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‘雑感’ カテゴリーのアーカイブ

まわしよみ新聞編集長養成講座レジュメ

2013 年 7 月 29 日 Comments off

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明日用の資料です。「まわしよみ新聞の効果」をプリントアウトしただけですが。
■まわしよみ新聞の効果
http://www.mawashiyomishinbun.info/effect/

かなり濃い講義になるのではないか?とww 要するに、ぼくなりの「メディア論」になります。

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「まわしよみ新聞をやりたい」と同時に「まわしよみ新聞をどうやって作るんですか?」というお問い合わせが最近ふえてきました。あちらこちらで「まわしよみ新聞ワークショップ」をやる編集長(ファシリテーター)も増えてきましたが、そういった方をもっと増やしたいと思い、今回「鶴橋コミュニティカフェからをと」さんと共催で、「まわしよみ新聞編集長養成講座」を実施することにしました。
http://www.facebook.com/events/409565125824487/

「なぜ、まわしよみ新聞をやっているのか?作るのか?」という「想い」の共有から、実際に参加者全員で「まわしよみ新聞」を作成しながら「まわしよみ新聞」の作成のコツ、場の運営のノウハウなどをお教えします。この講座を受けると「あなたも明日からまわしよみ新聞編集長になれる!」というものです。受講者にはまわしよみ新聞実行委員会名義の公式の「修了証」も発行します。ご興味ある方はぜひともご参加してください。

■集合日時:7/30(火)19時~22時
■集合場所:鶴橋コミュニティカフェからをと
大阪市生野区鶴橋1-7-3
■参加費:1000円+まわしよみたい新聞
■定員:10名
■講師:「まわしよみ新聞」オーナーむつさとし


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■7/28(日)19時より【全20駅制覇を目指して!古地図片手にJR大阪環状線まち歩き】第5回!鶴橋駅から桃谷駅までを歩く!

2013 年 7 月 29 日 Comments off

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いろいろと歩きました。鶴橋国際市場。拳正館跡。某聖地(秘密ww)。平野街道。福田薬局跡。司馬遼太郎産湯井戸。高橋診療所(天使降臨の地ww)。正木牧場。七福辻。観音寺。猪飼野新橋。新平野川。太子火葬場跡。百済門。御幸通商店街。班家食工房。マキトラ姉妹ゆかりの地。猪飼野町名看板。御幸森天満宮。難波津歌碑。鶴栖山安泉寺。猪飼野保存館。八尾街道石標。大坂道。旧百済川跡。つるのはし跡碑。小野小町歌碑。桃谷商店街。桃谷いかやき屋。猫間川跡。バー&ライブハウス「BEE-HOUSE」跡(憂歌団、河島英五ゆかりの地)。ゼネラルプロダクツ跡(ガイナックス発祥の地)。「帰ってきたウルトラマン」庵野秀明監督解任事件跡。

我ながらじつにディープなアジールまち歩きでしたww ご参加いただいたみなさん、ほんまにありがとうございました!m(_ _)m 

■7/28(日)19時より【全20駅制覇を目指して!古地図片手にJR大阪環状線まち歩き】第5回!鶴橋駅から桃谷駅までを歩く!
http://www.facebook.com/events/641184542576002


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「大阪七墓巡り」はそのためにやっています

2013 年 7 月 28 日 Comments off

「伝統とは、あらゆる階級のうちもっとも陽の目を見ぬ階級、われらが祖先に投票権を与えることを意味するのである。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどということは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何物でもない」

G・K・チェスタトン『正統とは何か?』

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新しい高層マンションの住人たちが、古くからある神社の祭礼の地車囃子の「夜練習がうるさい!」とクレームを入れる。マンションは住民の数も多く、民主主義では数が多いほうが強い。神社は対応に苦慮して、結局、マンションに頭を下げて謝罪する・・・こういう問題が日本全国どこでも展開してますが、これはそのまち、土地、コミュニティの文化、歴史、伝統などを、なんら勘案しようとしない「横の民主主義の悪弊」です。

この「横の民主主義」に対して、まち、土地、コミュニティが含有している文化、歴史、伝統などを・・・これは即ち、過去人=我々の祖先、先達、先人、死者たちの物語です・・・を尊重しようとすることを「縦の民主主義」といいます。

過去人たちはモノをいったり、投票したりすることはできませんが、過去人たちの思いや願いを推察して、現在進行系の問題、懸案を考えようとする。これは過去人のみならず、未来人(子孫、後輩、後進)への義務、責務を、深く考察しようという態度ともいえます。「空間的な民主主義」と「時間的な民主主義」ともいえますし、イギリスの小説家G・K・チェスタトンはこれを「生者の民主主義」と「死者の民主主義」と提唱してます。

現代日本民主主義は「横」「生者」「空間」ばかり尊重して、まるで「縦」「死者」「時間」を尊重しようとしない。「国債1000兆円を後代にツケとして残す」「数万年に渡って放射能汚染された土地を作ってしまう」なんて問題は、生者の奢り、傲慢以外のなにものでもなく。「横の民主主義」だけではなく、「縦の民主主義」を考えること。「縦」と「横」のバランス、調整、帳尻合せが、今後の我々の政治、まちづくりなどの緊急課題です。そのためにも、我々は「死者の物語」を、まち、土地、コミュニティの文化、歴史、伝統を、もっともっと深く知らなければいけない。

「大阪七墓巡り」はそのためにやっています。
http://www.facebook.com/osaka7haka


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おかんアートサロン ツルヤ

2013 年 7 月 27 日 Comments off

昨日は神戸の「おかんアートサロン ツルヤ」へ。写真は伊藤さんの手ぶくろ鉄人。このゆるふわ感はハマりますww

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媒質

2013 年 7 月 26 日 Comments off

大阪市ボランティア・市民活動センター(社会福祉法人 大阪市社会福祉協議会)さんが取材に。「大阪あそ歩」「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「葬食」「おかいこさまカフェ」「クリエイティブ・ツーリズム大阪」などなどについて、釜ヶ崎の伝説のcafé EARTHで約3時間ほど話し込む。いろいろやってますが、今更ながらですが、結局、ぼくはメディアに関心がある人間なんやということに気付く。

ただ、ぼくがいうメディアとは「媒体」ではなくて「媒質」なんですな。ぼくはメディアのカタチやモノやフォーマットには、それほどこだわりません。テレビでも墓でも新聞でもおかいこさまでもまちでも仏教でも、なんでもよろしい。ただ、メディアの質にこだわる。問題は常に「媒質」です。そこにこそ、興味関心があります。


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「外観光」(アウタースペースの旅)と「内観光」(インナースペースの旅)

2013 年 7 月 26 日 Comments off

「観光地化」という言葉は手垢がつきすぎていて、どこか否定的なイメージすらあります。「ヒトが増える」「うるさい」「車が増えて渋滞になる」「ゴミが増える」「業者が入ってきて、ふるさとが食い物にされる」「地元民の中でも勝ち組、負け組が出てきていがみ合う」・・・そういう風に考える人も非常に多かったりします。「観光」そのものは悪くないんです。しかし観光が資本と結びつき、金儲けの道具となり、「観光産業」というものになったとき、残念ながら一挙に俗なものになってしまう。

「観光」という言葉自体は『易経』に出てくる「観国之光利用賓于王」(国の光を観る。王に賓たるに用いるに利し)がルーツです。「易経」はいってみれば「占い(易)」の聖典ですが、古代中国人にとって、「占い(易)」とは人智を超えた森羅万象の理を表すシステムであり、宇宙そのものの設計図でした。原始社会は荒ぶる自然の脅威にさらされていた。占いによって人間はようやく自然の恐怖に打ち勝ち、社会秩序を獲得したわけで、それは非常に宗教的であり、哲学的であり、思想的であり、形而上学的なものです。だから『易経』で「王は世界(国)の光を観ることが大切だ」と説かれてますが、この「光」というのは、外界に存在する、目に見えてわかるような単純明快な、即物的な光ではなくて、じつは自分という存在の内的世界の中にある光と考えるほうが、より書物が伝えようとしている実感に近いとぼくは思ってます。薔薇は美しいですが、美しいと思える人間の心こそが美しいわけで、「光を観る」ということも、世界がどれだけ混沌としていても、その中から光を観ることが出来る眼を磨け、といっているように思うんですな。

要するに観光にはどうも「外観光」(アウタースペースの旅)と「内観光」(インナースペースの旅)というのがあるのでは?と最近考えてまして。そして前者の「観光産業」はいってみれば「外観光」的な動きであり、後者の「易経の観光」とは「内観光」的で、いま、本当に時代に必要とされているのは「内観光」だろうと。外的世界に出るにあたって、まず自分のアイデンティティを模索する・・・つまり自分の内的世界を観光することが必要で。それはつまり自分のまちやふるさとを逍遙するということです。そこから光や闇を観る。ぼくは大阪人にこそ、大阪のまちを知ってほしいんですな。かつてやっていた「大阪あそ歩」も、現在やっている「大阪七墓巡り復活プロジェクト」や「クリエイティブ・ツーリズム大阪」も、みんな同じような意図でやってます。内観光の重要性と可能性。まず大阪人こそが、大阪のまちを歩いてほしい。

■大阪七墓巡り復活プロジェクト
http://www.facebook.com/osaka7haka

■クリエイティブ・ツーリズム大阪
http://www.facebook.com/1permilCreativeShare


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媒質

2013 年 7 月 26 日 Comments off

大阪市ボランティア・市民活動センター(社会福祉法人 大阪市社会福祉協議会)さんが取材に。「大阪あそ歩」「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「葬食」「おかいこさまカフェ」「クリエイティブ・ツーリズム大阪」などなどについて、釜ヶ崎の伝説のcafé EARTHで約3時間ほど話し込む。いろいろやってますが、今更ながらですが、結局、ぼくはメディアに関心がある人間なんやということに気付く。

ただ、ぼくがいうメディアとは「媒体」ではなくて「媒質」なんですな。ぼくはメディアのカタチやモノやフォーマットには、それほどこだわりません。テレビでも墓でも新聞でもおかいこさまでもまちでも仏教でも、なんでもよろしい。ただ、メディアの質にこだわる。問題は常に「媒質」です。そこにこそ、興味関心があります。


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七墓史観

2013 年 7 月 25 日 Comments off

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大阪の歴史を語るとなると、大体「上町台地史観」か「船場史観」に始終するのがオチで。しかしぼくは大阪にはもうひとつ、非常に重要な史観=「七墓史観」というものがあると思ってるんですな。「大阪の背骨・上町台地」(宗教都市)と、「大阪の中枢・船場」(商業都市)を取り囲む「大阪の外縁部・七墓」(悪所都市)としての大阪の魅力。そこは花街遊郭であり、芝居小屋であり、男女の道行の場であり、心中場所であり、転びキリシタンの垣外であり、死刑場であり、西鶴、近松、文楽、歌舞伎、和事、粋の文化を生んだところです。江戸時代は「士農工商」という絶対封建的身分制度の社会。無礼な町人がいれば武士はまちなかで「切り捨て御免」にしても、まったく御咎めがなかったわけで、町人階級はまるで人間扱いされていなかった。だからでこそ大阪の町人は弱者、敗北者、無縁者、死者へのコンパッション(共苦)を持ち、それが「七墓」というアジールへと昇華された。上町台地や船場の栄光もいいでしょう。しかし、七墓に象徴される大阪の挫折を語らないと、大阪という都市を見誤ります。「観光」とは光を観ることですが、光だけを観ていると真っ白でなにも見えません。光と闇を認識することで、初めて人間は世界の成り立ちを把握することができる。

当時最先端の集合墓地であった千日墓地では毎年、8000人近い死者を弔っていたとか。大阪の町人はもちろん、まちなかで行き倒れた人や、犯罪人なども、千日墓地に埋葬されました。江戸時代、250年間で換算すると、千日墓地には約200万人近い死者たちが眠っていることになります。まさに大阪こそは、日本最大のネクロポリス(死者の都市)だった。そこを原点にして、立脚点にして、大阪という都市の来し方、行く末を見つめたいんですな。「大阪七墓巡り復活プロジェクト」はそのためにやってます。

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■8/9(金)18時より應典院にて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ①南濱編】「葬食~盆とは皿を分けること~」と南濱まち歩き
http://www.facebook.com/events/202691023222744

■8/10(土)23時より某カラオケ店にて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ②小橋編】日常編集家アサダワタルと死生観光家陸奥 賢による「真夏の夜の挽歌トークショー」と小橋まち歩き
http://www.facebook.com/events/440564306050489/

■8/11(日)18時より緑橋♭にて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ③梅田編】「Chikahiro Hanamura(ハナムラチカヒロ)氏と花火をする夜」と梅田まち歩き
http://www.facebook.com/events/206154612872998/

■8/12(月)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ④千日編】「舞踊家・木室陽一による舞踊ワークショップ」と千日まち歩き
http://www.facebook.com/events/209576585862450/

■8/13(火)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑤葭原編】「北夙川不可止伯爵のレクイエム歌會」と葭原まち歩き
http://www.facebook.com/events/238355509622577/

■8/14(水)18時よりcafé EARTHにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑥蒲生編】「書家・田面遙華による書のワークショップ」と蒲生まち歩き
http://www.facebook.com/events/206690852822069/

■8/15(木)20時よりココルームにて【大阪七墓巡り復活プロジェクト2013 七夜連続一墓巡り ⑦飛田編】「詩業家・上田假奈代による詩のワークショップ」と飛田まち歩き
http://www.facebook.com/events/399655600143585/

■8/15(木)8時よりJR福島駅より【大阪七墓巡り2013~真田山・陸軍墓地で玉音放送を聴き、釜ヶ崎夏祭りの慰霊祭で祈る~】
http://www.facebook.com/events/172394669609419


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いつのまにか「まわしよみ新聞」のfacebookページの「いいね!」が600名を超えてました。ほんまにありがたいことです。みなさまに深く感謝m(_ _)m

2013 年 7 月 24 日 Comments off

いつのまにか「まわしよみ新聞」のfacebookページの「いいね!」が600名を超えてました。ほんまにありがたいことです。みなさまに深く感謝m(_ _)m

2012年10月に應典院の「コモンズフェスタ2013」用の企画として誕生して、とりあえずやってみたら想像以上に面白くて、まずぼくがこのワークショップにはまってしまいww いままで200枚以上の「まわしよみ新聞」をあちらこちらで作ってきましたが、200枚以上作っても、いまだに飽きない・・・というところがほんまに脅威です。毎回、おもろいニュース、おもろい話、おもろい人が登場してくるんですな。これには参りました。「117神戸⇔311福島まわしよみ新聞」「NPOまわしよみ新聞」「防災まわしよみ新聞」「終戦記念日まわしよみ新聞」「まわしよみ新聞講談」「親子まわしよみ新聞」といった派生企画がでてきたのも面白いところで、非常にシンプルなシステムなんで、いろんなコラボやバリエーションが考えられる。

今後もいろいろとやっていきたいと思ってますが、「いいね!」と応援していただけると嬉しいです。今後とも何卒よろしくお願いしますm(_ _)m

■まわしよみ新聞~新聞メディアの新しい可能性を探る~
http://www.facebook.com/mawasiyomisinbun


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應典院発行『サリュ・スピリチュアルvol.7』寄稿 【宗教と観光の交差点 弱者へのコンパッション】全文

2013 年 7 月 23 日 Comments off

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應典院発行『サリュ・スピリチュアルvol.7』寄稿全文。
http://www.facebook.com/osaka7haka

【宗教と観光の交差点 弱者へのコンパッション】
■大阪七墓巡りとは・・・
かつて大阪には「七墓巡り」という不思議な祭礼があった。成立した年代はよくわかっていないが近松門左衛門が『賀古教信七墓廻』という浄瑠璃作品(『外題年鑑』によると「元禄十五年七月十五日上演」とある)を書いていることから元禄年間(1688~1704)にはすでに成立していて、当時の大阪の町衆のあいだでも一般的に認知されていたものと思われる。実施する時期は盂蘭盆会の頃といい、『賀古教信七墓廻』が旧暦7月15日に初演されているのも、そうした祭礼の時期を意識してのことだろう。また、この初演のさいには地獄や賽の河原の情景などを人形で見せる趣向などもあったらしい。

教信(786~866)は『今昔物語』(巻十三 播磨國賀古澤教信往生語)や慶慈保胤(931?~1002)の『日本往生極楽記』などにも記されている伝説的人物で、若き頃は奈良・興福寺の学僧であったが発心して世俗に身を投じ、市井の人でありながら播磨国賀古で周囲から「阿弥陀丸」と呼ばれるほど念仏を唱え続け、最後は貧窮の中に死んだという。ところが近松の『賀古教信七墓廻』では教信は親の敵と兄嫁が死亡したことに世の無常を感じて法師となる…というストーリーで、まったく史実とは異なり、ただ古人の名前を借りただけの近松のオリジナル作品となっている。ただ、ここで興味深いのは教信が、親の敵や兄嫁とはまったく縁もゆかりもない大阪市中の七墓を巡ることで両者の菩提を弔おうとしたという部分で、当時の大阪の町衆が大阪七墓巡りを行った意味・意図の一端が伺える。

七墓の所在地についてもいろいろと不明確な部分が多い。『賀古教信七墓廻』の第四段「夏野のまよひ子」の中では「あだし煙の梅田の火屋」「短か夜を誰が慣わしの長柄川」「道のなき野原笹原葭原の」「泣き泣き歩む夏草の蒲生」「それとも知らで別れ行末は小橋の」「寺の鐘の聲高津墓所に夕立の」「煙知るべに千日の」「これぞ三途と一足に飛田の」などと、近松得意の掛詞で調子よく七墓が登場するが「梅田」「長柄」「葭原」「蒲生」「小橋」「高津」「千日」「飛田」と七墓巡りであるのに「八カ所の墓地」が紹介されている。また大正15年(1926)発行の『今宮町誌』(編纂:大阪府西成郡今宮町残務所)の「木津の墓」の項目を参照すると「木津の墓は古来大阪の七墓、即ち千日前、梅田、福島、天王寺、鵄田、東成郡榎並と同じく七墓の一に加へられた場所」とあり、ここでは「木津」「福島」「天王寺」「榎並」なども七墓として数えられていたと記している。

さらに昭和10年(1935)発行の『郷土研究 上方』(編者:南木芳太郎)の「上方探墓號」を調べてみると「今は途絶えたが、貞享、元禄の昔より明治初期に至るまで久しい間、大阪では盂蘭盆になると心ある人々は七墓巡りと称して、諸霊供養のため七カ所の墓地を巡訪して回向したものである。その場所は時代によって多少の変遷があり、又振出の都合にて手近の墓所のみを巡った形跡もある。その場所を挙げると、北よりすれば梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、高津、千日、飛田辺りが古い時代のもので、明治になると長柄、岩崎、安部野辺りが加わっている、その他安治川、大仁、野江等の三昧も七墓巡りの中に入れねば成るまい。もっと小さな墓所も場末にはあったであろう」と記されていて「南浜」「岩崎」「安部野」「安治川」「大仁」「野江」なども七墓として巡っていた墓所として列挙されている。この三書に記述されている墓所を加算するだけでもすでに「十八墓」を超えるが、文献を渉漁すればその数はさらに増えていくだろう。要するに盂蘭盆会の頃に大阪市中にあった墓を7カ所以上巡れば「大阪七墓巡り」として成就したのでは?と筆者は推測しているが、これは有縁者(家族、親戚)の墓を参るだけの近代の盂蘭盆会とは、だいぶ異なった様相であったことが感じとれる。

■無縁性と都市
こうした有縁仏・無縁仏といった枠組みを超えた供養の祭礼が、江戸時代の大阪で成立しえたことは非常に興味深いことであるが、これはおそらく都市という「場」(トポス)の性格が大きい。例えば村落の祭礼は、基本的には先祖代々の土地に生きる人々の中で育まれる。有縁の村落社会の繋がりを再確認する仕組みとして祭礼は機能するが、都市はそもそも無縁者の集まりによって生まれてくる。戦後の日本社会でも長男長女は家や田圃を受け継ぐが、受け継ぐ家や田圃がない=村落では食べていけないという次男三女四男五女は夜行列車に乗って東京や大阪、名古屋といった都市に集団就職して高度経済成長の担い手になっていった。そこでは「隣に誰が住んでいるかわからない」(犯罪者かも知れないが天才かも知れない)という社会状況が生まれるが、じつはこの無縁性こそが都市の都市たる基礎条件となる。そういう都市で自然発生する祭礼は、無縁ということにそれほど頓着しない。むしろ、みんな同じような無縁の存在であるからでこそ、お互いに供養しあおうという慈悲の発想が誕生するといえないだろうか?

大阪七墓巡りが発生した社会状況は、「隣に誰が住んでいるかわからない」という戦後日本の社会状況と非常にリンクしている。ご存じのように大阪は安土桃山時代には天下人・秀吉が「浪華のことは夢のまた夢」と謳ったほどの栄光を誇る豊臣武家政権の首都であったが、慶長の役(1615)によって、すべてが灰燼と化してしまう。当時の様子を伝える古文献によれば「大坂にこもりたる衆は、命ながらへたる衆は、ことごとく具足をぬぎ捨て、裸にて女子もにげちる」(大久保彦左衛門『三河物語』)、「多くの人は約10万人が死んだと言い、町の中で殺された人々のほか、合戦が行われた周辺も死体で埋まっていた。大坂の川(大川)は水が豊富で非常に深いだけに、敵の武器や火事を免れようとした多くの人々のために、かえって墓場と化した。川底は死体で埋もれ、向岸へ渡ろうとすれば、その上を歩かねばならないほどであった」(『切支丹研究第17集 耶蘇会史料』)とあり、つまり戦闘員だけではなく大阪城周辺にいた非戦闘員(町衆・女・子供)も惨殺されたことが記述されている。どこまで事実であるかはわからないが、当時の伝聞では約10万もの人々が殺されて(ちなみに太平洋戦争時の大阪大空襲の死者・不明者数は約1万5000人)、まさに大阪のまちは、どこを歩いても血で汚され、累々たる死者が眠る「ネクロポリス」(死者のまち)となってしまった。

こうして完全に焼野原、焦土と化した大阪を再建するために、新しく日本全国各地から集団就職のように町衆が集まってきたが、その構成員の多くは、長い戦乱によって主君や土地を失った武家出身者(豊臣方が多かっただろう)や関係者、御用商人、農民などで…つまり敗北者であり、流れ者であり、無縁者であったろう。実際に元禄期にあまりの財力に幕府が恐れを為して闕所払いされたという伝説的な大阪豪商の淀屋(信長に滅ぼされた岡本家の子孫)も、現在まで財閥として現存している住友家(秀吉に滅ぼされた柴田勝家家臣の子孫)や鴻池家(毛利氏に滅ぼされた山中鹿之助の子孫)も、元は武士の一族であった。こうした無数の無縁者たちの懸命の働きによって、元禄期に向けて大阪は商業流通都市「天下の台所」として劇的に再生していく。何もかも文字通り無に帰した慶長の役から、「浮世」と謳って浮かれ騒いだ元禄バブルという狂瀾の時代に至る、その成長のダイナミズムは、じつは戦後の高度経済成長を遥かに凌駕する規模とエネルギーであったのかも知れない。

■七墓はなぜ消滅したのか
しかしここで忘れてはならないことは、江戸幕府の「士農工商」という絶対封建社会の身分制度では、仮に商人=町衆が武士の刀に触れたりすれば問答無用で「切り捨て御免」をしても許されるという法律(『公事方御定書』71条)ができたほど、ほとんど最下級の人間として扱われていたという事実で、どれだけ富を蓄積しようとも、本質的には大阪とは歴史的敗北者、社会的弱者が集積する悪所であり、アジール(無縁所)の都市であった。そして敗北者、弱者の最たるものが誰にも供養されない死者=無縁仏(当然、この中には豊臣の死者が入る)であるので、自然とそこにシンパシー(同情)やエンパシー(共感)が生まれたであろうし、そういった意味でも無縁仏の供養として大阪七墓巡りという祭礼が起こったとしても何ら不思議ではないといえる。また七墓に数え上げられる野江墓地(ここには仕置き場・刑場もあった)などは豊臣の残党を処刑した場であると伝わるが、じつは七墓巡りには、こうした「豊臣方の遺恨」「非戦闘員の大量虐殺」といった「ネクロポリスの記憶」を密かに伝えていくという意味もあったのではないか?と推測している。

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ところが時代が経るにつれて、こうした記憶は薄れていったようで、前述した『郷土研究 上方』(編者 南木芳太郎)の「上方探墓號」の表紙に描かれた「大阪七墓巡り」を描いた錦絵(作者・三代目長谷川貞信)では、男女が笑顔で鐘や太鼓を叩きながら巡礼している光景が描かれていて、とても陽性で自由闊達な雰囲気が感じとれる。また幕末には市中に「七墓道」(南浜墓地近くの源光寺境内に現物がある)の石標が立てられるほど、数多くの町衆が七墓を練り歩いたと思われるが、明治維新以降は都市の近代化が進み、七墓そのものが市中郊外に移ったり、統廃合されたりして、いつのまにか大阪七墓巡りは自然消滅してしまったという。

ここでひとつ、非常に気になっているのが、元禄期から明治初期にかけてまで約170年間ものあいだ行われていたという「伝統」ある大阪七墓巡りが、なぜいま、これほど綺麗さっぱりと見事に、この地上から雲散霧消して何も伝わっていないのか?という疑問である。長年、同じような習俗や祭礼を繰り返しやっていれば、そのうち所作や決まり文句、踊り、歌、調子といったエトス(型)が生まれたりして、コミュニティとして継承されていくものだが、大阪七墓巡りでは、どの順番で七墓を巡り、どのようなスタイルで死者を供養していたのか?というのがまったく伝わっていない。これはしかし近松の時代からすでに「八墓」が記載されているように、創成期から墓地の場所も完全には特定できず、要するに大阪七墓巡りをやっていた個人や団体が、それぞれ「無手勝流」であり「無定型」であったからだろう。少し穿った言い方をすれば、大阪人気質の「なんでもよろしいがな!」という「いっちょかみ」(なんでも参加する)の「いちびり」(お調子者)精神で大阪七墓巡りを実施していたので、エトス化されるほどまで祭礼が深まらなかったのでは?と考えている。また、もし仮に大阪七墓巡りの中に「豊臣方の慰霊・供養」といったような隠された意味付けがあったとするならば、江戸時代の徳川政権下という抑圧の中では、そのような祭礼を執行することは難しく、だからでこそ「無手勝流」「無定型」といった非公式的な供養の方法論で、幕府の目を掻い潜ったのかも知れない。しかし、逆説的に考えると、往時の大阪人は無手勝流、無定型に大阪七墓巡りをやっても、それが「供養の祭礼」として成立しえたほど、深い宗教性を持ち、超自然的なもの(神仏や死者の霊)を敏感に感じ取る霊性に満ち溢れた民であった証明・証拠ではないか?と個人的には考えている。

■死生観光プロジェクト
さて、以上は大阪七墓巡りという祭礼の存在意義や成立背景、その消滅について極私的な考えを述べさせていただいたが、筆者は宗教や祭礼の専門家ではなく、普段は「コミュニティ(=まち・都市)ツーリズム」のプロデューサーとして活動している。金儲け主義、経済効率最優先の「マス(=大衆)ツーリズム」を否定して、まちの「ひと」(ガイド)との一期一会を楽しむ・・・要するに「まちの物語」(ナラティブ)を体感しようとして2008年より活動していたわけだが、次第に現在進行形の「生者のみの視点」でまちを語ることの不具合、不都合にも気付くことになった。その最大のきっかけが2011年3月11日の東北大震災で、まち歩きのプロデューサーとして普段から「まちとはなにか?」ということを考える日々であったが、津波で一瞬のうちに流されてしまい、「ひとはいるがまちがない」といった事態や、原発事故によって強制的に退去させられて「まちはあるがひとがいない」といった、まるで怪談のようなまちが発生したときに、改めて「まちとひと」との関係性について熟慮せざるを得なかった。とくに数千年後、数万年後にまで影響を及ぼすという途方もない放射能汚染は、我々が住んでいるまちを、現在進行形の、生きている者たちだけのトポス(場)として捉えてはいけないという警鐘のようにも感じられた。まちには我々が存在する以前に、そこに根差して生きてきた「まちの先人たち」がいて、さらに、その後には、いまだ生まれてはいないが、そのまちで生きていく「まちの後人たち」がいる。我々は、ただ、その両者のあいだに、つかのま存在しているだけのまちの仮の住人に過ぎない。それまでは観光というものは、「まちとひととの関係性(空間軸/横軸)」を体感するものと考えていたが、今後は、それだけではなく「まちとひとの連続性(時間軸/縦軸)」にも着目しないといけないだろう。つまり「死者と生者の交流・交感としての観光があるのではないか?」(これを筆者は「死生観光」と名付けた)という問いが芽生え、そして、そのひとつの答えとして「死生観光プロジェクトとして大阪七墓巡りを復活させよう」と決意した。まずfacebook上で公式ページを作成して2011年8月15日の夜に試験的に大阪七墓巡りの跡地を約6時間かけて訪ね歩くというまち歩きを企画・主催したところ、即座に様々な反響が寄せられ、30名近い人々が募ってきた。宣伝・告知はほぼfacebookのみであったので、20代~40代の参加者が多かったが、若いインターネット世代が大阪七墓巡りに多大な興味・関心を覚え、こぞって参加したというのは予想外の驚きであった。この成功を受けて2012年は公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団の後援と助成を受けながら、さらにプロジェクトを拡大し、まず七墓それぞれの歴史やドラマを語って体感するというトークイベントを計7回企画した。

またプロジェクトのハイライトの8月15日には、詩人や舞踊家、コリオグラファ―、ダンサー、劇作家、ミュージシャンといった7組のアーティストに協力を呼び掛け、七墓の跡地で供養のパフォーマンスを繰り広げ、それをまち歩きで繋いでいくという企画を実施した。ここでアーティストに供養のパフォーマンスをお願いしたのには、かつての大阪七墓巡りが「無手勝流」「無定型」で行われていたのでは?という部分に着目したことと、また仏教やキリスト教、イスラム教といった制度宗教がなかった太古の時代(自然宗教の時代)には、ひとが亡くなったさいは歌や踊りによって、その離別の悲しみや再会の願いなどを表現していたのに違いなく、アートには本来、ひとを供養するといった根源的な力があるはずで、そういったベクトルのアートを実現できないか?という思いから決行された。筆者の個人的な思いだが、いま日本全国各地のシャッター商店街、限界集落などでアート・イベントが繰り広げられているが、その多くではアートは経済活性化や集客効果という「まちおこし」のためのツールとして使われている。「かつての栄光よ再び」というコミュニティの切実な願いは判らないではないが、それは戦後日本社会の国是であった高度経済成長の幻想というもので、そこをまず捨て去る必要があるのではないか?朽ち果てていく、枯れ果てていくコミュニティへの供養…その時にこそアーティストの役割があり、つまり「まちしずめ」のアートが必要だろうという思いもあった。しかし「無縁の死者を供養する」「まちしずめ」といったようなことは、アーティストも普段、なかなか求められない難題で、7組のアーティストはとても真摯に、誠実に、このテーマに取り組んでくれたが、とても一朝一夕にできるようなことではなかったという反省の声も聞かれた。試みとしては面白いものだったと思っているが、総評としてはアートによる供養はかなり無謀な挑戦で、むしろ制度宗教の持つ「エトス」(型)の必要性、重要性に気付かされる結果となった。しかし、宗教者とアーティストのコラボレートによって新しい供養の形はあるのではないか?という可能性も感じていて、2013年度以降は、そうした供養の在り様を模索したいと考えている。いずれにせよ、8月15日は七墓を巡りながら各墓地ではアーティストの供養のパフォーマンスを鑑賞し、朝10時から夜24時まで約14時間にも及ぶ「死生観光」のまち歩きだったが、50名近い参加者が入れ代わり立ち代わり参加して大盛況のうちに終わることが出来た。今後もこのプロジェクトは実施していくし、やがて大阪のまちのひとたちに伝播し、自然発生的に大阪七墓巡りを行うようになるまで、都市祭礼として完全に定着、復活するまで継続していきたいと願っている。

■宗教と観光の視座
さて、筆者は観光の新しい可能性=「死生観光」のプロジェクトとして「大阪七墓巡り復活プロジェクト」を企画・主催しているが、宗教者側から観光をどう捉えるべきか?という講演があった。それが2012年10月13日に應典院にて実施された「ものがたり観光行動学会」の「宗教と観光」をテーマにした釈徹宗(僧侶・宗教学者・相愛大学教授)さんの基調講演「社会と宗教の位置関係……そして観光」である。釈さんは、そもそも日本仏教だけに限っても二十四輩、十八檀林、唱題目行脚といった宗教ツーリズムが数多くあり、これらは教団の維持やコミュニティの帰属意識を高めるものとして定期的に繰り返されてきたという。それらは平たく言えば「聖地」を巡礼するというもので、例えばキリスト教徒は、エルサレムにある「ヴィア・ドロローサ」(苦難の道)と呼ばれるキリストが十字架を背負って歩いた最期の道を涙しながら歩き、キリストが罵声を浴びせられながら転んだという場では同じように転んで地面に祈りやキスを捧げ、キリストの悲しみや痛み、辛さを追体験し、コンパッション(共苦)しようとする。つまりキリスト受難の地という場(トポス)が持っている物語(ナラティブ)に全身全霊を投じることで、キリストと自分の境がなくなるようなコミュニタス(融即状態)を生み、そこから日常へと回帰し、再生しようとする力を得るという。そして社会基盤そのものを揺るがされるような未曾有の東北大震災を経て、いま日本全体に、そうした場の物語への回帰現象が起きているとして、思想家・宗教学者の中沢新一氏の『アースダイバー』『大阪アースダイバー』といった出版物の刊行や「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「神戸外国人墓地ツアー」といったツーリズムも、その流れの中に位置づけできると説かれた。また、とくに大阪は聖徳太子一族の滅亡や左遷された菅原道真公、豊臣政権の崩壊など、数多くの悲劇を求心力に発展してきた都市であり、もともと大阪人はそうした歴史の敗者・弱者に対して自然とコンパッションを寄せる霊性があったのに、近年はそれが弱体化してしまっていると警告する。よく大阪が地盤沈下しているというさいに、それは経済的な意味を示唆することが多いが、じつは、こうした大阪的霊性の低下現象こそが問題で、「自分のためだけではなく、他者を思いやるからでこそ生きていける」という経典『スッタニパータ』の慈悲を思い起こして、大阪の霊性を呼び起こす場の物語へ身を投じるようなツーリズムを大切にしようと説いて講義を終えられた。釈さんの言葉のひとつひとつに深い見識と知恵があり、筆者は文字通り圧倒されたが、宗教者側から観光の意味づけを聞くというのは色んな発見があり、今後の「大阪七墓巡り復活プロジェクト」の方向性にも非常に示唆の多い講義であった。改めて釈さんの素晴らしい講義と、こうした講義に参加する機会を与えてくれた應典院の秋田光彦住職に感謝の意を表して、この稿を終えたい。本当にありがとうございました。

大阪七墓巡り復活プロジェクト2013チラシA4

■陸奥賢
1978年生。NPOまちらぼ代表。フリーランスのプロデューサー(現代観光/コモンズ・デザイン/アート)。「大阪七墓巡り復活プロジェクト」「まわしよみ新聞」「まわしよみ教科書」「葬食」「おかいこさまカフェ」「シェア野草」「堺探検クラブ」など数多くのまち遊び/まち歩きプロジェクトを手掛ける。NPO法人ココルーム理事。大阪府高齢者大学校「まち歩きガイド科」講師。應典院寺町倶楽部専門委員。


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