西鶴・・・「上町者」の出自と視野
西鶴は鎗屋町で生まれて
錫屋町で亡くなりました。
墓は誓願寺。
つまり大坂三郷やのうて
船場、島ノ内、天満やのうて
「上町者」でした。
上町から眺めると、大坂三郷のことがよう見えます。
高台に登りて見ればいろはにほ。
出自が人間の肝要を示す。
西鶴の文学は、まさしく上町文学や思いますな。
神も、胸算用にて、かくはあそばし置かれし
『銀壱匁の講中』より
人の分限になる事、仕合せといふは言葉、まことは面々の智恵才覚を以てかせぎ出し、其家栄ゆる事ぞかし。これ福の神のゑびす殿のまゝにもならぬ事也。大黒講をむすび、当地の手前よろしき者共集り、諸国の大名衆への御用銀の借入の内談を、酒宴遊興よりは増したる世の尉みとおもひ定めて、寄合座敷も色ちかき所をさつて、生玉、下寺町の客庵を借りて、毎月身体譣議にくれて、命の入日かたぶく老体ども、後世の事はわすれて、ただ利銀のかさなり、富貴になる事を楽しみける。
『闇の夜のわる口』より
大坂生玉のまつり、9月9日に定め置かれ幸はひ、家々に膾、焼ものもする日なり。我人の祝儀なれば、客人とてもあらず、年々に、こと徳つもりて、大分の事ぞかし。氏子の耗をかんがへ、神も、胸算用にて、かくはあそばし置かれし。
人の世は変わりませんな。西鶴は恐ろしい。
道頓堀角座と千日前獄門台~虚実の皮膜にあった芝居小屋と刑場~
江戸時代、千日前は死刑場でした。江戸でいえば小塚原のようなとこで、磔柱が立ち並んで、獄門台には見せしめのために罪人の首が並びました。焼き場の煙は絶えず、昼でも人が通るとこやなかったそうで、大体、明治初期まで、そういう光景が続きました。
千日前から少し北に向かうと、所変わって道頓堀。ここは江戸時代は「道頓堀五座」というて、芝居小屋が並んでいました。船場の旦那衆が芸妓を連れて、道頓堀川戎橋を渡って、近松の浄瑠璃や藤十郎の歌舞伎を楽しみにやってきた。一番、大きな芝居小屋が角座で、この角座の楽屋からは獄門台のさらし首が見えたそうです。
大坂の芝居は、世話物で和事です。江戸芝居のような英雄悪漢傾城傾国が大活劇を繰り広げる!という荒事はしまへん。主人公は何の変哲もない一庶民で、金と色と欲と義理と人情の板ばさみ。犯してはならぬ罪咎に悩み、苦しみ、傷つけられ、最後は天網恢恢疎にして洩らさずの過酷な運命の裁きで、千日前の獄門台へと涙涙に送られていく。
大坂庶民は、道頓堀角座で、罪人たちのドラマに涙しました。その裏には、実際に千日前の獄門台が控えていて、芝居の主人公たち=哀れな罪人たちの末期が、リアルに、そこにあったんですな。ある意味、千日前刑場は最高の舞台演出であり、また裏を返せば、道頓堀の芝居は千日前の罪人たちに対する鎮魂歌であり、レクイエムだったわけです。
芝居なのか。真実なのか。わからない。虚実の皮膜こそが、もっとも面白い。芝居小屋と刑場。道頓堀と千日前というまちは、両隣りにあり、そういう関係です。大阪ミナミは、だから、恐ろしく、哀しく、美しい。
船場 坐摩神社 三鳥居
鳥居の原型のようなものは弥生時代の集落にもあります。それは渡り鳥の休み場所でした。渡り鳥がやってくることで、その集落に春や秋の、季節の到来が判明した。春は種を巻き、秋は稲を刈る。その合図が鳥居に集う渡り鳥。集落民たちは早く渡り鳥がやってくるようにと深く祈ったことでしょう。それが神社というサンクチュアリへと繋がっていく。
画像は坐摩神社の珍しい三鳥居。坐摩さんの神格の高さですな。
大坂商人の智恵 「禄取り」
江戸時代の大坂。シビアな弱肉強食の町人世界を生き抜くには、才覚が頼りでした。では仮に豪商の家で、あまり出来のよくない、無能の跡取りがでた場合、どうするか?
答えは、売物に出ている侍株を買って、「禄取り」に仕立て上げる。侍はなにもしないでも給金がでます。それで生活を安定させて、跡取りを厄介払いにして、有能な次男坊や番頭、手代に店を継がせたといいます。
侍の中には生活に困窮したものは、その身分を売るものがいたわけですが、それを利用して事態を丸く収め、競争主義の町人世界を生き抜こうとした。これも大坂商人たちの知恵です。
10月25日(月)四天王寺で天王寺蕪を味わう
大阪あそ歩「阿倍野」コースでガイドをされている難波りんごさんが「野沢菜につながる天王寺蕪の歴史」のテーマでお話されるほか、四天王寺の極楽浄土の庭を見学や執事の吉田明良さんからの四天王寺の歴史のお話も聞くことができます。
さらに、昼食には、「特製・天王寺蕪と秋冬の魚菜弁当」を味わい、野沢温泉村から送られた野沢菜と、天王寺蕪と食べ比べもします。盛りだくさんの「なにわ伝統野菜」の催し物で、知識もお腹もいっぱいにしましょう!申込は下記HPまで。
http://wave.sankei-kansai.com/2010/09/post-172.php
+ ViSiT大阪 No.2
http://www.sideriver.com/ec/products/detail.php?product_id=14346
120ページ、121ページに、大阪あそ歩が特集されています。感謝。
繁華街歩き大阪体感 JICAの外国人研修員
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/100921/20100921034.html
国際協力機構(JICA)の研修プログラムで来日している9カ国・12人の研修員が20日、ツアーガイドによる大阪の街角探訪事業「大阪あそ歩」(大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会主催)を体験し、「まち歩き」観光事業の可能性を探った。
12人は集団研修プログラム「持続可能な地域観光振興」コースのプログラムの一環で来阪。同協議会のチーフプロデューサー、茶谷幸治さんが「大阪あそ歩」の概要を説明後、心斎橋を出発してミナミを散策。連休とあってまっすぐ歩けないほどの人出の中、心斎橋筋商店街や道頓堀、法善寺横町などを歩いた。
タイの観光局に勤める女性研修員(31)は大阪の街を「新しいものと古いものが共存し、生き生きとしている」と評し、「まち歩き」を通して“大阪そのもの”を感じた様子。
茶谷さんは「街を見てもらうことは、世界のツーリストにとって興味深いものだとあらためて実感した。街の魅力はたまらない」と手応えを話していた。
平成の忠臣蔵=はやぶさ
はやぶさ、7年間の旅
http://www.nec.co.jp/ad/hayabusa/
忠臣蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5
「はやぶさは平成の忠臣蔵ではないか?」。そう言いたくなるほど、この2つはドラマ、ストーリーの構造が似ています。
ご存知、忠臣蔵は浅野内匠頭の江戸城松の廊下の刃傷沙汰と切腹から物語がスタートします。赤穂藩の改易から赤穂城開城の受け渡し。御家再興の嘆願や大石内蔵助の「昼行灯」の放蕩や赤穂藩士たちの離散・・・。数々の問題、トラブル、艱難辛苦が発生して、それでも主君の仇討ちに邁進していく。やがて赤穂四十七士が結成されて、吉良邸討ち入り。見事に吉良上野介義央の首を討ち取りますが、将軍綱吉の命令によって、全員切腹。花と散ります。
「はやぶさ」もまったく同じようなトラブルに告ぐトラブルの宇宙航海でした。小惑星イトカワへの着陸失敗。化学エンジンの燃料漏れ。行方不明。通信不能。姿勢制御不能。キセノンガスの直接噴射による奇跡の姿勢制御。イオンエンジンの異常停止。壊れていないエンジン機能を組み合わせて動かすクロス運転による再開・・・。まさに満身創痍の状態でありながら、地球に見事に帰還。しかし小惑星サンプルを地球に届けるために大気圏に突入して、炎に包まれて火の鳥のように燃え尽きる。
目的遂行のためには、最後まで決して諦めなかった「はやぶさ」プロジェクトマネージャー川口淳一郎教授は、さしずめ忠臣蔵でいうところの大石内蔵助的存在で、そのプロジェクトチームは赤穂四十七士に他なりません。
日本人はこういう幾多の艱難辛苦を乗り越えて、集団が一致団結してプロジェクトを成功させ、しかしラストは悲劇(忠臣蔵だと切腹、はやぶさだと大気圏突入)で終わる・・・という物語が好きなんですな。日本人の心の琴線を打つ、平成の忠臣蔵=はやぶさ。その物語は、のちのちまで語り告がれ、愛されることでしょう。