大阪にも派遣村ができたとか。「100年に一度の大不況」だそうで、大変な世の中ですが、ぼくがふと思い出したのは、ルイス・フロイスのこの言葉です。
われわれは宝石や金、銀を宝物とする。日本人は古い釜や、古いひび割れした陶器、土製の器などを宝物とする。
「日欧文化比較」(1562年 イエズス会宣教師 ルイス・フロイス)
1610年、オランダ東インド会社の船が日本の平戸を出航してバンタムへ到着しました。その船には「茶」が大量に詰められていて、これが欧州社会にはじめて入った茶です。じつはヨーロッパ人が歴史上はじめて飲んだ茶は「日本茶」(緑茶)でした。実際に当時のヨーロッパの文献では茶のことは日本風に「CHA」(チャ)と記載されています。いまのように「TEA」と呼ぶようになるのは後代のことで、江戸幕府が鎖国して日本茶の輸出がなくなって、代わって中国・福建省が茶の最大の輸出拠点となり、福建語の「TAY」(テー)が「お茶」(TEA)を意味する言葉へと成り代わったわけです。
ここで注目して欲しいのは、当時の日本の茶というのはただの飲料ではなくて、世界最高峰、最先端の「文化」として伝えられたということです。主人が身分を越えて、一服の茶を入れて、客人におもてなしをする。天下人の太閤秀吉も、堺の魚屋(ととや)の町商人・千利休と膝をつきあわせてお茶を楽しんだ。娯楽であり、社交であり、遊戯でありながら、そこには自由、平等、博愛という高い精神性が求められます。中世の封建的な西欧社会では成立しえなかったノーブル(高貴)な文化。「市民社会」という近代的自我の芽生え。それが戦国時代の日本……とくに大坂・堺(ここんとこは重要です。笑)にはすでに成立していたわけです。
西洋人は日本、中国などのアジアの茶の文化に触れて強烈なコンプレックスを抱きます。「国王と一市民が膝をつき合わせて、一服の茶を楽しむ」という、その高度な文化的背景が何であるのかを理解しないままに…というよりも理解しえないがゆえに、彼らは茶や茶道具を欲しがりました。最初にご紹介したルイス・フロイスの言葉は、当時のヨーロッパ人の日本に対する侮蔑の言葉ではなくて、羨望の言葉であるわけです。また寒冷地のヨーロッパでは、温帯植物である茶は自生できません。まさに未知、神秘、憧れの東洋文化の象徴がお茶であったわけです。
中でも、とくに茶文化に強烈にのめり込んだのがイギリスでした。フランス、イタリア、スペインなどの地中海国家にはワイン文化圏が成立していましたが、ヨーロッパ大陸、地中海から遠く隔てたイギリスにはワイン文化がなかなか成立しえなかった。またヨーロッパ大陸の水は「硬水」でミネラル成分が溶けて癖がありますが、イギリスの水は日本と同じように「軟水」であることも東洋風茶文化の流行を後押したようです。
18世紀中期にもなると、イギリスのお茶の消費量は全欧州の茶の消費量の約3倍以上を記録します。イギリス上流階級の婦女子は、中国風の丸テーブルに、東洋趣味の盆を置いて、日本製、中国製の陶磁器(白磁や青磁の茶瓶、茶器)を並べ立てて、奇妙奇天烈な東洋絵を飾りながら、茶をすすりました。それが最先端のトレンドとして持て囃された。よくよく考えれば、倒錯的で、摩訶不思議な光景ですが、例えばドイツのマイセン陶磁器の誕生の背景などにも強烈なアジア・コンプレックスが伺えます。
現代社会ではアニメやゲーム、カラオケといった日本文化が世界を席巻してますが、じつは17世紀前半から「茶の湯」という日本発祥の文化革命が欧州社会に蔓延していったわけです。19世紀に日本が開国して「浮世絵」に代表される「ジャポニズム」が欧州画壇に深く影響を与えるよりも以前の話で、おそらくは日本文化が西洋社会に与えた最初の「Japanese Invasion」であったと思われます。
当初は日本式の緑茶を飲んでいたイギリス人ですが、日本の鎖国が完成して、中国茶に移行すると、時代が経るに連れて次第に紅茶志向になっていきます。緑茶と紅茶の違いは茶の「発酵度合い」によるものですが、肉食文化の西洋社会では淡白な緑茶よりも濃厚な紅茶のほうが嗜好がマッチングしたようで、そこにミルクと砂糖をふんだんに投入して飲むというイギリス流紅茶文化が花開きます。
「なぜ茶にミルクと砂糖を入れたのか?」というと、それがイギリス上流社会の富と権力の象徴であったからです。とくに砂糖(さとうきび)は茶と同じく熱帯にしか自生しない植物で、その獲得のためにヨーロッパ諸国はやっきとなります。南米や新大陸にどんどんと進出していって植民地化して、広大なさとうきび畑を作り、そこにアフリカから黒人奴隷を大量に移民させて強制的に耕作させました。いまの時代の砂糖というのはただの調味料に過ぎませんが、当時は「砂糖1グラムは銀1グラムと対価」という時代で、豪奢極まりない、まさに王侯貴族のための飲み物であったわけです。
日本の緑茶文化は千利休の茶道に代表されるように「わび」「さび」といった美意識、精神世界へと深く没入していったのに、欧州・英国の紅茶文化は、金銀と等しい砂糖をふんだんに投入するという豪奢な物質主義の世界へと変容していった。東洋文化と西洋文化の特異性、相違点をよく現していますが、これは今日の東西文化交流の悲劇的誤謬の始まりともいえます。というのも「茶の湯」という象徴に込められた、豊かな精神的生活や卓越した美意識を持った日本文化に対するコンプレックスと憧憬が、アジア東洋社会への奇妙な模倣を生んで、ヨーロッパ社会に「物質文明」の幕開けを到来させたわけで、それがやがて20世紀初期には帝国主義へと変質して、全世界を支配するに至ったからです。
いまだに西洋文明のベクトルや理念は、物質主義によって世界を支配しようとしているように見えます。残念ながら、彼らはお茶を大量に生産して、大量に消費するだけでした。日本からは「茶道」が生まれたのに、西欧社会からは、ついに「茶道」が生み出されることはなかった。むしろ哀しいかな。生み出されたのは植民地と黒人奴隷と帝国主義といえるかも知れません。西欧人は東洋人と同じように茶を飲んでいながら、一服の茶にこめられた、気高き精神性や文化的教養を味わっていません。茶の湯に込められた和のノーブルを伝えること。それが世界に必要なことではないだろうか?・・・と、そんなことを思ったりしながら、夜中にひとりで原稿を書きながら緑茶をすすっております。
喫茶去。喫茶去。
http://mutsu-satoshi.com/2009/02/14/
2月14日の日記の続きです。
西高野街道が面白いのは、堺・大小路から高野山・女人堂まで、江戸時代の1里塚(全部で13本)がすべて現存していることです。そこで今回のガイドブックでは「1ページ」ではなくて「1里塚」ごとに編集しました。
世間に流通している旅行ガイドブックでは、そんな均一なエリア割りで編集はしません。たとえば大阪の旅行ガイドブックを買えば、大阪ミナミなどの中心都市部は「なんば」「道頓堀」「心斎橋」「アメ村」「堀江」などと狭いエリアで細分化されて紹介されます。その中間エリアは掲載されず、まったく紹介されません。
ぼくも当初は西高野街道でも「出発点の堺周辺や終点の高野山周辺は見るべきところはいっぱいあるだろう」と考えました。そこを紹介するのは容易いんです。しかし、そのあいだの街道に一体、何があるのか?西高野街道には南海電車の高野線が併走しています。その南海高野線の「各駅紹介とその周辺」といったポイントでガイドブックを作るほうがいいのではないか?これはかなり悩みました。制作サイドとしては、そちらのほうが作りやすいんです。でもそれでは「街道のガイドブック」にならない。少なくともぼくは「点」(ポイント)ではなくて、「線」(ライン)で、まちを捉えたい。あくまでも「街道」を捉えたい。
それで、ひとまず西高野街道、全52キロを歩くことにしました。江戸時代の人はわずか2日で堺から高野山まで歩いたそうですが、さすがにそれは厳しいので1日に1里、2里づつという感じで取材しました。去年の春から秋までの半年間に西高野街道をいったりきたりで、一体どれだけ往復したことか…。夏の終わりに半袖Tシャツで高野山にいって、あまりの寒さに悲鳴を上げたりもしました。西高野街道の全容を捉えようと思うと、ぼくの当初の想像を遙かに超える取材量が必要でした。
それで、現地を歩いてみて気づいたのが、わずか1里塚(約4キロ)という範囲内で、まさか、これだけの地域情報、資源、文化、民間信仰、習俗、祭りが埋まっているとは・・・という衝撃の事実でした。全く心配する必要なんてないぐらい、西高野街道は「物語の宝庫」という結果やったんですな。
結局、ぼくは1里塚ごとにそれぞれ4000文字ぐらい原稿を書きました。4000文字でも足りないぐらいでした。多いのは6000文字を超えたところもあります。ガイドブックにするさいは「イラストが入りません」といわれて、半分以上、ごっそりと落としました。凹みましたが、ぼくが後先前後を考えずに書きすぎたのは、ぼくが悪いのではなくて、西高野街道の素晴らしいポテンシャルです。ほんとに西高野街道の1里のどこを切り取っても、1つの掌小説が出来ます。まち(みち)の情報量の豊富さ。凄さ。厚み。ぼくが今回の仕事をして、最大の気づき、収穫はこれでした。
『西高野街道ウォーキング徹底ガイド』は、その上っ面部分だけ。映画でいえば宣伝CM程度しかご紹介できませんでしたが、西高野街道のライフやドラマ、物語の入口にはなっているとも思ってます。興味ある方はぜひ買ってみてください。100円ですし。ちなみにガイドブックがどれだけ売れてもぼくに印税は入りません(笑)
お金儲けではなくて作るのに苦労したぶん、愛着があるもので色んな人に手にとってもらいたいと思っています。自分の「まち」「みち」を見つめ直すきっかけになれば、と思っています。
「関一の大大阪」「小林一三の阪神間モダニズム」「堺屋太一の大阪万博」・・・「大阪」を変えた天才たち。偶然ですが、みんな名前に「一」がつくんですな。
ぼくは、それぞれが、それぞれの時代の中で、最大最高最上の仕事をしたと思っています。しかし、時代の趨勢で、すべてが古い都市モデルになってしまいました。その弊害や矛盾相克に苦しめられているのが現在の大阪です。大大阪はメタボリズムな官僚主義を産み、阪神間モダニズムは職住分離と都市流民を発生させ、大阪万博は一過性イベントの蔓延と、それに依存する無責任なイベント産業を増長させてしまいました。その亜流、真似事の都市構想、都市計画、都市イベントは今も続けられていますが、何もしても成功しません。定着しない。
結局、個人(天才、啓蒙家)の強烈なイデオロギー(正義体系)によって都市が構築される時代は終わったということなんでしょう。関一も小林一三も堺屋太一も、ぼくは尊敬していますが、現代社会では、残念ながら通用しません。要するに大阪はトップダウンではなくボトムアップしかないんです。大大阪も阪神間モダニズムも大阪万博も、すべては一夢の幻でした。魔法が解けてしまった。それは喜ばしいことであるとぼくは思ってます。そこから新しい大阪が構築される。
2月7日に「西高野街道ウォーキング徹底ガイド」が「西高野街道観光キャンペーン協議会」(堺市、大阪狭山市、河内長野市など)発行で出ました。「これが一冊あれば、西高野街道のことなら何でもわかる!西高野街道マニアになれる!」といっても過言ではないぐらいに情報量があります(笑)
価格は100円で、入手は「堺市観光部」(072-228-7493)または「河内長野市商工観光課」(0721-53-1111)または「大阪狭山市農政商工グループ」(072-366-0011)にお問合せしてください。そないに部数を刷ってないので、ほしい方はお早めに!
これはほんとに大変な仕事でした。去年の春から半年ほどかけて西高野街道起点の堺市から終点の高野山女人堂まで、全52キロをすべて踏破して、取材して、執筆させていただきました。「30歳までに、なにか一冊、良い本を作りたいなあ」と思っていたのでギリギリで間に合いました。
次は「大阪」をテーマにしたガイド本を作ってみたいと思っております。
「年齢を3で割ると、それが人生の24時間になる」という話を聞きました。
例えば21歳なら朝7時。ようやく太陽が地平線の彼方から顔を出す。60歳なら夜20時。もう太陽は沈み、ディナーも食べ終わり、あとはお酒を片手に、夜が静かに更けていくのを待つばかり。
ぼくは現在31歳。これは午前10時20分。中空に向かって太陽は懸命に上昇していく。
さて、あなたは、いま何時?
國破山河在。国破れて山河在り。
杜甫は偉大です。
国家に殉じる人間は哀しい。
ぼくらは山河に生きるべきです。
ぼくはナショナリズムには懐疑です。
パトリオティズムに希望をもっています。
まち歩きは、パトリオティズムの覚醒です。
「つゆと落ち つゆと消えにし 我が身かな なにわのことは 夢のまた夢」といえば関白太政大臣・豊臣秀吉公の辞世句。その秀吉の誕生日が、じつは2月6日です。
関西の祭や寺社仏閣を取材していると秀吉、豊臣家ゆかりのものがわんさかと出てきます。たとえば大阪天満宮の天神祭の太鼓は秀吉が奉納したものと伝えられるし、全国三大山車祭の滋賀県・長浜曳山祭も秀吉の子供の誕生を祝ったことが由縁とか。
また淀殿と秀頼は秀吉の冥福を祈るため、数多くの寺社仏閣を再興しました。列記しますと四天王寺、住吉大社、誉田八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、叡福寺、観心寺、聖神社、北野天満宮、醍醐寺、東寺、石清水八幡宮、鞍馬寺、相国寺、中山寺、西宮神社、薬師寺、法華寺、出雲大社、伊勢神宮宇治橋など。これは「豊臣家の勢力を削ごうと徳川家康が寄進をそそのかした」という歴史的背景があるんですが、ちょっとした名所巡りですわ。
大阪にとって秀吉は所縁の深い人物です。大阪城はもちろん、現在に繋がる商都・大阪の基礎(船場の整備)を作ったのが秀吉ですから。しかし、そのわりに「秀吉の誕生日を祝う祭」が大阪にはないようで、ちと寂しい限り。まさに「なにわのことは夢のまた夢」状態ですな。
ちなみに江戸は家康が整備したように思われがちですが、それはちょっと訂正がいります。というのも、駿河にいた家康に対して「関東に拠点を構えなさい」と移転を命じたのは秀吉ですが、当初は家康は北条家の旧領地だった小田原城(神奈川県)に入ろうとしていました。ところが秀吉は「小田原なんてやめて江戸にしなさい」と諌めるんですな。
当時の江戸は何もない原っぱで、こんなところに都市が作れるか!と当初、家康は秀吉の嫌がらせと認識したようですが、秀吉は「城攻めの名人」ですが、また「城作りの名人」「町作りの達人」なんです。天然の良港と広大無辺の武蔵野を持つ江戸(東京)の大都市発展への地理的優位性を、北条家や家康よりも、誰よりも真っ先に悟っていたんですな。家康も秀吉に言われて、しぶしぶ江戸に居を構えて町作りをすると、この土地の可能性は素晴らしいと認識を改めます。それと同時に秀吉の都市計画の才能にも舌をまいたことでしょう。
「大阪」「東京」という世界的大都市の土台を築いた秀吉の天才は、もうちょっと知られていいかも知れません。
皇學館大学名誉教授、住吉大社の真弓常忠宮司から直々に御本を頂戴いたしました。
http://www.amazon.co.jp/dp/4886021875
http://www.sumiyoshitaisha.net/outline/message.html
住吉の神はどこで誕生したのか。多様な祭りの意味するところは何か。住吉大社の宮司がその奥深い信仰の森にわけ入り、日本人の心の源流に触れる。住吉神の発祥、近世における住吉信仰、住吉大社の祭り、埴使の謎などで構成。
勉強させていただきます。
http://www.yushodo.co.jp/press/meotozenzai/index.html
読みました。「オダサクの幻の続編」ということですが、あの大阪人の心の名作『夫婦善哉』に、とってつけたような続編だったら凹むなぁ、と思って、本はずいぶん前に買ってはいたものの、なかなか読まなかったのですが、ついにとうとう読みました。
正編からちゃんと読んでみたら、じつは続編の別府行きは正編から複線が張られていて、最初から最後まで、オダサクの中では、ちゃんとプロットが練られていたことに気づかされました。驚きましたねぇ。正編で一端、筆をおいたわけですが、すでに別府行きの続編は最初から想定されていたんですな。優れた作家って、ここまで用意周到に物語を準備しておくんやなぁ、と感心しました。
続編も軽いタッチで終わってます。「午年同士で午が合う」なんて落語みたいなサゲです。しかし、正編のラストシーンの、蝶子と柳吉が夫婦善哉を食べて
「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。
・・・これほどのオカシミ、軽妙洒脱には至っていません。続編は、正直、ちょっと重い。時代の空気のようなもんでしょうか。それはそれで興味深いんですが、オダサクが続編を書き上げておきながら、あえて公開しなかった理由も、よくわかります。
面白かったのが、別府人は、大阪人に非常に親近性を持っているとか。その昔、別府に湯治で遊びにくる人の半分以上が大阪人だったそうで、大阪・天保山から船で出て、一晩寝ると別府につく。別府人からすると大阪は隣町のようなイメージなんだとか。これは別府オンパクを体験したオダサク倶楽部の井村先生から聞かされた話です。なるほどなぁ。
この距離感は、例えば夏目漱石の『坊つちやん』の「東京育ちの清」と「松山に赴任する坊つちやん」の距離感とはずいぶんと違います。訳ありの、大阪の男と女の、定番の不倫旅行先、駆け落ち場所・・・大阪と別府は、そういう都市関係にあった。そういう雰囲気の中に、続編はあります。舞台設定の妙ですな。これはこれで、非常に味わい深いものでした。
http://eventology.org/1/2008_12_25_archive.html
行ってきました。ぼくはイベント的発想やイベント的現象に懐疑的で、なんでもかんでもイベント化しつつある社会に危惧を感じます。イベント化とは端的にいえば一過性です。一過性はまた無責任と表裏一体です。
歴史や文化、文明は水平軸の存在です。連綿と続いて、連続して、持続発展していくサスティナブルなものであるのに、それを垂直型に唐突に割り込もうとするのがイベントです。一時的には、社会のある一面を極端に照射しますが、それが社会の土壌に根付くことは非常に難しい。イベントは常に一過性で終わる。だからでこそイベント(出来事)といいます。
例を出します。ぼくは民主主義を信じています。しかし民主主義を実現するための「選挙制度」には懐疑的です。選挙制度は何月何日に立候補者が公示されて、何日間か選挙演説を行って、投票日になると有権者が投票行為を行って、多数票を獲得したものが政治家という立場で民主政治を代行します。アメリカ大統領選挙のような長期間行われる選挙制度もありますが、基本的にはこれは一過性の現象でイベントといえます。
近代の議会制民主国家の多くは、選挙制度というイベントの結果で民主政治を実現しようとしてきました。しかし、それで果たして民主政治をどれだけ実現することができたのか?新聞の内閣支持率調査を鵜呑みにするわけではないですが、それでも支持率15パーセントの首相が存在するのはどこかシステム、制度として欠陥があるのでは?と思わざるをえません。
オバマ氏がアメリカ大統領に選ばれましたが(現在80パーセント近い支持率だそうですが)、大統領の任期期間は「4年間」で、この4年間が、じつは一過性です。また大統領選挙でも支持基盤向けに大げさなリップサービスや、明らかな利益誘導、大衆迎合のパフォーマンスが行われました。オバマ氏を攻撃するわけではないのですが「チェンジ!」は公約でもなんでもないです。なにもいっていないに等しい。これはただの選挙向けのパフォーマンスです。それに大衆が踊らされて雰囲気や勢いで大統領が決まる。一歩間違えれば恐ろしいことと思いませんか?
要するに「選挙制度」や「任期」というイベント的発想や手法が民主主義を歪めてしまっているんです。ぼくが基本的にノンポリであるのは、こうした政治システムに対する根底的な疑問があるからです。現在の政治はイベント的事象であって、ぼくらが生きる大地(社会、歴史、文化、文明、宗教、地域、家族、血縁、地縁)に根ざしたものではない、という思いがあるからです。ぼくらはぼくらのやり方で、民主主義社会を実現しないといけません。その方法論は選挙や任期といった政治システムの改良ではなくて、政治という範疇を凌駕する「まつりごと」だろうとぼくは思っているのですが、さて、では「まつりごと」とは一体なにか?…この話をすると滅茶苦茶長くなるので割愛します(笑)ただ、ぼくはいま真剣、必死になって「まつりごと」をやっていきたいと思ってます。まじめに。そして多少の遊び心をもって。
なんでもかんでもイベント化する現象は今後も続いていくようです。既存社会が閉塞的状況に陥っているので、それをイベント的手法で誤魔化そうとする人々があまりに多いからです。しかしイベント的手法で社会を変革することは不可能で、むしろ事態は悪化していく一方でしょう。自民党がダメだからと民主党に政権を任せても、おそらくあまり事態は変わらないです。イベント(選挙制度)に期待してはダメなんです。ぼくらのライフは、誠実に、一歩一歩、日々を積み重ねていくものだから。親から子に伝わるような、遺伝子のような、「まつりごと」を残さないと。
以上は、イベント学会に参加して、名だたるイベンター、イベント・プロデューサーの方々と話をして思ったことです。皆さんも同じような危機意識はお持ちのようでしたが。