そのままにしてほってかれてしまったといいます。

一体、どういう経緯で「澁川郡久寶寺村の鐘」(これが本当に観音院の梵鐘かどうか確証はできませんが…)がロシア・モスクワの寺院に渡ったのか?さっぱりわかりません。清水重吉の手紙の話が本当かどうかも不明です。しかし明治時代の廃仏毀釈によって仏像、仏画、仏具などが海外に流出し、外国人の好事家などがそれを求めたといった事例は数多くあります。おそらくは「久宝寺の鐘」もそういった経緯で流れていったのではないか?と思われますが、詳細はわかりません。

謎めいた梵鐘伝説ですが、じつは許麻神社境内にある手水舎は、久宝寺観音院の鐘楼を移したものです。天井を覗いてみると、やたらと高く梵鐘を吊るしていたとわかります。許麻神社をお参りしたさいは、ぜひともご覧になってください。また「モスクワのニコライの寺院」に関しても全く詳細はわかりません。もしかしたら今もモスクワのどこかの教会に久宝寺の鐘が眠っているかも知れません。もし見つかれば八尾史上に残る大発見でしょう。いつの日か、発見されることを祈りたいと思います。


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大阪まち歩き大学。産湯稲荷神社。

2022 年 4 月 6 日 Comments off

大阪まち歩き大学。産湯稲荷神社。

かつては比売許曽(ヒメコソ)神社が当地にあったという。比売許曽神社は式内社で由緒は古い。御祭神は下照比売命(シタテルヒメ)。

シタテルヒメは大国主命の娘で、夫が天若日子(アメノワカヒコ)。この夫は葦原中国を平定するために天津神に遣わされたが、妻のシタテルヒメにゾッコン惚れ込んで天津神を裏切り、その結果、天津神の怒りに触れ、弓矢で射抜かれる。神々に反逆した若者で「アマノジャク」というのは、この天若日子を意味するという説もある。

ただ『古事記』『日本書紀』によると比売許曽神社は新羅から来た阿加流比売(アカルヒメ)と関連するという話が記載されていて、僕はこちらの方が興味深い。

アカルヒメは新羅王の子の天之日矛(アメノヒボコ)の妻だが、アメノヒボコの暴言に怒り、故郷に帰ると難波津に帰ったという(アカルヒメは大阪人でアメノヒボコとは国際結婚だった?)。アメノヒボコが逃げこんだのが姫島(大正区説、淀川区説とある)という伝承もあり、大阪にはアカルヒメ伝説の地がいくつか点在している。

場所としては産湯稲荷神社のあるあたりは味原池があり、古代は河内湾と接していた。自然と渡来人の伝説、伝承が多い場所でアカルヒメ=新羅系の渡来人たちがやってきたとしてもそれほど不自然なことではない。

境内はまたいろいろと不思議なものが多く、おたぬきさま?の石像や巳さん(龍神)や寅(寅八、寅吉)の神さま(?)の名が刻まれた石がずらっと並んでいる。おそらく境内の桃山(江戸時代は桃の名所でもあった)の周囲には拝み屋さんのような人がいろいろといたのだろう。

産湯稲荷の産湯は誰の産湯か?というと大小橋命(オオバセノミコト)。この人は中臣氏、藤原氏の先祖で、この辺も謎めいている。小橋は地名となり、大阪七墓巡り復活プロジェクトの小橋墓地の名もここに由来するのでは?と思われるが、よくわからない。

上方落語の『稲荷俥』の舞台もここだったりもする。いろいろと物語が錯綜していて混乱するが面白い。楽しい。深い。


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