【いわき時空散走】赤井・平窪リサーチ。上平窪にあるのが利安寺大日堂さん。ここは小川江筋を考案した澤村勘兵衛の墓がある。
ここも何回か江尻 浩二郎さんに連れられて訪れている。大体、いわき時空散走は江尻さんのツアーの後追い、フォロワーみたいなところがありますw 先達はあらまほしき。
利安寺さんを改めて再訪して感じたのがシイノキの巨木の見事さ。実はいわきはシイノキの北限だという。調べたらハマギクなどは南限だという。他にもいわきは北限、南限のものは多い。いわきを境にして植物相、動物相、生物相、社会相(?)が変わる。
関東のバックヤードとか東北のハワイ(=湯本)とか、いわきは北関東なのか?南東北(と言い方はあまりしないが)なのか?というのは、いわきという風土の特殊性、面白さの根源です。中央と地方の相剋のようなものも感じる。複雑な都市です。大人な都市ともいえます。
【いわき時空散走】赤井・平窪リサーチ。平窪の安養寺さんへ。
昔、平窪には西洗寺という寺があったという。そこのお坊さんは賭け事、ギャンブルが大好きで賭け事に勝つと負けた相手にカラシを食べさせたとか。
ある日、どこかのお坊さんと賭け事をして勝ったが負けたお坊さんはカラシを食べすぎて、なんと激辛で悶死してしまった。その後、村にはタタリが起こるようになり、そのタタリの石がこちらの石。
平窪の村人からは「からし坊主」といわれ、タタリの石には「海雲法師」と刻まれている。
なんやようわからん民話(怪談?妖怪話?)で首を傾げるが、まあ、どこか愛嬌があって良い。からし坊主。
【いわき時空散走】湯本リサーチ。八仙にある子種神社の井戸。この井戸は湯本にとって非常に重要でした。
実は湯本は温泉水は豊富に湧出しますが、これは硫黄やら硫酸ナトリウムやらが溶けているので生活用水には使えますが、あまり飲料水には適さない。真水をどう確保するか?が湯本住民の長年の悩みの種であったそうで、しかし貴重な真水が出たのが八仙の子種神社であった。
湯本の住民はわざわざ八仙までやってきて子種神社さんの真水を運んで、それで生命を繋いだ。八仙の水で子々孫々が潤う。子種の神さまとなるのも必然だろう。今も湯本には子種神社さんの氏子さんがいはるらしい。
湯本(温泉街)に鎮座した温泉神社と八仙(近代以降は鉱山街となる。鉱山も真水は必須ですから)に鎮座した子種神社。温泉水の神さまと真水の神さま。この両社の関係性も面白い。
ちなみに八仙の子種神社の真水(鳥居から上がったところが本来の場所)は残念なことに現在は枯れてしまっているとか。湯本トンネルを貫通したさいに真水の水脈が破壊されてしまったらしい。いまは井戸だけが鳥居前に安置されている。
鹿児島。日置市。美山。白薩摩名手だった鮫島訓石(曽祖父・陸奥利宗の義兄)の名前を継いだ鮫島佐太郎さん(鮫島訓石→鮫島実→鮫島佐太郎)の工房が佐太郎窯。
昔は運営されていたようですが現在は閉業状態でした。まちなかで見かけた美山の案内図には「佐太郎窯」がちゃんと記載されてます。
美山で鮫島の名を継ぐ陶芸家はいるんやろうか?鮫島寿郎さんという方が佐太郎窯について語り、それを聞き書きしたという研究論文(2012年)があるので活動しておられると思うのですが。
鮫島訓石の薩摩焼の実物はまだ見聞したことないのですが、佐太郎さんの薩摩焼は世間に出回っているようです。いつか実物を見聞して入手したい。
大阪まち歩き大学。谷町を歩く。曹洞宗寺院・吉祥寺。
ここは江戸時代、赤穂藩・浅野家の大坂祈願所であったらしい。それが由縁となって忠臣蔵・赤穂義士の墓が建立されている。
吉良家は将軍家(武家)のご接待の指南役。浅野家は天皇家(公家)側のご接待のお世話係となり、その両者が対立した。吉良と浅野の対立は将軍と天皇のメンツ、プライドの相剋であり、ある種の代理戦争という側面もあった。
大石内蔵助は浅野家の筆頭家老のお家柄であるが祖父が熱烈な天皇教、天皇崇拝者であったらしい。内蔵助は父が若くして夭折し、この祖父に育てられた。
吉良邸討ち入りの時、内蔵助は45歳。不思議なことに大塩平八郎も45歳で乱を起こし、三島由紀夫も45歳で決起している。男の45歳は危ない。最もクーデターを起こしかねない歳である。
実は僕が現在45歳。来月には46歳になるので、なんとかクーデターを起こさずに済みそうだが、気を抜くとクーデターを起こしかねないので注意している。
鹿児島。日置市。美山。
僕の曽祖父・陸奥利宗の妻(曽祖母)はヲカという。旧姓は小山田ヲカで、この小山田家は薩摩藩の鉄砲師範役であった。ヲカには姉がいた。タカという。さすが鉄砲師範役の家の娘で「丘」やら「鷹」やら鉄砲に纏わる名前なのが少し面白い。
そのタカは実は美山の陶工・鮫島訓石に嫁ぎました。鮫島訓石は幕末、明治の人で特に白薩摩の名手として知られていて第五回内国勧業博覧会やシカゴ万博などにも白薩摩の名作を出品している。
鮫島訓石には弟子がいて、それが鮫島司、鮫島実という。もとは「崔さん」「何さん」という朝鮮系の人らしく鮫島訓石に薩摩焼を習い、鮫島の名前を頂いた。その鮫島実の息子で跡を継いだのが鮫島佐太郎さんという。
鮫島佐太郎さんも薩摩焼の名人、大家であったが郷土研究のようなこともしていたようで、いくつか美山のことを書いた本を残している。そのうちのひとつが『苗代川のくらし』。この本が欲しかったが、もちろん絶版で古本屋では数万円の値段がして、なかなかおいそれと買えるものではなかった。
ところが、この本が沈壽官窯の隣のカフェの本棚にあった。いくつか写真もあり、佐太郎窯の様子や鮫島流の黒薩摩などを見ることができた。
曽祖母の姉の嫁ぎ先だから鮫島訓石(鮫島家)と僕は直接的な血の繋がりがあるわけではない。遠い遠い親戚ということになるが全く交流もないし、いま鮫島訓石氏のご子孫がいるのかどうかもわからない。わからないが鮫島訓石の薩摩焼を継承した方(鮫島司、鮫島実、鮫島佐太郎)がいて、その関係者の著書が読めたのは望外の幸甚でした。
まさか美山に自分の親戚がいたとは…です。数年前までは全くわからなかった。父の死後、陸奥家の古い戸籍を遺品として受け取って調べた結果、いろいろとわかってきた。陸奥家ファミリーヒストリーですw
鹿児島。日置市。美山、玉山神社は美山集落を見下ろす山の上にあるが、その玉山神社の周りは墓地となっている。昔は寺もあっのかもしれないが鹿児島のことなんで廃仏毀釈にやられたのかもしれない。
この玉山宮の墓地が朝鮮陶工のみなさんの先祖代々の墓所となっている。日本・薩摩に連行された江戸時代初期の第一世代の墓が最上段にちゃんと残っていて、そこから子子孫孫の墓が徐々に降って作られている。当初は朝鮮名であり、朝鮮式の墓であるが、やがて日本名となり、日本式の墓となっていく様子もよくわかる。
そもそも朝鮮陶工たちが美山に集落を構えたのも、美山の風景、風土が朝鮮の故郷を思わせるからであったという。日本に強制的に連行されたが、朝鮮の信仰や生活は意外と許された。民は由らしめず知らしめず。生かさず殺さず。薩摩藩の政治的な打算や思惑もあったのかもしれない。
鹿児島。日置市。美山。玉山神社。
美山に住み着いた朝鮮陶工たちの信仰の拠り所となったのが、こちらの玉山神社。元は朝鮮宗廟の神である檀君が祀られていたという。玉山神社では朝鮮風の神舞が伝えられており、江戸時代は藩主の御前や祭礼では朝鮮踊として披露されたという。当初は朝鮮式のお宮であったらしいが、時代と共に日本式に変化し、明治以降はご祭神もスサノヲ他になっている。
いくつか祭礼の古写真があり、また古い祝詞の記録も見たが古い朝鮮語がつかわれているようで他に見られない独特の言い回しであった。秘伝の神下ろしの祝詞があり、供人は神がかりになった状態で村々を回るらしい。
いっぺん見てみたい祭礼ですな。こういう信仰が守られ、伝えられ、いまも実施されているとは驚嘆です。
鹿児島。日置市。美山。沈壽官窯。
美山といえば薩摩焼。薩摩焼といえば沈壽官。沈壽官といえば司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』。
鹿児島に来ると、あちらこちらで司馬遼太郎の痕跡が残っている。幕末、維新の主要人物は薩摩出身者が多いから現地の鹿児島をよく訪れたようで面白そうな題材を発見すると悉くネタにして小説にしている。
『故郷忘じがたく候』は短編だが、数ある司馬遼太郎作品の中でも特に印象深い。まず司馬遼太郎が存命中の人物(14代沈壽官)を主人公にしたのは、この作品のみであるということ。それだけでも異色作であることがわかる。
薩摩焼は秀吉の朝鮮出兵・慶長の役(1592~98)に参加した島津義弘が朝鮮陶工80数名を捕虜として薩摩へ連れ帰り、焼き物を作らせたことが発祥となる。朝鮮陶工たちは遠い異国の地・美山で多くの受難を乗り越えて日本はおろか世界にも認められる薩摩焼を創始し、発展させてきた。
もはや日本に連れ去られて400年近い年月が経ち、朝鮮陶工の子孫たちは日本に帰化しているが、それでも「故郷忘じがたく候」という望郷の念を抱き続け、今日も薩摩焼を焼き続けている。故郷とは何か?民族とは何か?国家とは何か?といった命題を考えさせられる小説として、これほどの名作も他にあるまい。
僕は中学生の頃に司馬遼太郎狂いになり、全集を読破したが、いつかは行ってみたいと憧れたのが美山だったので今回、訪れることが出来て一人、感無量でした。沈壽官窯の中にはミュージアムもあり、残念ながら撮影禁止であったが白薩摩、黒薩摩の逸品、名品揃いで、いやあ、眼福でした…。
鹿児島、薩摩は火山が多い。火山は特殊な土壌を産む。そこから独特の釉薬も発見される。薩摩焼もまた風土(火山)の恵みから齎される。奥深い。
鹿児島。桜島。桜島ビジターセンター。フェリー乗り場を降りて、すぐ近くにあるのがこちらの施設。桜島の歴史、生活、観光、防災などが学べる。小さいながらも良くできている。
度肝を抜かれたのが大正の大噴火の古写真。例えとしては不謹慎かもしれないが広島、長崎の原爆を思い出した。鹿児島、桜島はこんな大噴火がいつ起こるかわからないというのだから恐ろしい。
恐ろしいが、しかし、だからでこその恵みもあるというのが自然の妙で。桜島は溶岩、火山灰で形成されているので土壌が特殊で、なかなか他の地域には見られないものであるとか。名物が日本最大の大根という桜島ダイコンや日本で最も小さいという桜島小みかん。ダイコンは大きく、みかんは小さくなるらしい。
ビジターセンターで流される動画では桜島の農家も取材、インタビューされていて活火山は怖いし大変だが、だからでこその農作物ができて、それが誇りであると語っていた。じつは桜島は縄文時代から人が住んでいた形跡があるらしく火山は脅威だが人間という奴もなかなか驚異な生物であろう。
また火山灰対策として鹿児島、桜島では「克灰袋」というのが常備されている。みんなで火山灰を集めて回収する。それらは陶芸や魚の灰干し、シラスを使ったガラス製品や化粧品、溶岩の焼肉プレートなどに使われるらしい。
火山灰の再利用。リサイクル。活火山すら使いこなしてくれようという気概。その知恵と工夫。感服です。