石阿弥陀の一里塚
白河。石阿弥陀の一里塚。石阿弥陀は地名。どこかに石阿弥陀さんがいたんでしょうな。
一里塚は中世、近世の奥州街道のもの。ところが後に街道筋が変わり、元の奥州街道はサッパリなくなってしまった。田圃の中に、ただ、ポツネンと塚が残る。
西行、義経、宗祇、芭蕉らが歩いたのはこの田圃の中であったか。
白河。石阿弥陀の一里塚。石阿弥陀は地名。どこかに石阿弥陀さんがいたんでしょうな。
一里塚は中世、近世の奥州街道のもの。ところが後に街道筋が変わり、元の奥州街道はサッパリなくなってしまった。田圃の中に、ただ、ポツネンと塚が残る。
西行、義経、宗祇、芭蕉らが歩いたのはこの田圃の中であったか。
白河。革籠原の防塁跡。「幻の白河決戦」の地。
秀吉亡き後の徳川家康VS石田三成の天下分け目の戦場となったのはご存知、関ヶ原ですが、じつは西軍側の上杉景勝、直江兼続の作戦としては関ヶ原ではなくて、ここ、白河で徳川家康を迎え撃つ構えであったとか。その防塁が少しながらも、ちゃんと残っている。
しかし残念ながら家康は上杉軍をスルーして関ヶ原に現れて、結果は東軍の勝利に。ここ、白河で上杉VS徳川の戦いがあれば天下の行く末も、歴史の流れも変わったのに…と西軍ファン(?)が感涙する場所だとか。
白河は白河関があり、関東文化圏と東北文化圏の境目。戊辰戦争の主戦場にもなったが、歴史の転換、時代のターニングポイントとなると、白河がその舞台となって現れてくる。
しかし隣が田畑なのがいいw 家康やない。景勝やない。市井の人こそが時代を作り、歴史を作るんです。
白河。遊女志げ女の碑。奥州街道と会津街道の交差路近くにある。
白河は宿場町。もちろん遊所もあった。旅籠坂田屋に抱えられていた遊女が志げ女で、戊辰戦争時に、長州藩士・世良修蔵と恋仲になったという。しかし白河は危険ということで世良は脱出し、その手助けをしたということで志げ女は会津藩士に殺された。
その後、世良は新政府の奥羽鎮撫総督府の参謀として会津藩を攻める。仙台藩は会津藩に同情的で、なんとか会津藩を救済しようと動くが、しかし世良は会津を徹底して敵視し、攻め滅ぼそうとする。その苛烈、激烈さから反感を買い、仙台藩士に暗殺されてしまった。
何故、そこまで世良が会津藩を敵視していたのか?の背景に、もしかしたら志げ女の敵討ちという私怨があったのかもしれないが、まあ、そこまで話は簡単ではないでしょうなw
ただ、この仙台藩強硬派の短絡的で乱暴すぎる世良暗殺事件によって、会津藩の助命嘆願は完全に撤回、不可能となって会津藩は徹底攻戦される原因となった。仙台藩強硬派よ…。もうちょっと考えなはれ。
ちなみに志げ女の仇討ちは、坂田屋の下男が果たしたという。これまたほんまか?案件。志げ女への市井の人々の同情が、そのような伝承となったか。
白河。奥州街道と会津街道の交差路。遊女志げ女の碑の近くには仙台藩士戊辰戦没之碑がある。白河口の戦いなどで戦没した仙台藩士150余名の供養碑という。
近くに鴉組の説明板がある。仙台藩には「鴉組」という黒装束で夜襲に長けた集団がいたらしい。恐しい…。
闇討ちとは武士の風上にも置けぬ!という感じだが、実は東北の任侠者やヤクザなどを集めて結成されたものらしい。いうてみたら奇兵隊の東北バージョンみたいなもんかも知れませんな。
組織したのは仙台藩士・細谷十太夫直英。鴉組は新政府軍に夜襲すること30数回。一度も負け知らずで東北の民衆は「細谷鴉と十六ささげ、無けりゃ官軍高枕」という俗謡が流行ったほどという。
仙台藩が敗れて降伏すると鴉組は解散したが細谷は行方不明に。戊辰戦争の大赦令がでると颯爽と姿を現した。見事、逃げ切ったということですな。
さらに鴉組の部下を率いて北海道開拓し、さらにさらに日清戦争で陸軍少尉となって活躍し、さらにさらに帰国後は警視庁の小隊長となったとか。いるんですな。こういう人物が。あっぱれ。
白河。奥州街道と会津街道の交差路。
白河は歩いていると、ふとしたところに銘板がある。白河観光協会さんの仕事。マニアックなネタが多いが、そこがいいw
江戸時代、白河は1万5000名ほどの城下町であったとか。毎月、市が立った。
江戸時代は「千軒は共過ぎ」といった。「友過ぎ」ともいう。千軒あると、コミュニティとして、そこだけで循環して、生活や経済、文化が成り立つという。共に過ごすことができる。また友として過ごすことができる。友とは要するに顔が見える関係性で、持続可能な、サスティナブルな都市が成り立つということでしょうな。
1000軒なんで人口は4000名ほど。白河はその4倍はあった。いかに白河が巨大な都市であったか?がわかる。
白河ではなくて西白河郡泉崎村。白河リサーチだが気になったので、少し白河から隣村へ足を伸ばしてみた。
お目当ては国史跡の泉崎横穴。珍しい装飾古墳で、発見当初は東北初の事例で一大センセーショナルを巻き起こしたとか。実際の泉崎横穴自体は閉鎖していて見られないが、泉崎駅前の泉崎資料館で原寸大のレプリカが見られる。
描かれているのは鹿狩の様子。なんせ鹿嶋神社さんの土地ですからな。鹿は白河のキーワードのひとつ。
西白河郡泉崎村。泉崎資料館。なぜか黒澤明監督作品『影武者』の仲代達矢(武田信玄役)が着ていた甲冑が展示されている。謎w
『影武者』、勝新で撮って欲しかったなあ。
陸奥利宗(僕の曽祖父)の妻ヲカの父は薩摩藩士の小山田休次郎。その休次郎の養父・真蔵は馬場道與流砲術の師範だった。
馬場道與なる人物は武田信玄に仕えていた馬場信房(長篠合戦で戦死)の孫だそうで、おそらくは武田家(馬場家)滅亡後、武芸者として諸国を渡り歩いた…といった人物ではないだろうか。名門武家が没落した後によくあるパターンですな。もしかしたらニセモノで、自称・馬場信房孫という可能性もあるw
その「馬場道與流砲術」の実態が長年、謎であったが、いろいろと調べたら『武教綱領要歸鈔』という著書があり、それが馬場道與が書いたものということがわかった。
では、この『武教綱領要歸鈔』はどこでみれるのか?と調べてみたら、なんと岩手県一関市の芦東山記念館に収蔵されているという。国立国会図書館にもない。
また岩手県いったときに訪れてみるか…。
僕の曾祖父は陸奥利宗といい、宇和島藩士なんですが、利宗の妻・小山田ヲカの父は小山田休次郎という薩摩藩士です。「七卿落ち」の五卿を守るために太宰府・延寿王院に配属された…という文献が残ってます。
小山田休次郎の養父・小山田真蔵は、薩摩藩の馬場道與流砲術(武田信玄に仕えた馬場信房孫が創始者の和流砲術)の達人で鉄砲指南役であったとか。休次郎もおそらくその砲術を修練したであろうし、もしかしたら戊辰戦争にも参加していたかもしれないし、白河で戦っていたかもしれない…というようなことを白河市歴史民俗資料館の学芸員さんに話をしていたら、こんな資料がありますよ、とお教え頂いたのが『薩藩出軍戦状』。
戊辰戦争での薩摩藩士の戦闘がすべて記録されているとか。凄い資料ですな。調べてみるか…。もし休次郎が白河で戦ったりしてたらビビるなあ。
※画像2枚目が小山田休次郎の戸籍謄本。天保10年(1839)生まれですから戊辰戦争(1868〜1869)時は30歳前後。働き盛りではあります。